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陸、一懐愁緒
五、
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紫玲が目を覚ました時、すでにすっかり夜の帳が下りて、御帳台の向こうにはボンボリが灯されて薄明るい。身を起こすと、即座に伯祥の腕が伸びてきて抱き込まれる。
「きゃっ……」
「目が覚めたのか」
至近距離に伯祥の顔があって、紫玲が息を呑む。――黒い眼帯とその下の創に、つい目を逸らせば、伯祥が強引に口づけてきた。
「んんっ……」
しばらくそれを受け止めてから首を振れば、伯祥が唇を離し、ごろんと向きを変えて紫玲を仰向けにし、上から覗き込む。
「傷が気になるか?」
「……いつ、誰に?」
「火事の前に、孟祥が寄越した刺客にやられた」
紫玲の白い指が、そっと眼帯に触れる。
「痛みますか?」
「今はとくには。……代わりに文鎮で顔を潰してやった。その後で、私の衣服を着せて火を放った」
凄惨な話に、紫玲が身を震わせる。
「……私が、死んだと思って、それで父上と寝たのか?」
「それは……」
紫玲が顔を背ける。白く細い頸筋に、伯祥が唇を這わせた。
「あなたの、命乞いをしろと言われたから……」
「それで、私は獄から出ることできたのだな。だが、孟祥はそれが不満で、刺客を寄越した」
「死んだと知って……でも、お腹にあの子が……」
伯祥が大きな手を滑らせ、紫玲の腹を撫でる。
「私はお前を恨んだ。……比翼連理の誓いを捨てて父上の子を孕み、皇后になった。すべてを父上に捧げて、私のことなど忘れ去ったかと」
「そんな……ことは……」
紫玲が大きな目を開き、必死に首を振る。
「忘れたことは、一日も……でも……」
紫玲の耳元で、伯祥が囁いた。
「父上の方が、私より上手だったろう。……最初は、フリだったかもしれない。でも、お前の身体は父上に堕ちてしまった」
「ちがっ……そんな……」
慌てて否定しようとするその唇を、伯祥の唇が塞ぎ、咥内を蹂躙される。逃れようとその肩をおしやったら、伯祥が唇を離し皮肉な笑みを浮かべる。
「あの頃の私はお前しか知らず、未熟だった。激情のままにただ求めるだけで、お前に真の歓びを与えるまでにはいかなかった。それでも、無垢なお前は満足していくれていたように思ったが――」
「もうっ、やめてっ……そんなこと、言わないで、やめてッ……」
涙目で首を振る紫玲の肩口に顔を寄せて、伯祥がため息を零す。
「偉祥のことを知らなかったから、私はただ恨んで、嫉妬で狂いそうになっていた。お前が皇后になったと聞いた時に、もう、無理だと思った。お前が私を忘れたように、私もお前を忘れて、この、腸がねじれるような苦しみから逃れたいと思って、私は――」
伯祥が身を起こし、紫玲の上に圧し掛かって額に額を合わせ、腹の底から搾り出すように言った。
「私も、お前を裏切った」
その言葉に、紫玲が息を止めた。頬に残る涙の痕はまだ、乾かない。伯祥は続ける。
北辺の藩鎮の、異民族と対峙する最前線の北の砦には、兵士を慰めるための遊里がある。流れ者の多い兵士たちを追って、寄る辺のない女たちが色を売る。
紫玲は目の前の伯祥の顔を凝視した。
京師にももちろん妓楼はある。だが辺境の街の場末の妓楼で、仮にも皇子である伯祥がそんな卑しい女と――
「軽蔑するか?」
伯祥の端麗な顔には、皮肉な笑みが浮かんだままだ。左半面を覆い隠す眼帯と頬の創だけが、過去との懸隔を示している。
「場末の女だからって、女には違いがない。異民族の女も抱いたが、髪の色が違うだけで、どうということもなかった」
淡々と語る伯祥が紫玲の目尻に口づけ、涙を吸った。
「まあ二月も手当たり次第に抱けば、そのうちにお前を忘れられると思ったが、さらに苦しくなって……」
誰を抱いても、常に脳裏に紫玲を思い描いてしまう。今頃、父親に抱かれているだろう紫玲のことを考えてしまう。
紫玲以外では満たされない。心の空虚さが膨らむばかりで、腸のちぎれそうな嫉妬心も煮えたぎるばかり。
逃れられない宿命のように、紫玲を忘れることができないと気づいた伯祥は、父への反逆を決意したのだ、と。
「私はお前を取り戻すために、叛逆奢になると決めた。……父上に背く前に、父上が死んでしまったがな」
伯祥の告白を、紫玲は複雑な思いで聞いていた。
この人は、なぜ、そんな話をするのだろうか?
