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1巻
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しおりを挟む第一章 寝取られました
「リュ……リュシーナ!?」
若い男女の声が見事に重なって、部屋に響いた。
二人に視線を向けつつ、ティレル侯爵令嬢リュシーナはふと思う。
――婚約者を寝取られる女、というのは、さほど珍しいものではないのかもしれない。だが、その現場に居合わせる女、というのは、ちょっと珍しいのではないだろうか。
彼女は、まじまじと目の前の男女を眺める。
リュシーナの婚約者である王国騎士のダニエル・トゥエンと、彼にまたがっているジャネット・エプスタイン。ジャネットは、リュシーナの友人――否、一分前まで友人だと思っていた少女である。
本日リュシーナは、王国騎士としてがんばっている婚約者に手製のマフィンを届けるべく、メイドのヘレンとともに騎士団の宿舎を訪問した。
案内役を買って出てくれた若い騎士のあとについて、リュシーナとヘレンはダニエルの部屋の前までやってきた。若い騎士は「おい、ダン! 素敵な婚約者殿がおまえに差し入れを持ってきてくださったぞ、感謝し――」と言いながら、勢いよくドアを開けたのだが……
そこで目にしたものがこれとは、さすがにちょっと、どう対応したらいいのかわからない。
ジャネットのドレスは胸元がはだけ、ささやかな膨らみがあらわになっている。一方、可愛らしいクリーム色のスカート部分は、ジャネットとダニエルの下半身を覆い隠してくれていた。
けれど、彼らの体勢と密着具合――そして下着がジャネットの足首に引っかかっているところから判断して、まぁ……そういうことなのだろう。
その下着は実に色っぽいデザインで、ジャネットの持つ雰囲気とはかけ離れていた。
ふわふわと巻いた黒髪に飾られたリボン、可愛らしい顔立ち、成熟しているとはとても言いがたい華奢な体つき。
そんな子どもじみた外見のジャネットが乱れた格好をしているものだから、なんだか妙な犯罪くささが漂っている。
彼女は、リュシーナと同じ十七歳。すでに婚姻可能な年齢ではあるものの、リュシーナと比べると、はるかに幼く見える容姿をしていた。
もっとも、リュシーナは実年齢より年上に見られることが多いので、比較対象としては適切でないかもしれないが。リュシーナのまっすぐな銀髪、切れ長のコバルトブルーの瞳が、相手に落ち着いた印象を与えるのだろう。
とりあえずリュシーナは、ジャネットがドレスをすべて脱がないでいてくれたことに感謝した。
よく知った相手の生々しい濡れ場など、見たいものではない。
次いでリュシーナは、ジャネットの下で青ざめているダニエルに視線を向けた。
リュシーナがダニエルと婚約したのは、半年前。彼女の父親であるティレル侯爵が、親族一同と相談してダニエルを婚約者とした。いわゆる政略結婚である。
リュシーナは、それまでにも何度か社交の場でダニエルと顔を合わせていた。
明るい栗色の髪と瞳を持つダニエルは、同じ年頃の少女たちの間で「中の上ね! 美形すぎないところが親しみやすくて、ちょうどいいわ!」と、なかなか人気の高い人物であった。
彼との縁談を父から聞かされたとき、リュシーナは「結婚相手がハゲでデブの脂ぎった中年親父じゃなくって、本当によかった!」と胸を撫で下ろしたものだ。
彼女は、自分よりも早く嫁いだ友人たちから結婚生活に関する話をいろいろと聞き、『将来の旦那さまとは、あらかじめ友好的な関係を築いておいたほうがいい』と結論を出した。
