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*十九 真珠のお守りと、明らかになった事
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「南海に鎮圧に行く?」
ある朝、朝餉を取っていると、渡津海が難しい顔をして、『南海の方に出向こうと思う』と言い出した。
渡津海の役割は多岐に渡るが、なかでも海の中の平穏を保つ役割は大きい。例えば、種族内、種族ごとの縄張り争いがあれば、それを鎮めに行かなくてならないこともあると言う。
「神通力を使って、ここからではできないの?」
『出来ぬこともないが、遠隔でのそれはかなり気力体力の消耗が激しい。儂とて常に全知全能とは限らぬし、儂が直接出向くことで早く事が治まることもある』
「そうなんだ……」
海璃なりに渡津海の役割の大切さや大変さを理解しているつもりではあったが、竜宮に来て以降、渡津海が現場に出向いてまで鎮圧をしなくてはならない事案はほとんどなく、その多くが竜宮にいながらの神通力でのそれだった。
だけど今回はそうではなく、より大事のようだと言うのだ。海璃はかつてない事態に不安が隠せない。自分がそんなところについて行ったところで、何の役に立てるかわからないからだ。
『海璃は、家に居れ』
そんな海璃に胸中を見透かしたように、渡津海からそう告げられ、海璃は一瞬ほっと息をつく。しかし同時に、新たな不安を覚える。竜宮に来て以降、海璃は渡津海から片時も離れたことがないからだ。
「え、俺だけ、竜宮に残るの?」
『出向くのは儂一人だ。ムツが残るから、家のことや身の回りの心配はいらぬだろう』
「そうだけど……」
それはそうだとしても、拭いきれない不安が胸のまとわりついている。それを、いまここで吐露していいのかがわからない。そうしたところで、渡津海を困らせてしまう我儘になってしまうのは目に見えているからだ。
(渡津海がいない夜、俺、どうやって眠ればいいんだろう……一度だけのあの夜も、結局眠れないで寝台に忍び込んじゃったし……)
もう十七にもなるのに、海璃はひとりで眠ることができない。もっと言えば、竜宮の外を歩いたこともない。一時的にすげないような感じにされたこともあった気がしたが、隣にはいつも渡津海のたくましい大きな身体が、守るように寄り添っていてくれるから、どんな場所でも怖くもなかったし安心して眠れた。
その渡津海がいない。それも、いつ戻ると知れないほどの間ずっと。想像するだけで不安で胸が押しつぶされそうになる。
知らず知らずのうちに俯いていた海璃の手に、大きな渡津海のそれが重なる。『海璃』と、静かだが優しい声に呼ばれて顔をあげると、海璃が好きなあのひっそりとした笑みを湛えて渡津海がこちらを見つめている。
『初めて一人にしてしまうな……心許ないだろう、すまない』
「……うん」
『しかしな、このたび出向くところは、南海の中でも荒くれ者の鯱が縄張りを争う海だ。万一でもお前に傷一つつけられては……儂が平静を保てるかわからぬ。そうなってしまえば、辺り一面をどうしてしまうか……』
静かな口調で、海璃が考えもしなかった理由を語られ、驚きで海璃はうなずくこともできなかった。そんなにも、大変な場所に渡津海がひとりで出向くことも、自分は彼にとって単純に足手まといであることも。
しかし、ひとりで夜眠れない者など、足手まといになって当然かもしれない……という考えが過ぎり、海璃はキリキリと切なさで胸が痛むのを堪えながら、無理矢理に笑みを作り、渡津海の手をそっと押しやった。
「……わかった。俺、ムツと竜宮で留守番してる。夜はちょっと怖いけど……」
気丈に振る舞いつつも、ちいさく本音を漏らす海璃に、渡津海はほどかれた手を着物の袷に忍ばせ、懐から何かを取り出す。それは、海璃の子指の爪ほどの大きさの真珠の耳飾りだった。
『これを、海璃にやろう。お守りだ』
