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第28話 プロポーズの朝
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辺境の村に春が満ちた。
長い雪が溶け、畑の芽が顔を出し、鳥が小さな声で季節の訪れを告げている。
静かな朝の空気の中で、風見亭には新しい一日が始まろうとしていた。
レティシアは厨房でパン生地をこねながら、窓の外を見上げた。
東の空を染める光が眩しく、村に生きる喜びがそのまま溢れているように感じられた。
王都から戻って二ヶ月、ようやく日々の生活に落ち着きが戻った。
――けれど、その中に静かに募る想いもあった。
エドガーは、村の子供たちに剣の構えと護身を教えていた。
平和な辺境にあっても、いつ災いが訪れるか分からない。
彼が指導する姿はまるで長年の戦士ではなく、優しい教師そのものだった。
「エドガー先生! 見て、ほら、できた!」
「お、よくやった。けど刃は出して構えるな。剣は人を救うためのものだ。忘れるな。」
笑う子供の頭をなでるその姿に、レティシアの頬が自然にゆるむ。
――この穏やかな時間が、永遠に続けばいい。
そう願わずにはいられなかった。
昼、暖かい風が村を渡るころ。
マーサ女将が厨房の扉に顔を出す。
「レティシア、ちょいと買い出しを頼めるかね。南の丘の果樹園に果実を取りに行きたいんだが、腰が痛くってね。」
「分かりました。私が行きます。」
果樹園は、村の外れにある。
坂を上ると、風通しのいい丘陵地に桃の花が咲き誇っていた。
木々の向こうで陽光がきらめき、蜜の匂いと湿った大地の香りが混ざる。
すると、先にそこにエドガーが来ていた。
木の剪定を手伝っているのか、袖をまくって太い幹を支えている。
「こんにちは。」
「おう。」
短い返事でも、以前より柔らかい声。
「子供たちの稽古、終わったんですか?」
「ああ。あいつらは元気すぎて、もう手に負えん。」
エドガーは苦笑し、額の汗を拭った。
その仕草さえも穏やかで、戦場の記憶とは遠い。
二人で果実を摘みながら、笑いながら過ごす。
風の音だけが静かに流れ、言葉はいらなかった。
けれどその沈黙の中に伝わる想いが、どんな言葉より温かく感じられた。
「なあ、レティシア。」
「はい?」
「お前、この村が好きか?」
「もちろんです。こんなに穏やかで、あたたかい場所はありませんもの。」
「俺にとっても、もう“帰る場所”はここだけだ。」
彼がそう言った時、レティシアの心が一度止まりかけた。
その声の響きが、何かの前触れのように聞こえたから。
エドガーは少し間を置いて、果実を摘んだ手を止めた。
「……王都を離れて、この村で暮らすことを選んだのは俺のわがままだ。だが、今はそれ以上に願いがある。」
彼の灰色の瞳が、真っすぐに彼女を捉える。
あの日、剣を握った時とは違う強さがそこにあった。
「レティシア、俺のそばにいてくれないか。」
その言葉が、静かに降りた。
風が二人の間を抜け、花びらが舞い上がる。
レティシアは一瞬何も言えなかった。心臓が速く打ち、手にした籠の中の果実が震えた。
「……い、今のは……どういう意味でしょう。」
「そのままの意味だ。」
彼は照れくさそうに髪をかき上げた。
「お前と一緒に生きたい。別の言葉を使うなら――結婚してほしい。」
レティシアの頬に温かい風が吹いた。
世界がやさしく光を増し、空が広がったような気がした。
「私と……」
「お前と。」
「私なんかで、いいんですか……?」
「“なんか”じゃない。お前だからいい。」
その一言で、張りつめていた涙がこぼれた。
「……馬鹿ですね。こんなところで言うなんて。」
「人目がないからいいだろう。」