そしてダニエルと正式に婚約してからというもの、リュシーナはマナーに反しない頻度で先方の屋敷を訪問し、義理の両親となる伯爵夫妻に礼儀正しい嫁として可愛がってもらえるよう、がんばってきた。
もちろん、婚約者本人のことも忘れてはいない。ダニエルの幼少時の話や好みをさりげなく探り、ミックスベリーマフィンが好物だと突き止めた。
自らマフィンを用意して騎士のダニエルを労りたいと思ったのだが、トゥエン伯爵家のメイド頭は他家の貴族令嬢相手にも容赦なかった。「いずれこのトゥエン伯爵家の奥方さまになろうという方が、そんなことをするものではございません!」と何度窘められたことか。しかしそのメイド頭を口説き落とし、このたびようやく、マフィンの焼き方を伝授してもらえたのだ。
リュシーナは、手元の籠に目を落とす。まだほかほかと温かいマフィンに、断じて罪はない。
メイド頭直伝・おいしさ保証つきのお菓子を、寝台の二人に投げつけてはいけない、とリュシーナは自分に言い聞かせた。
自分は、誇り高いティレル侯爵家の娘なのだ。粗相があっては、その家名に傷がつく。
将来、家を継ぐ弟のためにも、ここは最大限冷静な対応が求められるところだ。
しかし非常に残念ながら、箱入りのお嬢さま(現在、花嫁修業中)である彼女は、今の状況を打破できるほど世間慣れしていなかった。
リュシーナは、メイドのヘレンにちらりと視線を移す。
乳姉妹で親友でもあるヘレンは、リュシーナの知るほかの誰よりも賢くて信頼できる相手だ。けれど、さすがに彼女ひとりで現状をどうにかできるかといえば、答えは否。
リュシーナは再び視線を移し、ダニエルの部屋まで案内してくれた騎士を見つめた。
彼は勢いよくドアを開けた後、目を丸くして固まってしまった。しかし、なかなか頼りになりそうな人物に見える。
リュシーナは、彼の頭の先から足下まで素早く目を走らせた。
年の頃は、二十歳をいくつか過ぎたほどだろうか。見目は、かなりいい。清潔に整えられた明るい金茶色の髪に、一見黒にも見える深い紺色の瞳。友人たちの誰に紹介しても、「見た目だけなら上の上っ!」と太鼓判を押してくれそうだ。
部屋に向かう前に挨拶をしたとき、彼はハーシェス・ランと名乗った。聞いたことのない家名だから、この国では珍しい平民出身の騎士なのかもしれない。
リュシーナは、先ほど「ハーシェスと呼んでください」と言って彼が浮かべた朗らかな笑みを思い出す。きっと彼は、ジャネットの下にいるダニエルとはまったく違うタイプの青年に違いない。
こんな醜聞に、無関係な彼を巻き込んでしまうのは、ものすごく気が引ける。気が引けるのだが――ここは運が悪かったと諦めてもらおう。運の悪い彼には、のちほど心から謝罪した上で、迷惑をかけたお詫びの金品をきっちり贈ることにしたい。
リュシーナがヘレンに決意を込めた視線を送ると、彼女は引きつった顔ながらもしっかりとうなずいてくれる。
次の瞬間、リュシーナはふらりとよろめいた。
「リュシーナさまあああぁー! お気をしっかり!」
盛大な悲鳴を上げたヘレンは、リュシーナの体をすかさず支え、さりげなくマフィンの入った籠を引き取ってくれる。
(ナイスよ、ヘレン! ありがとう!)
ぐったりとヘレンに寄りかかり、リュシーナは密かに拳を握りしめた。バターと数種類のベリーがたっぷり練りこまれたマフィンは、あとでヘレンとおいしくいただくことにしよう。
――とそのとき、リュシーナの体がふわりと浮いた。
(……え?)
