【完結】みなしごは不器用な海の神から愛を知る

伊藤あまね

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*二十八 ~閑話:神から見たみなしごの話~

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 ――明日には消えてしまうのではないだろうか。
 そう、幾度となくその子どもを見かけるたびに渡津海は思っていた。
 ひどく痩せた、小さな子どもだった。常に垢と埃にまみれていて、生傷が絶えず、いつも一人で泣いているような子どもだから、その冬を越すことは難しいだろうと思っていたからだ。
 生き物は容易く命が絶えてしまう。それは神である渡津海でさえも、どうにもならない事とも言えた。それが自分の手の範疇にない、陸の命であればなおさらだ。
 渡津海がつかさどるのは海で、そこに関わる命を守ることが務めだ。陸に暮らす、幼いみなしごの命を守ることは責務ではない――それが、この世のことわりだからだ。

「かみさま、おはよう」

 いつしかそのみなしごは言葉を覚え、大人の見よう見まねなのか、自分が雨風をしのいでいる祠に手を合わせるようになったのだ。
――その様は、あの女の人魚の姿を彷彿とさせる……渡津海はそうも考えた。
 幼いながらに熱心に祈る姿は愛らしく、渡津海は見かけるたびにそっと祠から見えない手を伸ばし、その小さな頭を撫でてやっていた。あまりにそっとするものだから、みなしごには風が触れたとしか思われていなかったかもしれない。
 しかしそうすると、みなしごは嬉しそうに笑う。その笑みが、渡津海にもまた笑みをもたらした。
 愛らしい。そんな感情を自分がいだくことにも驚きだったが、そうさせるみなしごの存在を、渡津海は一層かけがえなく思うようになっていた。
 祠は、渡津海が陸の人間と接する唯一の拠点であり、そこに参拝してきたものの願いを聞き、叶えるに値すれば叶えてやることもまた務めの一つだ。
 みなしごは、祠の台座の影で寝起きし、日中、村の残飯を漁っては村の者たちに追い払われ、泣き、そうして時化を呼んでは折檻を受けていた。
 時化を呼ぶ不気味なみなしご――それが、坊と呼ばれるその子どもの唯一の特徴であり、それゆえに漁村の者たちからは疎まれ、時には酷く折檻されていたのだ。
 痛々しい姿を、祠を通して目にするたびに、渡津海はいまだかつて覚えたことがないほど、胸が痛んだ。こんなに小さく弱いものを、どうして同じ人間同士、慈しんでやれないのかが、理解できず腹立たしく、そして、神のくせに何もできない自分の不甲斐なさを悔やんだ。まるで、あの時と同じではないか、と。

「おなかすいた……おてて、いたい……」

 せめて、雨風だけでも防げればと、眠る坊の傍らに佇んでやることもあったが、人間にその姿は見えぬため、言葉を交わして慰めてやることも敵わない。

(この祠がもう少し海辺の近くにあったなら、だいぶ違うのだろうが……)

 海の命でない者であっても、海に触れていれば海の命とみなされる特例もなくはなく、介入が許されるからだ。しかし祠は海を見下ろす丘の上にあり、渡津海は祠越しにしか坊の様子を窺うか、触れられない姿をとって傍らに寄り添うくらいしかできない。
 人間が同胞の幼い命を粗末にしているのを、歯噛みして見守るしかない、神である自分。情けなさのあまりに村を大波で押し流してしまおうかと幾度となく考えたことさえあった。そうすれば、そのどさくさで坊を自分の許に連れてこられると考えてもいたからだ。
 しかし、その機会は思いがけない形で訪れることとなる。


