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act28 匠の事情
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蛍子が匠の母に初めて会ったのは、卒業式後匠が下宿を引き払い、
会社の寮に入る前に、一度実家に戻ったときである。
匠は旧帝を卒業した高校時代の先輩の引きで、
地方銀行勤めとなった。
プライベートな時間を大事にして、
家でゆっくり家族と過ごしたいという
向きには、誤った選択ではないかと案じられたが、
出世街道を走らなければ、なんとかなるものであると、
万事にのんびりした先輩が言うので、
蛍子を専業主婦でいさせるためにも、匠は乗った。
彼の境遇が就職の不利にならなかったのは幸いであると言えよう。
匠は、大学時代、
「いい思い出なんか、ないから」
ほとんど実家には寄り付かなかった。
その実家とは、母の実家、祖父母の家である。
下宿しないとどうしようもない県外にある。
大学は実家を離れるために遠くを選んだ。
匠が育った家は、父が自死を遂げてから人手に渡っているはずだ。
あるいは今は更地になっているかもしれない。
「おばあちゃんは気になるんだけど」
匠の母は家付き娘である。
匠の父とは見合い結婚した。母が22歳、父が30歳のときだ。
匠の母は祖母の弾くグランドピアノが家具のように置いてある家庭で
おっとりと育っている。
別居ではあったが、婿養子となった夫は上場企業の有能なSEである。
結婚生活に対して何の不安もなかった。
「甘かったんだよね」
匠が苦々し気にため息をつく。
結婚して1年も経たぬうちに、
匠の父は妻に手を上げるようになっていた。
新婚当初から、些細なことでイライラしがちだったというが、
慣れない者同士であるから、と、母が譲歩していたらしい。
二度三度手を上げられたときに、決断するべきだったろうに、
そのときにはもう匠がお腹にいたため、
別れることは考えられなかったという。
そもそもなんでそんな男と子どもをもうけようと
思ったかが疑問だ、と匠は気持ち悪そうに言う。
子どもができれば、夫も変わると期待したのだろうか。
「かーさんは、僕のために離婚しなかったんだと思うけど」
別れてくれていればどれほどよかったか、と匠はその後を継げず、
口をつぐんでしまった。
見事な彫りの欄間の客間に並べて敷かれた布団の中である。
真っ暗で、匠の表情は見えない。
匠の母親は、匠によく似た顔立ちのたいへん美しいひとだった。
裕福ではあっても、長年の生活の苦労がたたってか、
生気に欠けるように見える。
言葉少なに、蛍子に匠のことを頼んだ。
匠の祖母は、田舎の旧家に似つかわしくない若々しく華やかなひとで、
少し調子の狂ったグランドピアノで、蛍子との連弾を愉しんだ。
祖父は数年前に他界している。
「宿取ってあげたらよかったんだけど」
蛍子が泊まれば、家の空気を塗り替えられるのでは、
と思ったらしい。
「僕都合でごめん」
蛍子は、匠の実家で結婚前でありながら同じ部屋で
布団を並べて敷いてもらえたことがうれしかったので、
それを伝えると、匠は手探りで蛍子の頭を捕まえて、
顔中にキスの雨を降らせる。
ふたりでくすくす笑いながら、脚をからめてしっかりと抱き合った。
もう心配ないから
怖くないから
匠が嫌悪する実家も、これからは楽しい思い出が
上書きされていくといい。
蛍子は自分にその素敵な魔法を使う権限が
与えられたことに、武者震いをした。
魔女っ娘で、ヒーローである。
あれから7年ほど経ったろうか。
今なら、匠の母とも女同士として、気を引き立てるような話が
できるかもしれない。
匠の母は、匠や、夫のためにこそ、離婚という道を選ばず、
いつかなんとかなると、希望を持って、
必死に家庭を守ろうとしていたのだと思える。
でも、それは、
「徒労だよ」
匠が吐き捨てた。
「誰も幸せにならなかった」
その奮闘努力が功を奏することがなかったのは、
悲しむべきことだが、
匠の母を責めるわけにはいかないだろう。
母が逃げることなく正面から向き合ったからこそ、
今の匠が在るのかもしれない。
蛍子が恋に落ちた、シャイで、誰にでも等しく親切な、
みんなのアイドル。
そんな匠に育ったのは、
大きな愛を持って問題に対峙した母を見てきたからでは
ないのだろうか。
だからといって、匠の痛ましい経験を是として
受け止めるわけにはいかない。
負けなかったことが尊いのだ。
匠と匠の母は、まだどことなくよそよそしいままだが、
いつかいろんなことが理解できるようになれば、
わだかまりも解けるだろう、と蛍子は思う。
孫の存在が家族を再び結びつける鎹になるだろうか。
30になる前に、せめてひとり産めるといいな
匠によく似た愛らしい女の子か、
蛍子によく似た二枚目の男の子か。
この非常勤の仕事が終わったら、匠に相談してみよう。
きっと二つ返事に違いないけれど。
