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知恵熱と嫉妬
しおりを挟む頭と心のどちらの整理もつかないまま、なんとなくもやもやとした日を過ごしていたからだろうか、本当に熱が出てしまった。
疲れやすい身体ではあるものの、ここ数年は風邪など引いたこともなかったというのに。久しぶりの体調不良に気分まで滅入ってしまう。
それに、弘明くんと多少出歩くようになったとはいえ、それ以外に出歩いてたわけでもない。
「もしかして知恵熱?」
そんなわけあるかとひとりで笑っていると、電話が鳴った。
声が枯れているし心配をかけるだろうから出ないほうが良いかもしれないと思ったが、何度もかかってくれば無視できなくなるし、そうなると彼は家にまで来てしまうだろう。
いつもより長いコール音の後に電話に出ると、画面の向こうの彼が嬉しそうに私の名前を呼ぶ。
「忙しかったですか?」
「ちょっと今、締め切り前でね。今日はあまり話せないかもしれない」
「……隆義さん、声が変じゃあないですか?」
「いや、そんなことはないよ」
「絶対嘘だ。俺、仕事帰りに寄ります。もう少しだけ待っていてください」
勢い良く切られた電話に、彼の焦りが伝わった。別に死ぬわけでもなければただの風邪なのに、彼の反応は大袈裟だと笑みが溢れる。
それでも嬉しい。結局心配をかけないように電話に出ても、この声を聞けば彼は当たり前のように私の家に来てくれるのか。
「本当……、どうしたら良いんだろうな」
どのくらいの熱が出ているのかと体温計で熱を測ってみれば、想定していたよりも高く、このままだと彼に無理矢理にでも病院に連れて行かれそうだ。
解熱剤でも飲んでおこうと薬箱を見てみると、期限の切れたものしかない。普段から薬を飲む習慣がないとこういう時に困ってしまうな。
「はぁ……」
かと言って今から薬を買うためだけに出かける気力もない。
大人しく寝ておこうかと思ったが、ベッドに行けばそのまま深い眠りについてしまいそうで、ソファへと寝転んだ。
仰向けになり、白い天井を見つめる。
彼が来るというのに、今日はいつも以上に何のおもてなしもできないな。ソファの毛玉も前より増えた気がする。
よりにもよって、1番古い部屋着を着てしまっているかもしれない。髭も剃っていないし、汗で髪もべたついている。
こんなことなら、鍵も渡していないし、私も気にせず眠りたいから今日は来ないでくれと頼めば良かったのだろう。けれど、卑怯だがそうしたくはなかった。
深く眠ってしまわないようにとソファに寝転んだというのに、思った以上に寝てしまっていたようで、外から何度も聞こえるチャイムの音で目が覚めた。
重い身体を引きずるようにして、できるだけ急いで玄関の扉を開けると、両手に袋を持って息を切らした弘明くんがいた。
「ああ! 良かった、本当に……」
私の顔を見るなり安堵の表情にかわり、「鳴らしてもドア開けてくれないし、電話にも出てくれないから、めちゃくちゃ焦った……」と座り込む。
「ごめんね」と言いながら彼の顔を覗き込むと、彼が私の額に触れた。指先が冷たく、体温の上がった私にはそれがあまりにも気持ち良く感じられて、思わず擦り寄ってしまう。
「可愛いけれど、こうしている場合じゃあないですね。隆義さん、顔がすごい赤いし、めっちゃ熱いです」
立ち上がった弘明くんが私の手を引いて部屋へと上がる。寝室に彼を入れたことはないが、どこに何の部屋があるのか把握しているからそのまま連れて行かれ、ベッドに寝かされた。
「夕飯食べてないですよね? 食欲ある? あるならお粥を作りますけど」
食欲はあまりなかったが、彼の手作りのお粥を食べる機会が今後どれだけあるのか分からない。一度くらいは嘘をついて食べたところでバチは当たらないだろう。
「飲み物もゼリーも買ってきたけれど、それはいりませんか? おかゆが微妙ならそれを食べるのでも大丈夫ですよ。何かはお腹に入れてほしいから」
「いや、手間をかけさせて悪いが、お粥をもらおうかな。あと飲み物ももらえるとありがたい」
「分かりました。それから、熱冷ましのシートも貼っておきましょうね」
ペットボトルの飲み物をわざわざコップに入れて、彼がベッド横のデーブルまで運んできてくれた。そのまま額にシートまで貼ってくれ、子どもの頃に母親にそうしてもらったことを思い出す。
