117 / 409
第一部 嫉妬と情愛の狭間
第117話 光玉 其の二
しおりを挟む忌々しいとばかりに、蒼竜が首を伸ばして空を見上げて唸る。つられるようにして、療と香彩もまた空を見上げた。
この時を待っていたのだと、言わんばかりに降り出した雨は、まだぽつぽつといった具合だった。だがひやりとした空気を含んだ風が吹いてきたことにより、香彩の身体はふるりと震え、身を固くする。決して寒いばかりでないその意味を、療もそして蒼竜も理解していた。
帰らなければならない。
この雨は。
この絹糸のような優しい雨は、春の訪れを告げる雨だ。雨神の儀の兆しである、春冬の長雨の始まりだ。
この国行事に間に合うように行われる、成人の儀。
確かに紫雨は言ったのだ。
──先程言った通り、期限は二日だ。だが事態が動き次第、この期限は無いものと思え。もし調査に出ているのであれば迎えに行く。
──そのまま儀式に移るだろうから、心積もりはしておくことだ。香彩。
事態は動いた。
雨神が止めていただろう兆しの雨は、少しずつだがその強さを増しているようにも思えた。
雨神の儀は長雨が降り、やがて『覚醒の颶風』が吹いてから七日後の早朝が吉日とされている。
嵐のような強い風が吹く前に、成人の儀を速やかに終わらせなければならない。
(──その訳を僕は……)
まだ知らないままだ。
香彩は歩き出す。
真っ直ぐに、岩の上に留まっている蒼竜に向かって。
療が香彩の名前を呼ぶが、香彩は聞こえない振りをした。いま療の顔を見てしまったら、心が揺らぐような気がしたのだ。
「……竜紅人」
蒼竜の前に立ち、香彩がそう呼び掛ければ、蒼竜が近付くなとばかりに軽く唸って香彩を見上げる。
吐く息は、まだ荒いままだ。
竜紅人と、香彩はもう一度、彼を呼ぶ。
蒼竜の威嚇するような唸り声に、拒絶されているのだと思わず怯みそうになるが、香彩は何とか震える口を開いた。
「──僕の胎内に何があるのか、教えてほしい。竜紅人」
『……っ!』
竜形にその姿を変えても、彼の竜顔は雄弁にその心内を語るようだった。
香彩と同じ深翠の竜眼は大きく開かれ、荒々しく吐いていた息が呑まれる。そして威嚇のような唸り声もまた、忘れてしまったかのように聞こえなくなった。
かた、かた、と。
石と石とが、ぶつかり合うような音がする。
それが蒼竜の前肢が震え、鋭爪と岩とか擦れ合い、ぶつかり合う音なのだと知った時、香彩の胸中に聞かなければよかったと、少しばかりの後悔が生まれた。
何かあるのだと言っているも同然のその姿。あからさまに変わった蒼竜のその姿に、香彩は思う。
(……僕の胎内に何が……)
何があるのだというのだろう。
「──竜紅人が何かした……の? その所為で成人の儀が早まった?」
香彩の言葉に、蒼竜はその竜眼を細めた。
開かれる口吻からは鋭い牙が見える。
僅かな沈黙のあと、再び彼は荒々しい息をつきながら、やがて言葉を紡ぎ出そうとした。
『……』
その、刹那。
「──……っっ!! なん……でっ……!」
困惑し、張り詰めた療の声が、静けさを切り裂いた。
慌てて香彩と蒼竜が、療の方へ向き直る。
それは本来であれば、有り得ない光景だった。
苦し気に手で押さえていた胸から、ふたつの納めたはずの『魂の光』が見え隠れしていた。療はそれを自身の『中』へ押し戻そうとするが、反発でもするように弾かれて、勢いよく宙へと舞い上がる。
やがて見つけたとばかりに、ふたつの『魂の光』は、競うように真っ直ぐに飛ぶのだ。
香彩に向かって。
「──えっ?」
威嚇する蒼竜の咆哮を聞きながらも、香彩は何が起こったのか分からないまま、こちらに向かってくる『光玉』を、ただ茫然と見つめていた。
療の『中』に納まったはずの『魂』が、何故療から出て、こちらに向かってくるのか。
そんな疑問が頭の片隅を掠めたが、それはすぐに霧散する。
ふたつの『魂の光』のひとつが、僅かに香彩の腹に触れたところで、それらを掬い上げるようにして拾う、たおやかな白い手があったからだ。
「──……っ!」
がくりと足の力が抜け、香彩はその場に座り込む。
『力』の根本たるを吸われたような、奇妙な感覚がした。
ああ、喰われたのだ、と。
そう自覚した途端、『光』の触れた部分が熱く感じられた。香彩は無意識の内に、自身の腹を庇うように手で押さえる。
『……また縁が繋がったえ。ほんに、みっつとは。罪深き若竜え』
聞き覚えのある声に、香彩は気配の感じるがままに、上を見上げた。
認めたその姿に、思わず息を呑む。
「……どうして……?」
香彩の言葉に薄っすらと笑みを浮かべるのは、本来では正式な召喚を踏まなければ、姿を顕すことのない真竜だった。
降り出した雨が香彩の頬を、ぽつり、ぽつりと叩く。
この兆しの雨を齎すもの。
春の訪れと生命を司る竜、雨神が顕現していた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
132
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる