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もどかしい距離
しおりを挟む触れられた翌週、何事もなかったように彼が私の家にやって来た。
シャワーを一緒に浴び、されるがままに身体を洗われながら、鏡に映るふたりの姿を見て惨めになりざわついた心に蓋をして過ごしたこの一週間は、私にとってはひとりで過ごしてきた数年間よりも長く感じたというのに。
彼は、これまでのような爽やかさをまとい、自然に私の前に立っている。
気にしているのは私だけだったのだろうか。
連絡先も交換せずに帰って行った彼の背中を思い出しながら、友人としての関係もこれで終わったのだろうか、そもそも彼が私に求める友人像はどのようなものだったのか、私は彼に何を期待してしまったのか、その期待は何からくるものなのかについて、仕事も手につかずに考えていた私が馬鹿みたいじゃあないか。
「隆義さん、開けてもらえて良かった。俺、あの日あまりにも浮かれていて、連絡先も聞かなかったから」
「えっ、」
「俺、ほんっとうに馬鹿なことしたって思っていました。でも、家にお邪魔しても失礼にならない時間に仕事が終わらなくて、でも仕事中で時間が取れないのにここに来るのも違うなって、それで」
「ぷっ」
さきほどまで悩んでいた自分が気にならなくなるほどの彼の動揺っぷりに、思わず笑いがこぼれた。
誰かの前でこんなふうに笑ったのは久しぶりかもしれない。
彼がそんな私を見て驚いた表情をしたが、すぐに安堵感がみえた。
「そこまで気にしているとはね。あんなことしておいて」
「や、本当にその通りです。でも、気にしますよ。だってやっと隆義さんと……」
じりりと熱が滲んだ視線で見つめられる。
こんなふうに空気感が急に切り替わると対応できるはずもなく、今度が私が動揺し、一歩部屋の中へと下がる。
弘明くんも一歩中へと入り、玄関のドアを閉めた。
外の光がなくなり、少しだけ暗くなった玄関は、この間の熱を思い出させるようだ。
「それで、今日は何をしに……?」
「今日は、あなたとゆっくり過ごしに……。お仕事、忙しくなければ。忙しかったら連絡先だけ聞いて帰ります」
けれど、彼の視線の熱はすぐに消え、今度は垂れた耳が見えた。
連絡先だけのために、わざわざ来てくれたのか。
「ははっ、」
しゅんとした姿が可愛らしいとすら思えてしまう。
「仕事は全然進んでいないが、まあ少しくらいなら」
思わず招き入れてしまったが、彼があまりにも口角を上げて笑うから。
自分でも触れられない胸の奥がくすぐったくなった。
「隆義さん家、小説がたくさんあるんですね。俺も色んなジャンル読みますよ」
棚にずらりと並んだ本を見ながら彼が言葉をこぼした。
もしかして彼が来るかもしれないと思って部屋を片付けていたものの、本棚までじっくり見られるかもしれないとまでは考えが及ばず、ところどころ積まれたままになっている本もある。
でもかえって、それが良かったかもしれない。
雑に扱うのは私の本ばかりだから、背表紙が見えにくくなっていて助かった。
「小説を読むだなんて、意外……なんて言うのは偏見にあたるだろうか?」
「いや、そんなこと思いませんよ。意外って言葉はよく言われますし」
こう見えても月に数冊は読むんですよ、と彼が照れたように頬をかいた。
今時の子はこういった小説は読まないと思っていたが、そうでもないのだろうか。
弘明くんみたいな子に読まれる作家は、きっと幸せだろうな。
「ところで、好きな作家はいるの?」
「好きな作家は、何人かいますよ。でも、ずっと変わらずに好きなのは、高原サワヨシ先生ですね」
その名前に、さっきまで誰かを羨んでいただけの心が、今まで感じたことのない激しさで騒ぎ出す。
彼の口からこの名前が出てくるとは思ってもみなかった。
「そう、なんだ……。私も何冊か持っているよ」