久しぶりに貼ったそれは冷蔵庫で冷やしていたわけではないものの、それでも冷たくて顔が歪んだ。
「君にこんなシートを貼られるなんて不思議な気持ちだよ」
「俺は嬉しいですけどね。こんなこと言うとあれですけど、隆義さん子どもみたいで可愛いです。……それじゃあキッチン使わせてもらいますね」
手を振りながら寝室を後にする彼の背中を見ていると、じんわりと気持ちが落ち着いていく。
お湯を沸かす音、パックご飯を開ける音、卵を溶く音、ネギを切る音。
自分以外の気配がするだけでもどこか特別な気持ちになるというのに、台所から誰かが料理をする音が聞こえることには、さらに懐かしさも感じる。
熱で弱っているからか、それだけでどうしてか泣きそうになる。
そんなことを思いながら、だんだんと重くなってくる瞼に抗うことなく、そのままゆっくり目を閉じた。
「隆義さん、できたよ」
また眠ってしまっていたようで、頭を撫でられ、彼に優しく起こされた。大袈裟な彼は、ベッドから起き上がる私の背中を丁寧に支えてくれる。
「そこまでしなくても大丈夫なのに。おじいちゃんみたいだ」
「何を言っているんですか。全部甘えてほしいから、やりたくてやっているんですよ」
「甘えてほしいって……」
「いいから、いいから。隆義さん、どうしますか? ここで食べる? それともリビングに行く?」
「リビングに行く……」
「それじゃあ、」
「え、……え!?」
身体がふわりと宙に浮く。
所謂お姫様抱っこというものをされていると気がつくのに数秒かかった。あまりにもしっかり抱かれているせいで抵抗もしにくい上に、体力の落ちている今、それができるわけもない。
「……楽しみすぎじゃあないか? 私が弱っているからと言って、こんなこと」
「だってこのために鍛えているんですもん」
「嘘つけ」
このまま大人しくしていてくださいね、と耳元で囁かれキスをされた。優しく響いたそのリップ音に、さらに大人しくするしかなくなってしまう。
「はい、着きましたよ」
ゆっくりと下され、ソファがいつもと違う沈み方をする。時間をかけて座ると、こういう感覚になるのだな。
「何から何までありがとう」
「お粥、食べさせますか?」
「……さすがにそれは大丈夫だ」
「え~。じゃあ俺が熱を出した時はやってくださいね」
「はいはい」
さっきまであまり食欲がなかったが、湯気が立ち、見るだけで卵がふわりとしているのが分かるそのお粥を前にして、食欲が出てきたように思う。
弘明くんは、料理が上手だな。こういうところまでも完璧すぎる。
「いただきます」
差し出されたスプーンを受け取り、お粥を掬うと、素朴だけれどおいしそうな匂いが漂う。
「良い匂いだ」と伝えると、彼が照れたように笑った。「おいしいと良いけれど」と、私の反応を待っている。
熱いからと何度か息を吹きかけ、それからゆっくりと口へ運んだ。
「ん……! おいしい!」
「本当ですか? 良かった~! お粥作ることなかなかないからちょっと緊張していました」
「私も誰かに作ってもらったのは何十年振りかもしれない。おいしいよ。ありがとう」
ふーっと冷ましながら、次々に口に運ぶ。
「お代わりあるから、食べるなら言ってくださいね」
「弘明くんは? 余っているなら君も一緒に食べないか?」
「隆義さん、もういらないの?」
「足りなかったら、買ってきてくれたゼリーでも食べようかな」
じゃあ……と、彼が残ったお粥を茶碗によそい、私の隣に座る。
その瞬間、チャイム音がした。
「あれ? 誰だろう。何も頼んでいないんだが」
「あ、俺が見てきます。隆義さん、座って残りを食べてて」
その言葉に甘え、彼の背を見つめながらお粥を口に運ぶ。
「……え?」
「あれ……? 弘……なんとか君じゃあないですか。先生は?」
「……えっと、棗、さん?」
「そうです。棗さんです。先生に連絡しているのに繋がらないから何かあったかもって思って……」
呑気にお粥を食べていたけれど、聞こえる声に立ち上がりのそのそと玄関に向かえば、両手に袋を持っている棗さんが立っていた。
慌てて確認すると、連絡が何件も入っている。
「ごめん、連絡をくれているのに気づかなかったみたいだ」
「見ていないだけかなと思ったんですけど、もしかして今度こそ本当に体調が悪かったらと思って、いつもの癖で来ちゃいました。先生、どうされたんですか……?」
「ただの風邪だよ。棗さんには、こういう心配をかけてばかりだね」
