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第1話 婚約破棄の宣告
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「レティシア・アーベルグ嬢、君との婚約を破棄させてもらう。」
冬の訪れを告げる冷たい風が、王都ローディアの貴族街を吹き抜けていた。磨き上げられた白い石造りの広間に、その言葉だけがやけに鮮明に響く。誰かが息を呑み、誰かが興味半分に囁きを交わした。けれど、当の本人であるレティシアは、まるで時間が止まったように立ち尽くすしかなかった。
「……今、何とおっしゃいましたの?」
声が震えた。けれど、どうしようもなかった。目の前に立つのは、彼女の婚約者であり、子どもの頃から未来を誓い合った男――アラン・ルーデンハルト侯爵家の嫡男。整った金髪と灰色の瞳。誰が見ても完璧な青年貴族。その唇から、今確かに――婚約破棄の言葉が告げられたのだ。
「何度も言わせるな。君との婚約を、今日この場で破棄する。私は……いや、私はもう別の人を愛している。」
ざわめきが広がる。周囲は貴族たちの社交の場、冬の舞踏会。煌びやかなシャンデリアの光が、冷酷な宣告をいやに白々しく照らしている。
「別の人……?」
「そうだ。リリアだ。リリア・ハートフィールド、君も知っているだろう。侯爵家付きの侍女をしていたが、今では私の婚約者だ。」
その名を聞いた瞬間、心臓を握りつぶされるような衝撃が走った。
リリア――レティシアの侍女であり、妹のように可愛がっていた少女。几帳面で控えめで、いつもレティシアの傍らで寄り添ってくれていた。そんな彼女が、アランと……。
何もかも信じられなかった。頭が真っ白になる。
「アラン様、それは、何かの冗談で――」
「冗談ではない。」アランの目には、かつての優しさの欠片もない。「君はいつも高慢で、人の上に立つことしか考えていなかった。リリアは違う。彼女は温かく、誰にでも優しい。私が傍にいて癒されるのは、彼女だけなんだ。」
会場の空気が一気に変わった。貴族たちが表情を隠しながらも、目配せし、囁く。
「やはりアーベルグ家は傲慢なのだ」「侯爵家も大変ね」「リリア嬢、以前から噂が……」
その噂話が、針のようにレティシアの胸を刺す。だけど、涙は出なかった。出せなかった。そんな姿を見せたら、負けだと思った。
「……わかりました。」
静かな声でそう告げた。アランをまっすぐに見つめ、張り付いたような笑みを作る。
「婚約破棄をお望みなら、受け入れます。ただ――ただ一つ、お願いがあります。」
「何だ?」
「決して、二度と私の前に現れないでください。」
言い終えた途端、周囲が凍りついた。リリアがアランの腕に縋り、涙ながらに彼を見上げていた。「アラン様、もういいのです。この場では……」
けれど、アランは何も言わず、ただ背を向けた。
レティシアはドレスの裾を踏まないようにそっと持ちあげ、堂々とした足取りで会場を出た。背中に感じる好奇の視線も、哀れみの囁きも、すべて無視した。
王都の夜は冷たかった。吐いた息が白い。馬車乗り場でしばらく立ち尽くしていると、膝が震えた。心の奥が空洞になる。ふと、笑いがこみ上げた。
「……滑稽ね。完璧な淑女を演じて、このざま。」
馬車が出るとき、涙が一粒だけ頬を伝った。それでも、泣き叫ぶことはしなかった。泣いたって、誰も慰めてはくれないのだ。家に戻ったレティシアを待っていたのは、冷たい沈黙だった。
「お前のせいでアーベルグ家の名誉は地に落ちた!」
父の怒号が響く。厳格な伯爵は、怒りのままに机を叩いた。
「婚約破棄だなど、なんという醜聞だ。お前の振る舞いが問題視されたせいではないのか!」
「違います……私、何も……」
「嘘を言うな! 婚約者を侍女に奪われるなど、恥以外の何物でもない!」
母はただ泣き崩れた。兄は遠くで黙ったまま拳を握っていた。誰一人、彼女を庇おうとはしなかった。
