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陸、一懐愁緒
四、
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伯祥が太輔摂政監国に就任し、幼帝は東宮に退去した。
張敬源を中心とする北稜藩鎮の軍事力は他を圧し、京師は落ち着きを取り戻しつつある。
幼帝は五日に一度、承仁宮に母を訪ねることを許され、親子の対面が叶う。ただし、面会には必ず、伯祥もしくは張敬源が同席するという条件をつけた。
「母上!」
輦から降りるのももどかしく、転がるように母の姿を求めて駆けだす幼帝を、宦官たちが慌てて追っていく。
「皇上! 勝手はなりませぬ!」
「偉祥! 走ってはだめ!」
皇太后も堂の廂まで出てきて、階を駆け上がってきた息子を抱き留める。
「母上! お会いしとうございました!」
「偉祥……」
子供らしい丸い頬を撫で、涙の雫を弾くように瞬きする紫玲の横顔を、伯祥は無言で見つめていた。その視線に気づいた紫玲がハッと顔を上げて伯祥と目が合う。不意に怯えたように視線を逸らし、息子を守るように抱きしめた。
「偉祥、辛いことはない?」
「母上にお会いできないことだけが、辛うございました。他はたいしたことはありません」
はっきりと言いきった息子をもう一度抱きしめ、その手を取って堂へと導いていく。伯祥も二人の後ろから堂に入った。
奥の長椅子に親子で並んで腰を下ろしてから、紫玲は伯祥を不安げに見る。
「私はただの監視だ。気にせずに話をすればよい」
「監視……」
「例えば我々に敵対する者がこの会見に紛れ込むようなことがないように」
紫玲が怪訝な表情で首を傾げ、伯祥は少しだけ笑って説明した。
「私が摂政として権力を握っているのは、名目的にだが皇太后がそれを命じているからだ。皇太后と皇帝を取り込んでしまえば、私を追い落とすことも不可能ではない」
「わたくしはそのようなことはいたしません」
紋切型に反論する紫玲に、伯祥が肩を竦める。
「例えば、陛下に刀を突きつけて脅されたら?」
紫玲が思わず、といった風に偉祥を抱き寄せ、伯祥を睨みつける。
「そんなこと……」
「二人を同じ場所に置くことは、危険を増す。離れてお住まい頂いているのは、我々の危険回避のためでもある」
伯祥や張敬源に代わって権力を奪取しようと思う者にとっては、皇太后と皇帝の身柄を確保することが一番の方法となる。どちらか片方を奪われても、片方を取り込んでおけば何とかなる。二人とも奪われれば万事休すである。
そこへ、侍女たちが食事の膳を運んできた。
徐公公が指図し、すぐに毒見役が目の前で一口ずつ食べていく。
「皇上のお好きな饂飩ですよ、冷めないうちに召し上がれ」
「はい、母上も!……それから、太輔どのも」
もちろん、伯祥の前の膳にも料理が並んでいる。伯祥は無言で頷いて、箸を手にした。
穏やかな母子の時間は早く過ぎて、南向きの廂にかかる日が西に傾くころ、皇帝が還御する時になった。
手を取り合って別れを惜しむ二人を急かすようにすれば、皇帝は階を下り、輦に乗る。帰りは張敬源の配下の兵が迎えに来ていた。
夕暮れの中を去っていく輦を見送り、紫玲がため息を零す。
そして、その場にいた伯祥に胡乱な目を向けた。
「――太輔殿は皇上とともにお帰りにならないのですか?」
「今日は公務を罷休にした故、こちらで過ごす」
「……なぜ?」
「女房の家で過ごして何が悪い」
紫玲が目を剥いた。
「伯祥さま?」
「ようやく、名前を呼んだな。忘れられたかと思ったぞ。私は、お前を離縁していないし、まだ夫婦だろう?」
紫玲が周囲を見回し、徐公公を探す。いちいち徐公公に頼る風なのも、気に入らなかった。
伯祥は長い脚で数歩、紫玲に近づくと、ふわりと抱き上げる。
「な!! 何を……」
「徐公公!」
すぐに徐公公が進み出て頭を下げる。
「御前に」
「帳台の支度はできているか」
「それはもう」
徐公公の返答に、紫玲が周囲を見回して慌てふためく。
「待って、まだこんな明るい時間に……」
だが伯祥はそれに構わず、ずんずんと奥に進んで寝室に入っていく。その周囲を徐公公がかいがいしく動いて扉を開けたり閉めたりし、最後は帳台の帳を掲げて二人が腰を下ろすのを助ける。
「何かお飲み物でも?」
「今はいい。喉が渇いた時のために水差しを用意しておいてくれ」
「かしこまりました」
徐公公が紫玲の背後に廻り、慣れた手つきで金釵や歩揺を外し、前櫛と笄を取り去る。ずるりと黒髪が流れ、命あるもののようにうねって、滑り落ちた。
それに興奮したらしい伯祥が紫玲を褥に仰向けに押し倒す。
「待って、それは……」
