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8、暁闇
ユリウスの情報
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シルルッサの日常は穏やかに過ぎる。
海を見下ろす高台にある領主館で、貴賓の接待に使う独立した一棟を与えられて、アデライードは中庭の噴水を眺めていた。気候のいい季節には扉を全開にして、一続きのテラスのように使うことができる。レイノークス城で、家族用の居間にしている部屋と、同じ仕組みだ。
「ここは気持ちがようございますね。……総督府にもこんな部屋があればいいのに」
「今度殿下に言って、改装してもらいましょうよ!」
アデライードの横で、のんびりとアリナが言い、アンジェリカも相槌を打つ。アンジェリカは大麦を炒って作った、珈琲に似た飲み物を大ぶりの器に入れ、蜂蜜入りの焼菓子を添えて、寄木細工の小さなテーブルの上に並べる。リリアはその横で、三段になった皿に、綺麗に軽食を並べていく。
噴水の水音が涼し気に響き、鳥の声が聞こえる。花壇には季節の花が咲き乱れ、穏やかなものだ。――アリナがしているのが、投げナイフの手入れでさえなければ。
基本的に、武芸しかしてこなかったアリナは、妊娠して行動に制限がかかると、とたんにすることがなくなってしまうのだ。安定期に入ったら軽めであるが剣の鍛錬も再開している。
アデライードはアリナの赤子の祝い用の、レースのパターンを編む手を止める。
「本当に。こんなにのんびりしていいのかしら。殿下はご苦労なさっているというのに――」
「姫様の今のお仕事は、お心を安らかにしてお子様を安定させることです」
アリナが微笑む。
「ゾーイや、トルフィン卿、ゾラ卿が女王国に入って殿下をお探ししているはずです。彼らのことですから、もう、会ってソリスティアに向かっているかもしれません」
「そうだといいけれど――」
アデライードは金色の睫毛を伏せる。魔力の使用を止められているので、転移はもちろん、夢問いもできず、アデライードは夫の無事すら確かめることができていない。あの、地を埋め尽くす真っ黒い影のような魔物の群れを思い出すたびに、アデライードの胸が不安でぎゅっと潰れそうになる。いつもいつも、自分の不注意なミスで夫が危険な目に遭い、命の危機にさらされてしまう。
(どうしてなのかしら。助けられないならせめて、邪魔をしない妻になりたいと思っているのに――)
「また辛気臭い顔をしているな、アデライード。心配しなくても、あのデンカは殺したって死にはしないよ!殭屍になってもアデライードの元に帰ってくるに違いないからね」
軽やかな声がして、ユリウスが長いダークブロンドを靡かせて入ってきた。背後にはメイローズとマニ僧都。
「お兄様、いつ、こちらに?」
アデライードが驚いて身を起こし、立ち上がろうとするのを手で制して、ユリウスは足取りも軽くアデライードに近づいて、その頬に口づける。――家族間の挨拶とは言え、恭親王が目にしたらブチ切れかねない光景である。ユリウスは一つ残っている椅子をマニ僧都に薦めるが、マニ僧都が首を振る。
「私は僧侶だからね。この姿勢の方が慣れているんだよ」
そう言ってマニ僧都が絨毯の上の円座に安座して、ユリウスは椅子に腰かけた。
メイローズがアンジェリカとリリアに指示を出して、ユリウスたちのためには緑茶を準備させる。
「シルルッサとカンダハルは常に往復しているんだ。丘の上まで来るのが面倒くさいから、通常は大将軍府で全部用事を済ませてしまうのだけど、最近は随分と厭味ったらしい男が居座っているし、何しろアデライードがこちらに来ているのだからね。あっちにはここに直接入ると使いを出してあるから、用があればあの〈片眼鏡〉がやってくるかもね」
ゲルフィンが来るかもしれないと聞いて、アンジェリカとリリアが露骨に眉を顰める。アリナも一瞬だが嫌そうな顔をした。アデライードだけが全く動じない。――あの程度の嫌味、エイダの鬱陶しさに比べれば何でもないと思っているからだ。
ユリウスがこちらまで足を運んだのは、恭親王らしき人物の情報が、セルフィーノを通じて入ってきたからだ。
「何でも、南方の、ホーヘルミア周辺に、龍騎士の再来が現れたそうだ」
「龍騎士の再来?」
皆が一斉にユリウスに注目する。
