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旅立ち
発動条件
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「……アンタ、頭大丈夫か?」
リヒトの顔見知りである彼女が食事を持ってきたことについては、別段驚かない。古風でいかにも動きにくそうなメイド服も、それが食事を運ぶ役目を担う者が着るべきものということであれば、素直に納得する。
しかし、リヒトを主と呼ぶ者がいるとしたら、召喚獣であるスバルトゥルだけだ。そのスバルトゥルも、まだまだ未熟な契約者を主と呼ぶのは面白くないのか、もしくは彼にとって本当に主と呼ぶべき存在は先代契約者のジルバだけだからなのか――いずれにせよ、今のところリヒトは己の召喚獣から呼び捨てにされるのが基本である。
そのことについて、不満があるわけではない。むしろ、いくらジルバの願いだからといっても、森の王たるスバルトゥルが自分の召喚獣となってくれたことが、いまだに信じ切れないところがあった。彼に自分を主と呼ぶよう要請するつもりなど微塵もないし、むしろ「師匠の足下にも及ばないおれなんかが、アナタの契約者でスミマセン」と謝りたくなることもしばしばだ。
なんにせよ、リヒトにはただの顔見知りに過ぎない女性から『ご主人さま』呼ばわりされるいわれはない。思わず胡乱な目を向けた彼に、ワゴンを押してきた将軍の妻が、きょとんと瞬きをした。それから、何かに気づいたようにはっとした彼女は、ひどく慌てた様子で一礼する。
「失礼しました! ええと、わたくしはこの砦を預かるハーゲン・カレンベルクの妻、イングリット・カレンベルクと申します! 先日は、我が夫とこの砦の者たちを救っていただき、ありがとうございました!」
「いや、ここの将軍を助けたのは、アンタだろう。礼を言われるようなことをした覚えはない」
リヒトがしたのは、イシュケルの魔力侵蝕を受けた将軍との、ほんのわずかな会話だけだ。彼を元の人間に戻したのはイングリット自身だし、砦を襲ってきたキメラタイプの蟲たちを排除したのは、スバルトゥルとイシュケルである。
その後、正体不明のモナクスィアと名乗る不審者に襲われたとき、自分たちを間一髪守ったのはアリーシャだ。……リヒトなりにいろいろとがんばったつもりではあるが、こうして振り返ってみると本当に何もしていない。
(スバルトゥルたちに魔力を食われまくっていたとはいえ、情けないにもほどがあるな……)
かくなる上は、今後召喚獣たちが戦闘モードに入っても体調不良を起こしたりしないよう、魔力制御の訓練に全力で励むことを決意する。彼らへの魔力供給だけが、戦闘時における自分のお仕事というのは、さすがにちょっと遠慮したい。
ぼんやりとそんなことを考えていたリヒトの後頭部を、イシュケルがべしっと叩く。痛くはないが、びっくりした。
「水の王?」
思わず見上げると、不機嫌な顔をした彼がものすごくいやそうに口を開く。
「……森の王も、オレも、あの娘も。おまえが望まなければ、この砦の者たちを救おうなどとはしなかった」
だから、と彼は目を細めて続ける。
「今、ここにいる者たちはみな、あのときおまえが救おうとしたから生きている。この女が言っているのは、そういうことだ」
「はい! その通りです!」
かなり食い気味にイシュケルに同意した将軍の妻――イングリットが、握った両手の拳をぶんぶんと上下に振って言う。
「ええとええと、ご主人さまには、いろいろと申し上げたいことはあるのですけども! まずは、お食事にいたしましょう!」
「……とりあえず、その『ご主人さま』呼びはやめてほしい。オレは、リヒト・クルーガーだ。普通に名前で呼んでくれ」
げんなりしながらの要請に、イングリットがハキハキと応じる。
「了解しました、リヒトさま!」
「リヒト、だ」
