大罪の後継者

灯乃

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旅立ち

不運な巡り合わせ

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 そのとき、世界が変わった。目に映るすべてが、突然淡い光をまとったかのように、あらゆるものがはっきりと認識できる。まるで、魔力を眼球に集中してよく『見よう』としたときみたいだな、と思う。

 けれど今は、それよりも遙かに視界がクリアで、何もかもを見通せるような全能感さえ感じる。ほんの少し願うだけで、この世界を――幼かったリヒトを愛してくれた父親を奪い、今また敬愛する師を奪った世界を、粉々に破壊し尽くすことができそうだ。

(……あ)

 リヒトの開かれた感覚に、引っかかったもの。つい先ほどまで、おぞましい禁呪で師の召喚獣を奪って支配し、意のままに使役していたこの帝国の第一皇女。エリーザベト、と言っただろうか。瓦礫の陰で気絶していたものが、目を覚ましたのか顔をしかめて身を起こす。

 何が起こったのかわからない様子で、不安げに辺りを見回した女が、人の姿をしたスバルトゥルに気づき、大きく目を見開いた。そして、歓喜に満ちた様子で口を開く。

「スバルトゥル! ああ、ようやく人の姿になってくれましたのね! やはり、あの大罪人を始末すれば、おまえが本当の意味でわたくしのものになると思っておりましたわ!」

 瓦礫の下から這い出てきたエリーザベトが、地面に座り込んだままにこりとほほえみ、自分の右手をスバルトゥルに向けて差し出す。

「立たせてくださいな、スバルトゥル。少し、足を痛めてしまいましたの。まったく、最後の最後まで往生際の悪い男でしたこと」
(うん。殺そう)

 なんのためらいもなく、殺意がリヒトの胸に去来する。その意思に従い、辺りに満ちる魔力がうねる寸前、軽い衝撃があった。

「ダメだ、リヒト!」

 のろりと視線を落とせば、黒髪の少女がリヒトの胴に必死の表情でしがみついている。……これは、誰だったろう。少女は、ひどく苦しげな声で叫んだ。

「人を、殺すのはダメだ……! それだけはダメだ!」
「なんでだ?」

 少女の言っていることが、よくわからない。

「あの女は、師匠を殺したのに。なぜ、おれがあの女を殺すのはダメなんだ?」

 リヒトの素朴な疑問に、応じたのは少女ではなくエリーザベトだった。金髪の皇女は、リヒトと少女を見て忌々しげに顔を歪めた。

「まぁ……。あの大罪人の弟子ですの? スバルトゥル、さっさと始末してくださいな。不愉快ですわ」

 やたらと雌くさい仕草と声が、ひどく癇にさわる。リヒトは、どこかぼんやりとした意識のまま、少し離れたところに立つ獣の青年を見た。

「……スバルトゥル」

 その名を呼べば、金色の瞳がリヒトを映す。人にあらざる証の、純粋な黄金。獣の姿を持つ精霊は、決して嘘をつくことがない。だから、問う。

「コイツが、人を殺すのはダメだって言うんだ。どうしてだろう?」

 精霊ならば、必ず正しい答えを教えてくれる。スバルトゥルは、あっさりと答えてくれた。

「おまえが、まだ子どもだからだ。たとえどんなに醜い屑のものであろうと、奪った他人の命を抱えるには、おまえの心は幼すぎる。心を壊したくなかったら、人殺しなどやめておくことだ」
「おれの心が壊れたら、何か困るか?」

 首を傾げながら重ねて問えば、スバルトゥルは小さく笑ったようだった。

「困るな。……なぁ、リヒト。俺は、俺をここまで愚弄し尽くした連中を、簡単に殺して楽にしてやるのはご免なんだ」

 低く抑えた声でそう言って、獣の青年はゆっくりとリヒトに歩み寄ってくる。

「俺が愛した契約者を、この帝国の阿呆どもは、よりによって俺自身の牙で殺させた。この身が震えるほどの憎悪を、臓腑が煮えくりかえるほどの厭悪を、そう簡単に雪げるものか。おまえだって、そうだろう。おまえの父と師を裏切り殺した者たちを、どうして楽に殺してやろうなどと思えるんだ?」
「スバルトゥル! 何をしているのです! さっさとその子どもたちを殺しなさい!」

 エリーザベトには、こちらの会話が聞こえていないらしい。己の五感を、魔力で強化することもできないのだろうか。どうでもいいが、金切り声が鬱陶しいので黙っていてほしい。
 目の前までやってきたスバルトゥルが、偽りの主だった女を無視したままリヒトに言う。

「勝手に壊れてくれるなよ、ジルバの育て子。おまえは、父親と師を殺した連中に、その罪の重さを思い知らせてやりたくはないのか。ジルバは、そんな腑抜けにおまえを育てたか?」
「……師匠」