「花も、鳥も、人目です!」
「そいつらは祝福してくれるだけだ。」
レティシアは笑いながら涙を拭った。
「昔の私が聞いたら、信じないでしょうね。王都で笑いもせずに、仮面のような日々を送っていたんですもの。
それが今、こんなに幸せで、こんなに誰かを愛してるなんて。」
「俺もだ。生きていてこんな気持ちになるとは思わなかった。」
エドガーはそっと片膝をつき、レティシアの手を取った。
その仕草は昔の騎士の礼のようで、同時に心からの敬意と慈しみを込めた動作だった。
「お前と手を取り合って生きたい。王都の名誉も、家のしがらみもいらない。
ただ、お前の笑顔と、この場所があればいい。」
その言葉が胸の奥に沁みて、もう何の迷いも残らなかった。
レティシアは静かに頷き、そっと手を重ねた。
「はい。喜んで。」
胸の奥が熱くなり、世界中の音がその瞬間だけ消えた。
ただ風の匂いと、二人の鼓動だけが確かにあった。
エドガーが立ち上がり、レティシアを抱きしめた。
強すぎず、でも決して離さない力で。
その腕の中には、あの日火の中で見た絶望の影も、涙も、すべて溶けていった。
「俺を選んでくれてありがとう。」
「こちらこそ、もう絶対に離れません。」
遠くで鐘の音が響いた。
小さな村の礼拝堂の朝の合図だ。
けれどそれは二人にとって、まるで祝福の鐘のように聞こえた。
やがて日が昇り、光が丘を染める。
花びらが風に舞い、二人の足元に降りかかる。
未来は見えない。だが、そこに恐れはなかった。
レティシアはそっと呟く。
「あなたの隣が、私の居場所です。」
「なら、これから俺が導いていこう。いや――一緒に歩こう。」
朝の空は青く澄み、過去を取り込むように広がっていた。
辺境の花咲く丘で、彼と彼女は新しい約束を交わす。
それは、数々の苦難の果てに見つけたたった一つの真実だった。
手の温もりを確かめながら、レティシアは微笑む。
この手を離さないかぎり、幸せはもう逃げない。
続く
長い雪が溶け、畑の芽が顔を出し、鳥が小さな声で季節の訪れを告げている。
静かな朝の空気の中で、風見亭には新しい一日が始まろうとしていた。
レティシアは厨房でパン生地をこねながら、窓の外を見上げた。
東の空を染める光が眩しく、村に生きる喜びがそのまま溢れているように感じられた。
王都から戻って二ヶ月、ようやく日々の生活に落ち着きが戻った。
――けれど、その中に静かに募る想いもあった。
エドガーは、村の子供たちに剣の構えと護身を教えていた。
平和な辺境にあっても、いつ災いが訪れるか分からない。
彼が指導する姿はまるで長年の戦士ではなく、優しい教師そのものだった。
「エドガー先生! 見て、ほら、できた!」
「お、よくやった。けど刃は出して構えるな。剣は人を救うためのものだ。忘れるな。」
笑う子供の頭をなでるその姿に、レティシアの頬が自然にゆるむ。
――この穏やかな時間が、永遠に続けばいい。
そう願わずにはいられなかった。
昼、暖かい風が村を渡るころ。
マーサ女将が厨房の扉に顔を出す。
「レティシア、ちょいと買い出しを頼めるかね。南の丘の果樹園に果実を取りに行きたいんだが、腰が痛くってね。」
「分かりました。私が行きます。」
果樹園は、村の外れにある。
坂を上ると、風通しのいい丘陵地に桃の花が咲き誇っていた。
木々の向こうで陽光がきらめき、蜜の匂いと湿った大地の香りが混ざる。
すると、先にそこにエドガーが来ていた。
木の剪定を手伝っているのか、袖をまくって太い幹を支えている。
「こんにちは。」
「おう。」
短い返事でも、以前より柔らかい声。
「子供たちの稽古、終わったんですか?」
「ああ。あいつらは元気すぎて、もう手に負えん。」
エドガーは苦笑し、額の汗を拭った。
