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伍、紫微炎上
七、
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承仁宮に幽閉の身である紫玲には、外の状況がわからない。
皇帝偉祥は麟徳殿に幽閉されていると言う。周囲には側仕えとして薛宝がついているというが、まだ十歳にもならぬ幼子である。安全に暮らしているのか、心配でならなかった。
伯祥は、自分たち母子をどうするつもりなのか――
なにしろ、紫玲の世間の評判は最悪だ。
息子の嫁だったのに、先帝を誘惑し、その晩節を汚した毒婦。
寵愛をかさに贅沢三昧し、皇后と皇太子を追い落とし、外戚の専横を止めもせず、叛乱を引き起こした傾国の淫婦。
幼帝の母后として垂簾聴政したが、従兄の蔡業にすべてを任せ、暴虐を許した。
最後の点については、紫玲も悪いとは思っていたが、ただの女である紫玲には、大臣たちの小難しい上奏文など読んでも理解できない。蔡業が外戚の立場を悪用し、裏であくどいことをしているのは薄々察していたけれど、罷免したところで他に登用すべき人材も知らない。余計なことをしてもさらに混乱を招くよりはと、何もできなかった。
何より、国など滅んでしまえばいいとさえ思っていた。
伯祥を虐げ、追い落とした先帝の威光も何もかも、地に堕ちればいいと――
紫玲はため息をつく。
叛乱が起き、都が賊軍の手に落ちた。
辱めを受けるよりは、偉祥とともに伯祥のもとに行こうと思っていた。
黄泉の国に伯祥はいないのなら、ならば紫玲はどこへ向かうべきなのか。
北稜節度使張敬源率いる叛乱軍が、皇宮を制圧してから二日。
掖庭宮の承仁宮に幽閉されている皇太后蔡氏のもとに、張敬源その人が現れた。
白銀に黒革の縁取りした明光鎧。黒い斗篷の裏地が深紅で、まるで血の色のようだと紫玲は思う。
大袖の白衫を重ねた薄藍色の斉胸襦裙で、長椅子に腰かけた紫玲は、御簾の向こうからそれを見ていた。
大股に踏み込んできた張敬源は、御簾が半ば下ろされている状態での対面に、露骨に眉を顰める。
「皇太后陛下の御前です。拝礼を」
御簾の前に立つ徐公公が張敬源を咎めれば、敬源は渋々、胸の前で拱手した。
「北稜節度使の張と申す。陛下にはこちらの詔勅に署名と印璽を頂戴したくまかり越した」
張敬源の背後から、副官らしい男が奏摺を手に進み出ようとするのを、徐公公が立ちはだかる。
「直接は無礼でしょう。太后娘娘には奴才よりお捧げいたします」
田舎の藩鎮から出てきた軍人たちは、高貴な婦人に対する礼法に慣れない。張敬源は面倒臭そうに眉を顰めたが、徐公公の言うままにさせた。
「よい、御簾を上げよ」
紫玲が命じれば、壁際に控えていた若い宦官が御簾の紐を操作した。スルスルと音もなく御簾が上がり、紫玲の姿が現れると、鎧姿の男たちが息を呑んだのがわかった。
張敬源が驚愕の眼を見開いて、紫玲を凝視する。
無礼な男だなと紫玲が目を眇め、徐公公がゴホンと咳払いして、張敬源はハッと我に返る。
紫玲は張敬源を無視して徐公公から奏摺を受け取り、白い優雅な手でそれを開いた。
「――陛下を、東宮に移すと?」
「我々としては伯祥殿下にご即位願いたいが、殿下がご承知くださらない。ただ、臨時の措置として、殿下が摂政監国の任に着くのは御同意いただいた。それゆえ陛下には東宮に退去していただく」
その命令に、皇太后として紫玲の署名と印璽をもらいに来たのであった。
この国で詔勅を下せるのは、皇帝もしくは皇太后のみ。徐公公が偉祥と紫玲を殺さないよう小細工をしたのは、二人がいなくなったら命令を下すものがいなくなり、権力の継承ができなくなるからだ。
――たしかに、目の前の張敬源という男、いかにも無骨な武人で、一から権力を奪取しようという性格の人間ではないらしい。
「わたくしも陛下ともに東宮に退去したいの」
紫玲が言えば、だが張敬源は冷たく首を振る。
「なりませぬ」
「なぜ?!」
聞き返す紫玲に、張敬源が一瞬、憐れむような表情でただ首を振った。
「……某からはよう、申し上げません。ですが、御尊顔を拝し奉って、だいたいの理由は察してござる」
今度は紫玲が怪訝な表情をするが、張敬源に早く署名と印璽を押せと催促され、仕方なく筆を執って名を書き入れ、徐公公に戻す。徐公公が運ばれてきた皇太后の御璽を両手で丁寧に押す。
署名捺印のなされた奏摺を受け取り、張敬源は一礼して下がっていった。
