武当女侠情剣志

春秋梅菊

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三十一 逃避行

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 翠繍を前にしては、言い争う余裕もなかった。何士慧を逃がしてやるしかない。
 身構えながら、掃把星へ叫んだ。
「早くしろ! 魔女が来る!」
 その一言で、翠繍も牢の錠をいじくりまわしている者がいるのに気づいた。すかさず銀鞭を舞わせると、掃把星めがけて叩きつける。
 その時、ガチャリと音を立てて錠が外れた。
 にっと笑った掃把星は「やるよ!」と、錠を振り向きざまに投げつける。意表を突かれた翠繍は即座に鞭の標的を変え、それを叩き落とした。驚きと怒りをこめて叫んだ。
「何者なの!」
「腕のいい盗人さ!」
 からから笑いながらも、飛んできた翠繍の第二撃を油断なくかわす。
 楊楓は形勢をはかった。こちらは四人だが、姉弟子は内功を失い、柯士慧も利き腕を断たれている。
 ――とにかく、師姐に逃げてもらわなくては。
 楊楓は掃把星が持ってきた桶を持ち上げると、翠繍に向かって投げつけた。銀鞭が鋭く跳ね上がり、やすやすと粉砕する。中に入っていた油が、洞窟の床一面へぶちまけられた。
「掃把星、逃げるぞ! 師姐を連れて行ってくれ!」
 そう叫ぶと、壁にかかっていた松明を掴み、油たまりへ放った。たちまち炎の波が広がる。
 翠繍が目を見張り、数瞬、攻撃の手が緩んだ。
 その虚を突いて、紅鴛を抱き抱えた掃把星が駆け出す。
「待ちなさい!」
 翠繍が追撃しようと銀鞭を振りかぶる。得物を持たない楊楓は、咄嗟に彼女の腰へ飛びつき、押し倒した。炎の壁越しに足を止めた掃把星へ叫ぶ。
「先に行け! 俺が食い止める」
 相手は微かに頷き、洞窟の外へ駆けていった。
 柯士慧の姿も既に無い。勝手に逃げだしたようだ。
 翠繍が力任せに楊楓を突き飛ばした。銀鞭は、押し倒された時に手放してしまい火の中だ。素手で襲いかかってきた。敵わぬとは思いつつ、楊楓も起き上がって迎え撃つ。
 たちまち、十手あまりをかわした。翠繍の技は武当のものではなかった。手筋は奇怪で動きも速い。楊楓は防ぎきれず、腰と右肩に掌打を食らった。
 ところが……痛みはそれほどなかった。内傷や毒を受けた感触も無い。
 ――なんだ? 掃把星と少しやり合っただけで消耗したわけでもないだろうに。
 訝りながら、さらに数手を交わす。
 今度ははっきりわかった。翠繍の動きが明らかに鈍くなっている。不意に小さな呻きを漏らすと、右手で口元を覆いながら後ずさる。
 それから堪えきれなくなって、激しく咳き込んだ。指の隙間から血が滴っていった。
 楊楓は心の中で喝采した。
 ――しめた! 連功を中断して出てきたから、内功が上手く制御出来ない状態なんだ。無理をおして戦ったから、身体に反動が来ているんだな。
 今なら自分でも勝てるかもしれない。にわかに闘志が強まり、今度は自分から仕掛けていった。翠繍はなおも右手で口元を抑えつつ、左袖を振るって防御をかためた。
 周囲の炎はますます激しさを増している。戦いを長引かせるのはどちらにとっても危険だった。
 楊楓は守りを捨て、一心不乱に攻め込んだ。
 ――今ここで、息の根を止めてやる! 師姐を苦しめた罪を贖わせてやる。武当の名を傷つけたことを後悔させてやる。俺が、必ず――。
 突如、視界がぐらついた。倒れそうになるのを、慌てて踏みとどまる。最初は、火と煙のせいで空気が薄まったからかと思った。
 しかし、そうではなかった。翠繍が右手を離し、血まみれの口元をにやりとさせた。
「引っかかったわね」
 弱々しいが、勝ち誇った声だ。
 楊楓の膝が、骨を失ったようにその場で崩れた。
 しまった。毒にやられた!
 翠繍は楊楓と戦いながら、それと悟られぬように袖から毒紛を撒いていたのだ。
 そのまま地べたに倒れた。力がまるで入らない。声も出ない。意識だけははっきりしていた。
 視界の端で、翠繍が激しく咳き込むのが見えた。二度ばかり黒い血を吐き出し、がっくり膝を着くと、喘いだまま立ち上がれなくなった。
 炎と煙が二人を囲み、徐々に逃げ場を奪っていった。


「……離して! 離しなさい!」
 紅鴛は、掃把星の腕の中でもがいていた。盗人が軽功を駆使し、飛ぶように景色が過ぎていく。もう洞窟から四、五里は離れただろうか。
 「おっ、ここがいいな」
 掃把星は、人気の無い古廟で足を止めた。戸を蹴破って中に入ると、蜘蛛の巣だらけの仏像、小振りな卓椅子、それから藁の山があった。
 紅鴛は投げ出されて、藁の上に落ちた。内功が失われ、殆ど力が出てこない。それでも懸命に起き上がり、廟から逃げようとした。
 掃把星がげらげら笑いながら跳躍して、行く手を阻む。紅鴛は相手をどけようとしたが、あっさり腕を掴まれ、ひねり上げられた。痛みに呻きが漏れた。
「ははは! 武当次期掌門の腕前は大したもんだな! たった一手でこの有様ときた」
 紅鴛を蹴倒すと、懐から縄を取り出した。片腕にもかかわらず、慣れた手つきであっという間に彼女を後ろ手に縛り上げる。
 再び藁の上に投げ出されながら、紅鴛は歯ぎしりした。一難去ってまた一難。こんな悪党の手を借りるだなんて、楊師弟も思慮が無い!
 武功は失われ、悪党の好き放題にされるくらいなら、死んだ方がましだ。
 紅鴛は舌を思い切り噛もうとした。ところが、目聡い掃把星が素早く布の切れ端を彼女の口へ突っ込んできた。
「おーっとっと……そんな真似は困るぜぇ。あんたには大事な商売道具を奪われたんだ。たっぷり恩返しさせてもらわなきゃな……」
 腕の無い袖をゆらゆら振りながら、盗人は愉快そうに笑った。


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