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第三章

社交の心得

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 ほぼ時間通りに会は始まり、近頃王都で売り出し中(らしい)の新進気鋭のピアニストと、チェロ奏者による、有名な巨匠の作品が演奏される。

 実を言えば、こういった貴族の館で開かれるサロン・コンサートは初めてだ。――小さな公共ホールでの演奏会は、二度ばかり連れて行ってもらったし、歌劇場も数回あるけれど。

 この家の跡取りである、ゴードン卿がバイオリンで参加する三重奏曲。たしかになかなかの技量で、素人とは思えなかった。――彼の兄が戦死しなければ、彼が跡取りでなければ、もっと自由な道を選べただろうに。

 数曲ごとに休憩が挟まれ、隣室では飲み物と軽食が提供される。休憩時間、わたしは殿下に断りを言い、化粧室に行こうと立ち上がった。すると、近くにいたシャーロット嬢も、立ちあがろうとする。

「あ、あの――わたしも……」

 が、ドレスの裾を踏んづけ、うまく立ち上がれない。わたしはシャーロット嬢に言う。

「ゆっくりでいいわ。ドレスの裾が……」
「あ……」

 するとカーティス大尉も立ちあがり、近くまでついて行くと言う。

「殿下の護衛はよろしいの?」
「俺の護衛はちゃんと周囲にいる。ジョナサンはエルシーの護衛だ」

 殿下が言い、確かに、周囲にはさりげなく、見覚えのある護衛の方たちが控えていた。

「僕は婚約者のお守りをしているように見えますでしょう? お気になさらず」
「でも、シャーロット嬢まで巻き込むのは申し訳ないわ?」
「王族に仕えるというのは、こういうことですから」

 カーティス大尉がすっぱりと言い、シャーロット嬢も頷いた。
 わたしたちが化粧室に向かっていくと、連れ立って歩いてきた令嬢たちと、正面からすれ違う。

「……図々しいわね、愛人のクセに」
「ホント嫌ね、泥棒猫はどこにでもいるのよ」

 濃い青色のドレスと深緑色のドレスを着た令嬢が、すれ違いざまに聞えよがしに言うけれど、わたしは無視して通り過ぎる。わたしが反応しなかったのが気に入らなかったのか、彼女たちはなんと、シャーロット嬢にわざとぶつかって、「あら、ごめんあそばせ」「あら、いやだ、泥棒猫の金魚の糞に触っちゃったわ」と言い、クスクス笑いさざめきながら通り過ぎていった。

「シャーロット、大丈夫か?」
「はい、ジョナサン様、その……」

 何となく、そのやり取りにわたしはイライラして、つい、カーティス大尉に言ってしまった。

「大丈夫か、なんて後から慰めるくらいなら、あの失礼な方たちに、一言ガツンと言っておやりになればよかったのに。殿下だったらタダじゃ済まさなかったでしょうね。あなたの婚約者でしょ?! だいたい、シャーロット嬢もいちいち反応するから、妙なのに絡まれるのよ」
「あ……そ、そうですね、申し訳ない。僕はまさかシャーロットが絡まれると思っていなかったから、反応が遅れてしまった。……次からは気をつけます」
「わたしの側にいると、シャーロット嬢までとばっちりを食いますわよ?」
「すみません、考慮するべきでした」
「ジョナサン様は悪くないんです、わたしが……」

 謝るカーティス大尉と彼を庇うシャーロット嬢に、わたしはむしろイライラが募る。……カーティス大尉は「仕事」だと言うし、わたしが危害に遭えば殿下にも迷惑がかかるから、彼が護衛につくのは仕方がないと思う。でも、シャーロット嬢はカーティス大尉の婚約者であって、わたしとは直接、関係のない相手だ。

 シャーロット嬢とわたしは同い年。シャーロット嬢の家は子爵家だけれど、ミドルトン侯爵家の分家筋で、王都に縁もあって羽振りはいい。戦時中も貴族令嬢として親や兄弟に守られ、二年前に社交デビューだって果たしている。社交界デビュー前に父に死なれ、領地を追い出されて王都で働いていたわたしとは違う。わたしよりはるかに恵まれ、物慣れて当然のはず。なのに、結局、グズグズと庇われているだけ。――あまりに頼りなく、役に立たない彼女に苛立ちを感じてしまう。

