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第一部 嫉妬と情愛の狭間

第105話 馥郁たる土の香 其の四

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 この奥に何があるのか、香彩かさいはよく知っていた。今すぐ駆け出してしまいたい心の焦りを、何とか抑え込む。あの黒い影の気配が感じられない以上、逃げられてしまったら探しようがないと、頭の中で理解していた。
 だが急がないとという気持ちが、香彩かさいの中から冷静さを少しずつ、少しずつ削り取っていく。
 中庭の小さな森の奥にあるのは、大きな神桜の樹だ。
 あの黒い影がわざわざここに入った理由など、ひとつしかない。
 香彩かさいはゆっくりと歩みを進めながらも、確信を得る為に、感じないと諦めていた気配の更に深くを探る。
 神経を研ぎ澄まし、奥の奥を見つめ、掻き分けるように。


(……っ)


 咄嗟に香彩かさいは今感じてしまったものを、なかったことにするかのように、かぶりを振った。
 どくどくと、脈打つ鼓動に動揺しながらも、小さく細く息を吐く。
 真っ先に感じ取ってしまったのは、あれから敢えて気配を追うことをしなかった、竜紅人りゅこうとの気配だった。
 ずっとそちらに気を取られないようにしていた為か、気が付かなかった。こんなにも深く探らなければ分からないほど、竜紅人りゅこうとが自身の気配を薄くしていたことなど。


(……それって僕に、見つからないようにしてたってことだよね……?)


 側に来てくれるな、っていうこと……?

 一度そんな風に思ってしまえば駄目だった。
 心の中に広がる動揺に、香彩かさいは己を叱咤する。心が乱れてしまえば、当然ながら気配を探る為の集中力が欠けてしまう。
 意識せず震える息を感じて、己の頬を強めにはたく。
 竜紅人りゅこうとが見つからないように気配を薄くしていたとしても、夕餉のあの温かい心遣いを決して忘れたわけではない。嫌だと思った相手に、そんな心遣いはしないだろう。


(……りゅう……)


 少し前向きに考えて直す。
 今一度細く息を吐いて、香彩かさいは神経を研ぎ澄ませた。
 ゆっくりと歩を進めながらも、凪ぐ空間の深々とした中を、手探りで泳ぐようにして、気配を探る。


(──……っ!)


 ようやく見つけたその気配の一点は、まるで水溜まりに一滴の水が落ちる波紋のようなものだった。もしくは科紙りょうしに墨をぽとりと落とし、じわじわとにじみ広がるさまにも似ている。
 それはまだけがされていない部分の神気が、邪気によって徐々に染まっていく様子を捉えたものだった。
 そして。


(──やっぱり……か)


 馥郁ふくいくたる土の香りのする神気の中に、纏わり付くように香るのは──神桜の香。
 濃厚なそれを黒い影から感じ取って、香彩かさいは思わず苦しげな表情を見せた。


(……同じものだ)


 あの時感じた、噎せ返るほどの濃い土の匂いと死臭が。
 蒼竜屋敷の神桜の花を散らせて、枝を全て折ったのは、あの黒い影……土神つちかみと呼ばれる真竜御名ごめい壌竜じょうりゅうだ。


「──……どうして……」


 香彩かさいは思わず声に出してそう、呟いた。
 同胞が何故、同胞に手を掛けようとするのか、分からなかった。
 確かに神桜の……紅竜の本体である樹ではない。だが他の神桜も、紅竜の分身わけみのようなものだ。分身わけみが傷付けられてしまったら、当然ながら本体にまで影響が及ぶ。それを壌竜じょうりゅうが知らないはずがないというのに。


 花片を散らせ、枝を全て折る。
 そんな狂行にどんな意味があるのか。


 やがて森の少しひらけた場所に出る。
 香彩かさいの視線の先には、大きな神桜の樹があった。
 そして……。
 まるで神桜を見上げ、見つめるような動作をする黒い影の姿もあった。
 香彩かさいは胸元から、術力の媒体用でもある白い札を取り出し、指に挟む。『力』を送ればそれは仄かに青白く光った。
 動きを止めることが先決だ。
 地に足を縛り付け、やがて地を這う術力が鎖となって身体を拘束する。そういった類いの術がある。
 真竜に関してはあまり手出しできないのが、縛魔師としての実情だった。完全に堕ち、人に害を成す存在へと成り果てて、初めて払うことを許される。そういうものだった。
 目の前の黒い影は、時折その姿を薄くする。顕れるのは美しき真竜だった頃の姿だろうか。見ているだけで癒されそうな、綺麗な苔色の長い髪が、ふわりと風に靡かれる。
 邪気に冒されてはいるが、まだ完全には堕ちていない壌竜じょうりゅうの姿が、そこにはあった。
 国の要ともいえる中枢楼閣の中庭に、堕ちかけた真竜が入り込んだ事実に眩暈がする思いがした。
 中枢楼閣を護る四神の護守は働かなかったのだろうか。そこまで考えて、ああ、と香彩かさいは納得する。
 四神の護守は大妖を対象としている。完全に堕ちた真竜ならば、その身から発せられる邪気や瘴気に反応して、その存在を弾き返したことだろう。護守に引っ掛かれば、大司徒だいしと縛魔師ばくましが動く。
 だが堕ちかけたとはいえ、真竜は真竜であり、大妖ではない。しかも四神にとっては同胞だ。だから護守は反応せず、壌竜じょうりゅうは中庭まで入って来れたのだろう。
 だが身の内にそのような者に入られて、沈黙を保つ国主が不気味だった。
 確かに国主から見れば、堕ちかけた真竜など小物に過ぎないだろう。
 捨て置けと、どこかでているのだ。


(……まだ間に合うだろうか)


 りょうならば真竜の奥に蝕む邪気を払い、浄化することができるかもしれない。
 数少ない同胞だ。りょうはきっと壌竜じょうりゅうを助けようとするだろう。


『……縛』 


 香彩かさいは、壌竜じょうりゅうが神桜を見上げているその隙を付いて、『力ある言葉』を呟きながら、手に持っていた札を地面に置き、軽く指を突き立てた。
 徒人ただびとには見えない術力の、青白い光が壌竜じょうりゅうに向かって地を這う。そのまま光は壌竜じょうりゅうを中心に陣を描き、まるで蜘蛛の糸に捕らえられた羽虫のように、地に縫い付けられる。やがて地から生えた術力の鎖が、壌竜じょうりゅうを雁字搦めに縛り付ける──はずだった。


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