紫玲はその意図が理解できない。
伯祥が北辺で妓女を買っていたのは衝撃と言えば衝撃だが、紫玲を裏切ったとまで言えるだろうか?
なぜなら相手はただの、妓女。金のために肌を許す女たちとの、行きずりの関係に過ぎない。
妓楼で束の間の夢を見たところで、男はそれほどの非難など受けないだろう。
夫の父親に抱かれ続けた紫玲の罪には及ぶべくもないのに。
紫玲は伯祥から顔を背ける。
「紫玲?」
耳元で伯祥が問い、熱い息が耳朶にかかる。
「……そのようなお話、今さら聞かされても……」
何のためにそんな話を……
だが次の瞬間、紫玲の身体が強引に反転させられて、褥にうつ伏せに押し付けられる。伯祥の身体が上に圧し掛かって体重がかかり、肌と肌が密着して押しつぶされる。
「あう……重い、です……」
男の唇がうなじに触れ、強く吸い上げられる。チリリとした痛みに、紫玲が思わず身体を逸らした。その浮いた身体と褥の隙間に、男の手が入り込み抱きしめられる。
「私は、お前でないとだめだ。だから……お前を取り戻すために、私の色に染め直してやる」
紫玲の黒髪がずるりと滑って褥に広がり、蛇のようにうねる。やがてそれは荒々しく乱れて――
「きゃっ……」
「目が覚めたのか」
至近距離に伯祥の顔があって、紫玲が息を呑む。――黒い眼帯とその下の創に、つい目を逸らせば、伯祥が強引に口づけてきた。
「んんっ……」
しばらくそれを受け止めてから首を振れば、伯祥が唇を離し、ごろんと向きを変えて紫玲を仰向けにし、上から覗き込む。
「傷が気になるか?」
「……いつ、誰に?」
「火事の前に、孟祥が寄越した刺客にやられた」
紫玲の白い指が、そっと眼帯に触れる。
「痛みますか?」
「今はとくには。……代わりに文鎮で顔を潰してやった。その後で、私の衣服を着せて火を放った」
凄惨な話に、紫玲が身を震わせる。
「……私が、死んだと思って、それで父上と寝たのか?」
「それは……」
紫玲が顔を背ける。白く細い頸筋に、伯祥が唇を這わせた。
「あなたの、命乞いをしろと言われたから……」
「それで、私は獄から出ることできたのだな。だが、孟祥はそれが不満で、刺客を寄越した」
「死んだと知って……でも、お腹にあの子が……」
伯祥が大きな手を滑らせ、紫玲の腹を撫でる。
「私はお前を恨んだ。……比翼連理の誓いを捨てて父上の子を孕み、皇后になった。すべてを父上に捧げて、私のことなど忘れ去ったかと」
「そんな……ことは……」
紫玲が大きな目を開き、必死に首を振る。
「忘れたことは、一日も……でも……」
紫玲の耳元で、伯祥が囁いた。
「父上の方が、私より上手だったろう。……最初は、フリだったかもしれない。でも、お前の身体は父上に堕ちてしまった」
「ちがっ……そんな……」
慌てて否定しようとするその唇を、伯祥の唇が塞ぎ、咥内を蹂躙される。逃れようとその肩をおしやったら、伯祥が唇を離し皮肉な笑みを浮かべる。
「あの頃の私はお前しか知らず、未熟だった。激情のままにただ求めるだけで、お前に真の歓びを与えるまでにはいかなかった。それでも、無垢なお前は満足していくれていたように思ったが――」
「もうっ、やめてっ……そんなこと、言わないで、やめてッ……」
涙目で首を振る紫玲の肩口に顔を寄せて、伯祥がため息を零す。