「ただ一騎で地を埋め尽くす魔物の群れを消滅させるそうだよ。黒髪に黒い瞳、眩い金色の光を纏い、肩には黒い鷹と、白い獅子の子を連れているそうだが――」
海を見下ろす高台にある領主館で、貴賓の接待に使う独立した一棟を与えられて、アデライードは中庭の噴水を眺めていた。気候のいい季節には扉を全開にして、一続きのテラスのように使うことができる。レイノークス城で、家族用の居間にしている部屋と、同じ仕組みだ。
「ここは気持ちがようございますね。……総督府にもこんな部屋があればいいのに」
「今度殿下に言って、改装してもらいましょうよ!」
アデライードの横で、のんびりとアリナが言い、アンジェリカも相槌を打つ。アンジェリカは大麦を炒って作った、珈琲に似た飲み物を大ぶりの器に入れ、蜂蜜入りの焼菓子を添えて、寄木細工の小さなテーブルの上に並べる。リリアはその横で、三段になった皿に、綺麗に軽食を並べていく。
噴水の水音が涼し気に響き、鳥の声が聞こえる。花壇には季節の花が咲き乱れ、穏やかなものだ。――アリナがしているのが、投げナイフの手入れでさえなければ。
基本的に、武芸しかしてこなかったアリナは、妊娠して行動に制限がかかると、とたんにすることがなくなってしまうのだ。安定期に入ったら軽めであるが剣の鍛錬も再開している。
アデライードはアリナの赤子の祝い用の、レースのパターンを編む手を止める。
「本当に。こんなにのんびりしていいのかしら。殿下はご苦労なさっているというのに――」
「姫様の今のお仕事は、お心を安らかにしてお子様を安定させることです」
アリナが微笑む。
「ゾーイや、トルフィン卿、ゾラ卿が女王国に入って殿下をお探ししているはずです。彼らのことですから、もう、会ってソリスティアに向かっているかもしれません」
「そうだといいけれど――」
アデライードは金色の睫毛を伏せる。魔力の使用を止められているので、転移はもちろん、夢問いもできず、アデライードは夫の無事すら確かめることができていない。あの、地を埋め尽くす真っ黒い影のような魔物の群れを思い出すたびに、アデライードの胸が不安でぎゅっと潰れそうになる。いつもいつも、自分の不注意なミスで夫が危険な目に遭い、命の危機にさらされてしまう。
(どうしてなのかしら。助けられないならせめて、邪魔をしない妻になりたいと思っているのに――)
「また辛気臭い顔をしているな、アデライード。心配しなくても、あのデンカは殺したって死にはしないよ!殭屍になってもアデライードの元に帰ってくるに違いないからね」
軽やかな声がして、ユリウスが長いダークブロンドを靡かせて入ってきた。背後にはメイローズとマニ僧都。
「お兄様、いつ、こちらに?」
アデライードが驚いて身を起こし、立ち上がろうとするのを手で制して、ユリウスは足取りも軽くアデライードに近づいて、その頬に口づける。――家族間の挨拶とは言え、恭親王が目にしたらブチ切れかねない光景である。ユリウスは一つ残っている椅子をマニ僧都に薦めるが、マニ僧都が首を振る。
「私は僧侶だからね。この姿勢の方が慣れているんだよ」
そう言ってマニ僧都が絨毯の上の円座に安座して、ユリウスは椅子に腰かけた。
メイローズがアンジェリカとリリアに指示を出して、ユリウスたちのためには緑茶を準備させる。
「シルルッサとカンダハルは常に往復しているんだ。丘の上まで来るのが面倒くさいから、通常は大将軍府で全部用事を済ませてしまうのだけど、最近は随分と厭味ったらしい男が居座っているし、何しろアデライードがこちらに来ているのだからね。あっちにはここに直接入ると使いを出してあるから、用があればあの〈片眼鏡〉がやってくるかもね」
ゲルフィンが来るかもしれないと聞いて、アンジェリカとリリアが露骨に眉を顰める。アリナも一瞬だが嫌そうな顔をした。アデライードだけが全く動じない。――あの程度の嫌味、エイダの鬱陶しさに比べれば何でもないと思っているからだ。
ユリウスがこちらまで足を運んだのは、恭親王らしき人物の情報が、セルフィーノを通じて入ってきたからだ。
「何でも、南方の、ホーヘルミア周辺に、龍騎士の再来が現れたそうだ」
「龍騎士の再来?」
皆が一斉にユリウスに注目する。
「ただ一騎で地を埋め尽くす魔物の群れを消滅させるそうだよ。黒髪に黒い瞳、眩い金色の光を纏い、肩には黒い鷹と、白い獅子の子を連れているそうだが――」
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