婚約破棄された令嬢は辺境伯に愛されて——氷の騎士が心を溶かすまで

usako

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第2話 追放の夜、差し出された手

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雪が降り始めていた。馬車の窓から見える外の景色は白く霞み、世界のすべてが沈黙に包まれているようだった。道中で出会った商人の馬車は、北へ向かう途中の関所を越える前で止まった。彼は言葉少なに肩をすくめ、「ここから先は軍の領分だ。気をつけな」と言って去っていった。  

私は雪の中に立ち尽くし、白い息を吐いた。歩けば足元の雪がぎゅっぎゅっと音を立てる。冷たさが靴底を貫き、足の感覚すら薄れていく。けれど、心の方がもっと冷えていた。  

「これが、私の選んだ道……」  

メイは心配そうに私の後ろを歩いていた。彼女の頬もかじかみ、唇の色が青い。それでも、何も言わずに付いてくるその姿が痛々しくて、申し訳なくてたまらなかった。  

「メイ、無理をしてはいけないわ。少し腰を下ろしましょう」  
「でも、お嬢様……。辺境までの道は長くて、このままでは――」  
「もう“お嬢様”じゃないのよ」  
私は微笑もうとしたが、それは凍りついた顔の筋肉を無理に動かしたようなぎこちないものだった。  

雪は激しさを増し、風まで吹き荒れはじめた。視界の先に、黒々とした森が見える。そのさらに奥に、まだかすかに煙の立ち上る光があった。  

「人里……かしら?」  
「……でも、この雪で辿り着けるでしょうか……?」  

返事をする前に、風の向こうから蹄の音が響いた。重く、規則正しい。普通の旅人ではない。軍の行進のような、冷厳な響きだった。  

私は咄嗟にメイを庇い、雪の影に身を潜めた。  
音は近づき、やがて目の前の街道に十数騎の兵が現れた。先頭の騎士は漆黒の馬に跨り、銀の鎧を身にまとっている。彼の手綱さばきひとつで兵たちは動きを揃え、雪の上に描くように停止した。  

その男が馬上からこちらを見下ろす。冷たい金の瞳。無表情。  
寒気とは違う恐怖が背筋を走った。  

「何者だ」  
短い声。その音はまるで刃のように鋭く、威圧感に満ちていた。  

私は言葉を失った。何と言えばいいのかわからない。  
逃げるべきか。名乗るべきか。  
だが、逃げ場などとうにない。  

「……申し訳ありません。ただの旅の者です」  
精一杯の声を絞り出す。だが、騎士は動じなかった。  

「旅の女が、この吹雪の中、軍の領地に足を踏み入れるか?」  
「……理由が、ありまして」  
「名を言え」  
「リリアナ・……リリアナ・エヴァンスと申します」  

名を口にした瞬間、周囲の空気が変わった。騎士の瞳が僅かに揺れ、背後の兵たちが囁き交わす。エヴァンスの名は、王都でも有名だ。だがそれはもはや“王家に見放された家”としての悪名でもあった。  

「エヴァンス……元王太子の婚約者、か」  
低く呟くような声。どうやら彼は知っているらしい。  

「貴女のような者が王都から出たとは聞いていない。逃亡か、追放か」  
正直に答えるしかない。  
「追放されました。行くあてがないのです」  

風が止んだ。雪の音だけが耳に残る。  
沈黙が永遠のように続いた後、騎士は馬を少し前に進めた。  

「ここは辺境伯レオンハルト=ヴォルクナーの領。立入には許可がいる。だが——」  
彼は少し目を細めた。  
「このまま放っておけば、凍死するだろう」  

次の瞬間、彼は馬から降り、私の前に立った。  
その大きな手が、差し出される。  

「ついて来い」  
それだけ言うと、背を向けた。その背中はまるで凍てつく壁のように広く、威圧的なのに、奇妙な安堵を感じさせた。  

私は一歩踏み出し、ためらいながらその手を取った。  
その瞬間、掌に触れた体温が、氷のように冷たかったはずなのに、不思議と心の霜を溶かした。  

*****  

雪嵐の中、彼に導かれて歩くこと数刻。小高い丘を越えた先に、黒い石壁の巨大な城が現れた。  
辺境伯の居城——人々が“氷の城”と呼ぶ場所。  

「お嬢様……まさか、ここに……?」  
「きっと、彼はこの城の……」  

その言葉を言い終える前に、門番が敬礼し、重い鉄門が軋む音を立てて開いた。  
騎士は振り返らずに命じる。  
「休ませろ。暖を取らせ、医師を呼べ」  

部下たちが迅速に動く。私は言葉もなく連れて行かれ、暖炉のある部屋へ通された。  
メイにも毛布と温かいスープが与えられる。  

凍えた指がようやく動くようになり、手にした陶器のカップの温かさが心地よい。  
けれど、雪の匂いを残したあの騎士――彼が誰なのか、気になって仕方がなかった。  

やがて部屋の扉が静かに開く。彼が入ってきた。  
兜を外した姿は、鋭く、美しく、そして氷のように冷たい。  

「改めて名乗ろう。辺境伯レオンハルト=ヴォルクナーだ」  
「……っ、辺境伯様……」  

思わず立ち上がると、彼は軽く手を振って制した。  
「礼はいらない。あの雪の中を歩けば、誰でも命を落とす。貴様が誰であろうと関係ない」  

淡々とした言葉。それでも、どこかに僅かな優しさが滲んでいた。  
だが、次の言葉は冷たく響いた。  

「ただし、保護するには理由がいる。なぜ辺境へ?」  

私は思わず拳を握った。ここで嘘をついても仕方がない。  
「王都では、もう私の名も居場所も失われました。……行くあてがなくて、せめて誰にも知られぬ場所で、静かに生きたかったのです」  

その告白に、レオンハルトは短く息を吐いた。  
「静かに、か。ここでは“静かに”など存在しない。吹雪と獣と戦いながら生きる場所だ。弱い者には過酷だ」  
「……それでも、ここに居たいのです」  

一瞬、彼の目が揺れた。  
その瞳には、かつて私が見たどんな貴族の目とも違う光があった。冷たいのに、底に熱を秘めている。  

「命を粗末にするな」  
「生きることを諦めたわけではありません。……ただ、もう一度、生まれ直したいだけです」  

沈黙。  
暖炉の薪がはぜる音だけが部屋を満たした。  

やがて、レオンハルトは静かに頷いた。  
「いいだろう。滞在を許可する。ただし、いつまでも客ではいられん。働け。何かしら役目を探してやる」  
「……はい」  

胸の奥から熱いものがこみ上げた。  
追い出され、罵られ、蔑まれたこの私が、ようやく「居てもいい」と言われた気がした。  

*****  

夜、与えられた部屋で窓の外を見つめる。氷の壁のような城は静まり返り、遠くの廊下を兵の足音が通り過ぎていく。  
暖炉の炎がゆらめき、影が壁に揺れた。  

「……メイ、あの方、不思議ね」  
「ええ……冷たいようでいて、お優しい方です」  
「そうね。まるで氷の中に炎が隠れているみたい」  

彼の瞳を思い出す。  
あの冷たい金の色の奥に、なぜか懐かしい温もりを感じた。  

追放の夜、あの手を取ったとき、運命の歯車が音を立てて回り始めた。  
もう二度と戻れない場所を離れ、私は新しい世界の門をくぐったのだ。  

そしてこの城で——氷の騎士が、私の心を溶かすことになるとは、このときまだ知らなかった。  

(続く)
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