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第一部 嫉妬と情愛の狭間

第122話 発情 其の四

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 心内で、やはりと香彩かさいは思った。
 いま、蒼竜の御手付みてつきである自分が、蒼竜の発情を治められない理由。


「その様子だと何となく察してた? 交接して発情期の熱を胎内なかで受け止めた時点で、どんなに雨神あまがみが止めていても、引き寄せられて結び付く。新たな真竜が宿る」


 それが一体どういうことなのか。
 何も対策していなければ、どうなってしまうのか。
 先程まで散々話していたことだ。
 ふるりと震える手を、香彩かさいはぐっと握り締める。


「真竜の発情期は執拗だよ、香彩かさい。神気の匂いが変わって、御手付みてつきが発情を促される。熱もより粘着性を増して、確実に『核』と結び付くまで胎内なかに留まり続ける」


 びくりと身体が反応してしまうのを、香彩かさいは何とか堪えた。
 思い出されるのは、変わってしまった竜紅人りゅこうとの神気の匂いだ。濃厚で甘い春花のような香りをほんの少し嗅いだだけで、身体の奥が潤い、開かされていくようだった。
 御手付みてつきを発情させる効果があるという、甘い匂い。
 噎せ返るほどのその芳香に包まれてしまったのなら、きっと逃げることもまま成らず、抵抗すら出来ないだろう。
 蒼竜に片前肢で押さえ付けられたことを思い出す。あの時ですら逃げられず、されるがままの状態だったのだ。


(……あの匂いを吸い込んでしまったら)


 自ら衣着を脱ぎ捨て、求めてしまいそうで怖かった。その熱を全て身体の奥に注ぎ込み灼いて欲しいと、溢れないように蓋をしていて欲しいと、求めてしまいそうで怖かった。
 ふわりとした風が、香彩かさいの周りで生まれては消える。香彩かさいりょうも、風が吹くという、ごく些細な出来事だからだろうか。気付くことはなかった。
 この風の中に微量に含まれる、御手付みてつきの香りに。


「──だから今は逃げないといけないんだ。蒼竜とある程度まで離れたらオイラ、竜形になるから乗って。城の近くまで来たら下ろすから」
「……でも……」
「そのまま、紫雨むらさめのところまで走って。オイラその間、蒼竜を叩き落として時間を稼ぐか……」


 りょうの言葉が不自然に止まる。
 前を見据えた紫闇の目につられるように、香彩かさいもまた後退してきた方向を見る。
 遠くに蒼竜がいた。
 荒々しい息遣いと、時折混じる唸り声がここまで聞こえてくる。
 蒼竜は何かを探すかのように太い首を上げ、口吻を空へと向けていたが、やがてその動きを止めた。
 あれほど聞こえていた荒々しい息遣いもまた、不自然なほど聞こえなくなる。
 まるで探し物を見つけたのだと言わんばかりの、それ。

 あの大きな竜形の、一体どこにそんな敏捷さがあったのだろうか。


 竜翼の羽撃はばたきを認識した気がした。
 りょうが、香彩かさい走ってと、叫んだ気がした。



 だがほんの瞬く間に距離を詰めた蒼竜は、その重さを感じさせない動きのまま、片前肢で香彩かさいを地面に縫い付けたのだ。




「──っ!」


 香彩かさいは息を詰めながら、あの時と一緒だと思った。蒼竜屋敷に連れて行かれたあの時も、逃げるなとばかりに片前肢で押さえ付けられ、身動きが取れなくなった。
 同じ体勢だからだろうか。
 どうしてもあの時の、蒼竜との甘美な刻を思い出してしまう。
 ふわりと、自身の身体から香る御手付みてつきの匂いに、香彩かさいは心の中で後悔をした。
 蒼竜が探していたのは、自分の御手付みてつきの香りだったのだろう。ぐる……と唸り声を上げた蒼竜は、その口吻を首筋に押し付けて匂いを嗅いでいるようだった。きっと竜紅人りゅこうとのことを思い出す度に、香りが増していったに違いない。
 そんな香彩かさいの身体を、甘い芳香が包み込む。御手付みてつきの香りよりも濃厚なそれは、蒼竜の発情した証だ。


(……だめっ……いま、吸い込んだら……っ!) 


 取り返しが付かなくなる。
 蒼竜を求めてしまう。
 やがてお互いに発情が冷め、自我が戻った時に後悔などしたくなかった。
 後悔をして自分自身を責める竜紅人りゅこうとの姿など、見たくなかった。


(だって……ただでさえあんな謝り方……)


 済まない、と言ったあの時の彼の声色を思い出して、胸が締め付けられるようだと思った。
 彼自身が無意識の内に、香彩の胎内なかに『核』を放出した時すらそうだったのだ。発情で自我を失くし、自身の熱によって『核』と『光玉』が結び付いてしまったら、彼は自分自身を責めるだろう。『術力』を失わせてしまったと、責めて責めて責め抜いて、そうして気付けば『彼らしさ』すら失ってしまうだろう。


(──そんなの……嫌だ。絶対に)



 いまここで発情した蒼竜に、引き摺られるように自分も発情して抱かれるのか。
 今から始まるだろう成人の儀で、彼以外の人に抱かれるのか。



 伴う結果が明らかに違うのだ。
 自身の御手付みてつきに違う男の香りが残っていて、たとえ彼が心変わりをしたとしても。 


(……僕が耐えられなくって、心変わりをしたとしても)


 出来たら彼がまだ、笑っていられる方の選択を選びたいと思うのは、果たして間違いなのだろうか。


(そう考えたら答えなんて……)


 答えなんて、初めからたったひとつしかないのだ。


 口吻は、いつの間にか香彩かさいの首筋を離れていた。蒼竜は顔を上げ、じっと見据えているように前を見て動かない。
 香彩かさいは身体を捩らせて、蒼竜の片前肢から何とか両腕を引き出した。そんな様子を感じ取っていたのだろうか。身体を押さえ付けていた片前肢の重みが増す。
 その苦しさに、思わずくぐもった声を香彩かさいは上げた。だが両腕さえ出てしまえば『力』が使える。


(……後悔したくないし……)


 させたくない。
 震える両手を独特な形で組み、『力』を込めて言葉を発そうとした、その時だ。
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