「いや、全然良いんですよ! でも、そっか、もう私が来なくても良い時があるんですね」
とりあえず置かせて欲しいと、棗さんが玄関先に袋を置く。重かっただろうに、飲み物やゼリーがたくさん入っていた。
「棗さん、少し上がってって」
「いや、でも先生、熱冷ましのシート貼っているくらいだから熱がすごいんでしょう? ゆっくりしててください。今日連絡したのは新しいお仕事のことについてだったんですが、また後日連絡します。急ぎのものではないからまずはしっかり体調を良くしていただいて」
「本当にすまない」
「なあに落ち込んでいるんですか、全然良いんですよ。私が勝手にしたことだから! でも先生、もう私以外にも何かあった時にそばにいてくれる人がいるってことですもんね。なんだか寂しいけれど、嬉しいなって思います。でも変わらず私も頼ってくださいね!」
相変わらず一気に言いたいことをハキハキと伝える棗さんの話を、彼が目を丸くしながら聞いている。
棗さんの発言は、いつも一回の文字数が多いんだよね。一見おとなしそうに見えるから、そのギャップに驚いてしまう人が多い。
その光景を見ながら、玄関先で弘明くんと二人で棗さんに向き合っているのは不思議なことだと、そんなことを思った。
「まぁでも先生がシートを貼っているレアなお姿を見ることができてハッピーになれましたよ。ぷっ! 可愛いから写真に残しておきますね。先生こっち向いて! はい、チーズ!」
「やめなさい!」
止める間もなく素早くカメラを起動した彼女が私の姿を写真におさめた。手で顔を隠してみたけれど、きっと間に合わずにブレて、白目を剥いたような変な顔で写っていることだろう。
見せてはくれないが、ゲラゲラ笑う彼女を見ていると、私の予想は外れていないように思う。
そうして色々なことに満足したのか、それじゃあ今日はこれで、と彼女が帰ろうとした時、弘明くんが「連絡先を交換しませんか?」と声をかけた。
今度は棗さんが目を丸くして立ち止まる。
「私と?」
「はい。こういう時に俺が来ているって分かれば棗さんが心配し続けたり、わざわざ来る必要もなくなるし、反対に俺が隆義さんと連絡が繋がらなかった時とか、何か心配なことがあった時に棗さんに聞けるかなって」
彼女に負けないくらいに、弘明くんが一気に話しかけている。
緊張しているのか珍しく早口だ。
「いきなり知らない人と連絡先を交換するのは抵抗があるかもしれませんが、……どうでしょうか?」
「なるほど、それは良いですね! そうしましょう!」
「良かった! 俺、取ってくるんで待っててください!」
弘明くんが小走りでリビングへと戻り、自分のを急いで持って来ると、彼女の正面に立ち、QRコードを表示して見せる。
「あ、じゃあ私がこれを読み込みますね」
「お願いします。原沢弘明って名前のです」
読み込んだものがどのように表示されるかもほとんど知らない私は、少しだけ近づいて画面を一緒に見てみるものの、よく分からない。
「フルネーム派なんですね? てか、先生と同じ名字!? 原沢さんなんですね。じゃあ紛らわしいし、私も弘明くんって呼ぼうっと」
「全然良いですよ。じゃあ俺は先生と同じで棗さんって呼びます。あ、棗さん、このアイコンのキャラ好きなんですか?」
弘明くんが私の名前を知りたがり、隆義さんと呼ぶきっかけになった時と同じ理由で、彼女が彼の名前を呼ぶ。
名前の呼び方ひとつで動揺していた私とは大違いな、自然なやりとり。すぐに打ち解け、二人とも笑顔を見せている。
「このキャラ好きなんですよ。なんだか先生に似てません? ちなみにこのスタンプも持っているんです、ほら」
「本当だ、可愛い。確かによく見ているとじわじわ隆義さんに似てきた感じがします」
「でしょ? 弘明くん、なんだか良い子なのがすごい伝わりますね! ね? 先生!」
「あ、ああ……」
二人のやりとりなんてたった数分の出来事だというのに、体調が悪いのもあってか数十分くらいかかったように思えた。
会話のテンポも、私がインストールしていないアプリでのやりとりの話も、スタンプがどうだとかいう話も、何より歳がそこまで離れていない男女の二人が並んだ姿が、私には一番堪えたかもしれない。
笑い合う二人が、思わず彼の肩を叩く彼女の姿が、あまりにも自然に見えた。私が彼の横に並んだ姿と比較しようがない。
気づかれないほどの小さなため息をつき、そっと壁にもたれかかる。