「お守り?」
『何か、どうしても耐え難いことがあったら、これに念じて儂の名を呼べ。どこへ居ても、駆け付ける』
そう言いながら、渡津海は海璃の形のいい右の耳たぶにそれをつける。真珠色のやわらかな白が海璃の肌に溶けそうに輝いている。
海璃は今しがた施された耳元の小さな耳飾りに触れ、渡津海を見つめた。密やかな、それでいて確かに海璃を見守っていてくれる安心感を、そこに感じた。
「ありがと、渡津海」
『これの力を使う必要がないほどに、なるべく早く戻る。心配するな』
「……うん」
そうであってほしい、と海璃も願いながら、初めての贈り物らしい贈り物に、胸が小さくときめいていた。
そうして翌日早く、渡津海は南海の諍いの鎮圧へと出発していった。
海璃が寝台で目を覚ましたころにはすでに姿はなく、布団もすっかり冷え切っていて、海璃はそこを撫でて渡津海に不在を実感する。
朝はムツが海璃の好きなものばかりを用意してくれたが、ひとりきりで取る朝餉は味気なく、思ったほど食は進まなかった。
「ごめんね、ムツ……折角、用意してくれたのに……」
「いえいえ、ご主人様がいない食卓は寂しいですものね。残りはお昼にいただきましょうか」
「うん、そうする」
食事を終え、海璃は本殿の中にある書庫に向かう。本当は散歩に出たかったのだが、ムツの付き添いなしに竜宮を出てはいけないと、渡津海にもムツにも言われていたため、仕方なく書を読むことにしたのだ。
何十畳もある板張りの広い書庫には、何架もの本棚が整然と立ち並び、書物を読むための場所として、二客の椅子と卓が窓際に置かれている。その周りにも溢れんばかりの書物が置かれていて、海璃はその内の一冊を手に取る。
竜宮に来てから、海璃は渡津海に読み書きを習った。自分の名前すらなく、もちろん読むことも書くことも知らなかった海璃は、渡津海の手ほどきを受けながら海綿のようにその知識を吸収していった。お陰で、いまは陸の若い学者でも読むような書物であっても読み進めることができるほどだ。
「今日は……これにしようかな……」
おとぎ話の類いはほぼ読みつくしてしまっているため、この頃では渡津海が仕事で読み解く専門書なども海璃は読み始めている。今日は、その中でも海洋生物についての図録や記録を読むことにした。
一抱えほどある大きく分厚い図録を抱え、中庭に出てに大きな庭石に座って読み始める。図録はかなり古いもので、着色が色褪せているところも多いが、書き込まれている解説はとても詳しい。
「“ナヌカザメは、水から引き揚げても七日間生きる”……そうか、だから渡津海の手ぬぐいにはこのサメの柄が入ってるんだ……」
長細く、まだらの模様が入る手ぬぐいを、渡津海はいつも袂に忍ばせているのを、海璃は知っている。ただ気に入っているのだろうと思っていたが、生命力の強さのゲンを担いでいるのかもしれない。
他にも、タカアシガニなどの蟹の仲間や、海老の仲間などのページをじっくりと読み解いていく。幼い頃も、渡津海の膝に載せられて、仕事の合間に解説をしてもらったのだが、歳を重ねてから自分の目で読み解くと一層理解が深まる気がした。
渡津海は解説をしながら、『これは食える。これは獰猛だ。こいつは厄介な毒がある』という風にひと言、書物にはない解説もしてくれ、海璃には書物にはない言葉が何より楽しみだった。
書を読み進めていく内に、終盤の辺りで他の項目とは違い、一層古めかしいページに行き当たる。ページの紙もだいぶボロボロで、書き込まれている文字も薄いものが多い。
随分古いな……と、思いながら海璃はそれを開き――数ページ目あたりに描かれていた図説に手が停まった。
「え、これって……」
二ページにわたって大きく描かれていたのは、実在したと記されている人魚の図だった。それは雌の人魚らしく、曝されている人体の部分には膨らみのある胸部が見える。
