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二十五、鳥籠(宦官視点)
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皇上の、娘娘に対する特別のご愛寵が明らかになりますと、以前より後宮に侍している妃嬪に肩入れする高官などが、「皇后の擅寵よろしからず」などと、畏れ多くも皇上にご意見申し上げる声が起こり始めました。
下々の元元の中には、皇帝陛下は夜毎後宮に入り浸って、女たちをとっかえひっかえしている、などと思っている者もいるかもしれませんが、今上は即位以来、真面目に政務に向き合われ、これまでは後宮に足を向けることも稀でいらっしゃいまいた。
なにしろ皇上は天下の主。一天万乗の君にあらせられます。
毎朝、日の出とともに常参官(五品官以上の在京職事官等)を両儀殿に集めて行う常朝があり、さらに朔日と望日(十五日)には、九品官以上の在京職事官を集めて行う、朔望朝参がございます。
官僚の勤務は日の出から正午まで、常朝の後、皇上は宰相以下の高官と政について話し合い、正午の勤務終わりには、官僚に給食を賜ることになっています。時には、宰相らの枢要官を午餐にお招きになり、さらに議論を深められるわけです。
午後には自ら政務についてお調べになったり、翰林学士が起草した詔勅を読み返して、明日の朝儀に備えられる。
その上、皇帝のもう一つの勤めとして、四季にわたる天神地祇の祭祀と、祖先祭祀がございます。祭祀に先立つ潔斎や先祖の忌日などは、後宮で過ごすことは許されません。
このように、皇上の後宮入りはかなりの制限があって、とてもじゃないが毎日毎夜通えるものではございません。
しかも、太極宮の後宮は内廷より遠く、中書省を突っ切る必要があります。後宮に通う度に、宰相の監視を受けているようなものです。
後宮や高官たちからの批判的な空気に、娘娘は一月の末に体調を崩してしまわれた。それで、皇上は娘娘への批判を躱すために、渋々、他の妃嬪へのお渡りを挟むようになりました。
奴才の目から見ても、皇上の熱量は娘娘と他の妃嬪がたでは天地のように差があって、それでも必死に皇上に媚びていらっしゃる妃嬪の涙ぐましい姿に、同情を通り越した憐れみすら覚えるのでございます。
しかしながら、皇上のお心が娘娘お一人に向かわれていても、他の妃嬪と心の伴わない閨があれば、そちらが懐妊する可能性はあるのです。
三月の末、高昭容より懐妊の報せが皇上の元に伝えられました。
すでに後宮内では噂になっていたことでございますので、皇上は太医を遣わすようお命じになられ、その宵は光華殿に御すと申し渡されました。
――ちょうど、娘娘からは体調不良の故に、しばらく閨をご遠慮したい旨の書簡が届いておりました。皇上はその書簡を眉を顰めてご覧になってから、筆を執って返書を認められ、背後に控えていた奴才にお命じになりました。
「これを中宮に。詩阿……いや、中宮に直接渡せ。体調がすぐれぬとも申していた故、様子を伺って、朕に報告せよ」
奴才は額の前で書簡の入った漆塗の箱を押し頂き、後宮へと届けに向かいました。
「娘娘は今、裏の園林に出ておられます」
「では、奴才もそちらに参ります。直接お渡しするようにとの皇上のご命令でございますので」
三月末の後宮は春も酣で、咲き誇る花々の芳香が風に乗って漂い、小鳥の声も聞こえてまいります。白い壁を円形にくりぬいた門を抜け、周囲にめぐらされた回廊を歩いていくと、奴才の目の前に小さな小鳥が飛んできて、回廊脇に張り出した枝に止まりました。
灰色の羽に、赤い喉。
――おや、これは……
チチチと人懐っこく啼く様子にも見覚えがございました。娘娘が飼っている鷽に間違いございません。
――鳥籠から逃げ出したのかな?