年上の女性から、敬称をつけて呼ばれるのは違和感が酷すぎだ。しかし、イングリットはにこりと笑った。
「申し訳ありませんが、リヒトさま。これは、あなたに命を拾っていただいた我々のケジメです。――のちほどお話しさせていただきますが、五年前に帝室が犯した大罪について、我ら一同すでに聞き及んでおります。我々の忠誠は、すでに帝室にはありません」
「……はあ」
突然、良家の淑女のような物言いになった彼女は、どれほど大きな猫を被っているのだろうか。イシュケルが言っていた誓約が発動していない以上、イングリットが嘘を吐いていないのはわかるけれど、会話のテンポが変わって対応がしにくい。
猫被りモードのイングリットが、ワゴンの上にのっていた皿の覆いを外すと、野菜とミルクのいい匂いがした。どうやら、野菜のポタージュらしい。それを一さじすくって自分の口に入れ、イングリットが目を瞠る。
「あら、美味しい」
――毒味をしたつもりが、本当に美味しくて驚いたようだ。
リヒトは、ため息を吐いて言う。
「アンタたちが、おれたちに危害を加えられないことは知っている。そういうことは、必要ない」
「あ、それはお聞きになっていたんですね。それじゃあ、どうぞ。リヒトさま。厨房の者たちが自慢していただけあって、とっても美味しいですよ!」
にこにこと屈託なく笑うイングリットから受け取ったポタージュは、優しい味わいでとても美味しかった。空っぽだった胃を驚かせないよう、少しずつ口にしながら彼女の話しを聞くことにする。
「イングリットさん。水の王が将軍の支配から外れたって話しは、帝都にはもう伝わっているのか?」
「いいえ。少なくともこちらからは、今回の件について、帝都側には一切報告しておりません。あちらの間諜が、この砦に紛れ込んでいたとしても――」
軽く肩を竦め、イングリットがイシュケルを見る。この砦の全員と誓約を交わしたという召喚獣が、ふん、と鼻を鳴らす。
「ここにいた人間どもを一人残らず中庭に並べて、オレと森の王の魔力で威圧した上で誓約させたんだ。そんな不届きな連中がいたところで、もう何も悪さはできんさ」
たしかにそれならば、誓約から逃れられた人間はいないだろう。
「帝都への報告も、『おれたちに危害を加える』に該当するのか?」
リヒトの素朴な疑問に、イシュケルはあっさり応じる。
「ああ。そういった行為は、本人に明確なこちらへの敵対意思があるから、まず不可能だ。警告の時点であきらめるだろう」
どういう意味だ、と視線で問うたリヒトに、現在重度の人間不信中の彼は、低く冷たい声で言う。
「オレたちとて、人間どもの腐った血肉のにおいなどそう嗅ぎたいわけじゃない。ここの連中がオレたちに危害を加えようとしたときには、まずそいつの魔力が暴走するよう条件づけをしてある」
ここは、東の国境の要として機能している砦だ。そこに送りこまれる間諜であれば、たとえ下働きとして潜り込んでいたとしても、まったく魔力を持たないということはないだろう。
リヒトは、ポタージュをすくう手を止めた。
「ちなみに、その暴走の解除条件は?」
「そいつの視力の喪失だ」
つまり、とイシュケルは淡々と言う。
「帝都の間諜がこの砦にいたとしても、何か行動を起こそうとすれば魔力暴走を起こした挙げ句、それを止めるためには自分の目玉を抉る必要があるわけだ。それでもなおオレたちへの敵対行為を断行して、国境の守りを担っている砦の人間どもを、丸ごと道連れにしようと考えるやつがいたら……まあ、それはそれで見物かもな」
まるで他人事のように語られる言葉に、リヒトは少しほっとした。それだけ段階を踏んだ条件付けがなされているのであれば、ある日突然この砦がグロテスクな死体で溢れかえることは、まずなさそうだ。
イングリットが、うんうんとうなずいて言う。
「もしそんな事態が起こった場合には、周りにいる者たちが全力で袋だたきにするでしょうから、どうぞご安心くださいね。わたくしも、目潰し機能つきの捕縛魔導具を鋭意開発中ですので!」