長く垂らされた髪に、透き通るように美しい肌、大きな潤んだ瞳、愛くるしい口許や目鼻。姿かたちは美しく、海璃は一瞬それに見惚れていたのだが、そのわきに記された記載を目にした途端、息を呑んだ。
“古来より、人魚の肉は、食すと不老不死が得られると言われている。それは人魚の血をひく者のものであっても可能。その血縁が濃いほどに彼らは感情の昂ぶりで嵐を呼び起こすことができ――――”
人魚の血が海璃に流れているという話は、幼い頃に渡津海に少しだけされた記憶がある。しかしその程度がどれほどのものであるかは、わかっていない。
だがこの文面が正しいのであれば、海璃は感情の昂ぶりによって時化を起こすことがあることを考えると、かなり人魚の血が濃く流れているとも考えられる。
しかし、海璃が衝撃を受けているのはその文言ではなく、その前の、“人魚の肉は、食すと不老不死が得られる”という部分だ。
その時、ふと、先日の朝の会話を思い出す。神通力を使って、ここからではできないのか、と言う海璃の疑問に対する答えを思い返す。
『出来ぬこともないが、遠隔でのそれはかなり気力体力の消耗が激しい。儂とて常に全知全能とは限らぬ』
渡津海であっても夜は眠るし、食事もするのだから、そういうものなのかもしれないと、その時は漠然と考えていた。
だけどもし、それを防ぐなんらかの手立てを得ようとしているのだとしたら? そんな考えがちらりと過ぎる。例えば、特効薬のような――この文献にあるように、人魚の肉を欲しているのだとしたら?
「……まさか、渡津海がそんなこと……」
「あいつがどうかしたのかい?」
聞き慣れた声が聞こえ顔をあげると、ざんばらの灰色の髪に気流し姿のアザがにこやかに屋敷の高い塀を乗り越えてこちらにやってくるのが見えた。
海璃はアザの登場に弱く笑って応え、また手許の書物に目を落とす。やはりそこには、人魚の肉に関する記述がされている。
「海璃も随分難しいものを読むようになったもんだねぇ。何を読んでるんだい?」
どう答えればよいかと海璃が迷っている内に、傍まで歩み寄ってきたアザが、遠慮する様子もなく海璃の手も音の書面を覗き込む。そして、おや? という顔をして、思いがけないことを海璃に告げるでもなく呟いた。
「ああ、こいつはあいつの好物じゃないか」
「好物……渡津海、人魚、好きなの?」
海璃が驚きを禁じ得ない様子で問うと、アザは勿論だと言うように大きくうなずき、更にこうも付け加える。
「そりゃもう大好物なはずだよ。いまだって人魚を狩りに行ってるはずじゃないのか?」
「え……狩り……?」
「海の者は人魚嫌いが多いからね。海の安寧の為にはそういうやつらを狩らないといけないからね」
海の者は人魚を嫌うものが多い、と確かにいつだったか渡津海は言っていた気がする。
でも、だからと言って……渡津海が自ら出向いて狩ってしまうなんて思いもしなかった。
もしそうであれば、自分は幼い頃、人魚の血が流れているとわかった時点で食べられているはずではないだろうか、と海璃は考える。それからもう十数年もの間、ここで養われてきたのだから、それは考えにくいのではないだろうか、とも。何せ、じぶんは渡津海の仲間になるためにここに連れてこられたのだし。
そう考えた時、ふと、ある言葉が過ぎる。
『海璃がいまよりも成熟した時に、考えよう。いまはまだ、考えずとも良い』
仲間にしないのかと訊いたら、成熟してからだと言っていた。成熟とはどういうことなのか、と聞いても、渡津海は答えてくれなかった。
精通というものがあり、大人になっている証しだとも言われたが、だからと言ってそれ以上の何かがあったわけでもされたわけでもない。
「海璃? どうしたんだい、蒼い顔をして」
「……ううん、なんでもない」
アザの言葉と、渡津海の言動が重なっていく――いや、まさかそんなはずはない。慌てて海璃は過ぎる考えを打ち消すように頭を振る。
(俺が成熟したら……渡津海と、まぐわうんだったっけ……それって、もしかして……食べるってこと?)
