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3、開戦に向けて
〈魔女〉
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カンダハルへの侵攻を目前に控え、膨大な事務仕事に忙殺される恭親王の背後に、ある夜、カイトが音もなく降り立つ。恭親王がサインをする手を止めると、カイトがひそやかに言った。
「――殿下、見ていただきたいものがあるのです」
「なんだ、またか?」
「ルルの証言から、産婆の〈シーラ〉……つまり〈エイダ〉がソリスティアで連絡を取っていた〈産婆〉を確保したのですが」
それを聞いて恭親王が少しだけ考えてから、言った。
「――ああ、あの、いつでも適当な胎児を用意できるとかいう、産婆のことか」
「はい。なぜか呪術の発動する禁止要件にひっかかるので、これまで聞けなかったのですよ」
要するにただの〈産婆〉ではない、ということだ。
「ソリスティアの裏社会では、〈魔女〉だと通っている婆さんでした」
恭親王が夜の総督府を地下牢へと向かう途中、恭親王の耳にしか聞こえない特殊な喋り方で、カイトが説明する。
「産婆というか、一種の薬師ですね。堕胎薬や、妊娠しやすくする薬、媚薬なんかを特に扱っていたようです」
「――〈黒影〉の一人だったのか?」
「〈黒影〉の組織については、ルルもよく把握していないのです。なにせ、下っ端ですのでね。〈黒影〉よりも偉いと、ルルは言っていました」
「話は聞けたのか?」
「ダメでした。刺青がないので、解呪しようもないし」
「刺青があっても、もう嫌だってば」
刺青があれば、婆さんだろうが何だろうが、カイトは平気で無茶を要求する。恭親王は無意識に背筋を震わせる。かつては年増もデブもどんとこいの守備範囲の広さを誇ったが、その頃の彼でも老婆は無理だった。
「……わかっています。かなりの術を使うようで、すんでのところで周囲を巻き込んで自爆されるところでした。配下の一人が咄嗟に心臓を突き刺して、自爆はギリギリで止められたのですが、生きて捕えることができませんで……。しかし、その屍に問題があって」
「死体に?」
想像もつかなくて、恭親王はただ、カイトの言うままに地下牢へと向かう。
地下牢では、カイトの配下の者が見張りのように、木の寝台に横たわる大柄な人物の横に立っていた。白い布がかけられているが、はみ出ている髪は朱色――イフリート家の色だ。だがかなりの年嵩なのか、幾筋もの白髪が混じっている。
「ずいぶんとガタイのいい婆さんだな」
恭親王が見たままの感想を漏らすと、カイトが言った。
「ただのガタイのいいだけの婆さんならば、わざわざ殿下のご足労を願ったりはしません」
顎をしゃくると、横に立つ黒服の男が被せられた白い布をはがしていく。頬のこけた、鷲鼻の顔。相当な年齢なのか、顔には深い皺が刻まれ、肌には染みが浮いている。瞼は閉じられて、瞳の色はわからない。痩せて骨ばった上半身がさらされると、しぼんだ乳房が身体の両側に垂れている。無残に刺された傷痕が残る左胸に、〈黒影〉を表す刺青はない。――刺青があったら、大変なことになっていた。想像しただけで吐きそうだ。そしてなおも布が捲られて、恭親王の目にそれが飛び込んできた。
「!!……男、なのか」
「いえ……正確には違います。男でもあり、女でもある……というところでしょうか」
暗部の男が力なく垂れさがる男性器を持ち上げて脚の間を広げて見せると、そこには紛れもない女陰があった。急にこみ上げてきた恭親王は、慌てて口を押えて顔を背ける。胃が引き絞られるように、痛い。
「――ちょ、……無理、盥か何か……」
もう一人立っていた黒衣の男が汚い木のバケツを持ってきて、恭親王はそれに嘔吐した。ひとしきり吐いて、暗部の者の差し出す水で口をすすぎ、手巾で口を拭ってから、カイトに尋ねる。
「……これは、何なのだ?」
カイトがいつもの感情のない声で言う。
「泉神というのは、両性具有の神なのですよ。兄妹神で契って、互いへの執着のあまり一つになってしまった。かつて――〈禁苑〉の教えに下る以前の神殿は、男女交合をモチーフにした像があったそうですが、〈禁苑〉の教えを受け入れた際に、破廉恥だとして破棄されたそうですがね」
「……両性具有……」
恭親王は眉間に皺を寄せ、老婆の屍を視界に入れないように視線を逸らしているが、カイトは構わずに続けた。
「ルルが言うには、〈黒影〉において、彼――か彼女かは、大変に重んじられるのだと。何しろ、彼らはイフリートの血を享けていて、さらに完全に近いと――」
「完全――」
〈混沌〉とは、陰陽が未分化な状態。光と闇が分かたれず、茫洋としてすべてが混じり合った世界。男でもなく女でもなく、陰でもなく陽でもない者とは、まさしく無秩序の混沌そのもの――。
