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元・仔犬リジー

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 エルシーの王都の家は一階に四部屋、二階に三部屋の小さな家だ。

 アシュバートン家は王都から汽車で一日ほどの、ストラスシャ―の由緒正しい伯爵家だったが、三年前に父が戦死し、相続が認められずに没落した。新たに伯爵になったのは父の従兄で、エルシーに対し、彼の息子と結婚して城と領地に残ることを提案してきたが、おばあ様が断固拒否した。――従兄の息子、ダグラス・アシュバートンは女グセの悪い男だったからだ。

 結局、エルシーの手に残ったのはわずかな宝飾品類と、エルシーの亡き母が家作として持っていた、王都のこの庶民用の住宅だけ。エルシーと祖母、そしてほぼ無給でついてきてくれた、執事のジョンソンとメイドのメアリー夫妻が暮らすには、十分な広さ。下町で少々騒がしいものの、小さな裏庭もついていて、祖母が薔薇を植え、メアリーがハーブと野菜を育てている。

 一家の収入は父親の遺族年金と、エルシーが陸軍の司令部で臨時の事務職員として働く給金のみで、暮らしはカツカツ。プライドの高い祖母は、アルバート殿下が斡旋した、貴族用の特別ヴィラに満足げであったが、エルシーは入院費用のことを思うと胃がキリキリした。――それもアルバート殿下が払ってくれるのだから、犬ぐらいは預かるしかない。

 エルシーは、リードを外して自由になると、珍しそうにあちこち匂いを嗅いで回っているリジーを見て、ため息をついた。

「まあいいわ。一人では正直心細かったし。……とりあえず夕食はどうしようかしら……」

 リジーは人間の食べ物しか食べないとカーティス大尉は言うが、犬に味付けの濃いものは食べさせてはいけないはず。昔、仔犬にお弁当のベーコンエッグを食べさせようとして、庭師に叱られたことがある。

 リンドホルム城では庭師と森番が犬を飼っていたけれど、かなり大きな、毛の長い犬だった。でもベーコンエッグをやろうとした仔犬は短毛で、そして真っ黒だったっけ……。

「あれ、わたし、仔犬を飼ったことがある?」

 エルシーが顎に手を当てて考える。

「へんねぇ。おばあ様が動物はあまりお好きでなかったから、犬なんて飼ってないと思っていたのに」

 そう言えば、リジーはエルシーの父親にすごく懐いていたから、昔、アシュバートン家で飼っていたのでは、なんて、おかしなことをカーティス大尉が言っていた。

「お父様は軍で働いていたから、軍用犬の仔犬を連れ帰ってきたりしたのかしら?」

 ……そうだ、真っ黒で毛が短く、耳が垂れて尻尾も細くて、すごーく可愛かった、あの仔犬。……動き回るリジーを目で追って、エルシーが遠い記憶をたどる。確かに特徴は似ている気がする。でも――。

 と、リジーが気配に気づいて、エルシーを振り向き、嬉しそうに尻尾を振って、ハッハッと息を荒げて駆け寄ってきた! まるで獲物を見つけた猟犬! というか、獲物はもしかして、わたし? エルシーが思わずぎくりとする。――ぜんっぜん、可愛くない! むしろ食われそう!

「ガウガウガウ……」 
「……こんな獰猛そうな犬になるなんて、ちょっとあり得ないわ……」

 エルシーが呟くが、リジーはエルシーのひざ元に這い上がって、ハッハッと長い舌を出して圧し掛かってくる。細い尻尾は千切れんばかりだ。

「お行儀悪いわよ? お腹空いたの? 待ってね、わたし犬のお食事なんて作ったことないから……」

 エルシーがリジーを叱ると、リジーはエルシーから離れ、尻尾を振って期待の籠った顔で見上げてくる。エルシーはキッチンの戸棚からメアリーが焼いたビスケットを数枚、皿に盛り、ついでに魔法瓶のお湯でお茶を淹れ、キッチンの折り畳みテーブルに置き、スツールに腰を下ろす。リジーはその横でおとなしくお座りして待っている。……尻尾は相変わらず振り切れそうだけど。

「このビスケットはお砂糖控えめだから、ワンちゃんでも大丈夫と思うけど……」

 エルシーはビスケットを割り、半分を自分で齧りながら、半分をリジーの口元に近づけると、リジーがぱくりと一口に食べてしまう。

「もう食べたの? 大きなお口だこと」

 そう言って、エルシーはリジーの黒い、短くて艶やかな毛を撫でてやる。その手触りにも、なんとなく覚えがある気がする。まあでも、短毛種の手触りなんて、みんな同じようなものよね?