思わず、目を瞬かせる。
彼女のすぐそばには、ひどく真剣な眼差しをしているハーシェスの顔があった。
どうやら彼は、よろめいたリュシーナを抱き上げてくれたらしい。ショックを受けたリュシーナが人事不省に陥った、と誤解したのだろうか。
罪悪感に、ちくちくと胸が痛む。
「も……申し訳、ありません……」
リュシーナの口から出た声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
彼女が世間知に長けた女性だったなら、衝撃を受けたふりをしてこの場を退場――という情けない手段を選んだりせず、自ら始末をつけることができたはずだ。
己の至らなさが情けなくて、泣けてくる。じわりと涙がにじんでしまい、リュシーナは思わず両手で顔を覆った。
レディたるもの、人前で感情を乱してはいけない。
わかってはいるのだが、頭の中は、自分で思っていた以上にぐちゃぐちゃだった。
ふと、厳格な父の顔が浮かぶ。
父は、この現状を知ってなお、ダニエルとの婚儀を進めようとするだろうか。
ダニエルの生家は、由緒ある伯爵家。リュシーナの生家である侯爵家のほうが上位だが、父はトゥエン伯爵家との繋がりを持ちたいようだった。
「ふ、ぅ……っ」
未来予想図を頭に描いていたら、本気で泣けてきた。これは、生涯独身を貫くことを決めて、すぐにでも修道院へ逃亡したほうがよさそうである。どの道、結婚間近の婚約者を友人に寝取られたとなると、リュシーナの名誉は泥まみれだ。その醜聞から逃れ、今後の人生を静かに送れる場所は修道院しかない。
そんなことを考えていると、リュシーナの頭上から冷えきった低い声が響いた。
「――ダン。そちらのお嬢さんも、いい加減服を着たらどうだ? みっともない」
ハーシェスの一言で、ダニエルの頭は再び動き出したらしい。
「まっ、待ってくれ、リュシーナ! 違うんだ、これは……っ」
ダニエルが裏返った声で叫ぶ。リュシーナは自分の名を彼に呼ばれただけで気持ち悪くなり、身を震わせた。
そんな彼女の代わりに、ハーシェスはいっそう冷ややかな声で淡々と告げる。
「おまえのためにわざわざ来てくださった婚約者に、よくもこんなひどい仕打ちができたものだな。そのお嬢さん、さっき彼女の名前を呼んでいたよな。婚約者の知人と真っ昼間から浮気かよ。ダン、オレはおまえを、心の底から軽蔑する。二度と彼女の前でその薄汚い口を開くな、黙っていろ。おまえにはもう、彼女の名を呼ぶ資格はない」
(まったくその通りなのです! よくぞおっしゃってくださいました、ハーシェスさま!)
リュシーナは感動した。彼へのお礼は、自分の宝石箱の中身を売り払って用意することにしよう。……ただ売却の際、一部のお金は修道院への逃亡資金に充てさせていただきたいと思う。
ハーシェスはこれ以上この場にいる意味はないと判断したのか、リュシーナを抱き上げたまま廊下を歩き出した。
すかさずあとを追いかけてきたヘレンが、掠れた声で言う。
「ランさま。このたびは、大変なご迷惑を――」
「自分に迷惑をかけたのはあの節操なしの阿呆であって、あなた方ではありません。お詫びいただくに及びませんよ」
先ほどダニエルに向けたものとは別人のような、穏やかで落ち着いた声でハーシェスが答える。
しかしハーシェスに運ばれているリュシーナは、間違いなく彼に迷惑をかけていると思った。同時に、自分が『男性の腕の中にいる』と意識してしまい、とてつもない気恥ずかしさと居心地の悪さを覚える。
「あ……あの、ハーシェスさま……」
もう大丈夫ですから下ろしてください、と言おうとしたとき、背後から騒々しい足音が聞こえてきた。
「リュシーナ! 待ってくれ!」
(申し訳ありません、ハーシェスさま。まだ大丈夫ではありませんでしたー!)