夜、部屋で布団に包まっても、冷たい現実は消えない。
――このままでは、窒息してしまう。
数日後、レティシアは王都を離れる決意をした。すべてを捨てて、誰も知らない場所へ行こうと考えた。届かない思いも、名誉も、期待も。何もかもいらない。自分のために、生きてみたかった。
父からは絶縁を告げられ、わずかな持ち金と衣服だけを渡された。家を出るとき、彼女は少しだけ笑った。
――これで自由だ。
辿った先は、アーベルグ家の領地から遠く離れた北方の辺境地。雪深く、王都の華やかさとは無縁の場所。人々は質素だが温かく、彼女の名を知らないことに、ほっとした。
小さな宿屋で働かせてもらえることになった。貴族の娘が雑巾を持つとは思いもしなかったが、不思議と嫌ではなかった。
「お嬢さん、手慣れとるな。」
宿の女将が笑う。レティシアも、それに微笑み返した。
「ええ、少しは……やることがある方が楽ですから。」
「そうやって、少し食べていけるようになればええ。無理せんことやで。」
暖炉の火がはぜる音がして、ようやく心の底が解けていくような気がした。
だが、その静かな生活を打ち破るようにして、ある日、宿の玄関に雪を踏みしめながら現れた一人の男がいた。
大柄で、厚手のマントに包まれた騎士風の男。片手には壊れた剣を持ち、顔には小さな傷跡がある。無愛想そうな表情なのに、どこか疲れた瞳が印象的だった。
「宿は、ここであっているか。」
「はい、いらっしゃいませ。」
レティシアが頭を下げると、男はしばらくじっと彼女を見つめた。笑いも怒りも浮かべず、ただ観察するように。
「新しい娘か。」
「ええ。少し前に雇ってもらいました。」
短いやりとりのあと、男は黙って宿帳に名前を書いた。その筆跡は驚くほど整っていて、レティシアは小さく目を見張った。
(騎士……? それとも、逃れてきたのかしら。)
彼は名をエドガーと名乗った。それが、彼女の運命を変える出会いになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
続く
冬の訪れを告げる冷たい風が、王都ローディアの貴族街を吹き抜けていた。磨き上げられた白い石造りの広間に、その言葉だけがやけに鮮明に響く。誰かが息を呑み、誰かが興味半分に囁きを交わした。けれど、当の本人であるレティシアは、まるで時間が止まったように立ち尽くすしかなかった。
「……今、何とおっしゃいましたの?」
声が震えた。けれど、どうしようもなかった。目の前に立つのは、彼女の婚約者であり、子どもの頃から未来を誓い合った男――アラン・ルーデンハルト侯爵家の嫡男。整った金髪と灰色の瞳。誰が見ても完璧な青年貴族。その唇から、今確かに――婚約破棄の言葉が告げられたのだ。
「何度も言わせるな。君との婚約を、今日この場で破棄する。私は……いや、私はもう別の人を愛している。」
ざわめきが広がる。周囲は貴族たちの社交の場、冬の舞踏会。煌びやかなシャンデリアの光が、冷酷な宣告をいやに白々しく照らしている。
「別の人……?」
「そうだ。リリアだ。リリア・ハートフィールド、君も知っているだろう。侯爵家付きの侍女をしていたが、今では私の婚約者だ。」
その名を聞いた瞬間、心臓を握りつぶされるような衝撃が走った。
リリア――レティシアの侍女であり、妹のように可愛がっていた少女。几帳面で控えめで、いつもレティシアの傍らで寄り添ってくれていた。そんな彼女が、アランと……。
何もかも信じられなかった。頭が真っ白になる。
「アラン様、それは、何かの冗談で――」
「冗談ではない。」アランの目には、かつての優しさの欠片もない。「君はいつも高慢で、人の上に立つことしか考えていなかった。リリアは違う。彼女は温かく、誰にでも優しい。私が傍にいて癒されるのは、彼女だけなんだ。」
会場の空気が一気に変わった。貴族たちが表情を隠しながらも、目配せし、囁く。