「うーん……もし、あの仔犬がリジーだとしたら、わたしが飼ってたの、ずいぶんと昔よね? もう十年以上前じゃない?」

 確実に十歳は越えているが、犬は人間より寿命が短いから――。

「……そう言えば軍用犬は引退って言ってたわね。もしかして、リジーお前、もうお爺さんなの?」

 ビスケットを差し出しながら言えば、今まで嬉しそうにしていたリジーがムッとしたようにグルグルと唸り、「ワン、ワン」と抗議するように吠えた。……爺さんじゃない、失礼な。そんな風に言っているみたい。この犬は人間の言葉がわかるのかしら?

 ほとんどすべてのビスケットがリジーのお腹に入ってしまうと、今度は、エルシーが飲んでいるお茶のカップをじっと見つめる。

「……もしかして、喉乾いた?」

 リジーが水やミルクを飲む器を準備しないと、とエルシーが考え込んでいると、リジーが「ワン!」と吠えた。

「え?早くしろって?」
「ワン、ワン!」

 リジーはエルシーの手元のカップをずっと見つめていて、まるで俺にもお茶を飲ませろと言っているようだ。

「いや、だめよこれは。犬はお茶なんて飲まないでしょ」
「ワン、ワン、ワン、ワン!」
「ええ、ちょっと、だめよ、リジー!」

 リジーはテーブルに前脚をかけ、カップに長い鼻面を突っ込みかねない。エルシーはカップを倒されたらたまらないと思い、カップを両手に持って、リジーの鼻先に差し出してやると、長い舌でぴちゃぴちゃと美味そうに飲んでしまった。嘘でしょ、犬がお茶を飲むなんて!

「……あなた、本当に犬なの?」

 しかし、お茶を飲み干し、満足そうに長い舌で口の周りを舐めている姿は、どこからどう見ても獰猛なドーベルマン犬で……。
 
「まあいいわ。今日の夕食は――犬や猫はタマネギは食べられないから、タマネギ抜きのミルクスープね」

 リジーはわふーんと、なんとなく不満そうに吠える。俺はタマネギも平気だ、と言ったように聞こえたが、エルシーは気のせいだと思って無視することにした。




 夕食を終え、エルシーは戸締りと火の元を確認し、ランプを手に二階の自室に向かう。当たり前のようにリジーが後をついて、軽快に階段を上ってくる。

 ハッハッハッハッ……

 相変わらず息が荒い。
 エルシーが自室のドアを開けると、リジーが横をすり抜け、真っ先に飛び込んでいき、ぴょんっとベッドの上に乗った。

「こら! ダメよ! ベッドの上はだめ!」
「きゅぅーん」
「甘えた声を出したって、獰猛な見かけは変わりません! あなたは下! 言うことを聞かないなら、部屋から追い出すわよ」

 エルシーが叱ると、リジーは耳を垂らして不満そうにベッドから降りる。今度は狭い部屋の中をくんかくんかと嗅ぎまわり始めた。

「リジー、落ち着いて」

 エルシーはランプをベッドのサイドテーブルに置き、枕の横に畳んでおいてある寝間着ネグリジェに着替えようとブラウスとスカートを脱ぐ。……ふと目線を感じれば、リジーが金色の目を爛々らんらんとさせて、エルシーの着替えを見つめていた。相変わらず荒い呼吸つき。エルシーはなんだか、変質者に見つめられているような気分になり、リジーに命じる。

「レディの着替えを見るなんて失礼よ、あっちを向いて」
「ワン!」

 返事だけは素晴らしいのだが、リジーは嬉しそうに尻尾を振るだけだ。リジーがオスであることは確認済みなので、エルシーはもう一度命ずる。

「リジー、あっち向いて」
「くう~ん」

 不満そうに顔を伏せるのを確認してから、エルシーは服を脱ぎ、薄い木綿の寝間着を着る。そうしてベッドの上掛けをめくって中に滑り込んで、手を伸ばしてランプを消せば、部屋は真っ暗になった。

「おやすみ、リジー」

 明日はリジーと一緒に仕事に行き、早退しておばあ様のお見舞いに行って、それから……

 それにしても、どうあってもわたしがリジーを預からないといけない事情って、いったい何なのかしら……


 たくさんのことがあって疲れていたエルシーは、すぐに眠りに落ちた。
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