慌ただしく追いかけてきたダニエルの声を聞き、彼女は全身に鳥肌を立てて身を縮める。ダニエルは息を乱しつつ、リュシーナたちの前に立ちはだかった。
貴族の男性が、妻以外の女性を愛することは珍しくない。ダニエルもまた、婚約者の友人と昼間からああいった行為に耽るタイプの男だったというだけのことだ。
しかしリュシーナは、そんな爛れた神経の持ち主を『旦那さま』と呼ぶことなど、とてもできそうになかった。
吐き気さえ伴う壮絶な嫌悪感に、ダニエルの顔すら見たくなくて、きつく目をつむる。
彼女の頭上で、ハーシェスが苦々しげに口を開いた。
「……言ったはずだぞ、ダン。おまえには、もう彼女の名を呼ぶ資格がないと」
「っやかましい! おまえこそ黙っていろ、平民風情が!」
その瞬間、リュシーナの中でダニエルの評価は、どん底を突き抜けて回復不可能なところまで落ちていった。
同じ騎士団に所属している相手に対し、身分を笠に着て侮蔑するような言葉を向けることなど、断じてあってはならない。
これはむしろ、結婚前にダニエル・トゥエンという人間の素顔がわかったことを喜ぶべきなのかもしれない。妻として、一生彼に尽くすという未来を回避できたのだから。
リュシーナはぎゅっと拳を握りしめ、震える声で言葉を紡いだ。
「……トゥエンさま。あなたとの婚約は、今日限りで解消させていただきたく思います。どうか、ご縁はなかったものとさせてくださいませ」
ダニエルのほうを見ないまま告げると、ひどくうろたえた声が返ってくる。
「そんな……そんなことを言わないでくれ、リュシーナ。彼女とのことは、単なる間違いだ。きみの友人だと思っていたから、つい親しみを感じてしまって……」
リュシーナはあきれた。
この男は一体、何を言っているのだろうか。
思わず顔を上げ、情けなく歪んだダニエルの顔を見る。
「まぁ……。それではトゥエンさまは、今後わたしの友人たちに親しみを感じられたら、またあのようなことをなさるのですね? わかりました。友人たちには、今後絶対あなたに近づかないよう伝えておきます」
「リュシーナ! ち、違う、そういうことじゃ……!」
狼狽して上ずった声を上げたダニエルに、ヘレンが落ち着き払った様子で言った。
「失礼ですが、トゥエンさま。そのようなだらしないお姿でいらっしゃることについて、どうお考えなのでしょう。ティレル侯爵家への侮辱と判断して、よろしゅうございますか?」
「……っ」
今のダニエルは、ズボンと革靴以外、何も身につけていない。ヘレンの言う通り、女性の前に出るには極めて失礼な姿だ。
言葉を失った彼に、ヘレンは淡々と続けた。
「まずは申し上げておきます。先ほどのあなたさまの行為は、リュシーナさまに対する最悪の侮辱です。その事実は、最低限ご理解いただきたく思います。男性の部屋をおひとりで訪問されたジャネットさまも、レディとしてあるまじき方かと……ですが、ジャネットさまは十七歳。あなたさまは二十五歳。年上の男性として、あるいは騎士として、せめて潔く責任をお取りになってはいかがですか? いずれにせよ、こうなった以上、リュシーナさまがあなたさまのもとへ嫁がれることはあり得ません。侯爵さまには、事の次第を包み隠さずお伝えいたしますので、ご承知おきくださいますようお願い申し上げます」
ダニエルと対峙するヘレンは、実にいきいきとした表情に彩られていた。
リュシーナは、ヘレンが口喧嘩で負けたところを見たことがない。
先ほどは引きつった顔をしていたヘレンだが、ハーシェスの助力もあり、いつもの調子を取り戻したようだ。
「ご婚約以来、リュシーナさまはあなたさまに相応しい奥方となられるべく、健気に努力されてきました。私はそのお姿を、ずっとおそばで見てきたのです。だからこそ、今まで耳にしたさまざまな噂話を、リュシーナさまにお知らせするのは避けておりましたが――」
そこでヘレンは、とてもイイ笑みを浮かべる。