誰も悪くない上に、ふたりとも私のためにやってくれていることなのに、こんなことを考えてしまう自分が情けなくてたまらない。
「それじゃあ、今度こそ本当に帰ります。先生、お大事になさってくださいね。体調が良くなったら連絡ください。一応詳細はメールにてお送りしときますから、また良いタイミングで確認してくださいね!」
「本当にすまない。ありがとう。確認しておくよ」
玄関先で棗さんを見送り、それからリビングへと戻る。食べかけだったお粥は、水分を吸って膨らんでいた。
「せっかく作ってくれたのに、冷めてしまったね」
「もう一度温めましょうか?」
「いや、私はこれで大丈夫だ。冷めてもおいしいままだから」
「そうですか? じゃあ俺もそのままで」
ソファに並んで座り、なんとなく無言で残りのお粥を食べ続ける。
弘明くんもどこか気まずさがあるようで、「いつもはこっちのソファで食べずに、あっちのテーブルで食べているんですよね?」などと、さっきまで気にしていなかった意味のない質問をしてくる。
ああ、と私が返事をすれば、呆気なく終わってしまう会話。そこからの続け方も分からない。
時々視線が合うたびに、お互いぎこちなく微笑むことを繰り返しながら、お椀に盛られたお粥をひたすら無言で食べ続けた。
「ごちそうさま。おいしかったよ、ありがとう」
「あ、片付けますね」
お椀を重ねて運ぼうとする彼に、それくらい私がするからと手を伸ばせば、やんわりと断られ、そのまま台所へと持って行かれてしまった。
「……何から何まですまないね」
「良いんですよ! 隆義さん、ゼリー食べます?」
「……じゃあ、せっかくだからいただこうかな」
彼が冷蔵庫からゼリーを選び、食器棚から慣れた手つきでスプーンも取り出す。
どうぞと差し出されたゼリーはみかんの果肉が入ったゼリーで、私の好みのものだった。
さっきまでの気まずさが少し消え去り、こんな些細なことで感動しながら容器の蓋を開ける私をよそに、彼はさらりと鍋とお椀を洗い始める。
慌てて立ち上がると、「ストーップ!」と大きな声で止められ、座るよう促された。
大して洗うものはないからと何度も言われ、それに甘えることにした。
素直に甘える私に、彼の表情にも笑顔が戻ってくる。
そんな彼の様子を見ながら、申し訳なさからいつもより大きな声で「おいしい」と言ってみた。
掠れている声を心配しながらも、その言葉を聞いた彼が嬉しそうに笑う。
「私がみかん好きだって知ってくれていたの?」
「いや、知りませんでした。隆義さんって、みかん好きなんですね。良かった! 俺が好きなものを買って来たんですけど、隆義さんの好みだったとは」
そんなやりとりをしながら、彼が「棗さんが買ってきてくれたもの、冷蔵庫に入れときますね」と玄関から袋を持ってきてくれた。
「あ……」
「ん? どうかした?」
袋の中を見たままで彼が固まる。何となく立ち上がり隣に並んで見れば、袋の中にみかんのゼリーやヨーグルトがたくさん入っていた。
私の好きなものばかりだが、それがどうかしたのだろうか?
「弘明くん……?」
「棗さん、たくさん買ってきてくれていますね。しかもゼリーもヨーグルトもみかんのものばかり。あなたの好みをよく知っている……。いつもこんなふうに彼女が持ってきてくれるんですか?」
「いつも、というかここ最近かな。私も元々は体調を崩すことがあまりないからね」
「それでも、こうして連絡がつかないからというだけですぐに駆けつけられる関係性って良いですね。隆義さんの好みも把握しているし。本当にあなたにとって唯一の友人なんですね。……なんだか嫉妬しちゃうな」
彼は私のほうを向くことも、視線を合わせることもなく、淡々とそんなことを言う。
怒っている? どうして嫉妬?
彼女と恋愛的にどうこうだなんて、そんなことはあり得ないと、弘明くんも分かっているはずなのに。
それにさっきまで、二人で楽しく話していたじゃあないか。
「……そんなこと言いながら、ちゃっかり連絡先を交換していたくせに」
ふと、嫌味のような言葉がこぼれた。私と彼女に嫉妬すると言うけれど、私からすれば、彼と棗さんのほうが話が合うようだったし、年齢差もそこまでない男女で、何も不自然なことがなかった。
一方で私と彼女は、仕事仲間で友人ではあるけれど、それだけでしかない。
私から彼女に対しての恋愛的な好意だけではなく、彼女から私に対してのそれも、何もないと見ていて分かるはずだろう?