まぐわいは性器と性器を交じり合うことだと、渡津海は言っていた。でも、それが具体的にどういうものなのか、海璃にはよくわかっていない。渡津海も、こうだと示してもくれなかった。
でももし、示してくれなかったのが……渡津海に何か思うところがあるのだとしたら?
もし例えば、まぐわうということが、性器や、性器から体全部を食べられてしまうことを指しているのだとしたら?
(つまり……まぐわったら……俺、渡津海に食べられちゃうってこと……?)
だから、渡津海は、海璃を怖がらせて拒まれないようにしているのだろうか?
ではもし、海璃がまぐわいを拒んだとしたら……海璃は、どうなってしまうんだろうか?
人魚の図解を開いたまま海璃は呆然とし、ふつふつと次から次に後からどんどん湧いてくる不安の泡に包まれていく。
「そうだ海璃、久しぶりにたかいたかいをしてやろうか?」
上の空な海璃の機嫌を取るように、アザが海璃の好きな遊びを――もう十七になるというのに――提案してくるが、海璃はそれに笑って応じる余裕もない。
まさか、そんなこと、あるわけがない……そう、信じたいのに、どうして強く言い切れないのだろう。渡津海が、海璃のことを、己の力欲しさに養ってきたなんて思えないはずなのに、どうして、それを全力で肯定できないのだろう。
だけどもし、自分の成熟がまぐわいにおいて重要な意味を持つというのなら……
そんな考えが浮かび、海璃は慌てて首を横に振って打ち消す。
「……そんなこと、ない。渡津海は、そんなこと、しない……はず……」
震えそうな声で呟き、自分に言い聞かせるも、目の前の景色が重く沈んでいくのはどうしてなのか。図録に触れているはずの指先が冷たく、海璃は不安の泡に溺れそうになっていた。
ある朝、朝餉を取っていると、渡津海が難しい顔をして、『南海の方に出向こうと思う』と言い出した。
渡津海の役割は多岐に渡るが、なかでも海の中の平穏を保つ役割は大きい。例えば、種族内、種族ごとの縄張り争いがあれば、それを鎮めに行かなくてならないこともあると言う。
「神通力を使って、ここからではできないの?」
『出来ぬこともないが、遠隔でのそれはかなり気力体力の消耗が激しい。儂とて常に全知全能とは限らぬし、儂が直接出向くことで早く事が治まることもある』
「そうなんだ……」
海璃なりに渡津海の役割の大切さや大変さを理解しているつもりではあったが、竜宮に来て以降、渡津海が現場に出向いてまで鎮圧をしなくてはならない事案はほとんどなく、その多くが竜宮にいながらの神通力でのそれだった。
だけど今回はそうではなく、より大事のようだと言うのだ。海璃はかつてない事態に不安が隠せない。自分がそんなところについて行ったところで、何の役に立てるかわからないからだ。
『海璃は、家に居れ』
そんな海璃に胸中を見透かしたように、渡津海からそう告げられ、海璃は一瞬ほっと息をつく。しかし同時に、新たな不安を覚える。竜宮に来て以降、海璃は渡津海から片時も離れたことがないからだ。
「え、俺だけ、竜宮に残るの?」
『出向くのは儂一人だ。ムツが残るから、家のことや身の回りの心配はいらぬだろう』
「そうだけど……」
それはそうだとしても、拭いきれない不安が胸のまとわりついている。それを、いまここで吐露していいのかがわからない。そうしたところで、渡津海を困らせてしまう我儘になってしまうのは目に見えているからだ。
(渡津海がいない夜、俺、どうやって眠ればいいんだろう……一度だけのあの夜も、結局眠れないで寝台に忍び込んじゃったし……)