「こうしてあなたさまの不貞が明らかになった以上、もはやその必要もなくなりました。貴族のお屋敷に勤める使用人たちの繋がりを、甘く見ないほうがよろしいですよ。気心の知れたご友人たちに語っていらっしゃったあなたさまの武勇伝は、お屋敷に勤める多くの使用人が知っているのです。そして私はリュシーナさまの付き添いとして、彼らとはずいぶん親しくさせていただいております。この意味は、ご理解いただけますね?」
幼い子どもを諭すようなヘレンの口調に、ダニエルはみるみる青ざめていく。
その様子を眺めていたハーシェスは、小さく口笛を吹いた。リュシーナが見上げると、彼は楽しげに肩を揺らして笑っている。
彼女の視線に気づいたのか、ハーシェスは口を開いた。
「……失礼。あなたの騎士殿が、あまりに格好いいものですから、つい」
リュシーナは、とても嬉しくなった。うなずいて、ふわりとほほえむ。
「はい。ヘレンはわたしの知る限り、一番格好いい人なのですわ」
そう答えて、ヘレンにそっと視線を移した。
淡い金髪に、はしばみ色の瞳。今は地味なお仕着せ姿だが、すらりとしていて姿勢がいいし、化粧の映える端整な顔立ちをしている。ドレスアップすると、まるで別人のように化けるのだ。
加えて彼女は、大変賢くてしっかり者である。これまで、どれだけ助けられてきたかわからない。
おそらくヘレンは、その知性を武器に、彼女らしい道を突き進んでいくだろう――主のリュシーナがいなくとも。
ヘレンに気力を叩き潰されたダニエルをその場に残し、ハーシェスは廊下を進んだ。やがて三人は宿舎を出て、馬車どまりに待たせていた侯爵家の馬車の前にたどりつく。
ハーシェスに抱かれたリュシーナを見て、御者役の少年が目を丸くした。
一体何事か、と慌てる彼を、ヘレンが言葉少なに宥める。その間にハーシェスは、柔らかな布張りの座席へリュシーナを座らせた。
リュシーナは、彼に深々と頭を下げる。
「このたびはご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした。いずれ、あらためてお礼を申し上げたく思います。ハーシェスさまがお休みの日にご自宅にうかがっても、ご迷惑ではありませんでしょうか?」
その問いに、ハーシェスが柔らかな声で応じた。
「……私は、お礼をしていただくほどのことなど何もしておりませんよ。リュシーナさま」
とんでもない、とリュシーナは首を振った。
「ハーシェスさまがいらっしゃらなければ、あの場を後にすることはできませんでしたわ。そのお礼もせずに、修道院に入るなどできません」
修道院に入ってしまえば、二度と外部の男性と接触できなくなる。その前に、彼にはぜひともお礼を受け取ってほしかった。
ハーシェスは、深い紺色の瞳をすぅと細める。
「修道院……? なぜあなたが、そんなところに入らなければならないのですか?」
ひどく真剣な彼の声に、リュシーナは困って曖昧にほほえんだ。
「仕方がありませんわ。こんな形でトゥエンさまとの婚約が白紙になった以上、わたしを妻に迎える殿方なんて、もうどこにもいらっしゃいませんもの」
実態はどうであれ、今やリュシーナは『ダニエルに捨てられた女』。リュシーナを妻に迎えれば、『ダニエルが捨てた女を娶った男』と噂されるだろう。
わざわざそんな不愉快な立場に身を置こうとする者など、いるわけがない。
「最後にハーシェスさまのような素敵な殿方とお会いできて、とても嬉しく思います。これからはあなたのご多幸とご武運を、いつもお祈りさせていただきます。本当に、ありがとうございました」
どうせ修道院で祈りを捧げるならば、見目麗しい殿方のために祈ったほうが楽しいに決まっている。今回助けてもらったばかりか、今後の人生に張りまで与えてくれたハーシェスには、何度礼を言っても足りないくらいだ。
「……リュシーナさま」
ハーシェスは、真剣な表情をリュシーナに向けている。
それにしても、彼の顔は実に麗しい。
今のうちにご尊顔を目に焼きつけておこう、と考えていたリュシーナに、ハーシェスはためらいながらも口を開いた。