 それは、坊が泣いて時化が訪れたことでまたしても腹いせに折檻を受けた、銀色の月の晩のことだった。
 竜宮から見上げると、真っ暗で時化の名残のある浜に、あの坊の姿が見えた。
 珍しい、と渡津海は何かが引っ掛かり、そっと海上に浮き上がっていく。なにか、妙に胸騒ぎがしたからだ。
 坊はみなしごで親がいないようなので、夜中に出歩いても見咎めるような者がいないのだろう。そうだとしても、このような時分に荒れる海にひとりでいる姿はあまりに不穏だ。
 眠れずに波音を聞きに来たのかもしれぬ、と渡津海は見守ろうと考えていたが、それがただの楽観的な願いでしかないことにすぐに気付かされた。
 坊は、荒れる海を前に、躊躇うことなしにざぶざぶと海の中に入ってきたのだ。
 莫迦な! と、渡津海は慌て海面へ浮き上がり、坊の前に立ちふさがろうとする。細い肩をつかんで引き留めていいものか迷う内に、たちまち坊は脚の届かない深みへと入り込んでいく。すでに海面は彼の口許まで届こうとしている。
 このままではこの子が死んでしまう――あの愛らしい笑顔が見られなくなる。小さくてささやかな頭を撫でてやることも、寒さに震える背を守るようにしてやることも、出来なくなってしまう。
 ――あの時とまるで同じではないか。
 渡津海にはその事実があまりに恐ろしく耐え難く、気付けば姿を消すことも忘れ、自らも海の中に入って、溺れかけている坊の腕をつかんで引き上げていた。

『――お前、儂と同じ神にならぬか?』

 とっさに口をついて出た言葉は、坊を神にすると言う契りの言葉だったが、構うことはなかった。そうしないと、この腕の中の小さな命は波に飲まれて消えてしまうのだから。
 夢中で抱きしめた小さな体は、もっとそうしてくれと呟いた。震える腕でしっかりと渡津海にしがみつきながら、渡津海と共に竜宮へ行くことに頷いたのだ。


「ただお可哀想、と言うだけでここまでなさるのですか?」

 海璃――名前すらなかった坊に名を与え、寝床を与えて寝かしつけた晩、従者のムツから苦言のような言葉をかけられた。

「海璃様は、確かに親御様がいない、みなしごで、村で随分ひどい目に遭っていたようです。ご主人様が同情なさるのも無理からぬこと。しかし――あの方は、人の子なんですよ?」

 人の子は、神の仲間にならねば、生まれ落ちた世界の他の場所で生きていけない。陸で生まれたならば陸で、海で生まれたならば海で、定められた場所で生きるものだとされている。
 もしそれを越えようと言うのならば、その人の子は神とまぐわい、仲間とならなくてはならないとされている。そのことを、ムツは可哀想だという同情だけで行うつもりなのかと言うのだろう。

『……わかっておる。神とのまぐわいは、一歩間違えば人の命を失いかねない』
「では、どうして……!」
『しかしあのままでは、海璃は儂の目の前で死ぬところだったのだぞ? 何の咎もない、ただ不可思議な現象を引き起こす可能性があると言うだけで、同胞らから疎まれ、見捨てられた、あの子の命を儂は見捨てるわけにはいかぬのだ。』
「ですが……たとえ、まぐわうのだとしても、海璃様はまだ幼過ぎます。成熟されていない。それまでの間、ご主人様は海璃様をお守りしていけると言い切れるのですか?」

 渡津海の周りには良くも悪くも様々なものが出入りする。傍仕えはムツだけであるが、職務上あらゆる場所に出向くことも少なくない。陸の人間に関わることもある。渡津海が背負うものは、海璃ただ一人の命だけではない、そう、ムツは言いたいのだ。可哀想だ、哀れだと言うだけで、本当の海の命ではない海璃を竜宮に置くのは危険ではないか、と。

『成熟を迎えるまでにかかるのは十数年。それぐらいであれば、儂の神通力で海での生き方を施し、守り抜くことは可能だ。問題はなかろう』
「確かに、そうですが……」
『それに、海璃には何か海に関する気配を感じる。ただの陸の子どもではないのかもしれぬ』