長々と浸かった湯船の中で、蛍子は空っぽのお腹を撫でてみた。
会社の寮に入る前に、一度実家に戻ったときである。
匠は旧帝を卒業した高校時代の先輩の引きで、
地方銀行勤めとなった。
プライベートな時間を大事にして、
家でゆっくり家族と過ごしたいという
向きには、誤った選択ではないかと案じられたが、
出世街道を走らなければ、なんとかなるものであると、
万事にのんびりした先輩が言うので、
蛍子を専業主婦でいさせるためにも、匠は乗った。
彼の境遇が就職の不利にならなかったのは幸いであると言えよう。
匠は、大学時代、
「いい思い出なんか、ないから」
ほとんど実家には寄り付かなかった。
その実家とは、母の実家、祖父母の家である。
下宿しないとどうしようもない県外にある。
大学は実家を離れるために遠くを選んだ。
匠が育った家は、父が自死を遂げてから人手に渡っているはずだ。
あるいは今は更地になっているかもしれない。
「おばあちゃんは気になるんだけど」
匠の母は家付き娘である。
匠の父とは見合い結婚した。母が22歳、父が30歳のときだ。
匠の母は祖母の弾くグランドピアノが家具のように置いてある家庭で
おっとりと育っている。
別居ではあったが、婿養子となった夫は上場企業の有能なSEである。
結婚生活に対して何の不安もなかった。
「甘かったんだよね」
匠が苦々し気にため息をつく。
結婚して1年も経たぬうちに、
匠の父は妻に手を上げるようになっていた。
新婚当初から、些細なことでイライラしがちだったというが、
慣れない者同士であるから、と、母が譲歩していたらしい。
二度三度手を上げられたときに、決断するべきだったろうに、
そのときにはもう匠がお腹にいたため、
別れることは考えられなかったという。
そもそもなんでそんな男と子どもをもうけようと
思ったかが疑問だ、と匠は気持ち悪そうに言う。
子どもができれば、夫も変わると期待したのだろうか。
「かーさんは、僕のために離婚しなかったんだと思うけど」
別れてくれていればどれほどよかったか、と匠はその後を継げず、
口をつぐんでしまった。
見事な彫りの欄間の客間に並べて敷かれた布団の中である。
真っ暗で、匠の表情は見えない。
匠の母親は、匠によく似た顔立ちのたいへん美しいひとだった。
裕福ではあっても、長年の生活の苦労がたたってか、
生気に欠けるように見える。
言葉少なに、蛍子に匠のことを頼んだ。
匠の祖母は、田舎の旧家に似つかわしくない若々しく華やかなひとで、
少し調子の狂ったグランドピアノで、蛍子との連弾を愉しんだ。
祖父は数年前に他界している。
「宿取ってあげたらよかったんだけど」
蛍子が泊まれば、家の空気を塗り替えられるのでは、
と思ったらしい。
「僕都合でごめん」
蛍子は、匠の実家で結婚前でありながら同じ部屋で
布団を並べて敷いてもらえたことがうれしかったので、
それを伝えると、匠は手探りで蛍子の頭を捕まえて、
顔中にキスの雨を降らせる。
ふたりでくすくす笑いながら、脚をからめてしっかりと抱き合った。
もう心配ないから
怖くないから
匠が嫌悪する実家も、これからは楽しい思い出が
上書きされていくといい。
蛍子は自分にその素敵な魔法を使う権限が
与えられたことに、武者震いをした。
魔女っ娘で、ヒーローである。
あれから7年ほど経ったろうか。
今なら、匠の母とも女同士として、気を引き立てるような話が
できるかもしれない。
匠の母は、匠や、夫のためにこそ、離婚という道を選ばず、
いつかなんとかなると、希望を持って、
必死に家庭を守ろうとしていたのだと思える。
でも、それは、
「徒労だよ」
匠が吐き捨てた。
「誰も幸せにならなかった」
その奮闘努力が功を奏することがなかったのは、
悲しむべきことだが、
匠の母を責めるわけにはいかないだろう。
母が逃げることなく正面から向き合ったからこそ、
今の匠が在るのかもしれない。
蛍子が恋に落ちた、シャイで、誰にでも等しく親切な、
みんなのアイドル。
そんな匠に育ったのは、
大きな愛を持って問題に対峙した母を見てきたからでは
ないのだろうか。
だからといって、匠の痛ましい経験を是として
受け止めるわけにはいかない。
負けなかったことが尊いのだ。
匠と匠の母は、まだどことなくよそよそしいままだが、
いつかいろんなことが理解できるようになれば、
わだかまりも解けるだろう、と蛍子は思う。
孫の存在が家族を再び結びつける鎹になるだろうか。
30になる前に、せめてひとり産めるといいな
匠によく似た愛らしい女の子か、
蛍子によく似た二枚目の男の子か。
この非常勤の仕事が終わったら、匠に相談してみよう。
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長々と浸かった湯船の中で、蛍子は空っぽのお腹を撫でてみた。
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