動揺を隠しながら返事をした。彼の言う、高原サワヨシは私だ。
名前にこだわりがなく、ハラサワタカヨシを並び替えただけの名前。有名になるはずもないし、ひっそりと執筆できれば良いだろうと、素朴な名前にした。
まさかそれが、彼の口から聞かれるとは。それならばもっと凝った名前にすべきだったと、くだらない後悔をしてももう遅い。
けれど、彼はそれが私だと気づくはずもないのだから、あまり深く考えなくても良いのかもしれない。
「隆義さんも、サワヨシ先生の本を持っているんですね? 他の本が多くて見つからないけれど、どこにあります?」
「あ、えっと、ここに」
積み上げられた本を指せば、ぱあっと笑顔になった彼が本を手に取った。本への触れ方まで優しい。
彼の家にあるさんたちは、どれも丁寧に扱ってもらえているんだろうな。
「俺、この本全部持ってますよ。というか、ここにないのも、全部持ってます」
「そうなんだ……? でも別に、この先生って有名な方ではないよね? それなのに……」
それなのにどうして、彼は私の本なんかを読んでいるのだろう。
「有名って、ドラマ化していないとか、そんなことで比較しています? だったら俺は、そんなの気にしないですね。作家買いするんです。読んでみて良いなと思った作家さんは、その後出版された本はなるべく買うようにしていて。サワヨシ先生だけは全冊購入してますよ」
「……へえ」
「でも一度もサイン会もないし、メディアに顔も出さないから、どんな人か分からないですよね。俺、会ってみたいんですよ」
これだけ熱のこもった想いを伝えられると、うっかり「実は私が書いているんだよ」と言いたくもなるけれど、そんなことをして彼の期待を壊してしまうことは避けたいから、二度目の「へえ」を伝え、その後は沈黙を貫いた。
話をしなくなった私を不思議そうに見たのは一瞬で、すぐに本棚へと視線を移す。
「にしても、すごい量の本ですね。以前に一緒にいた女性が先生って呼んでいたのって、隆義さんもしかして作家さんですか?」
「……いや、私は小説じゃあなくて、記事を書いているだけだよ。あまり仕事の話はしたくないんだ、もうこれくらいにしてくれ」
小説を書くことは好きだし、自分の中でおさめるのであれば良いのだが、彼を前にして誇れるものではない気がして、嫌な誤魔化し方をしてしまった。
普段から楽しそうに輝いた表情で仕事をしている彼の前では、彼の好きな小説を書いているとは言えなかった。
「え? 隆義さん、怒りました? ごめんね」
別に君に怒ったわけではと、否定しようとしたけれど、その前に彼に唇を奪われる。
不意打ちのキス。一週間ぶりの彼の温もり。
驚いただけでやはり嫌悪感はなく、その事実に胸がざわついた。
「こんなことをするほうが、私に怒られるとは思わないのか」
「隆義さん、怒るんですか? 俺のこと嫌いになる?」
「だから、そんなことっ」
そんなこと……? 私は何を言うつもりだったんだ? 怒るとか、嫌いとか、そういう単純な話じゃあなくて。
「ん?」
ああ、だから、もう、こんなことで。彼の優しい眼差しに思考が停止する。
この考えや感情を、決して避けるべきではないのに。しっかり自覚し、必要であれば遠ざけなければならないものだってあるはずなのに。
気付かないふりをしてやり過ごすことが居心地が良くなってしまってはだめだ。
「隆義さん、次はいつ会えますか? 忙しくなるから、ゆっくりと時間を取れるのは三週間後になるかも」
「今日みたいに家に来るだけなら三週間だろうが一カ月だろうが構わないよ。君も君の付き合いがあるだろうし、こんなおじさんに構わなくて良いんだよ」
「いや、俺は構いたいんですけどね。寂しいこと言わないで」
だから今日はあなたが許してくれる時間を一緒に過ごしたい、と手を握られた。
少しだけ、彼の指先が震えていることに気付く。
「もてなせるものは何もないが……」