「偉祥のことを知らなかったから、私はただ恨んで、嫉妬で狂いそうになっていた。お前が皇后になったと聞いた時に、もう、無理だと思った。お前が私を忘れたように、私もお前を忘れて、この、腸がねじれるような苦しみから逃れたいと思って、私は――」
伯祥が身を起こし、紫玲の上に圧し掛かって額に額を合わせ、腹の底から搾り出すように言った。
「私も、お前を裏切った」
その言葉に、紫玲が息を止めた。頬に残る涙の痕はまだ、乾かない。伯祥は続ける。
北辺の藩鎮の、異民族と対峙する最前線の北の砦には、兵士を慰めるための遊里がある。流れ者の多い兵士たちを追って、寄る辺のない女たちが色を売る。
紫玲は目の前の伯祥の顔を凝視した。
京師にももちろん妓楼はある。だが辺境の街の場末の妓楼で、仮にも皇子である伯祥がそんな卑しい女と――
「軽蔑するか?」
伯祥の端麗な顔には、皮肉な笑みが浮かんだままだ。左半面を覆い隠す眼帯と頬の創だけが、過去との懸隔を示している。
「場末の女だからって、女には違いがない。異民族の女も抱いたが、髪の色が違うだけで、どうということもなかった」
淡々と語る伯祥が紫玲の目尻に口づけ、涙を吸った。
「まあ二月も手当たり次第に抱けば、そのうちにお前を忘れられると思ったが、さらに苦しくなって……」
誰を抱いても、常に脳裏に紫玲を思い描いてしまう。今頃、父親に抱かれているだろう紫玲のことを考えてしまう。
紫玲以外では満たされない。心の空虚さが膨らむばかりで、腸のちぎれそうな嫉妬心も煮えたぎるばかり。
逃れられない宿命のように、紫玲を忘れることができないと気づいた伯祥は、父への反逆を決意したのだ、と。
「私はお前を取り戻すために、叛逆奢になると決めた。……父上に背く前に、父上が死んでしまったがな」
伯祥の告白を、紫玲は複雑な思いで聞いていた。
この人は、なぜ、そんな話をするのだろうか?
紫玲はその意図が理解できない。
伯祥が北辺で妓女を買っていたのは衝撃と言えば衝撃だが、紫玲を裏切ったとまで言えるだろうか?
なぜなら相手はただの、妓女。金のために肌を許す女たちとの、行きずりの関係に過ぎない。
妓楼で束の間の夢を見たところで、男はそれほどの非難など受けないだろう。
夫の父親に抱かれ続けた紫玲の罪には及ぶべくもないのに。
紫玲は伯祥から顔を背ける。
「紫玲?」
耳元で伯祥が問い、熱い息が耳朶にかかる。
「……そのようなお話、今さら聞かされても……」
何のためにそんな話を……
だが次の瞬間、紫玲の身体が強引に反転させられて、褥にうつ伏せに押し付けられる。伯祥の身体が上に圧し掛かって体重がかかり、肌と肌が密着して押しつぶされる。
「あう……重い、です……」
男の唇がうなじに触れ、強く吸い上げられる。チリリとした痛みに、紫玲が思わず身体を逸らした。その浮いた身体と褥の隙間に、男の手が入り込み抱きしめられる。
「私は、お前でないとだめだ。だから……お前を取り戻すために、私の色に染め直してやる」
紫玲の黒髪がずるりと滑って褥に広がり、蛇のようにうねる。やがてそれは荒々しく乱れて――
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