その仕草さえも穏やかで、戦場の記憶とは遠い。
二人で果実を摘みながら、笑いながら過ごす。
風の音だけが静かに流れ、言葉はいらなかった。
けれどその沈黙の中に伝わる想いが、どんな言葉より温かく感じられた。
「なあ、レティシア。」
「はい?」
「お前、この村が好きか?」
「もちろんです。こんなに穏やかで、あたたかい場所はありませんもの。」
「俺にとっても、もう“帰る場所”はここだけだ。」
彼がそう言った時、レティシアの心が一度止まりかけた。
その声の響きが、何かの前触れのように聞こえたから。
エドガーは少し間を置いて、果実を摘んだ手を止めた。
「……王都を離れて、この村で暮らすことを選んだのは俺のわがままだ。だが、今はそれ以上に願いがある。」
彼の灰色の瞳が、真っすぐに彼女を捉える。
あの日、剣を握った時とは違う強さがそこにあった。
「レティシア、俺のそばにいてくれないか。」
その言葉が、静かに降りた。
風が二人の間を抜け、花びらが舞い上がる。
レティシアは一瞬何も言えなかった。心臓が速く打ち、手にした籠の中の果実が震えた。
「……い、今のは……どういう意味でしょう。」
「そのままの意味だ。」
彼は照れくさそうに髪をかき上げた。
「お前と一緒に生きたい。別の言葉を使うなら――結婚してほしい。」
レティシアの頬に温かい風が吹いた。
世界がやさしく光を増し、空が広がったような気がした。
「私と……」
「お前と。」
「私なんかで、いいんですか……?」
「“なんか”じゃない。お前だからいい。」
その一言で、張りつめていた涙がこぼれた。
「……馬鹿ですね。こんなところで言うなんて。」
「人目がないからいいだろう。」
「花も、鳥も、人目です!」
「そいつらは祝福してくれるだけだ。」
レティシアは笑いながら涙を拭った。
「昔の私が聞いたら、信じないでしょうね。王都で笑いもせずに、仮面のような日々を送っていたんですもの。
それが今、こんなに幸せで、こんなに誰かを愛してるなんて。」
「俺もだ。生きていてこんな気持ちになるとは思わなかった。」
エドガーはそっと片膝をつき、レティシアの手を取った。
その仕草は昔の騎士の礼のようで、同時に心からの敬意と慈しみを込めた動作だった。
「お前と手を取り合って生きたい。王都の名誉も、家のしがらみもいらない。
ただ、お前の笑顔と、この場所があればいい。」
その言葉が胸の奥に沁みて、もう何の迷いも残らなかった。
レティシアは静かに頷き、そっと手を重ねた。
「はい。喜んで。」
胸の奥が熱くなり、世界中の音がその瞬間だけ消えた。
ただ風の匂いと、二人の鼓動だけが確かにあった。
エドガーが立ち上がり、レティシアを抱きしめた。
強すぎず、でも決して離さない力で。
その腕の中には、あの日火の中で見た絶望の影も、涙も、すべて溶けていった。
「俺を選んでくれてありがとう。」
「こちらこそ、もう絶対に離れません。」
遠くで鐘の音が響いた。
小さな村の礼拝堂の朝の合図だ。
けれどそれは二人にとって、まるで祝福の鐘のように聞こえた。
やがて日が昇り、光が丘を染める。
花びらが風に舞い、二人の足元に降りかかる。
未来は見えない。だが、そこに恐れはなかった。
レティシアはそっと呟く。
「あなたの隣が、私の居場所です。」
「なら、これから俺が導いていこう。いや――一緒に歩こう。」
朝の空は青く澄み、過去を取り込むように広がっていた。
辺境の花咲く丘で、彼と彼女は新しい約束を交わす。
それは、数々の苦難の果てに見つけたたった一つの真実だった。
手の温もりを確かめながら、レティシアは微笑む。
この手を離さないかぎり、幸せはもう逃げない。
続く
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