 泣くと時化を呼ぶという、奇妙な偶然にしてはあまりに頻発するそれに、渡津海は何か引っかかりを覚え、そののちしばらくの間あらゆる文献などを漁ることにより、その正体を突き止めることとなった。
 ――海璃は人魚の血をひく子ども。すなわち、海の命であり……あの者の子ではないか、とも。
 海璃を竜宮に連れて来て数か月後、渡津海はその結論を導き出し、いよいよ海璃を神の仲間にしようと改めて考えるようになっていた。
 海璃が陸の子どもであるからと、反対の姿勢を取っていたムツ対してもそうした説得の材料を得られ、事態は丸く収まるかのように思われた。
 しかし、海璃が十七を迎え、自らの手で神の仲間になる手段を調べ始めた辺りから、事態が急展開し始める。
 まず、まぐわいについて海璃に問われ、座学として知識を与えることとなった。これ自体はいずれ説かねばならぬだろうと渡津海は考えていたし、寧ろ十七と言う齢を考えれば、遅すぎたとさえ思っていた。
 海璃がいつまでも幼子のように渡津海と一緒の寝床で寝たがったり、幼子の頃と同様に頬ずりをしたり口付けを求めてきたりしていることで、いつまでもその年頃の扱いを続けていたことが大きいのかもしれない。
 知識として与えはしつつも、いずれそれを、お互いにするのだという話を実感させるのは難しく、海璃は話を聞いてもピンと来ていない様子だった。
 幸いにと言うべきか、海璃自身はまだその話をした当時は成熟――精通を迎えていなかったため、渡津海はまだピンと来ていなくても良いと考えてもいた。
 それなのに、知識として与えた途端、ほぼ同時期に海璃は精通を迎え、成熟してしまったのだ。
 突然のことで動揺する海璃に、渡津海はそれが成熟を意味しているとは言えず、ただ、どうにか海璃との接触を避けることで、しばしの猶予期間を設けようと足掻いた。

『まだ海璃は、まぐわいを理解しきれていない……ましてや、命の危険があるだなんて知ったら、いよいよ躊躇うだろう……そうなってしまったら、儂はどうすればいい……』

 ただ海璃の命を、あの愛しい笑みを救いたいがために、仲間にしてやると契りの言葉をかけ、そして成熟までさせてしまった。その責務の重さを、渡津海はひしと感じている。だからこそ、自分とまぐわえばそれでいい、とは簡単に海璃に告げられなかったのだ。
 失いたくない、傷つけたくない……その想いの強さのあまり、手のひらで慈しむように育んできた十数年の歳月だった。積み重ねてきたその時間を思い返すたびに、渡津海は愛しい姿のまま成長していく海璃を傷つけたくない想いが強くなっていった。
 この頃では、想いの強さのあまり、自分の言動が普段にないものばかりで、我がことながら渡津海は戸惑うばかりだ。神として、それは由々しきことではないかと思いつつも、海璃を前にしてしまうとその想いさえも蒸発するように消えてしまう。
 この感情を、何と言えばいいのか。二千年近く生きて来て初めて抱く感情を、渡津海は弱い十七の青年に一身に注いでしまいたくて仕方ない。

『ああ……いかん、またそのようなことを……』

 考え事の堂々巡りを繰り返している内に、住まいである竜宮の門が見えてくる。数日ぶりに海璃に会えるのかと思うと、無意識に頬が緩んでしまう。どうにも、あの無邪気な笑みを向けられると、弱い。
 そろそろ覚悟を決めねばなるまいか……と、考えながら赤い門の扉に手をかけた時、それが突然開き、ムツが転がるように飛び出してきた。

「ご主人様! 大変、大変でございます!!」

 蒼ざめた顔で叫ぶように訴えかけてくるムツの様子に、渡津海は一抹の不安を覚える。そして、ムツの背後からいつもなら覗いているはずの姿が見えないことに気づいたのだ。

『ムツ、落ち着け、何があった』

 それでもムツを落ち着かせて事態を把握しようとしたのだが、それを振り切るかのように、ムツが渡津海の留守中に起こった事態を告げた。

「海璃様が……海璃様がどこにもいらっしゃいません!!」
『……なんだと?』
「これが、門の前に落ちていて……」

 そう震える手でムツが差し出してきたのは、一昨日辺りに飛び魚に持たせた、海璃あてのふみだった。
 もう間もなく帰るという知らせだったそれを手に、海璃はここで渡津海を待っていたのであろう、ムツは涙ながらに言う。

「海璃様が門のところで、ご主人様のお帰りをいまかいまかと待ってらっしゃるお姿は確認したんです……それで、昼餉の用意ができたとお呼びしに行ったら……これだけが……」

 申し訳ございません、とムツはひれ伏す勢いで謝罪してくるのだが、渡津海は彼を責める気持ちはなかった。それよりも、ほんのわずかに目を離した隙に、海璃を連れ去った者に殺意すら抱き始めていたからだ。そのようなことをするものを、渡津海はただ一人しか知らないからだ。

『おのれ……許さぬぞ……!』

 怒りで声を震わせながら渡津海は文を握りしめ、遠く果てしなく続く海の向こうを睨みつけていた。


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