試しに口でチチチと囀ってやりますと、小鳥はチチ、と答えて、奴才の差し出す手に乗ってまいりました。
「お前、どうした。……あの豪華な鳥籠に、なんの不満がある?」
皇上からの贈りものとして、美麗な竹製の鳥籠を持ってまいったのは、ほんの数日前ですのに。
奴才が小鳥を捕まえて、さらに奥に進むと、出迎えた皇后の侍女たちは、小鳥を見てアッと驚かれました。
「よかった! 逃げてしまったかと……娘娘、廉公公が捕まえてくれましたよ!」
空の鳥籠の前に立ち、中を覗いていたほっそりした少女が振り向き、目を見開かれました。――娘娘でした。
「まあ……お前、逃げなかったの……」
奴才が娘娘の前に進み出て跪きますと、小鳥はひらりと娘娘の白い手に移り、ひとしきり鳴き騒いで、甘えたように羽を羽ばたかせました。娘娘の手から鳥籠の中の鞦韆の止まり木に羽を休め、染付の華麗な水入れから水を飲んだりと、いかにもくつろいだ様子。
――無事に戻ってよかった――
そう奴才が思った時に、しかし娘娘がポツリと、ため息を零されました。
「だめねえ……戻ってきちゃうなんて」
その言葉に奴才がハッとして顔を上げるのと、娘娘が振り向いて奴才と目が合うのが、同時でございました。
「あ……皇上よりお手紙でございます」
「……ありがとう」
娘娘は鳥籠の前を離れ、陶器の榻にお座りになって、箱を開けて書簡を一読なさいまして、しばらくそっと胸に抱くようにしておられました。しばし物思いにふけってから、元通り丁寧にしまい、控えていた侍女に箱ごとお預けになります。
「……皇上へのお返事は後程。お心遣いに感謝するとお礼だけ申し上げてください」
「は――」
奴才は深く頭を下げますが、さきほどの娘娘の呟きが気になってなりません。
小箱を持って侍女が離れた隙に、勇気を出して小声で問いかけてしまいました。
「娘娘――小鳥は、逃がすおつもりだったのですか?」
そうならば、捕まえてしまってはいけなかったのか。しかし、娘娘は曖昧な微笑で首をお振りになる。
「いいえ、そうではないの。逃がしてあげたい気分ではあったけど――野生に戻すべきだと思って迷っているうちに、陛下が鳥籠を贈っていらっしゃって。そうなってしまうと、野に放つわけにも――」
豪華な鳥籠に飼われる小鳥を見つめる、娘娘の視線はどこかやるせないような、儚い風情でいらっしゃる。
「綺麗な鳥籠に飼われて餌をもらうのに慣れてしまうと、小鳥も逃げられないのね……飽きたら、捨てられてしまうのに――」
「娘娘……?」
娘娘は立ち上がって、再び鳥籠を覗き込まれました。
「お前の目にはここはどう、見えるのかしら。――きっとずいぶんと広い園林に見えるでしょうね。でもわたしも、お前と同じ身の上なのに……」
「娘娘……そのようなことは――」
奴才の心臓がドキドキと早鐘を打ちます。それをお口に出すのは――どう、お諫めするべきかと、奴才が戸惑ううちに、娘娘が仰ったのです。
「……そうね、口にするべきではないわ。でも……いろいろと、聞きたくもないことばかりが聞こえてくる場所だから。誰が妊娠したとか、妊娠しないとか、そんなことばっかり」
高昭容の妊娠を、早くも娘娘の耳に入れた者がいるのでしょう。後宮の習いとはいえ、その事実は辛いことに違いありません。
娘娘はよく晴れた空を見上げて、呟かれました。
「鳥のように自由に飛べるなら、わたしなら外に逃げ出すのに……」
白い横顔に木漏れ日がちらつき、結い上げた黒髪と髪に挿した金釵がキラキラと光を弾いて。白地に小さな草花の刺繍を散らした可憐な襦裙の、薄い生地と散りゆく花びらがひらりと風に舞っていました。――目を離せば、絹の袖を翻して飛んでいってしまう天仙のよう――
奴才は慌てて、申し上げました。
「娘娘、皇上は娘娘のことをご心配なさって、御心を痛めておいでです」
