【完結】みなしごは不器用な海の神から愛を知る

伊藤あまね

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*二十七 嵐の日の新たな仕事

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 海璃が見世物小屋に売払われてからというもの、おかしなことが頻発するようになった、と小屋の者がこそこそと話している。
 なんでも、雨季でもないのに雨の日が続き、客足が遠のいていると言うのだ。
 基本、窓のない小屋の中に閉じ込められている海璃には、外の様子をうかがい知ることはほとんどできない。時折食事を与えに来る下男たちがまとう空気に湿り気があったりすると、ああ、雨が降っているのだなとようやくわかる程度だ。わかったところで、表に出られない海璃には関係がないのだが。

「おら、メシの時間だ」

 そうやって放り込まれる物が、一体どう言う食べ物なのか、そもそも食べ物なのか、海璃には区別がつかない。鼻先をつきつけてようやく、それが垣助たちの残飯だと知るのだ。
 舞台に引きずり出される時だけ、海璃は灯りを目にする事が出来た。弱い光で薄暗く照らされた舞台の上で、海璃はいつもあの大きな金魚鉢に突き落とされる。何度やられても、海璃が水中で呼吸することはできないのに。
 ではなぜ、海中にあった竜宮で、苦も無く暮らし続けることができていたのか。それは単純に、渡津海が、海中と陸での呼吸に差異が出ないように神通力を施していたからだ。渡津海の元を離れ、神通力の影響が急速に弱まってしまっている現状、海璃が水中で呼吸をする事はほぼ不可能なのだ。
 しかしその事実を、海璃も見世物小屋の誰も知らない。おそらく、海璃をここに連れてきた海獣のアザでさえも、知らなかったかもしれないが、それは誰にも確かめようがない。

(また、美味しくないご飯だ……)

 味がしない、饐えたにおいのするそれが、海璃は大の苦手だ。鼻先を近づけるだけで胸が悪くなるし、何より味が最悪に不味い。だけど、それしか海璃には与えられないため、いやいや口にするしかない。
 ムツの作ってくれていた食事が恋しかった。初めて竜宮に連れて行かれた時に食べさせてくれた寒天は、いまでは海璃の好物の一つだ。
 幼い頃、色とりどりに着色されて目にも鮮やかな寒天を、渡津海とよく分け合って食べていたことを思い出す。最後の一つになると、必ず渡津海は海璃に口を開けろと言い、ぽんと放り込んでくれた。
 「ありがと、渡津海。美味しい!」と海璃が笑うと、渡津海もまたひっそりと笑ってくれた。その笑みが見られると、海璃はとてもしあわせな気分になり、どうすれば見られるのかと考えていたこともあったほどだ。
 薄暗い、雨風が壁の隙間から吹き込む小屋の隅で海璃は膝を抱え、改めて思う。

(あんなに大事にされていたのに……なんで俺、渡津海のこと信じてあげられなかったんだろう……あんなにやさしくしてくれていたなら、食べられるのだとしても、きっと、怖くなんかなかったはずなのに……)

 少なくとも、いま置かれている状況よりもずっと良かったであろうことは、想像に難くない。海璃が泣けば飛んできて抱きかかえ、泣き止むまで背や頭をやさしく撫でていてくれたあの海の神になら、たとえ食べられてしまう末路が待っていたとしても、ずっと一緒にいればよかった。そうやって共に過ごすことが、何よりもしあわせだったのだ――そう、ようやく気付いたけれども、すべてが遅すぎる。
 右耳の真珠の耳飾りに触れ、海璃は考える。彼の名を呼んで、助けてほしいと言っていいのか、そうする権利が自分にはあるのかを。
 耐え難いことがあったなら。それは、確かにここに売払われてから、幾度となく訪れた気がする。金魚鉢に沈められ、食べられたものじゃないものを食べ物として与えられ、稼ぎが悪いと殴られる、そんな日々がもうずっと続いている。
 でもそれらは、渡津海のところを勝手に飛び出してきた自分が愚かだったから、その罰なんだと海璃は考えていた。渡津海を信じず、アザの言葉を信じたばかりに犯した過ちなのだ。

「だから……俺は、渡津海のこと、呼んじゃダメだ……」

 呼んだところで、渡津海がここに来てくれるとも限らない。あんな勝手な奴など知らぬ、と言われて背を向けられてしまえば、それで終いだ。
 考えるだけで海璃は胸が重たく鉛を飲まされたように塞ぎ、うす暗い視界が一層暗くなる。手足が水に濡れたままのように冷たくなり、呼吸が苦しくなってくる。