メイド姿の彼女の瞳が、自信ありげにキラめく。ものすごく、頼もしい。
リヒトの顔見知りである彼女が食事を持ってきたことについては、別段驚かない。古風でいかにも動きにくそうなメイド服も、それが食事を運ぶ役目を担う者が着るべきものということであれば、素直に納得する。
しかし、リヒトを主と呼ぶ者がいるとしたら、召喚獣であるスバルトゥルだけだ。そのスバルトゥルも、まだまだ未熟な契約者を主と呼ぶのは面白くないのか、もしくは彼にとって本当に主と呼ぶべき存在は先代契約者のジルバだけだからなのか――いずれにせよ、今のところリヒトは己の召喚獣から呼び捨てにされるのが基本である。
そのことについて、不満があるわけではない。むしろ、いくらジルバの願いだからといっても、森の王たるスバルトゥルが自分の召喚獣となってくれたことが、いまだに信じ切れないところがあった。彼に自分を主と呼ぶよう要請するつもりなど微塵もないし、むしろ「師匠の足下にも及ばないおれなんかが、アナタの契約者でスミマセン」と謝りたくなることもしばしばだ。
なんにせよ、リヒトにはただの顔見知りに過ぎない女性から『ご主人さま』呼ばわりされるいわれはない。思わず胡乱な目を向けた彼に、ワゴンを押してきた将軍の妻が、きょとんと瞬きをした。それから、何かに気づいたようにはっとした彼女は、ひどく慌てた様子で一礼する。
「失礼しました! ええと、わたくしはこの砦を預かるハーゲン・カレンベルクの妻、イングリット・カレンベルクと申します! 先日は、我が夫とこの砦の者たちを救っていただき、ありがとうございました!」
「いや、ここの将軍を助けたのは、アンタだろう。礼を言われるようなことをした覚えはない」
リヒトがしたのは、イシュケルの魔力侵蝕を受けた将軍との、ほんのわずかな会話だけだ。彼を元の人間に戻したのはイングリット自身だし、砦を襲ってきたキメラタイプの蟲たちを排除したのは、スバルトゥルとイシュケルである。
その後、正体不明のモナクスィアと名乗る不審者に襲われたとき、自分たちを間一髪守ったのはアリーシャだ。……リヒトなりにいろいろとがんばったつもりではあるが、こうして振り返ってみると本当に何もしていない。
(スバルトゥルたちに魔力を食われまくっていたとはいえ、情けないにもほどがあるな……)
かくなる上は、今後召喚獣たちが戦闘モードに入っても体調不良を起こしたりしないよう、魔力制御の訓練に全力で励むことを決意する。彼らへの魔力供給だけが、戦闘時における自分のお仕事というのは、さすがにちょっと遠慮したい。
ぼんやりとそんなことを考えていたリヒトの後頭部を、イシュケルがべしっと叩く。痛くはないが、びっくりした。
「水の王?」
思わず見上げると、不機嫌な顔をした彼がものすごくいやそうに口を開く。
「……森の王も、オレも、あの娘も。おまえが望まなければ、この砦の者たちを救おうなどとはしなかった」
だから、と彼は目を細めて続ける。
「今、ここにいる者たちはみな、あのときおまえが救おうとしたから生きている。この女が言っているのは、そういうことだ」
「はい! その通りです!」
かなり食い気味にイシュケルに同意した将軍の妻――イングリットが、握った両手の拳をぶんぶんと上下に振って言う。
「ええとええと、ご主人さまには、いろいろと申し上げたいことはあるのですけども! まずは、お食事にいたしましょう!」
「……とりあえず、その『ご主人さま』呼びはやめてほしい。オレは、リヒト・クルーガーだ。普通に名前で呼んでくれ」
げんなりしながらの要請に、イングリットがハキハキと応じる。
「了解しました、リヒトさま!」
「リヒト、だ」
年上の女性から、敬称をつけて呼ばれるのは違和感が酷すぎだ。しかし、イングリットはにこりと笑った。
「申し訳ありませんが、リヒトさま。これは、あなたに命を拾っていただいた我々のケジメです。――のちほどお話しさせていただきますが、五年前に帝室が犯した大罪について、我ら一同すでに聞き及んでおります。我々の忠誠は、すでに帝室にはありません」