「良いですよ、一緒にテレビでも見ましょう。同じ空間や時間を共有するだけで充分です」
私の家なのに彼がソファへと案内してくれる。
カバーの毛玉が気になりながら腰かけると、くっつくようにして彼が隣に並んだ。
猫背の私とは違って、伸びている彼の背筋につられて私も姿勢を正す。
「なんでそんなにシャキッとしているんです?」
彼が顔を覗き込んだ。不意なことで避けられず、鼻がぶつかりそうだ。
彼の揺れた柔らかな髪からは、上品な香りが漂った。
「え、ああ……。姿勢があまりにもおじさんだったから?」
「なんだそれ」
彼を意識し落ち着きなどどこかに捨ててしまった私に対して、彼はお腹を抱えて笑い、一人でいる時よりもソファが沈む。
普段と異なるその感覚に、ソファとは反対に気持ちが浮つく。
こんなことなら三人掛けのソファを購入すれば良かった。
物欲がなく大きな買い物をしないから、お金だけはたくさんある。三人掛けのソファくらい、容易く買えるだろうに。
けれど、どうせ大きなソファを買ったところで彼は、今しているように私に肩を寄せて座るのだろう。
それならば、私がこの距離感に慣れるしかないのか。
今後も彼が家にやって来る度に、落ち着いて隣に並べるように。
「なんだか良いですね。こういうの」
私の肩に頭を預けた彼が、上目遣いで私を見つめた。
息が首筋にかかり、くすぐったい。
「……こういうのって、どういうの」
「あなたとふたりで、こうしてゆっくりと過ごす時間のことですよ」
話を逸らすつもりで返した言葉は、さらなる威力をもって跳ね返ってきた。
動揺を自ら招いてどうするというのだ。
重なり合っていた視線を、壁の本棚へと送る。このまま彼のことを見ていると、触れている肩から私の心臓の音が彼に伝わってしまいそうだ。
頬の内側が、じりりと焼かれるように熱い。彼といる時はいつもこうなってしまう。
「弘明くん、首が疲れるんじゃあ? 私の肩のほうが低いから、痛くなってしまうよ」
「痛みが残るなら嬉しい。あなたとの時間を思い出せるから。それからこの髭も」
「えっ……!」
いくら私の髭が伸びて少し柔らかくなってきたとはいえ、彼は迷いなく自分の頬を寄せた。
「少しだけジョリっとしますね」という彼の笑顔が眩しい。
「この感触も忘れません」
「髭は……、もう剃るよ」
「剃っちゃうんですか? 残念」
本当は残念だと思っていないだろうに。
髭を剃った姿も、また見たいとそう思っているに違いないのに。
以前も髭を剃った私に対して、「髭のないあなたも新鮮で素敵」だと、そう言ってくれたじゃあないか。
出会ったばかりの頃を思い出し、頬の熱を誤魔化すどころか、自ら火をつけていく。
そうしてそんな想像をして、胸の奥までも温かくし、幸せな期待をしている自分自身に、馬鹿みたいだと乾いた笑いがこぼれた。
「じゃあ、今日はこれで。突然お邪魔してすみませんでした。お仕事頑張ってくださいね」
「ああ……、ありがとう」
「三週間後、また来ます。連絡もしますね」
あの後しばらくの間、肩を寄せたままでテレビを見た。
どこかの配信サービスを契約しているわけでもないから気の利いた映画も何もなく、突然のことだからと言い訳して、彼をまともにもてなすこともできなかった。
なんとなく選んだお笑い番組を見ながら、彼はけらけらと笑っていたけれど、私は笑いのツボも分からなければ、スピード感を持って進んでいく掛け合いについていくことができず、取り残されたような感覚があった。
というのは言い訳で、視界に入る本当は彼の横顔を意識しすぎたせいかもしれない。
まだ、触れていた右肩には熱が残っているように思えるし、みっともなく頬も火照ったままだ。おさめ方が分からない。
彼はもう帰ってしまってここにはいないのに、残った香りと、普段とは違うように感じられる室内の温度に、いつまで経っても落ち着きを取り戻せない。
