大罪の後継者

灯乃

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旅立ち

揺らぐ意識

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 将軍の懇願に、誰もが息を呑む。彼の妻が咄嗟に何か言いかけたようだが、今にも泣き出しそうな顔で口をつぐんだ。

 ひどく緊迫した空気の中、イシュケルが冷ややかな声で口を開く。

「おまえ、頭が悪いのか? おまえが死んだところで、オレになんの得がある。これまでのことを詫びる気があるというなら、オレの契約者を殺した連中の首でも持ってこい」

 イシュケルにとって、帝室の命令を聞いていただけの将軍は復讐の対象ではない。はっと目を見開いた将軍は一瞬顔を上げたけれど、すぐに再び頭を下げた。

「申し訳ありません、水の王。我々は、あなたさま方が自由意志を封じられたのち、本来の契約者に最も近い魔力を持つ者として、帝国各地から招集、選抜されたのです。現在、各地の砦で偽りの主となっている者は、私自身も含め、それ以前のことは何も知らされておりません」

 その言葉に、リヒトが不思議に思っていた疑問のひとつが解決される。

(あ、なるほど。だからこの人、この若さで砦を預かる将軍なんてやってるのか。……世の中には、運の悪い人っているもんなんだな)

 ふん、とイシュケルが目を細める。

「まあ、いい。オレの契約者を殺したクソどもの中に、皇太子の顔はなかったからな。連中に命じた主犯の正体が知れただけでも、よかったとするさ」

 ――アンビシオン帝国皇太子、オスカー・フォルテス・アンビシオン。

『帝室の者たち』という曖昧なくくりではなく、報いを受けさせるべき相手を明確に認識できたことで、胸の奥でいまだ塞がりきっていない傷口がひどく疼いた。ほんのささやかな刺激でも、容易く鮮血を吹き出すこの傷は、もしかしたら一生癒えることがないのかもしれない。

 そこで、おそるおそる片手を上げた者がいる。将軍の妻だ。

「あのう、すみません。あたしは今まで、帝室のみなさまはどなたも最上級レベルの魔力持ちだって聞いていたんですけど……。職場や街の人たちもみんな、そう信じてましたし。ひょっとして、皇太子殿下が魔力なしだというお話って、めちゃくちゃ極秘事項だったりしませんか?」

 将軍が、あっさりとうなずく。

「そうだろうな。かつては私も、そういった帝室の言い分を信じていたが、あの呪具を与えられたときの、殿下の不自然な立ち居振る舞いから気がついた。はじめは、さすがに信じがたかったが……」

 小さく息を吐いて、彼は言った。

「私は、あの呪具を手にしただけで体内魔力がひどく乱され、二週間ほどは目眩や吐き気で、まともに食事を摂ることもできなかった。ほかの者たちも、呪具を受け取った途端にひどい顔色になっていたから、おそらく似たようなものだろう。しかし、殿下はそんな呪具を四つも素手で掴んでいたというのに、まるで平気な顔をしていた。その上、私たちが青ざめて平伏しているのを見て『そう緊張することはない。この呪具さえあれば、誰もがうらやむ美しい召喚獣は、おまえたちの従順な僕になるのだから』と笑っていらしたんだ」

 四つ、ということは、スバルトゥルを縛っていた五つ目の呪具は、そのときすでに第一皇女が手に入れていたのだろう。
 うわあ、と将軍の妻が顔をしかめる。

「旦那さまがそこまで体調不良を起こすレベルのおかしな呪具を、複数素手で掴むとか……。そりゃあ、少しでも魔力があったら、即発狂するやつだね……」

 リヒトは、想像しただけで気分が悪くなった。アリーシャも、ものすごくいやそうな顔をして眉をひそめている。
 そこで、それまで何か考えるようにしていたスバルトゥルが口を開いた。

「つまり、皇太子が魔力を持たない人間だというのは、ほぼ確定事項というわけだな。だからこそ、俺たちを完全に敵に回すような真似を平気でできているのかもしれんが……。皇太子のそばには、まともな諫言をできる人間はいないのか? あの呪具は、発動しているだけで歪んだ魔力を垂れ流し、蟲たちの活動を活発化させるんだ。自分で自分の首を絞めているようなものだろうに」