陰陽二元論の世界に生きてきた恭親王にとって、その両性具有者は生理的に受け入れられない存在であった。彼はそれ以上その場に留まることができず、逃げるように地下牢を立ち去った。
「――殿下、見ていただきたいものがあるのです」
「なんだ、またか?」
「ルルの証言から、産婆の〈シーラ〉……つまり〈エイダ〉がソリスティアで連絡を取っていた〈産婆〉を確保したのですが」
それを聞いて恭親王が少しだけ考えてから、言った。
「――ああ、あの、いつでも適当な胎児を用意できるとかいう、産婆のことか」
「はい。なぜか呪術の発動する禁止要件にひっかかるので、これまで聞けなかったのですよ」
要するにただの〈産婆〉ではない、ということだ。
「ソリスティアの裏社会では、〈魔女〉だと通っている婆さんでした」
恭親王が夜の総督府を地下牢へと向かう途中、恭親王の耳にしか聞こえない特殊な喋り方で、カイトが説明する。
「産婆というか、一種の薬師ですね。堕胎薬や、妊娠しやすくする薬、媚薬なんかを特に扱っていたようです」
「――〈黒影〉の一人だったのか?」
「〈黒影〉の組織については、ルルもよく把握していないのです。なにせ、下っ端ですのでね。〈黒影〉よりも偉いと、ルルは言っていました」
「話は聞けたのか?」
「ダメでした。刺青がないので、解呪しようもないし」
「刺青があっても、もう嫌だってば」
刺青があれば、婆さんだろうが何だろうが、カイトは平気で無茶を要求する。恭親王は無意識に背筋を震わせる。かつては年増もデブもどんとこいの守備範囲の広さを誇ったが、その頃の彼でも老婆は無理だった。
「……わかっています。かなりの術を使うようで、すんでのところで周囲を巻き込んで自爆されるところでした。配下の一人が咄嗟に心臓を突き刺して、自爆はギリギリで止められたのですが、生きて捕えることができませんで……。しかし、その屍に問題があって」
「死体に?」
想像もつかなくて、恭親王はただ、カイトの言うままに地下牢へと向かう。
地下牢では、カイトの配下の者が見張りのように、木の寝台に横たわる大柄な人物の横に立っていた。白い布がかけられているが、はみ出ている髪は朱色――イフリート家の色だ。だがかなりの年嵩なのか、幾筋もの白髪が混じっている。
「ずいぶんとガタイのいい婆さんだな」
恭親王が見たままの感想を漏らすと、カイトが言った。
「ただのガタイのいいだけの婆さんならば、わざわざ殿下のご足労を願ったりはしません」
顎をしゃくると、横に立つ黒服の男が被せられた白い布をはがしていく。頬のこけた、鷲鼻の顔。相当な年齢なのか、顔には深い皺が刻まれ、肌には染みが浮いている。瞼は閉じられて、瞳の色はわからない。痩せて骨ばった上半身がさらされると、しぼんだ乳房が身体の両側に垂れている。無残に刺された傷痕が残る左胸に、〈黒影〉を表す刺青はない。――刺青があったら、大変なことになっていた。想像しただけで吐きそうだ。そしてなおも布が捲られて、恭親王の目にそれが飛び込んできた。
「!!……男、なのか」
「いえ……正確には違います。男でもあり、女でもある……というところでしょうか」
暗部の男が力なく垂れさがる男性器を持ち上げて脚の間を広げて見せると、そこには紛れもない女陰があった。急にこみ上げてきた恭親王は、慌てて口を押えて顔を背ける。胃が引き絞られるように、痛い。
「――ちょ、……無理、盥か何か……」
もう一人立っていた黒衣の男が汚い木のバケツを持ってきて、恭親王はそれに嘔吐した。ひとしきり吐いて、暗部の者の差し出す水で口をすすぎ、手巾で口を拭ってから、カイトに尋ねる。
「……これは、何なのだ?」
カイトがいつもの感情のない声で言う。
「泉神というのは、両性具有の神なのですよ。兄妹神で契って、互いへの執着のあまり一つになってしまった。かつて――〈禁苑〉の教えに下る以前の神殿は、男女交合をモチーフにした像があったそうですが、〈禁苑〉の教えを受け入れた際に、破廉恥だとして破棄されたそうですがね」
「……両性具有……」
恭親王は眉間に皺を寄せ、老婆の屍を視界に入れないように視線を逸らしているが、カイトは構わずに続けた。
「ルルが言うには、〈黒影〉において、彼――か彼女かは、大変に重んじられるのだと。何しろ、彼らはイフリートの血を享けていて、さらに完全に近いと――」
「完全――」
〈混沌〉とは、陰陽が未分化な状態。光と闇が分かたれず、茫洋としてすべてが混じり合った世界。男でもなく女でもなく、陰でもなく陽でもない者とは、まさしく無秩序の混沌そのもの――。
陰陽二元論の世界に生きてきた恭親王にとって、その両性具有者は生理的に受け入れられない存在であった。彼はそれ以上その場に留まることができず、逃げるように地下牢を立ち去った。
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