もう十七にもなるのに、海璃はひとりで眠ることができない。もっと言えば、竜宮の外を歩いたこともない。一時的にすげないような感じにされたこともあった気がしたが、隣にはいつも渡津海のたくましい大きな身体が、守るように寄り添っていてくれるから、どんな場所でも怖くもなかったし安心して眠れた。
その渡津海がいない。それも、いつ戻ると知れないほどの間ずっと。想像するだけで不安で胸が押しつぶされそうになる。
知らず知らずのうちに俯いていた海璃の手に、大きな渡津海のそれが重なる。『海璃』と、静かだが優しい声に呼ばれて顔をあげると、海璃が好きなあのひっそりとした笑みを湛えて渡津海がこちらを見つめている。
『初めて一人にしてしまうな……心許ないだろう、すまない』
「……うん」
『しかしな、このたび出向くところは、南海の中でも荒くれ者の鯱が縄張りを争う海だ。万一でもお前に傷一つつけられては……儂が平静を保てるかわからぬ。そうなってしまえば、辺り一面をどうしてしまうか……』
静かな口調で、海璃が考えもしなかった理由を語られ、驚きで海璃はうなずくこともできなかった。そんなにも、大変な場所に渡津海がひとりで出向くことも、自分は彼にとって単純に足手まといであることも。
しかし、ひとりで夜眠れない者など、足手まといになって当然かもしれない……という考えが過ぎり、海璃はキリキリと切なさで胸が痛むのを堪えながら、無理矢理に笑みを作り、渡津海の手をそっと押しやった。
「……わかった。俺、ムツと竜宮で留守番してる。夜はちょっと怖いけど……」
気丈に振る舞いつつも、ちいさく本音を漏らす海璃に、渡津海はほどかれた手を着物の袷に忍ばせ、懐から何かを取り出す。それは、海璃の子指の爪ほどの大きさの真珠の耳飾りだった。
『これを、海璃にやろう。お守りだ』
「お守り?」
『何か、どうしても耐え難いことがあったら、これに念じて儂の名を呼べ。どこへ居ても、駆け付ける』
そう言いながら、渡津海は海璃の形のいい右の耳たぶにそれをつける。真珠色のやわらかな白が海璃の肌に溶けそうに輝いている。
海璃は今しがた施された耳元の小さな耳飾りに触れ、渡津海を見つめた。密やかな、それでいて確かに海璃を見守っていてくれる安心感を、そこに感じた。
「ありがと、渡津海」
『これの力を使う必要がないほどに、なるべく早く戻る。心配するな』
「……うん」
そうであってほしい、と海璃も願いながら、初めての贈り物らしい贈り物に、胸が小さくときめいていた。
そうして翌日早く、渡津海は南海の諍いの鎮圧へと出発していった。
海璃が寝台で目を覚ましたころにはすでに姿はなく、布団もすっかり冷え切っていて、海璃はそこを撫でて渡津海に不在を実感する。
朝はムツが海璃の好きなものばかりを用意してくれたが、ひとりきりで取る朝餉は味気なく、思ったほど食は進まなかった。
「ごめんね、ムツ……折角、用意してくれたのに……」
「いえいえ、ご主人様がいない食卓は寂しいですものね。残りはお昼にいただきましょうか」
「うん、そうする」
食事を終え、海璃は本殿の中にある書庫に向かう。本当は散歩に出たかったのだが、ムツの付き添いなしに竜宮を出てはいけないと、渡津海にもムツにも言われていたため、仕方なく書を読むことにしたのだ。
何十畳もある板張りの広い書庫には、何架もの本棚が整然と立ち並び、書物を読むための場所として、二客の椅子と卓が窓際に置かれている。その周りにも溢れんばかりの書物が置かれていて、海璃はその内の一冊を手に取る。
