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第4話 オカンとカレーと、親父の背中
しおりを挟む選挙事務所(ボロ屋)での戦略会議を終え、長浜町の実家に帰ったのは夜の10時を回っていた。
玄関を開けると、カレーの匂いが漂ってくる。
築40年の日本家屋。潮風に晒されて外壁は痛んでいるが、中は温かい。
「ただいま」
「……おかえり、バカ息子」
リビングに入ると、開口一番、母の芳子(よしこ)がため息交じりで言った。
こたつに入り、テレビを見ている父・源次(げんじ)は、俺の方を見ようともしない。
「あんた、近所でもう噂になっとるよ。『神代さん家の湊くん、東京で頭がおかしくなって帰ってきた』って」
芳子は台所から温め直したカレーを運びながら、マシンガントークを始めた。
「せっかく東大出て、マク……なんとかっていう凄い会社に入ったのに。給料も良かったんでしょ? それを棒に振って、よりによって市長選だなんて! 相手はあの黒田さんよ? 勝てるわけないじゃない!」
「母さん、マクミランな。それに、勝算はある」
「あんたのその『計算』だか『ロジック』だかは、近所のおばちゃん連中には通じないの! 回覧板回すたびに『湊くん、大丈夫?』って聞かれる母さんの身にもなってちょうだい」
母の小言はもっともだ。
地方の田舎町において、「安定した職を捨てて選挙に出る」というのは、ギャンブル狂いと同じくらい親不孝なことに映るだろう。
俺は黙ってカレーを口に運んだ。
具がゴロゴロと大きい、いつもの実家の味だ。東京の高級レストランで食べたどんな料理よりも、今の疲れた体には沁みる。
「……美味い」
「当たり前でしょ。あんたが帰ってくるっていうから、昨日の夜から煮込んでたんだから」
文句を言いながらも、母はコップに冷たい麦茶を注いでくれた。こういうところが、母親だ。
ズズッ、と隣で音がした。
それまで黙っていた父・源次が、お茶を啜っている。
父は地元の漁港で仲買人の仕事をしている。頑固で、昔気質の男だ。俺がコンサル会社に入った時も「虚業だ」と言ってあまりいい顔をしなかった。
「……湊」
「はい」
父が重い口を開いた。母の小言がピタリと止む。
「やるからには、半端な真似はするなよ」
「え?」
「黒田さんは強い。だが、今の出雲がこのままでいいと思っとる奴ばかりじゃない。……港の若い衆も、最近は元気がねえ」
父は視線をテレビに戻し、ボソリと言った。
「お前が何年東京にいようが、ここは『帰ってくる場所』だ。負けてもメシくらいは食わせてやる。……だから、思う存分やってみろ」
俺はスプーンを握る手に力を込めた。
父なりの、不器用なエールだった。
「……ありがとう。親父、母さん」
俺は立ち上がり、仏壇へ向かった。
線香をあげ、遺影に手を合わせる。そこに写っているのは、去年亡くなった祖父だ。
祖父は俺にいつも言っていた。『湊、偉くならんでいい。ただ、人の役に立つ人間になれ』と。
(じいちゃん、俺はやるよ)
線香の煙が揺れる。
家族という、一番身近で、一番温かい「票」を、俺はすでに持っていた。
それが、0.01%の戦いに挑む俺の、最大の原動力(エネルギー)になる気がした。
「さあ、明日はポスター貼りだ。母さん、親戚のおばちゃんたちへの根回し、頼めるか?」
「もう! しょうがないわねぇ。……婦人会のネットワーク、ナメないでよね!」
母はそう言いながら、まんざらでもない顔で電話帳を取り出した。
出雲のオカンは、最強の広報部長かもしれない。
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