紫玲の抵抗も空しく、心得たように徐公公が紫玲の刺繍の履を脱がし、伯祥の烏皮靴をも脱がして足台の上に並べ、素早く帳を降ろした。
張敬源を中心とする北稜藩鎮の軍事力は他を圧し、京師は落ち着きを取り戻しつつある。
幼帝は五日に一度、承仁宮に母を訪ねることを許され、親子の対面が叶う。ただし、面会には必ず、伯祥もしくは張敬源が同席するという条件をつけた。
「母上!」
輦から降りるのももどかしく、転がるように母の姿を求めて駆けだす幼帝を、宦官たちが慌てて追っていく。
「皇上! 勝手はなりませぬ!」
「偉祥! 走ってはだめ!」
皇太后も堂の廂まで出てきて、階を駆け上がってきた息子を抱き留める。
「母上! お会いしとうございました!」
「偉祥……」
子供らしい丸い頬を撫で、涙の雫を弾くように瞬きする紫玲の横顔を、伯祥は無言で見つめていた。その視線に気づいた紫玲がハッと顔を上げて伯祥と目が合う。不意に怯えたように視線を逸らし、息子を守るように抱きしめた。
「偉祥、辛いことはない?」
「母上にお会いできないことだけが、辛うございました。他はたいしたことはありません」
はっきりと言いきった息子をもう一度抱きしめ、その手を取って堂へと導いていく。伯祥も二人の後ろから堂に入った。
奥の長椅子に親子で並んで腰を下ろしてから、紫玲は伯祥を不安げに見る。
「私はただの監視だ。気にせずに話をすればよい」
「監視……」
「例えば我々に敵対する者がこの会見に紛れ込むようなことがないように」
紫玲が怪訝な表情で首を傾げ、伯祥は少しだけ笑って説明した。
「私が摂政として権力を握っているのは、名目的にだが皇太后がそれを命じているからだ。皇太后と皇帝を取り込んでしまえば、私を追い落とすことも不可能ではない」
「わたくしはそのようなことはいたしません」
紋切型に反論する紫玲に、伯祥が肩を竦める。
「例えば、陛下に刀を突きつけて脅されたら?」
紫玲が思わず、といった風に偉祥を抱き寄せ、伯祥を睨みつける。
「そんなこと……」
「二人を同じ場所に置くことは、危険を増す。離れてお住まい頂いているのは、我々の危険回避のためでもある」
伯祥や張敬源に代わって権力を奪取しようと思う者にとっては、皇太后と皇帝の身柄を確保することが一番の方法となる。どちらか片方を奪われても、片方を取り込んでおけば何とかなる。二人とも奪われれば万事休すである。
そこへ、侍女たちが食事の膳を運んできた。
徐公公が指図し、すぐに毒見役が目の前で一口ずつ食べていく。
「皇上のお好きな饂飩ですよ、冷めないうちに召し上がれ」
「はい、母上も!……それから、太輔どのも」
もちろん、伯祥の前の膳にも料理が並んでいる。伯祥は無言で頷いて、箸を手にした。
穏やかな母子の時間は早く過ぎて、南向きの廂にかかる日が西に傾くころ、皇帝が還御する時になった。
手を取り合って別れを惜しむ二人を急かすようにすれば、皇帝は階を下り、輦に乗る。帰りは張敬源の配下の兵が迎えに来ていた。
夕暮れの中を去っていく輦を見送り、紫玲がため息を零す。
そして、その場にいた伯祥に胡乱な目を向けた。
「――太輔殿は皇上とともにお帰りにならないのですか?」
「今日は公務を罷休にした故、こちらで過ごす」
「……なぜ?」
「女房の家で過ごして何が悪い」
紫玲が目を剥いた。
「伯祥さま?」
「ようやく、名前を呼んだな。忘れられたかと思ったぞ。私は、お前を離縁していないし、まだ夫婦だろう?」
紫玲が周囲を見回し、徐公公を探す。いちいち徐公公に頼る風なのも、気に入らなかった。
伯祥は長い脚で数歩、紫玲に近づくと、ふわりと抱き上げる。
「な!! 何を……」
「徐公公!」
すぐに徐公公が進み出て頭を下げる。
「御前に」
「帳台の支度はできているか」
「それはもう」
徐公公の返答に、紫玲が周囲を見回して慌てふためく。
「待って、まだこんな明るい時間に……」
だが伯祥はそれに構わず、ずんずんと奥に進んで寝室に入っていく。その周囲を徐公公がかいがいしく動いて扉を開けたり閉めたりし、最後は帳台の帳を掲げて二人が腰を下ろすのを助ける。
「何かお飲み物でも?」
「今はいい。喉が渇いた時のために水差しを用意しておいてくれ」
「かしこまりました」
徐公公が紫玲の背後に廻り、慣れた手つきで金釵や歩揺を外し、前櫛と笄を取り去る。ずるりと黒髪が流れ、命あるもののようにうねって、滑り落ちた。
それに興奮したらしい伯祥が紫玲を褥に仰向けに押し倒す。
「待って、それは……」
紫玲の抵抗も空しく、心得たように徐公公が紫玲の刺繍の履を脱がし、伯祥の烏皮靴をも脱がして足台の上に並べ、素早く帳を降ろした。
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