 化粧室の鏡の前で化粧を直しながら、わたしはシャーロット嬢に言った。

「わたしと一緒にいると、あなたもあれこれ言われるわ。わたしは愛人扱いに慣れているけど、深窓のご令嬢のあなたを巻き込むのは気が引けるの。ミセス・デイジーの側にいた方がいいのではなくて?」

 シャーロット嬢がびっくりして、榛色の目でわたしを見る。別にひどいことは言ってないと思うのに、その目がみるみる涙で潤み始め、わたしは内心、ウンザリした。――申し訳ないけれど、わたしはこの子ウサギちゃんのお守りができるほど、社交界に慣れてないのだ。

「だ、大丈夫、です。……その……デイジーが、怖いので……」
「怖い? 怖いって……どういうこと?」
「……その……前に、このお邸でデビューしたのですけれど……その時……わ、わたし、デイジーに押されて転んで……ワイ、ワインを人にかけてしまって……でも、デイジーは押してないって……」

 わたしは目を瞠る。

「デイジーがわたしの代わりに謝ったり……お父様もお母様も、デイジーがいなかったら大変なことになっていたって、ますますデイジーを頼りにして……でも、わたし……」

 何となく構図が読めて、わたしはさらにウンザリする。

「……デイジーは、本当はジョナサン様のことが好きだったんです。でも、ジョナサン様より年上だから結婚はできず、王都の商家に後妻に入って……わたしがジョナサン様と婚約したと聞いて、わたしなんか相応しくないって……」
「そうなの。でも、カーティス大尉もあなたのことを婚約者として尊重しているんだから、もっと堂々としていればよろしいのよ」
「でも――わたし、あなたみたいにキレイでもないし、堂々ともしていないし……」
「わたしは堂々としてるっていうよりは、もう諦めて開き直っているだけよ。あと、もともと、顔の表情が変わらないの。祖母にね、古代の彫刻になったつもりでいなさい、っていつも言われていたせいかもしれないわ。あなたは表情が変わり過ぎるのよ。ホラ、今からは古代の彫刻になったつもりで!」
「こ、古代の彫刻ですか?」

 シャーロット嬢が鏡の前で戸惑って表情を作る。……祖母の淑女教育はかなり無茶だったけれど、今になってそれに助けられている。

「それから、もっとシャンとして上を向いて」
「は、はい……」
「ほら、すぐ下を向く。深呼吸してね。胸を張って」
「は、はい!」

 慌てて深呼吸する彼女を見て、なんだか妙な気分になる。自分を守るだけで手一杯だって言うのに、なぜ、護衛の婚約者の面倒まで見ているのか。

「じゃあ、行くわよ。本日の一番の悪女はわたし。デイジーなんて目じゃないわ。あなたも悪の組織の女幹部になったつもりで。よろしくて?」
「あ、悪の組織……?」

 シャーロット嬢が困惑顔でわたしを見る。わたしだって悪の組織なんて見たことないけど、ビリーの小説の、悪役の黒幕はいつも悪の組織で、一人くらいは女幹部が出てくる。たいてい、有能な美女だ。世間知らずのわたしが知らないだけで、きっとこの世のどこかにあるんだろう。