どうしてたったそれだけのことで、嫉妬するなどと言うのだろうか。
君たちのほうが、君たちのほうがよっぽど……。
元々合っていない視線を、彼から大きく逸らす。涙が出ているわけでもないが、今見つめられたら自分がどんな反応をしてしまうか分からない。
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「……っ、」
自分が発した嫌な言葉の撤回もフォローもできず、ただただ無言でその場にいると、体温がさらに上がってくるように感じる。
この場から逃げたいし、ベッドへと潜りたい。今、彼とやりとりをしたくない。
熱が上がってきたようだから、と彼の顔を見ることもなくそう言い、寝室へと向かおうとすれば、腕を掴まれそれを阻止された。
私の腕を掴む彼の手には力が込められており、指先が食い込んできて痛いくらいだ。
「……どうして分からないんです?」
「え?」
「連絡先交換だって、そんなの、今日俺が隆義さんにしたことを、俺の知らないところで棗さんにやってほしくないからですよ。あなたが棗さんと仲が良いとか、彼女が素敵な人だとか、そういうことは一旦無しにして、それでも俺以外にあなたが弱っているところを見せてほしくないんです。そういう気持ちだけですよ」
彼の言葉で私の気持ちが少し緩んだことに気づいたのか、すっと引き寄せられ、そのまま抱きしめられた。
彼の胸元に顔を押し付けられるような形でそれがなされているから、私の顔も見られることはないし、彼の顔も見ることができない。
自分の顔は見られたくないけれど、彼の顔は見たいと、そんな矛盾した気持ちになった。
こんなことを言ったら、さすがに怒られてしまうだろうか。
「隆義さん」
「……ん?」
「まさかとは思いますが、俺が棗さんと連絡先を交換したことに嫉妬してくれたんですか?」
「……なっ、」
「まさか、本当に?」
「……いや、そういうわけじゃあ、」
「ふっ、そっか。そうなんですね」
熱いね、と言いながらそっと首筋に口付けられ、後頭部を優しく指先で撫でられる。
そのせいでまた体温が上がり、私の周りの空気まで熱くなっていくようだ。
彼に「耳まで真っ赤なのはどうして?」と囁かれ、「見ないでくれ」と返すも、腕の中でそれ以上の抵抗ができるわけでもない。
そういう私の心の内も彼はお見通しなのだろう。頭を撫でる手がさらに優しくなったように感じる。
私はそれまでだらりとしていた手を、彼の背中へと回してみた。彼は少しだけ驚き、それから同じようにして私の背へと手を回す。
「隆義さんって、本当に可愛い人ですね。弱ってなかったら、今日もあなたに何をしていたか分かんないですよ。そろそろ色んなことが我慢できなくなりそうだ。元気になったら覚悟しててください」
「……何の覚悟を」
「色んなことのですよ」
「なんだそれ」
私を抱きしめていた彼の手が緩み、今度は私の頬を包み込む。やっと見えた彼は、眉を垂らして私を見ていた。
「隆義さん、何かあった時はまず俺を頼ってくださいね。約束ですよ。俺は、一番に駆けつけられる人になりたいんです」
返事をする前に口を塞がれる。「熱が移るよ」とすぐに離せば、「移せばいい」と再度キスをされた。
あれだけ自分の顔を見られたくなかったのに、彼の顔を見てしまった今、今度は目が離せなくなる。
それが名残惜しそうに映ったのか、彼は微笑みながら私の頬や鼻にもキスを落とした。
「隆義さん、もっと?」
「そういうわけじゃあ……」
「まあいいや。早く元気になってくださいね」
「あぁ……」
行きましょうか、と彼に手を引かれながら寝室に向かう。ベッドに寝転ぶと、彼は隣りに座り、私の手を握った。
別に大きな風邪を引いたわけでもなく、ただ身体がだるく、熱があるだけだというのに、こうも優しくされてしまうと、彼の体温がなくなった時のことを想像して心細くなってしまう。
……できることならずっと、ここにいて欲しい。私を置いて帰らないで欲しい。
「もう寝ますか?」
「……もう少しだけ、こうしていてくれ」
「ふふ、分かりました。あなたが眠るまで、こうしていますね」
「そ、それなら、その、もし良かったら……」
寝ていた身体を起こすと、咄嗟に彼が支えてくれる。
