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第5話 法律の抜け穴と、最初の壁
しおりを挟む1月20日。
選挙事務所に、刷り上がったばかりのポスターの束が届いた。
段ボールを開けた田中が、中身を見て首を傾げる。
「あれ? 湊、これ書き間違えてねーか?」
ポスターには、湊の凛々しい顔写真と名前が大きく印刷されているが、その下にはこう書かれていた。
『出雲の未来を語る会 弁士:神代湊』
『3月10日 市民会館にて開催』
「市長選に出るんだろ? なんで『演説会のお知らせ』なんだよ。『市長候補』って書けばいいのに」
「バカね」
すかさず美咲が口を挟む。彼女の手には六法全書(のアプリが入ったタブレット)があった。
「今の時期に『立候補します』『投票してね』と公言したら、公職選挙法違反の『事前運動』で逮捕されます。警察のご厄介になりたいですか?」
「た、逮捕!? マジかよ」
「だから、これはあくまで『政治団体の活動報告会』の告知ポスターという体裁をとるんです。これなら法律上、街中に貼っても問題ありません。……ま、実質的には名前と顔を売るための選挙ポスターそのものですけどね」
美咲は眼鏡をクイッと押し上げ、ニヤリと笑った。
「法の抜け穴(ループホール)を突く。これも私の計算通り(ロジック)です」
「……性格悪ぅ」
「褒め言葉として受け取っておきます。さあ先輩、ここからが本番です。このポスターは、選挙期間中に掲示板に貼るものとは違います。民家の塀や、お店の壁に、家主の許可を得て貼らせてもらわなければなりません」
湊はポスターの束を抱え、深く頷いた。
「ああ。黒田市長の支配下にあるこの街で、俺のポスターを貼らせてくれる家がどれだけあるか……。行くぞ、ドブ板の始まりだ」
***
現実は、予想以上に厳しかった。
「断る!」
一軒目の酒屋で、店主に一喝された。
「あんたの親父さんは知ってるがな、うちは代々黒田さんを応援しとるんだ。そんなもん貼ったら、役所との付き合いに響く」
二軒目、三軒目、十軒目。
結果はすべて「NO」だった。
「悪いねぇ、湊くん。応援したい気持ちはあるんだけど……」
「ごめんね、壁が汚れるのはちょっと……」
表向きはやんわりとした断りだが、本音は全員同じだ。
「現職市長に睨まれたくない」。
4期16年続いた黒田政権の恐怖支配は、市民の心に根深く染み付いていた。
「くそっ、全滅かよ……」
冷たい北風の中、田中が弱音を吐く。
時刻は夕暮れ。歩き続けて足は棒のようだ。貼れた枚数は、まだゼロ枚。
「次だ。あそこの食堂に行くぞ」
湊は諦めずに歩き出した。向かったのは、商店街の端にある定食屋だ。
ガラガラ、と引き戸を開ける。
「いらっしゃい。……あら、湊ちゃんじゃないの!」
出迎えてくれたのは、割烹着を着た初老の女性だった。亡くなった祖母の友人で、子供の頃によくオマケしてもらった店だ。
「おばちゃん、久しぶり。今日はお願いがあって来たんだ」
湊は頭を下げ、ポスターを広げた。
「今度、市長選に出る。このポスターを、店の外に貼らせてくれないか」
おばちゃんの顔が曇る。
「市長選……ああ、噂は聞いてるよ。でもねぇ、うちは商工会に入ってるし、会長さんが黒田派だから……」
「そこをなんとか頼む! 一枚でいいんだ。一番目立たない裏口でもいい!」
湊は土間(どま)に手をつき、深々と頭を下げた。
東大を出て、東京でエリート街道を歩いていた男が、なりふり構わず頭を下げる。
その背中を見て、おばちゃんが息を呑んだ。
「……湊ちゃん。あんた、本気なんだね」
「本気だ。この街を変えたいんだ」
長い沈黙の後。
おばちゃんは「はぁ」とため息をつき、画鋲(がびょう)の入った箱を持ってきた。
「一番目立つ表に貼りな。裏口じゃ誰も見ないだろ」
「え……いいのか? 商工会とか……」
「知ったことかい! 私が作った定食を『美味い』って食べてくれる客が一番大事なんだよ。あんたは昔から、ここのカツ丼を一番美味そうに食べてくれたからね」
おばちゃんは笑って、店の入り口の一番目立つ柱に、バン! とポスターを打ち付けた。
『出雲の未来を語る会 神代湊』
夕日に照らされたその一枚が、なんだか黄金のように輝いて見えた。
「……ありがとうございます!」
店を出た後、湊は震える手でそのポスターを見上げた。
たった一枚。
だが、これはゼロとイチほどの違いがある「最初の一枚」だ。
「先輩、データ更新しました」
美咲がタブレットを見せる。地図上に、ポツンと青い光が灯っていた。
「ここを拠点(アンカー)にしましょう。この店のお客さん、近所の人……『あの店が貼ったなら』と続く人が必ず現れます。オセロの角(かど)は取りましたよ」
「ああ。……ここからひっくり返すぞ」
1月20日。
貼れたポスター、1枚。
残り日数、80日。
俺たちの反撃は、定食屋の壁から始まった。
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