「……はあ」
突然、良家の淑女のような物言いになった彼女は、どれほど大きな猫を被っているのだろうか。イシュケルが言っていた誓約が発動していない以上、イングリットが嘘を吐いていないのはわかるけれど、会話のテンポが変わって対応がしにくい。
猫被りモードのイングリットが、ワゴンの上にのっていた皿の覆いを外すと、野菜とミルクのいい匂いがした。どうやら、野菜のポタージュらしい。それを一さじすくって自分の口に入れ、イングリットが目を瞠る。
「あら、美味しい」
――毒味をしたつもりが、本当に美味しくて驚いたようだ。
リヒトは、ため息を吐いて言う。
「アンタたちが、おれたちに危害を加えられないことは知っている。そういうことは、必要ない」
「あ、それはお聞きになっていたんですね。それじゃあ、どうぞ。リヒトさま。厨房の者たちが自慢していただけあって、とっても美味しいですよ!」
にこにこと屈託なく笑うイングリットから受け取ったポタージュは、優しい味わいでとても美味しかった。空っぽだった胃を驚かせないよう、少しずつ口にしながら彼女の話しを聞くことにする。
「イングリットさん。水の王が将軍の支配から外れたって話しは、帝都にはもう伝わっているのか?」
「いいえ。少なくともこちらからは、今回の件について、帝都側には一切報告しておりません。あちらの間諜が、この砦に紛れ込んでいたとしても――」
軽く肩を竦め、イングリットがイシュケルを見る。この砦の全員と誓約を交わしたという召喚獣が、ふん、と鼻を鳴らす。
「ここにいた人間どもを一人残らず中庭に並べて、オレと森の王の魔力で威圧した上で誓約させたんだ。そんな不届きな連中がいたところで、もう何も悪さはできんさ」
たしかにそれならば、誓約から逃れられた人間はいないだろう。
「帝都への報告も、『おれたちに危害を加える』に該当するのか?」
リヒトの素朴な疑問に、イシュケルはあっさり応じる。
「ああ。そういった行為は、本人に明確なこちらへの敵対意思があるから、まず不可能だ。警告の時点であきらめるだろう」
どういう意味だ、と視線で問うたリヒトに、現在重度の人間不信中の彼は、低く冷たい声で言う。
「オレたちとて、人間どもの腐った血肉のにおいなどそう嗅ぎたいわけじゃない。ここの連中がオレたちに危害を加えようとしたときには、まずそいつの魔力が暴走するよう条件づけをしてある」
ここは、東の国境の要として機能している砦だ。そこに送りこまれる間諜であれば、たとえ下働きとして潜り込んでいたとしても、まったく魔力を持たないということはないだろう。
リヒトは、ポタージュをすくう手を止めた。
「ちなみに、その暴走の解除条件は?」
「そいつの視力の喪失だ」
つまり、とイシュケルは淡々と言う。
「帝都の間諜がこの砦にいたとしても、何か行動を起こそうとすれば魔力暴走を起こした挙げ句、それを止めるためには自分の目玉を抉る必要があるわけだ。それでもなおオレたちへの敵対行為を断行して、国境の守りを担っている砦の人間どもを、丸ごと道連れにしようと考えるやつがいたら……まあ、それはそれで見物かもな」
まるで他人事のように語られる言葉に、リヒトは少しほっとした。それだけ段階を踏んだ条件付けがなされているのであれば、ある日突然この砦がグロテスクな死体で溢れかえることは、まずなさそうだ。
イングリットが、うんうんとうなずいて言う。
「もしそんな事態が起こった場合には、周りにいる者たちが全力で袋だたきにするでしょうから、どうぞご安心くださいね。わたくしも、目潰し機能つきの捕縛魔導具を鋭意開発中ですので!」
メイド姿の彼女の瞳が、自信ありげにキラめく。ものすごく、頼もしい。
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