「傾国とはよく言ったもの。父と子で争うのもむべなるかな……」
ぽつりと漏らした一言は、誰にも聞かれずに後宮の空に溶けた。
皇帝偉祥は麟徳殿に幽閉されていると言う。周囲には側仕えとして薛宝がついているというが、まだ十歳にもならぬ幼子である。安全に暮らしているのか、心配でならなかった。
伯祥は、自分たち母子をどうするつもりなのか――
なにしろ、紫玲の世間の評判は最悪だ。
息子の嫁だったのに、先帝を誘惑し、その晩節を汚した毒婦。
寵愛をかさに贅沢三昧し、皇后と皇太子を追い落とし、外戚の専横を止めもせず、叛乱を引き起こした傾国の淫婦。
幼帝の母后として垂簾聴政したが、従兄の蔡業にすべてを任せ、暴虐を許した。
最後の点については、紫玲も悪いとは思っていたが、ただの女である紫玲には、大臣たちの小難しい上奏文など読んでも理解できない。蔡業が外戚の立場を悪用し、裏であくどいことをしているのは薄々察していたけれど、罷免したところで他に登用すべき人材も知らない。余計なことをしてもさらに混乱を招くよりはと、何もできなかった。
何より、国など滅んでしまえばいいとさえ思っていた。
伯祥を虐げ、追い落とした先帝の威光も何もかも、地に堕ちればいいと――
紫玲はため息をつく。
叛乱が起き、都が賊軍の手に落ちた。
辱めを受けるよりは、偉祥とともに伯祥のもとに行こうと思っていた。
黄泉の国に伯祥はいないのなら、ならば紫玲はどこへ向かうべきなのか。
北稜節度使張敬源率いる叛乱軍が、皇宮を制圧してから二日。
掖庭宮の承仁宮に幽閉されている皇太后蔡氏のもとに、張敬源その人が現れた。
白銀に黒革の縁取りした明光鎧。黒い斗篷の裏地が深紅で、まるで血の色のようだと紫玲は思う。
大袖の白衫を重ねた薄藍色の斉胸襦裙で、長椅子に腰かけた紫玲は、御簾の向こうからそれを見ていた。
大股に踏み込んできた張敬源は、御簾が半ば下ろされている状態での対面に、露骨に眉を顰める。
「皇太后陛下の御前です。拝礼を」
御簾の前に立つ徐公公が張敬源を咎めれば、敬源は渋々、胸の前で拱手した。
「北稜節度使の張と申す。陛下にはこちらの詔勅に署名と印璽を頂戴したくまかり越した」
張敬源の背後から、副官らしい男が奏摺を手に進み出ようとするのを、徐公公が立ちはだかる。
「直接は無礼でしょう。太后娘娘には奴才よりお捧げいたします」
田舎の藩鎮から出てきた軍人たちは、高貴な婦人に対する礼法に慣れない。張敬源は面倒臭そうに眉を顰めたが、徐公公の言うままにさせた。
「よい、御簾を上げよ」
紫玲が命じれば、壁際に控えていた若い宦官が御簾の紐を操作した。スルスルと音もなく御簾が上がり、紫玲の姿が現れると、鎧姿の男たちが息を呑んだのがわかった。
張敬源が驚愕の眼を見開いて、紫玲を凝視する。
無礼な男だなと紫玲が目を眇め、徐公公がゴホンと咳払いして、張敬源はハッと我に返る。
紫玲は張敬源を無視して徐公公から奏摺を受け取り、白い優雅な手でそれを開いた。
「――陛下を、東宮に移すと?」
「我々としては伯祥殿下にご即位願いたいが、殿下がご承知くださらない。ただ、臨時の措置として、殿下が摂政監国の任に着くのは御同意いただいた。それゆえ陛下には東宮に退去していただく」
その命令に、皇太后として紫玲の署名と印璽をもらいに来たのであった。
この国で詔勅を下せるのは、皇帝もしくは皇太后のみ。徐公公が偉祥と紫玲を殺さないよう小細工をしたのは、二人がいなくなったら命令を下すものがいなくなり、権力の継承ができなくなるからだ。
――たしかに、目の前の張敬源という男、いかにも無骨な武人で、一から権力を奪取しようという性格の人間ではないらしい。
「わたくしも陛下ともに東宮に退去したいの」
紫玲が言えば、だが張敬源は冷たく首を振る。
「なりませぬ」
「なぜ?!」
聞き返す紫玲に、張敬源が一瞬、憐れむような表情でただ首を振った。
「……某からはよう、申し上げません。ですが、御尊顔を拝し奉って、だいたいの理由は察してござる」
今度は紫玲が怪訝な表情をするが、張敬源に早く署名と印璽を押せと催促され、仕方なく筆を執って名を書き入れ、徐公公に戻す。徐公公が運ばれてきた皇太后の御璽を両手で丁寧に押す。
署名捺印のなされた奏摺を受け取り、張敬源は一礼して下がっていった。
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