すると、娘娘は驚いたように奴才をご覧になり、首を傾げられました。
「……あ、ああ。高昭容のこと? いいのよ、大丈夫、気にしてはいないわ。本当ならめでたいことよ? 皇上には、おめでとうございますとお伝えして?」
「ですが――」
「大丈夫よ。わたしから、皇上を好きになったりはしないから、誰が妊娠しても傷ついたりはしないわ」
さらりと言ってのけた娘娘の言葉に、奴才は返す言葉もなく、凍り付いたのでございます。
下々の元元の中には、皇帝陛下は夜毎後宮に入り浸って、女たちをとっかえひっかえしている、などと思っている者もいるかもしれませんが、今上は即位以来、真面目に政務に向き合われ、これまでは後宮に足を向けることも稀でいらっしゃいまいた。
なにしろ皇上は天下の主。一天万乗の君にあらせられます。
毎朝、日の出とともに常参官(五品官以上の在京職事官等)を両儀殿に集めて行う常朝があり、さらに朔日と望日(十五日)には、九品官以上の在京職事官を集めて行う、朔望朝参がございます。
官僚の勤務は日の出から正午まで、常朝の後、皇上は宰相以下の高官と政について話し合い、正午の勤務終わりには、官僚に給食を賜ることになっています。時には、宰相らの枢要官を午餐にお招きになり、さらに議論を深められるわけです。
午後には自ら政務についてお調べになったり、翰林学士が起草した詔勅を読み返して、明日の朝儀に備えられる。
その上、皇帝のもう一つの勤めとして、四季にわたる天神地祇の祭祀と、祖先祭祀がございます。祭祀に先立つ潔斎や先祖の忌日などは、後宮で過ごすことは許されません。
このように、皇上の後宮入りはかなりの制限があって、とてもじゃないが毎日毎夜通えるものではございません。
しかも、太極宮の後宮は内廷より遠く、中書省を突っ切る必要があります。後宮に通う度に、宰相の監視を受けているようなものです。
後宮や高官たちからの批判的な空気に、娘娘は一月の末に体調を崩してしまわれた。それで、皇上は娘娘への批判を躱すために、渋々、他の妃嬪へのお渡りを挟むようになりました。
奴才の目から見ても、皇上の熱量は娘娘と他の妃嬪がたでは天地のように差があって、それでも必死に皇上に媚びていらっしゃる妃嬪の涙ぐましい姿に、同情を通り越した憐れみすら覚えるのでございます。
しかしながら、皇上のお心が娘娘お一人に向かわれていても、他の妃嬪と心の伴わない閨があれば、そちらが懐妊する可能性はあるのです。
三月の末、高昭容より懐妊の報せが皇上の元に伝えられました。
すでに後宮内では噂になっていたことでございますので、皇上は太医を遣わすようお命じになられ、その宵は光華殿に御すと申し渡されました。
――ちょうど、娘娘からは体調不良の故に、しばらく閨をご遠慮したい旨の書簡が届いておりました。皇上はその書簡を眉を顰めてご覧になってから、筆を執って返書を認められ、背後に控えていた奴才にお命じになりました。
「これを中宮に。詩阿……いや、中宮に直接渡せ。体調がすぐれぬとも申していた故、様子を伺って、朕に報告せよ」
奴才は額の前で書簡の入った漆塗の箱を押し頂き、後宮へと届けに向かいました。
「娘娘は今、裏の園林に出ておられます」
「では、奴才もそちらに参ります。直接お渡しするようにとの皇上のご命令でございますので」
三月末の後宮は春も酣で、咲き誇る花々の芳香が風に乗って漂い、小鳥の声も聞こえてまいります。白い壁を円形にくりぬいた門を抜け、周囲にめぐらされた回廊を歩いていくと、奴才の目の前に小さな小鳥が飛んできて、回廊脇に張り出した枝に止まりました。
灰色の羽に、赤い喉。
――おや、これは……
チチチと人懐っこく啼く様子にも見覚えがございました。娘娘が飼っている鷽に間違いございません。
――鳥籠から逃げ出したのかな?
