破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂

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陸、一懐愁緒

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 数日後、承仁宮を張敬源が訪れた。城内は落ち着いているので、彼は甲冑を脱ぎ、赤い武官の袍を纏っていて、それはそれで実直な武人に見えた。

「蔡業の処刑への許可を取りにまいった」

 死罪は、皇帝の許可がないと下せない。

「太輔殿ではダメなのですか?」
「摂政は皇帝陛下の代理。一応皇帝陛下の印璽も必要になる。太輔殿は幼い陛下に死罪の詔勅を下させたくないと仰っている」    

 皇太后は皇帝とは別に詔勅を下すことができる。それで、張敬業は紫玲のもとに来たのだ。
 紫玲はため息をつき、徐公公に指図して詔勅を受け取らせ、署名をする。
 詔勅を受け取た張敬源が少しためらってから、言った。

「お願いを聞いていただくことはできますか」
「あなたの?」

 張敬源が頷くので、紫玲は徐公公を見、人払いを命じる。

「徐太監は同席させますが……」
「構いません。二人きりになったと後に知られた方が恐ろしい」

 張敬源が言い、宦官と侍女が下がって、堂内には紫玲と張敬源、そして徐公公だけになる。
 徐公公が紫檀の椅子を運んでくる。

「座ってください」
「失礼する」

 腰を下ろすと、張敬源が口を開いた。

「我々は、太輔殿の即位を望んでいる」
「……そうですか」

 紫玲は少し考えて、言った。

「わたくしは偉祥をどうしても皇帝のままでいさせたいわけではありません。安全が保障されるなら、御位を譲ってもいいかと――」
「太輔殿が即位し、改めて皇后を娶り、後宮を営む。これが一番、正常な状態だと考える」

 ゴクリ、と紫玲が唾を飲み込んだ。
 伯祥が即位して皇帝になれば、皇后以下、後宮を備えることになるだろう。
 張敬源がじっと、紫玲を見た。

「だが、太輔殿はあなた以外の女は必要ないと言い張る。あなたを皇后にできないなら、皇帝にならないと。先帝の皇后であり皇太后であるあなたを、次の皇帝の後宮に入れるのは、無茶だ」
「そうでしょうね」

 父の妻を息子が娶る承継婚レヴィレートは、異民族にはよくある習俗だが、中原では忌む。まして息子の妻を父が奪い、その後、父親の死後に取り戻すなど、国の恥以外の何物でもない。

 張敬源は紫玲に対し、穏便に退場を促してきたのだ。

「偉祥の安全が確保されるなら、皇宮を去るのもやぶさかではありません。わたくしは郊外の寺に入っても――」

 紫玲の答えに、張敬源が立ち上がり、片膝をついて拱手した。

「感謝します」

 立ち上がって去っていく張敬源の後ろ姿を見送っていると、徐公公が言った。

「伯祥殿下がお認めになるとは思えませぬ」
「以前から考えていたの。出家して罪を償いたいと……」
「娘娘……」

 徐公公が紫玲の足元に膝をつき、その白い手を取る。

「あなたさまに罪などございません!」
「いいえ、あるわ……」

 徐公公が指先に口づける。

「あなたさまの罪はすべて、奴才が持って参りますですから――」  

 その時、乱暴な足音とともにバタンと木扉が開き、伯祥が駆け込んできた。

「紫玲! 敬源が来たと――」

 紫玲の足元に跪く徐公公が、その白い指先に口づける姿を目にして、伯祥が凍り付く。

「伯祥さま……?」
「徐太監、何をしている!」

 徐公公が紫玲の手を離し、立ち上がって深く頭を下げた。

「いらっしゃいませ。何事でございましょう」

 二人の間のただならぬ様子を目にして、伯祥が不快げに眉を顰めた。

「張将軍であれば、娘娘と皇上の退位をお勧めにいらっしゃいました」
「なんだと?」

 伯祥は紫玲の隣に腰を下ろすと、さっきまで徐公公が口づけていた手を取り、指先を口に含む。

「ほまへはははひほほほは」
「は?」

 伯祥が口から指を離し、もう一度言う。

「お前はわたしのものだ」              
「伯祥さま……」
「以前から、太監と距離が近すぎると思っていた」
「誤解です。それに奴才は宦官でございますし」

 徐公公が言えば、伯祥は眉間に皺を寄せた。

「宦官じゃなかったら殺している」
「伯祥さま……」

 過激な言辞に紫玲がため息をついた。

「わたしを皇后にできないから、皇帝にならないとおっしゃったとか」

 伯祥が頷く。

「私の妻はお前ひとりだ。そう、誓った」
「わたしはもう、あなたとの誓いを破っております。あなた一人がいつまでも拘泥なさるものではありません」
「私に、他の女を娶れと?」

 悪鬼のような表情で睨みつけられて、紫玲は一瞬、怯んだが、強いて心を強く持ち、言った。

「偉祥を自分の子と認めることができないなら、あなた自身の御子も必要でしょう」
「お前が生めばいい」
「わたしはもう、孕めません」

 はっきり言い切った紫玲に、伯祥が目を剥く。

「どういうことだ?」

 徐公公に目で問えば、進み出て頭を下げた。

「四年前に流産なさいまして……その折に」
「流……産……父上の、御子をか?」

 紫玲が伯祥の耳元に口を寄せ、小声で囁くように言った。

「毒を呑んだのですよ。それで流産して、皇太子の贈った菓子を食べたせいだと讒言した」

 目を見開く伯祥に、紫玲がわずかに口角を上げた。

「まさか、孟祥が廃位されたのは……」
「……わたしが恐ろしくなりました? あなたが生きていると知っていたら、そこまではしなかったでしょうが……罪のない腹の子にひどい母親もあったもの」

 団扇で顔を隠しながら自嘲する紫玲を、伯祥が抱き寄せる。

「知らなかった。……なぜ、そんな無茶を。一歩間違えはお前の命だって……」

 そこまで言いかけて、伯祥を徐公公を詰る。

「お前がついていながら! なぜ止めなかった!」

 徐公公が両膝をつき、深く頭を下げる。

「止めました! ですが止めきれませず、奴才の罪であります!」
「わたしが無理に押し切ったのです。徐公公を責めないで」

 紫玲が伯祥に縋り、首を振る。

「本当は、死にたかったのかもしれない。……罪の子を産んではいけないと思ったの。だから……」

 紫玲の目に涙が溜まり、目尻から零れ落ちる。

「紫玲……私は……」

 伯祥が紫玲の手を握り、それを自分の口元に当てる。

「すまなかった……私はお前の苦しみを理解もせず……」
「伯祥さまがお詫びなさることは何も……」   
「すまなかった……」

 伯祥はもう一度詫びを口にすると、紫玲の膝に突っ伏してしまう。大きな肩が微かに震えて、泣いているのだとわかった。  

「伯祥さま……?」

 なぜこの人が泣くのだろうと思いながら、紫玲はただ、その広い背中を撫で続けた。
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