 スバルトゥルを支配していた第一皇女は、彼を戦闘に使うことはしなかった。だからこそ、帝都ではさほどその影響は出ていなかったのかもしれないが、帝国各地でキメラタイプの集団行動をはじめ、以前はなかった蟲の危険な活動が増えている。いくら最高位の召喚獣をもって他国からの脅威に備えたとしても、自国を内側から食い荒らされては意味がない。

 皇太子にそういった事実を進言し、彼の愚行を止めようとする者はいなかったのだろうか。その問いかけに、将軍は苦悩した様子で応じる。

「皇帝陛下は、すでに老齢。十年以上前から、帝室の実質的な最高権力者は皇太子殿下となっています。何より、この一件については、おそらく皇太子殿下のごく近しい者たちだけで謀ったことのはずです。今に至るまで、人々の間にちっぽけな噂としてでも事実が一切広がっていないのは、よほど厳しく情報統制をしているからでしょう」

 なるほど、と思ったリヒトは、こっそりとアリーシャに問うた。

「なあ、アリーシャ。皇太子って、今いくつなんだ?」
「たしか、今年で四十二歳になるはずだよ。それから、もうすぐ帝都で、皇帝の生誕七十年を祝う祭典があるんじゃなかったかな。このところ病がちだっていう皇帝が、それまでにポックリいかなければの話しだけど」

 田舎育ちのリヒトと違い、帝都育ちのアリーシャはさすがによくものを知っている。
 リヒトは、首を傾げた。

「あの第一皇女とは、随分年が離れていないか?」

 正確な年齢は知らないが、リヒトが見たところ、第一皇女は二十代半ばくらいだったはずだ。アリーシャが、小さく苦笑して言う。

「今の皇后陛下は、後妻さんだからねえ。皇帝にとって第一皇女は、はじめての女の子だからって、そりゃあもう溺愛してるって噂だよ」

 散々溺愛して甘やかした挙げ句が、あの傲慢で人を人とも思わないような聖女さまというわけか。ふうん、とリヒトは目を細める。

「あの女にとって、死んだほうがマシだと思うような生き地獄ってのはどんなものなのか、いろいろ考えてはいるんだがな。どうも、いいアイデアが浮かばない」

 スバルトゥルもアリーシャも『人間は殺すな』と言うから、その選択肢は今のところ除外している。しかし、正直なところ、再び第一皇女の姿を目にしたとき、自分が正しく理性を保っている自信などかけらもなかった。

 とはいえ、いざとなったらまたふたりが自分を止めてくれるだろう――と他力本願なことを考えていると、頬にひんやりとした何かが触れた。瞬きをすると、イシュケルのアクアブルーの瞳が目の前にあって、少し驚く。

「水の王。どうかしたか?」

 少しの間のあと、静かな声が問いかけてくる。

「……リヒト・クルーガー。この帝国の第一皇女は、おまえに何をした?」

 何を、だなんて。忘れるわけがない。許せるわけがない。あのときのことを思い出すだけで、全身の細胞が焼け付くような憎悪が鮮やかに蘇るのに。

「おれの目の前で、育て親の師匠を殺した。スバルトゥルに、本当の主を食い殺させた。絶対に、許さない。殺してやりたかったのに……あれ、なんで殺しちゃ駄目なんだっけ?」

 頭の中が、ふわふわする。

「あの女、師匠が死んで、笑ってた。……嬉しそうに、笑ってたんだ。殺してやろうと、思ったのに。なんで、おれ……」
「もう、いい」

 頬に触れていたイシュケルの手が、リヒトの目元を覆った。視界を塞がれ、同時に清冽な魔力が流れ込んでくる。気持ちがいい。その心地よさに浸っていると、イシュケルが小さく息を吐いて言った。

「少し、無理をさせすぎたな。そのまま、目を閉じていろ。――森の王」
「……ああ」

 命じられるまま目を閉じると、ふわりと体が浮いた。馴染んだ魔力。いい加減、立っているのも辛くなってきていたので、素直に自分の召喚獣に全身を預ける。途端に、強烈な睡魔に襲われた。

「スバルトゥル……」

 掠れた声で呼びかけると、優しい声が返ってくる。

「大丈夫だ。あとのことは、俺たちに任せろ」
「……うん」

 スバルトゥルがそう言うなら、信じるだけだ。
 それきり、リヒトの意識は闇に溶けた。
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