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足音も立てず、黒の装束に身を包んだ明凜は紫水宮の屋根からあたりを見回した。
所々にあるかがり火と天に浮かぶ月だけが光源の暗闇。
夜目が利く目は少ない明かりでも広く見渡せる。
(やはり警戒はされているわね。他の宮まではわからないけれど、紫水宮周辺の警備が普通と比べても多い)
宮の出入り口に三名。窓がある場所にも一名ずつ配置されている。
出入り口はともかく、周囲を巡回するのではなく窓に一人ずつ配置するなど中にいる人物を警戒していると言っているようなものだ。
(他の宮の様子は後回しね。簡単な見取り図ならもらったし)
儀から翠玉に付けられた侍女に後宮内の大まかな見取り図をもらい簡単な説明は受けた。
とはいえ大まかすぎるものだ。細かい房割りや見取り図に描かれていない道もあるようだったので宮城内を把握するには向かない。
あくまで貴妃にお仕えするために困らないという程度だ。
(優先するべきは皇帝の寝宮である湛殿よね? 状況によっては翠玉との初夜を待たずに暗殺する可能性もあり得るのだし)
そうと決めたらすぐに行動だ。
見取り図には湛殿の場所は描かれていなかったが、他の宮の配置を考えればある程度場所は絞り込める。
紫水宮から見て東側といったところだろう。
「旅の疲れもあるのだから今日は無理をしては駄目よ」と翠玉には釘を刺されたが、湛殿の場所くらいは把握しておきたい。
何かことを起こす訳ではないのだ。すぐに戻ってこられるだろうと明凜は自身を闇に溶かした。
儀皇帝の暗殺は苦肉の策なのだ。
現蘭皇帝は病を患い、皇太子に譲位せねばならない状況にある。
だが、どれほどの賢帝であろうと帝位交代の折には世が乱れるのは道理。
その隙を突き儀が戦を仕掛けてくる可能性があった。
その可能性を潰すための翠玉の輿入れなのだが、目的はそれだけではない。
一番の目的は儀を滅ぼすこと。
儀は巨大になりすぎたのだ。
長く栄華を極めている大国の儀は、長く続いた分だけ膿も多い。
巨大な国の膿は蘭や他の周辺国へも影響を与えている。
この膿みきった儀という国を滅ぼさなければならない。
本来ならばとうに滅びていてもおかしくはないのだ。
あまたの歴史を顧みると、すでに反乱軍が立ち儀王朝が滅びていてもおかしくはないほどに儀は肥え太っている。
なのにどういう訳か、反乱の火が上がろうとも軍となるほどに燃え広がる前に鎮火してしまう。
そうして国が変わらぬが故に地方の農民たちが蘭や他の周辺国に脱国し、その者たちがそれぞれの国々で罪を犯すため治安も歩くなる一方だ。
蘭だけではなく、周辺国も困り果てているというわけである。
当然ながら儀に苦情を伝えているが、傲慢な儀の皇帝や高官たちが聞き入れることはなかった。
故に儀を滅ぼすという選択肢しかないのだ。
儀雲嵐さえ死んでしまえば儀に皇帝が立つことはない。
女狂いで矜持が高い割に臆病者だという雲嵐は、自身が皇帝に就く際他の皇位継承者を虐殺してしまったらしい。
その上種がないのか子にも恵まれていない。
継ぐ者がいなければ、儀王朝は滅びるしかないのだ。
その後の儀をどうするのかはすでに周辺国と話し合いを進めていると聞いた。
すべては、明凜が儀皇帝を暗殺してから始まる。
逆を言えば、暗殺出来なければ何も始められないのだ。
失敗するわけにはいかない。
一番最悪なのは暗殺を失敗した上に蘭が儀皇帝暗殺を企てたという証拠を残してしまうという状況。
それだけは避けなければ。
慎重にことを進めようと更に息を潜めたところで屋根が途切れた。
ここからは下に降りて進まなくてはならない。
木陰に身を潜め脳内の地図と現在地を照らし合わせる。
このあたりは宦官の居住区となっている大明宮だったか。
ここよりもう少し南に行けばおそらく湛殿があるのだろう。
大明宮を抜ければすぐだと推察した明凜は人の気配を警戒しながら足を進める。
警備の者以外はすでに寝ているか、仕事をしていても房にこもっているようだ。
案外簡単に通り抜けられるかもしれないと思ったとき、端の房の外に人が出てきているのが見えた。
(あれは……宦官と、女官?)
衣で判断するしかないが、二人のうちの一人は確かに女官だ。
もしかすると内密の逢い引き現場に居合わせてしまったのかもしれない。
木陰に潜み、彼らが房に入るか別れるのを待つ。
(夜とはいえ人目につく場所だもの。すぐに房に入るわよね)
そう楽観視していた明凜だが、嗅覚が不穏な匂いを感じ取る。
(これは、血の臭い?)