竜宮に来てから、海璃は渡津海に読み書きを習った。自分の名前すらなく、もちろん読むことも書くことも知らなかった海璃は、渡津海の手ほどきを受けながら海綿のようにその知識を吸収していった。お陰で、いまは陸の若い学者でも読むような書物であっても読み進めることができるほどだ。
「今日は……これにしようかな……」
おとぎ話の類いはほぼ読みつくしてしまっているため、この頃では渡津海が仕事で読み解く専門書なども海璃は読み始めている。今日は、その中でも海洋生物についての図録や記録を読むことにした。
一抱えほどある大きく分厚い図録を抱え、中庭に出てに大きな庭石に座って読み始める。図録はかなり古いもので、着色が色褪せているところも多いが、書き込まれている解説はとても詳しい。
「“ナヌカザメは、水から引き揚げても七日間生きる”……そうか、だから渡津海の手ぬぐいにはこのサメの柄が入ってるんだ……」
長細く、まだらの模様が入る手ぬぐいを、渡津海はいつも袂に忍ばせているのを、海璃は知っている。ただ気に入っているのだろうと思っていたが、生命力の強さのゲンを担いでいるのかもしれない。
他にも、タカアシガニなどの蟹の仲間や、海老の仲間などのページをじっくりと読み解いていく。幼い頃も、渡津海の膝に載せられて、仕事の合間に解説をしてもらったのだが、歳を重ねてから自分の目で読み解くと一層理解が深まる気がした。
渡津海は解説をしながら、『これは食える。これは獰猛だ。こいつは厄介な毒がある』という風にひと言、書物にはない解説もしてくれ、海璃には書物にはない言葉が何より楽しみだった。
書を読み進めていく内に、終盤の辺りで他の項目とは違い、一層古めかしいページに行き当たる。ページの紙もだいぶボロボロで、書き込まれている文字も薄いものが多い。
随分古いな……と、思いながら海璃はそれを開き――数ページ目あたりに描かれていた図説に手が停まった。
「え、これって……」
二ページにわたって大きく描かれていたのは、実在したと記されている人魚の図だった。それは雌の人魚らしく、曝されている人体の部分には膨らみのある胸部が見える。
長く垂らされた髪に、透き通るように美しい肌、大きな潤んだ瞳、愛くるしい口許や目鼻。姿かたちは美しく、海璃は一瞬それに見惚れていたのだが、そのわきに記された記載を目にした途端、息を呑んだ。
“古来より、人魚の肉は、食すと不老不死が得られると言われている。それは人魚の血をひく者のものであっても可能。その血縁が濃いほどに彼らは感情の昂ぶりで嵐を呼び起こすことができ――――”
人魚の血が海璃に流れているという話は、幼い頃に渡津海に少しだけされた記憶がある。しかしその程度がどれほどのものであるかは、わかっていない。
だがこの文面が正しいのであれば、海璃は感情の昂ぶりによって時化を起こすことがあることを考えると、かなり人魚の血が濃く流れているとも考えられる。
しかし、海璃が衝撃を受けているのはその文言ではなく、その前の、“人魚の肉は、食すと不老不死が得られる”という部分だ。
その時、ふと、先日の朝の会話を思い出す。神通力を使って、ここからではできないのか、と言う海璃の疑問に対する答えを思い返す。
『出来ぬこともないが、遠隔でのそれはかなり気力体力の消耗が激しい。儂とて常に全知全能とは限らぬ』
渡津海であっても夜は眠るし、食事もするのだから、そういうものなのかもしれないと、その時は漠然と考えていた。
だけどもし、それを防ぐなんらかの手立てを得ようとしているのだとしたら? そんな考えがちらりと過ぎる。例えば、特効薬のような――この文献にあるように、人魚の肉を欲しているのだとしたら?