これだけのことでここまで反応してしまうというのに、これから三週間も会えないのだとしたら、私はどうなってしまうのだろうか。
それに、あの日玄関で、あそこまでの醜態を晒す行為をしたし、彼もそれなりに余裕をなくすほどだったと覚えているけれど、今日はたった一度だけで、しかも少し触れるだけの軽いキスだった。
どうして欲情に満ちた瞳で私に触れてくれなかったのだろう。
部屋にあげた時から、どこか期待してしまっている自分がいたことは自覚していた。
肩が触れる度に、視線が交わる度に、ああこのまま私に触れてくれないかと、そんなことを考えていた。
私の頬の熱に負けないくらい、火照った彼の指先で、首筋からうなじへと体温を移し、そのまま服の下にまで手を伸ばしてはくれないものかと。
「あぁ……、なんでこんなこと。みっともない」
もうすぐ五十で、自分を良く見せるための努力もしていない、平凡で、人との関わり方も下手な、ただのおじさんでしかない私が、まだ若くて、眩しすぎるくらいに輝いて見える彼に対して、これだけの期待を抱くことがあって良いはずない。
彼が知ったら、何を思うのだろうか。「隆義さん」と名前を呼びながら、私を見つめ笑ってくれるのだろうか。
そうして、期待を抱く私を、触れてもらえなかったことを残念に思ってしまうような私のことを、可愛い人だと受け止めてくれるのだろうか。
友人の距離感でないことを、はじめに指摘したのは私なのに。
今では私のほうが、彼を求めてしまっているように思う。
この感情を認めた先にあるものは、きっと私にとっても彼にとっても良くないことだろうに。
「私は大馬鹿者だ」
触れてもらえなかった事実が、より前回の熱を強く思い出させた。
ソファに戻り、彼が座っていたところの匂いをかぐ。
微かに残る柔らかな香りで、あの日の体温が蘇る。
彼は、どんなふうに私に触れていた?
「はぁっ、」
隆義さん、と耳元で私の名を囁く彼の声を思い出しながら、彼が触れた通りの順に身体をなぞる。
これまで頻度は多くないにしろ、処理を目的としてばかり抜いていた中で、今日だけは誰かを想い、求めながらしているのだから、人生何があるか分からないな。
この姿を見て何をやっているのだと笑う者はこの場にはいないし、自分の息遣いしか聞こえないこの空間がまた、徐々に私を大胆にさせていく。
彼が私に馬乗りになり、欲情した瞳で射抜くように見つめた。視線を合わせればチカチカと意識が飛びそうになるが、隆義さんと呼ぶ声に現実に戻され、快感を突きつけられる。
こんなふうに想像するだけで、彼がそこにいて私に触れているように思えるほどには、あの日の記憶が鮮明に残っている。
「はぁっ……」
大きく主張した彼のペニスと、私のものも一緒に包み込んでくれる、少しゴツゴツしたあの大きな手はないが、思い出した感触に身を捩らせ、自身の手を上下に動かす。
「ん……、」
刺激が足りない。今までこんなことなかったのに。
私の反応を確かめながら、更なる快感を引き出そうとする彼の指先、そこから伝わる体温、熱を帯びた吐息、滴る汗、欲情した瞳。
はっきりと思い出せるのに、遠い昔のように感じるのは、それだけ私が次を期待し、待ち遠しく思っているからなのだろう。
「本当に、何が友人だ……。こんなことっ、」
熱が収まらずに快感を求め続ける自身を握る手に、徐々に力を込める。
あと少しで果ててしまいそうだと朧げに思った時に、彼の「隆義さん、もうイきそうなの?」と、満足そうに笑う彼の声が聞こえた。
「ああっ……」
ドクドクとした白濁が手から溢れ、床へと垂れていく。
汚れないように何か敷いておけば良かっただとか、早く拭かないと乾いてしまうだとか、そういうことを気にする余裕もなく、ただ、目の前にいない誰かを想いながらこの行為をすることへの痛ましさだけが残った。
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