「やはりアーベルグ家は傲慢なのだ」「侯爵家も大変ね」「リリア嬢、以前から噂が……」
その噂話が、針のようにレティシアの胸を刺す。だけど、涙は出なかった。出せなかった。そんな姿を見せたら、負けだと思った。
「……わかりました。」
静かな声でそう告げた。アランをまっすぐに見つめ、張り付いたような笑みを作る。
「婚約破棄をお望みなら、受け入れます。ただ――ただ一つ、お願いがあります。」
「何だ?」
「決して、二度と私の前に現れないでください。」
言い終えた途端、周囲が凍りついた。リリアがアランの腕に縋り、涙ながらに彼を見上げていた。「アラン様、もういいのです。この場では……」
けれど、アランは何も言わず、ただ背を向けた。
レティシアはドレスの裾を踏まないようにそっと持ちあげ、堂々とした足取りで会場を出た。背中に感じる好奇の視線も、哀れみの囁きも、すべて無視した。
王都の夜は冷たかった。吐いた息が白い。馬車乗り場でしばらく立ち尽くしていると、膝が震えた。心の奥が空洞になる。ふと、笑いがこみ上げた。
「……滑稽ね。完璧な淑女を演じて、このざま。」
馬車が出るとき、涙が一粒だけ頬を伝った。それでも、泣き叫ぶことはしなかった。泣いたって、誰も慰めてはくれないのだ。家に戻ったレティシアを待っていたのは、冷たい沈黙だった。
「お前のせいでアーベルグ家の名誉は地に落ちた!」
父の怒号が響く。厳格な伯爵は、怒りのままに机を叩いた。
「婚約破棄だなど、なんという醜聞だ。お前の振る舞いが問題視されたせいではないのか!」
「違います……私、何も……」
「嘘を言うな! 婚約者を侍女に奪われるなど、恥以外の何物でもない!」
母はただ泣き崩れた。兄は遠くで黙ったまま拳を握っていた。誰一人、彼女を庇おうとはしなかった。
夜、部屋で布団に包まっても、冷たい現実は消えない。
――このままでは、窒息してしまう。
数日後、レティシアは王都を離れる決意をした。すべてを捨てて、誰も知らない場所へ行こうと考えた。届かない思いも、名誉も、期待も。何もかもいらない。自分のために、生きてみたかった。
父からは絶縁を告げられ、わずかな持ち金と衣服だけを渡された。家を出るとき、彼女は少しだけ笑った。
――これで自由だ。
辿った先は、アーベルグ家の領地から遠く離れた北方の辺境地。雪深く、王都の華やかさとは無縁の場所。人々は質素だが温かく、彼女の名を知らないことに、ほっとした。
小さな宿屋で働かせてもらえることになった。貴族の娘が雑巾を持つとは思いもしなかったが、不思議と嫌ではなかった。
「お嬢さん、手慣れとるな。」
宿の女将が笑う。レティシアも、それに微笑み返した。
「ええ、少しは……やることがある方が楽ですから。」
「そうやって、少し食べていけるようになればええ。無理せんことやで。」
暖炉の火がはぜる音がして、ようやく心の底が解けていくような気がした。
だが、その静かな生活を打ち破るようにして、ある日、宿の玄関に雪を踏みしめながら現れた一人の男がいた。
大柄で、厚手のマントに包まれた騎士風の男。片手には壊れた剣を持ち、顔には小さな傷跡がある。無愛想そうな表情なのに、どこか疲れた瞳が印象的だった。
「宿は、ここであっているか。」
「はい、いらっしゃいませ。」
レティシアが頭を下げると、男はしばらくじっと彼女を見つめた。笑いも怒りも浮かべず、ただ観察するように。
「新しい娘か。」
「ええ。少し前に雇ってもらいました。」
短いやりとりのあと、男は黙って宿帳に名前を書いた。その筆跡は驚くほど整っていて、レティシアは小さく目を見張った。
(騎士……? それとも、逃れてきたのかしら。)
彼は名をエドガーと名乗った。それが、彼女の運命を変える出会いになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
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