「悪の組織の女幹部ですか? でも、さっきは古代の彫刻って……」
「古代の彫刻似の悪の組織の女幹部だっているでしょう! あなた応用力が足らなさすぎるわ」

 シャーロット嬢が一瞬、泣きそうな表情をするけれど、わたしが鏡越しに睨みつけると、慌てて古代の彫刻風で、ちょっと悪そうな表情を作った(つもりらしい)。

「こ、こうですか?」

 いちいち聞いてくるシャーロット嬢に、本気にするなんてあなた馬鹿なのって言ってやりたかったけど、我慢したわたしは、わりと優しいと思う。
 






 化粧室から戻ると、殿下は席にいなかった。カーティス大尉が言う。

「デイジーが来て、ヴァイオレット夫人が呼んでいると言って、あちらに――」
「ヴァイオレット夫人が?」

 それほど親しい風でもなかったのにと、わたしは首を傾げる。

「デイジーは、この夜会で演奏する令嬢たちの取りまとめを、ヴァイオレット夫人から頼まれているそうなんです。シャーロットにもピアノを、と言われたそうですが……」

 シャーロットは慌てて首を振る。

「わたしなんて、とんでもないです……こんなところで、人前で弾くなんて……」
「そうよね、わたしも人前で弾いたことなんてないわ」

 それどころか、他人の演奏を聴いたこともほとんどない。田舎育ちというのは、つくづく不利だ。

 休憩が終わっても殿下は帰って来ない。演奏が始まり、わたしの隣の席は不在のまま。愛人をわざわざ連れてきたのに、その愛人をほったらかしにするなんて、晒しあげもいいところだ。空いた席に周囲の注目が集まり、曲の合間にヒソヒソと囁かれる。

 カーティス大尉が落ち着きなく周囲を見回し、シャーロット嬢が青ざめて下を向く。休憩が終わった時点で、ヴァイオレット夫人はちゃんと戻ってきて、席についている。――ミセス・デイジーが嘘を言って、殿下を呼び出したってこと? 二人で何をしているわけ? 

 次の休憩にようやく戻ってきた殿下は、どこか不機嫌そうだった。

「この休憩は時間が長いらしい。あっちの部屋で軽食が摂れる。エルシー、少し話がある。ジョナサンたちも」

 わたしたちが殿下に近づく前に、殿下の周囲に人垣ができてしまう。砂糖に群がる蟻のように、会場の若いご令嬢たちが、王子様に群がるのだ。
 普段、王宮の公式な夜会では、王子殿下に直接言葉をかけるなんて許されないが、今日は個人宅の私的な催し。アルバート殿下も一私人として、お忍びの参加だ。護衛はつくけれど、堅苦しいキマリはなくて、身分を乗り越えて殿下とお話ができる。――だから殿下も、愛人のわたしをパートナーに連れて来られたのだけど。
 戦争の英雄でもある、アルバート殿下の美しい容姿にのぼせ上った令嬢たちが、せめて一声と殺到する。その中には、さっきすれ違いざまにわたしを「泥棒猫」と罵った、濃い青色のドレスと、深緑色のドレスの令嬢もいて、わたしは呆れた。――人のことを「泥棒猫」だのなんだの言いながら、自分だって婚約者のいる殿下に群がっているではないの。

「アルバート殿下、ご挨拶を――」
「殿下、わたくし――」 
「失礼、そこを開けてもらえるかな」

 殿下は金色の瞳で周囲を睥睨へいげいして、令嬢たちの間からわたしに手を伸ばす。

「そこ、通してくれないか。俺の連れなんだ」

 ところが、殿下がわたしの手を掴む前に深緑色のドレスの令嬢が突進し、わたしは突き飛ばされてバランスを崩す。

「あぶない、エルシー!」

 倒れ込みそうになったわたしをカーティス大尉が抱き留め、その勢いで別の、ワインカラーのドレスを着た令嬢が尻もちをつく。

「きゃあ!」
「下がれと言っているのが、聞こえないのか! エルシー! 大丈夫か?」

 殿下が慌ててわたしの側に駆け寄り、わたしを突き飛ばした令嬢を睨みつける。

「……わたしは大丈夫です、それより――」

 わたしは尻もちをついてしまったご令嬢を気にするが、彼女はカーティス大尉が助け起こしてくれた。深緑色のご令嬢の父親らしき男性が走り寄ってきて、殿下に頭を下げる。

「申し訳ございません、殿下にご無礼を――」
「気をつけてくれ。みだりに俺の身体に触れることは許していない」

 殿下が父子にきつく注意して、わたしの腰を抱くように隣室へと向かった。
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