「渡津海……ごめんなさい……俺、莫迦ばかだ……」

 枯れたと思っていた涙が、黒く沈んだ色の目許から溢れ、痩せた頬を伝っていく。拭う気力もなく流れるままにしていると、隙間風が心なしか強くなっている気がした。
 ここは陸の上でも随分と街中で、海からはかなり遠いらしく、潮のにおいすらしない。だから、海璃が泣いたところで、実際に時化が起きているのかどうかはわからない。もし起きているのだとしても、慰めてくれるもののない海璃の涙を止められないのだから、時化は止まないだろう。確かめのようのない事ばかりを考えては、海璃はまた頬を濡らす。
 小屋の隅で息を殺すようにそうやって泣いていたところ、誰かが近づいてくる足音がした。それは、海璃の前に着くと、しゃがみ込んで俯く海璃の前髪をつかんで上向かせてくる。

「辛気くせえ顔してんな、相変わらず」

 現れたのは、垣助だった。ぎょろりとした片眼が荒々しい前髪の隙間から覗き、海璃を睨んでいる。海璃はその眼差しだけで背筋がぞくりとするほどの恐怖を覚え、いつも何も言えなくなってしまう。

「何だ、そのおどおどした鬱陶しい眼は。ろくに芸もできねえくせにメシばっか食う穀潰しが」

 ごめんなさい、とも、すみません、とも口にできず、ただ口をはくはくと動かしている海璃を、垣助はふんと鼻先で嗤い、尚もじろじろと髪をつかんだまま顔のあちこちを検分するように見ている。その舐めるような眼差しが、一層海璃の恐怖心を煽る。
 視線を逸らすこともできず、震えながらそうされることしばし。やがて垣助は放り出すように海璃から手を離し、「まあ、いいか」と、呟いて立ち上がった。
 なにが、どういいのだろうか? もしかして、もう海璃はお払い箱になって、ここから解放してもらえるのだろうか? わずかな期待を込めて垣助を見上げると、その眼は不気味な笑み浮かべてこちらを見下ろしていた。
 海璃の本能が、反射的に逃げろ、と言わんばかりに脳内で警戒の音を立てる。まるで初めてこの小屋で目覚めた時のように、破れ鐘の音が鳴り響く。
 しかし、海璃が動き出すよりもずっと早く、垣助が再び海璃の傍にしゃがみ込んで顎に手を宛がい、顔を至近距離に寄せながらこう告げてきた。

「お前、マクラやれ」
「……マク、ラ?」

 告げられた言葉の意味が全く分からない。皆目見当もつかない言葉に海璃がきょとんとしていると、垣助は不気味なほどやさしい顔をして微笑みながら、それまで乱暴につかんでいた海璃の髪を撫で、頬に触れてきた。その手つきに、海璃は恐怖にも似た悪寒を覚える。
 何か嫌なことをさせられる――そう勘づいた瞬間には、海璃は垣助に食いつかれるような口付けをされていた。
 それは、渡津海と幼い頃からしていた、触れ合い、ついばみ合うようなささやかで甘いものとは全く異なる、甘さもやさしさもカケラもない、乱暴な行為だった。
 海璃は犯される、と言う言葉を知らないが、されていることはまさにそれで、挿し込まれ、まさぐってくる舌の感触が不快でたまらない。逃れたいのに、強い力でいつの間にか抱き留められて身動きが一切取れなくなっている。

「んんぅ! ん、ンぅ!!」

 いやだ、やめてくれ、そう叫びたいし、身を捩って拒みたいのに、手足に力が入らない。まるで口付けられている所から吸い上げられていくように、力が抜けていく。
 長いながい口付けを一方的にされたのち、ようやく解放されても、海璃はその場でへたり込んで顔をあげることもままならない。
 そんな海璃の様子を、垣助は愉快そうに見やり、薄笑いを浮かべながら呟く。

「生娘同然の人魚の子を抱かせた方が、水に沈めるよりうんと金になるだろうなぁ」

 垣助の言葉の意味をすべて理解しているわけではないが、海璃の身にとんでもないことを科せられることだけは感じられ、全身の血の気が引いていく。喰われること以上に無慈悲で恐ろしい、先程の口付けのような何かが待ち受けている。そう考えるだけで海璃は震えが止まらない。

「や……ヤダ……いや……ヤダ……やめ……」

 垣助の脚に縋りつくように懇願する海璃を、垣助は躊躇うこともなく足蹴にし、冷たい眼で見下ろして呟く。

「芸ができねえなら、食い扶持はマクラでもして稼ぐのがこの世界での筋だ」

 悪く思うなよ、と吐き捨て、垣助は去っていく。いつの間にか激しさを増したらしい外の雨は、嵐になっている。
 それは海璃の心情によく似ていて、一向に晴れ間見える気配も、止む気配もなかった。


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