試しに口でチチチと囀ってやりますと、小鳥はチチ、と答えて、奴才の差し出す手に乗ってまいりました。
「お前、どうした。……あの豪華な鳥籠に、なんの不満がある?」
皇上からの贈りものとして、美麗な竹製の鳥籠を持ってまいったのは、ほんの数日前ですのに。
奴才が小鳥を捕まえて、さらに奥に進むと、出迎えた皇后の侍女たちは、小鳥を見てアッと驚かれました。
「よかった! 逃げてしまったかと……娘娘、廉公公が捕まえてくれましたよ!」
空の鳥籠の前に立ち、中を覗いていたほっそりした少女が振り向き、目を見開かれました。――娘娘でした。
「まあ……お前、逃げなかったの……」
奴才が娘娘の前に進み出て跪きますと、小鳥はひらりと娘娘の白い手に移り、ひとしきり鳴き騒いで、甘えたように羽を羽ばたかせました。娘娘の手から鳥籠の中の鞦韆の止まり木に羽を休め、染付の華麗な水入れから水を飲んだりと、いかにもくつろいだ様子。
――無事に戻ってよかった――
そう奴才が思った時に、しかし娘娘がポツリと、ため息を零されました。
「だめねえ……戻ってきちゃうなんて」
その言葉に奴才がハッとして顔を上げるのと、娘娘が振り向いて奴才と目が合うのが、同時でございました。
「あ……皇上よりお手紙でございます」
「……ありがとう」
娘娘は鳥籠の前を離れ、陶器の榻にお座りになって、箱を開けて書簡を一読なさいまして、しばらくそっと胸に抱くようにしておられました。しばし物思いにふけってから、元通り丁寧にしまい、控えていた侍女に箱ごとお預けになります。
「……皇上へのお返事は後程。お心遣いに感謝するとお礼だけ申し上げてください」
「は――」
奴才は深く頭を下げますが、さきほどの娘娘の呟きが気になってなりません。
小箱を持って侍女が離れた隙に、勇気を出して小声で問いかけてしまいました。
「娘娘――小鳥は、逃がすおつもりだったのですか?」
そうならば、捕まえてしまってはいけなかったのか。しかし、娘娘は曖昧な微笑で首をお振りになる。
「いいえ、そうではないの。逃がしてあげたい気分ではあったけど――野生に戻すべきだと思って迷っているうちに、陛下が鳥籠を贈っていらっしゃって。そうなってしまうと、野に放つわけにも――」
豪華な鳥籠に飼われる小鳥を見つめる、娘娘の視線はどこかやるせないような、儚い風情でいらっしゃる。
「綺麗な鳥籠に飼われて餌をもらうのに慣れてしまうと、小鳥も逃げられないのね……飽きたら、捨てられてしまうのに――」
「娘娘……?」
娘娘は立ち上がって、再び鳥籠を覗き込まれました。
「お前の目にはここはどう、見えるのかしら。――きっとずいぶんと広い園林に見えるでしょうね。でもわたしも、お前と同じ身の上なのに……」
「娘娘……そのようなことは――」
奴才の心臓がドキドキと早鐘を打ちます。それをお口に出すのは――どう、お諫めするべきかと、奴才が戸惑ううちに、娘娘が仰ったのです。
「……そうね、口にするべきではないわ。でも……いろいろと、聞きたくもないことばかりが聞こえてくる場所だから。誰が妊娠したとか、妊娠しないとか、そんなことばっかり」
高昭容の妊娠を、早くも娘娘の耳に入れた者がいるのでしょう。後宮の習いとはいえ、その事実は辛いことに違いありません。
娘娘はよく晴れた空を見上げて、呟かれました。
「鳥のように自由に飛べるなら、わたしなら外に逃げ出すのに……」
白い横顔に木漏れ日がちらつき、結い上げた黒髪と髪に挿した金釵がキラキラと光を弾いて。白地に小さな草花の刺繍を散らした可憐な襦裙の、薄い生地と散りゆく花びらがひらりと風に舞っていました。――目を離せば、絹の袖を翻して飛んでいってしまう天仙のよう――
奴才は慌てて、申し上げました。
「娘娘、皇上は娘娘のことをご心配なさって、御心を痛めておいでです」
すると、娘娘は驚いたように奴才をご覧になり、首を傾げられました。
「……あ、ああ。高昭容のこと? いいのよ、大丈夫、気にしてはいないわ。本当ならめでたいことよ? 皇上には、おめでとうございますとお伝えして?」
「ですが――」
「大丈夫よ。わたしから、皇上を好きになったりはしないから、誰が妊娠しても傷ついたりはしないわ」
さらりと言ってのけた娘娘の言葉に、奴才は返す言葉もなく、凍り付いたのでございます。
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