 もう、その呼びかけを受け止めてくれる人は、どこにもいない。それが、悲しい。悲しくて、辛くて、寂しい。
 ジルバは、最初からちゃんと言ってくれていたのに。いつか、彼がリヒトを捨てること。その上で、リヒトがひとりでも生きていけるよう、いろいろなことを教えてくれた。

「おれ……は……」

 目が、熱い。その熱が、次々と頬を滑り落ちていく。

「師匠に、何も返してない。……拾ってくれたのに。育てて、くれたのに。ありがとうさえ、言ってないんだ」

 期間限定の、師弟関係。そんなことは、わかっていた。けれど、ずっとジルバがリヒトにくれていた厳しさと優しさは、決して偽物なんかじゃなかったのだ。

 すべてが失われて、ようやく気づく。
 自分が、どれだけ師から大切にされていたのか。
 ジルバが与えてくれた時間はたしかに、『幸せ』と呼ぶべきものだった。

「……そうか」

 スバルトゥルが、リヒトの目の前に膝をつく。少し考えるようにしてから、大きな手でそっと頬に触れてくる。

「リヒト。おまえがそばにいて、ジルバはきっと幸せだった。そうじゃなきゃ、俺におまえの守護を願ったりはしなかっただろう」

 ふと、世界が穏やかな色彩を取り戻していく。
 瞬く。呼吸が、楽になる。

「おまえには、制御装置を外すのはまだ早い。……今までと同じ、ピアス型で構わないな」

 そうスバルトゥルが呟くなり、耳元でキュイィン、と魔力の渦巻く音がした。

(……あ、れ?)

 小さな衝撃とともに、完全に世界が元に戻る。周囲を満たすありとあらゆる情報が全身に入り込んできていたものが、今はごく普通の五感だけが機能していた。
 うなずいたスバルトゥルが、視線を落とす。

「娘。もう大丈夫だ。離しても構わないぞ」
「う……ふぇ……っ」

 しゃくり上げる少女の声。見れば、リヒトの胴体にしがみついたままのアリーシャが、ぼろぼろと泣いていた。

「……何、してる?」

 リヒトの問いかけに、一瞬黙りこんだ少女が、くわっと目を剥いて叫んだ。

「何、じゃないよ!? きみの景気よく暴走した魔力を、必死こいて抑えこんでいたんじゃないか! ああもう、せいぜい全力で感謝してくれないかな! わたしが抑えていなければ、今頃この辺り一帯、跡形もなく吹っ飛んでいてもおかしくなかったからね!?」

 随分と元気いっぱいな様子だが、その額に盛大に青筋が浮かんでいる辺り、どうやら本気で怒っているらしい。

「それは、すまなかった」

 リヒトは、自分に明確な非がある場合は、素直に謝罪するのがまっとうな大人の態度だと教わっている。少し落ち着きを取り戻した今なら、そんなはた迷惑な環境破壊行為など、断じてしてはいけないと判断できた。

「アンタには、借りができたな。いずれ、必ず返す」
「……別に、いいけどさ。こっちが、勝手にしたことだし」

 ぷい、と顔を背けたアリーシャは、もう泣いてはいなかったけれど、見るからに消耗した様子だ。そんな彼女に、スバルトゥルが言う。

「リヒトの魔力は、暴走しかけていただけだ。こいつの魔力が本当に暴走していたら、未熟なおまえではとても抑えることなどできなかったぞ」
「え、あれで!?」

 アリーシャが、どん引きした目でリヒトを見る。そして、しみじみとした様子で首を横に振った。

「うわあ……。うん。そっかあ。もし次があったら、そのときは全面的にお任せしますので、よろしくお願いいたします」

 次があってたまるか、と思ったけれど、スバルトゥルは真顔でうなずいている。

「了解した。ところで、娘。おまえはリヒトとどういう関係だ? その幼さには不似合いなほど、実戦経験が豊かそうに見えるが」

 どういう、と繰り返したアリーシャが、少し考えるようにしてから答えた。

「強いて言うなら、無関係です」
「無関係?」

 あからさまに困惑した様子のスバルトゥルに、アリーシャは続けて言う。

「はい。何しろ、つい数時間前にはじめて会ったばかりなので」
「……ほう」

 何やら、スバルトゥルが憐憫の眼差しをアリーシャに向けた。

「知り合ったばかりの相手のために、これほどの災難に見舞われるとは……。おまえはまた随分と、不運な巡り合わせの元に生まれたようだな」

 その瞬間、アリーシャがびしりと凍りつく。やがて、ゆるゆるとリヒトを見た彼女は、それは愛くるしい笑みを浮かべてスバルトゥルを指さした。

「こいつ、殴っていい?」

 どうやら、スバルトゥルの指摘はアリーシャの図星をついていたようだ。目がまったく笑っていない超絶美少女の笑顔は、かつて一度だけ経験した、ジルバの本気モードのお説教タイムと同じくらいに怖かった。
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