必要なものがあれば俺が取りに行くからと言われ、その言葉にすら甘え、リビングにある棚の二段目の引き出しから赤色の箱を取ってきてもらった。
「これがどういう意味を持つのだとか、そういうことは抜きにして、もしこの後私が、君が帰る前に眠ってしまった時のことを考えて」
「はい」
「ポストに入れておいてくれ、と頼めば良いのかもしれないが、私がポストに入れておく、という行為をあまり信用していなくてだな」
どのように伝えるのが正解か、分からない。自分から始めたことなのに、急に彼の反応が怖くなってしまう。
「……ん? 隆義さん?」
「それで、その、なんと言えば良いのやら」
できる限りの言い訳を並べてみたが、そのせいでさらにその先の言葉を言いにくくなり、箱の中身も取り出せなくなってしまった。
固まった私を見て何かを察したのか、弘明くんは箱を持つ私の手を優しく包み込む。
「隆義さん」
「……ん、」
「俺、この先の話、期待して良いんでしょうか。これって勘違いでなければ、家の鍵ですよね?」
「えっ? あぁ……、そう、家の鍵なんだが」
「今日貸してくれるんですか? それとも、貸すんじゃなくて、俺にくれるんですか?」
「……あげようかと、」
「よっっっしゃあああ!!」
「え!?」
聞いたことのない声量で叫びながらガッツポーズをする彼に、思わず驚きの声を大声で返した。
そんなに喜んでもらえるとは思っておらず、予想外のことに頭が混乱する。
そもそも彼の言う通り、今日貸すだけで済むことだったのか。
そうすれば何の言い訳も考えることなく、「次に会った時に返してくれたら良い」と渡すだけで終わったのに。
それでも、こんなふうに喜びを表現してくれる彼を見ていると、やはり今回貸すだけだとは今更言い直したくはない。
「迷惑じゃあないのか?」
「迷惑って何のことですか? 俺、今が人生で一番嬉しいかもしれないし、ここまで来たらこの嬉しさを更新していきたいとすら思ってしまいます。俺、どんどん欲張りになりそう。いんですか。隆義さんてば、俺をどうしたいんですか。うう……、隆義さんを看病できただけでも嬉しかったのに」
貸してください、と言う彼に箱を渡すと、その中に入っていた予備の鍵を手に取り、それにキスをする。
驚く私についでにキスをし、部屋の電気にかざすようにして眺め始めた。
まるで宝石でも見ているかのようだ。ただの鍵なのに。
「よく分からないが、嫌でないなら今日はその鍵を使ってもらえると嬉しい」
「今日だけとは限らずに使わせてもらうし、大切にします。まあ隆義さんがいない時とか、連絡なしに来ることはないですけどね。でも鍵を貰ったって事実が、こんなにも嬉しいんです。俺、今日はもうダメです。隆義さん病人だから早く休ませなきゃいけないのに、嬉しくて嬉しくてこんなに騒いだりなんかして。この気持ちを伝える相手もいないから、あなたにこうしてぶつけるしかないし。喋り続けてしまいます、やばいですね俺」
まるで棗さんのように話し続ける彼に、思わず吹き出して笑うと、それにつられて彼も笑った。
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首元の布団を整えたついでに指先で頬を撫でられた。体調が優れずに人に甘える経験など、一体何十年振りだろうか。
「とりあえず、隆義さんが眠るまではいますから」
「眠るまではさすがに申し訳ないから、あと少しだけで」
「まあまあ、気にせずもう休んでください。仮に寝てしまっても、俺も好きなタイミングで帰りますから。心配いらないですよ」
トントンとリズムよくお腹の辺りに触れられているうちに、少しずつ瞼が重くなっていく。
あれだけ寝ないと言っていたのに、あまりにも呆気ないな。
「早く元気になってね」
意識がぼんやりとする中で、彼の言葉や体温をいつまでも確かめた。
私がもう寝ていると思ったのか、弘明くんは、最後に「可愛い人」と私にキスをする。
彼が立ち上がる音、ドアが開けられる音、玄関の鍵が閉められる音、それらの音を聞きながらどうしてか涙が溢れた。
嬉しさと虚しさ、様々な感情が入り混じる。帰らないで欲しいと素直に言える私ならば、関係性ならば良かったと、そんなことを思いながら頬を流れる涙を拭った。
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