「……まさか、渡津海がそんなこと……」
「あいつがどうかしたのかい?」
聞き慣れた声が聞こえ顔をあげると、ざんばらの灰色の髪に気流し姿のアザがにこやかに屋敷の高い塀を乗り越えてこちらにやってくるのが見えた。
海璃はアザの登場に弱く笑って応え、また手許の書物に目を落とす。やはりそこには、人魚の肉に関する記述がされている。
「海璃も随分難しいものを読むようになったもんだねぇ。何を読んでるんだい?」
どう答えればよいかと海璃が迷っている内に、傍まで歩み寄ってきたアザが、遠慮する様子もなく海璃の手も音の書面を覗き込む。そして、おや? という顔をして、思いがけないことを海璃に告げるでもなく呟いた。
「ああ、こいつはあいつの好物じゃないか」
「好物……渡津海、人魚、好きなの?」
海璃が驚きを禁じ得ない様子で問うと、アザは勿論だと言うように大きくうなずき、更にこうも付け加える。
「そりゃもう大好物なはずだよ。いまだって人魚を狩りに行ってるはずじゃないのか?」
「え……狩り……?」
「海の者は人魚嫌いが多いからね。海の安寧の為にはそういうやつらを狩らないといけないからね」
海の者は人魚を嫌うものが多い、と確かにいつだったか渡津海は言っていた気がする。
でも、だからと言って……渡津海が自ら出向いて狩ってしまうなんて思いもしなかった。
もしそうであれば、自分は幼い頃、人魚の血が流れているとわかった時点で食べられているはずではないだろうか、と海璃は考える。それからもう十数年もの間、ここで養われてきたのだから、それは考えにくいのではないだろうか、とも。何せ、じぶんは渡津海の仲間になるためにここに連れてこられたのだし。
そう考えた時、ふと、ある言葉が過ぎる。
『海璃がいまよりも成熟した時に、考えよう。いまはまだ、考えずとも良い』
仲間にしないのかと訊いたら、成熟してからだと言っていた。成熟とはどういうことなのか、と聞いても、渡津海は答えてくれなかった。
精通というものがあり、大人になっている証しだとも言われたが、だからと言ってそれ以上の何かがあったわけでもされたわけでもない。
「海璃? どうしたんだい、蒼い顔をして」
「……ううん、なんでもない」
アザの言葉と、渡津海の言動が重なっていく――いや、まさかそんなはずはない。慌てて海璃は過ぎる考えを打ち消すように頭を振る。
(俺が成熟したら……渡津海と、まぐわうんだったっけ……それって、もしかして……食べるってこと?)
まぐわいは性器と性器を交じり合うことだと、渡津海は言っていた。でも、それが具体的にどういうものなのか、海璃にはよくわかっていない。渡津海も、こうだと示してもくれなかった。
でももし、示してくれなかったのが……渡津海に何か思うところがあるのだとしたら?
もし例えば、まぐわうということが、性器や、性器から体全部を食べられてしまうことを指しているのだとしたら?
(つまり……まぐわったら……俺、渡津海に食べられちゃうってこと……?)
だから、渡津海は、海璃を怖がらせて拒まれないようにしているのだろうか?
ではもし、海璃がまぐわいを拒んだとしたら……海璃は、どうなってしまうんだろうか?
人魚の図解を開いたまま海璃は呆然とし、ふつふつと次から次に後からどんどん湧いてくる不安の泡に包まれていく。
「そうだ海璃、久しぶりにたかいたかいをしてやろうか?」
上の空な海璃の機嫌を取るように、アザが海璃の好きな遊びを――もう十七になるというのに――提案してくるが、海璃はそれに笑って応じる余裕もない。
まさか、そんなこと、あるわけがない……そう、信じたいのに、どうして強く言い切れないのだろう。渡津海が、海璃のことを、己の力欲しさに養ってきたなんて思えないはずなのに、どうして、それを全力で肯定できないのだろう。
だけどもし、自分の成熟がまぐわいにおいて重要な意味を持つというのなら……
そんな考えが浮かび、海璃は慌てて首を横に振って打ち消す。
「……そんなこと、ない。渡津海は、そんなこと、しない……はず……」
震えそうな声で呟き、自分に言い聞かせるも、目の前の景色が重く沈んでいくのはどうしてなのか。図録に触れているはずの指先が冷たく、海璃は不安の泡に溺れそうになっていた。
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