臭いに誘われるように逢い引き中の男女に視線を戻す。
先ほどよりも雲が晴れ、月光で二人の姿がよく見えた。
女の首筋に顔を埋めていた男が僅かに頭を上げる。
その口元には赤黒い汚れ。
月明かりに照らされた女の首筋は、てらてらと赤く濡れていた。
ドクリ、と大きく心臓が跳ね上がり本能的な危険を察知する。
だが、明凜は魔性にでも魅入られたように彼らから目を離せない。
顔を上げ手の甲で口元を拭った男の、凍て空のような目が明凜を捉えた。
所々にあるかがり火と天に浮かぶ月だけが光源の暗闇。
夜目が利く目は少ない明かりでも広く見渡せる。
(やはり警戒はされているわね。他の宮まではわからないけれど、紫水宮周辺の警備が普通と比べても多い)
宮の出入り口に三名。窓がある場所にも一名ずつ配置されている。
出入り口はともかく、周囲を巡回するのではなく窓に一人ずつ配置するなど中にいる人物を警戒していると言っているようなものだ。
(他の宮の様子は後回しね。簡単な見取り図ならもらったし)
儀から翠玉に付けられた侍女に後宮内の大まかな見取り図をもらい簡単な説明は受けた。
とはいえ大まかすぎるものだ。細かい房割りや見取り図に描かれていない道もあるようだったので宮城内を把握するには向かない。
あくまで貴妃にお仕えするために困らないという程度だ。
(優先するべきは皇帝の寝宮である湛殿よね? 状況によっては翠玉との初夜を待たずに暗殺する可能性もあり得るのだし)
そうと決めたらすぐに行動だ。
見取り図には湛殿の場所は描かれていなかったが、他の宮の配置を考えればある程度場所は絞り込める。
紫水宮から見て東側といったところだろう。
「旅の疲れもあるのだから今日は無理をしては駄目よ」と翠玉には釘を刺されたが、湛殿の場所くらいは把握しておきたい。
何かことを起こす訳ではないのだ。すぐに戻ってこられるだろうと明凜は自身を闇に溶かした。
儀皇帝の暗殺は苦肉の策なのだ。
現蘭皇帝は病を患い、皇太子に譲位せねばならない状況にある。
だが、どれほどの賢帝であろうと帝位交代の折には世が乱れるのは道理。
その隙を突き儀が戦を仕掛けてくる可能性があった。
その可能性を潰すための翠玉の輿入れなのだが、目的はそれだけではない。
一番の目的は儀を滅ぼすこと。
儀は巨大になりすぎたのだ。
長く栄華を極めている大国の儀は、長く続いた分だけ膿も多い。
巨大な国の膿は蘭や他の周辺国へも影響を与えている。
この膿みきった儀という国を滅ぼさなければならない。
本来ならばとうに滅びていてもおかしくはないのだ。
あまたの歴史を顧みると、すでに反乱軍が立ち儀王朝が滅びていてもおかしくはないほどに儀は肥え太っている。
なのにどういう訳か、反乱の火が上がろうとも軍となるほどに燃え広がる前に鎮火してしまう。
そうして国が変わらぬが故に地方の農民たちが蘭や他の周辺国に脱国し、その者たちがそれぞれの国々で罪を犯すため治安も歩くなる一方だ。
蘭だけではなく、周辺国も困り果てているというわけである。
当然ながら儀に苦情を伝えているが、傲慢な儀の皇帝や高官たちが聞き入れることはなかった。
故に儀を滅ぼすという選択肢しかないのだ。
儀雲嵐さえ死んでしまえば儀に皇帝が立つことはない。
女狂いで矜持が高い割に臆病者だという雲嵐は、自身が皇帝に就く際他の皇位継承者を虐殺してしまったらしい。
その上種がないのか子にも恵まれていない。
継ぐ者がいなければ、儀王朝は滅びるしかないのだ。
その後の儀をどうするのかはすでに周辺国と話し合いを進めていると聞いた。
すべては、明凜が儀皇帝を暗殺してから始まる。
逆を言えば、暗殺出来なければ何も始められないのだ。
失敗するわけにはいかない。
一番最悪なのは暗殺を失敗した上に蘭が儀皇帝暗殺を企てたという証拠を残してしまうという状況。
それだけは避けなければ。
慎重にことを進めようと更に息を潜めたところで屋根が途切れた。
ここからは下に降りて進まなくてはならない。
木陰に身を潜め脳内の地図と現在地を照らし合わせる。
このあたりは宦官の居住区となっている大明宮だったか。
ここよりもう少し南に行けばおそらく湛殿があるのだろう。
大明宮を抜ければすぐだと推察した明凜は人の気配を警戒しながら足を進める。
警備の者以外はすでに寝ているか、仕事をしていても房にこもっているようだ。
案外簡単に通り抜けられるかもしれないと思ったとき、端の房の外に人が出てきているのが見えた。
(あれは……宦官と、女官?)
衣で判断するしかないが、二人のうちの一人は確かに女官だ。
もしかすると内密の逢い引き現場に居合わせてしまったのかもしれない。
木陰に潜み、彼らが房に入るか別れるのを待つ。
(夜とはいえ人目につく場所だもの。すぐに房に入るわよね)
そう楽観視していた明凜だが、嗅覚が不穏な匂いを感じ取る。
(これは、血の臭い?)
臭いに誘われるように逢い引き中の男女に視線を戻す。
先ほどよりも雲が晴れ、月光で二人の姿がよく見えた。
女の首筋に顔を埋めていた男が僅かに頭を上げる。
その口元には赤黒い汚れ。
月明かりに照らされた女の首筋は、てらてらと赤く濡れていた。
ドクリ、と大きく心臓が跳ね上がり本能的な危険を察知する。
だが、明凜は魔性にでも魅入られたように彼らから目を離せない。
顔を上げ手の甲で口元を拭った男の、凍て空のような目が明凜を捉えた。
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