「私では、いけませんか?」
「……何がでしょう?」
リュシーナが首を傾げると、彼は思い切った口調で言葉を重ねる。
「あなたを妻に迎えるのが、私ではいけませんか? リュシーナさま」
リュシーナは目を丸くした。
まじまじと見返してみたところ、彼は至極真面目に言っているようだ。
どうやら彼は、非常にお人好しな性格であったらしい。それともこれが、女にはいまいち理解しがたい騎士道精神というものなのだろうか。
「ハーシェスさま? いっときの同情心でそのようなことを決められては、いつか必ず後悔されますわ。お気持ちは、大変ありがたく受け取らせていただきます。ですが、今のお話は聞かなかったことにさせてくださいませ」
ハーシェスならば、どんな女性でもよりどりみどりのはず。
醜聞にまみれるであろうリュシーナを娶って、わざわざ苦労を背負いこむ必要などない。
やんわりと答えたリュシーナに、ハーシェスはなぜか楽しげな微笑を浮かべた。
「同情などではありませんよ、リュシーナさま。私は先ほど、一目であなたに心を奪われましたから」
「……はい?」
目を瞬かせたリュシーナに、彼は続ける。
「もちろん、あなたがダンの婚約者のままであったなら、この気持ちを告げる気などありませんでした。けれどあいつはあなたを裏切り、あなたは神の家に入るとおっしゃる。……正直に言いましょう。私は今、ダンに感謝しています。よくぞ、あなたを裏切ってくれた、と」
彼の低い囁きに、リュシーナの背筋がざわつく。
今まで、こんなに情熱的な眼差しで見つめられたことはない。
「私は、平民の生まれです。貴族の――侯爵家のご令嬢であるあなたに、今後苦労をさせないとお約束することはできません。けれど、それでも私は……あなたが、欲しい」
そのとき、リュシーナの脳裏でコッソリと誰かが囁いた。
『こんなにキレイなお顔を毎日間近で見られるのなら、多少の苦労なんて気にしないっ。やってみてどうしてもダメなら、改めて修道院の門を叩けばいいんだし!』
……実のところ、ハーシェスの顔は、リュシーナの好みにどストライクだったのである。
それこそ、『ダニエルの婚約者』という立場でなければ、出会った瞬間、恋に落ちていたに違いない。
「あ……あの……でも、わたしは……」
とはいえ、『超・好みです!』なハーシェスに迷惑をかけてしまうのは忍びない。ここはやはり初志貫徹、修道院からひっそりとハーシェスの幸福を祈らせてもらおう。
そう考えて、口を開きかけたときである。
「リュシ――うわっ!?」
突然、御者役の少年がハーシェスをどっかんと馬車の中に蹴りこんだ。
「男に二言はございませんわね、ランさま! ではさっそく、旦那さまにご挨拶とまいりましょうか。ご安心くださいませ、私はこれでも旦那さまの恥ずかしい秘密を二十八個ほど存じ上げております。もしものときには、そのうちの七個ほどに尾ひれ腹びれ背びれ胸びれ浮き袋もつけて、あちこちでお話ししてまいりましょう。そう申し上げれば、旦那さまもお二人の仲を快く許してくださることと思います!」
ヘレンは一息でそう言うと、足取りも軽く馬車に乗りこんでくる。
どうやら、少年の蹴りは彼女の指示だったらしい。
青ざめた少年はぺこぺこと頭を下げながら慌ただしく馬車の扉を閉め、あっという間に馬を走らせはじめた。
ハーシェスは、一体ぜんたい自分に何が、という顔をしている。
賢くも頼りになる乳姉妹のヘレンは、リュシーナの幸福のため、ときに暴走することがある。こうなると彼女は、結果をもぎ取るまで決して止まることがないのだ。
彼女にロックオンされてしまったハーシェスは、きっとどこにも逃げられないだろう。
リュシーナは一度馬車の天井を仰ぎ、ぎゅっと拳を握りしめた。そして覚悟を決めて、口を開く。
「……ハーシェスさま。わたしは、今まで苦労らしい苦労をしたことのない貴族の娘です。お裁縫やお料理、お洗濯、お掃除などは、これから一生懸命学んでいくつもりではございますが、多くの至らない点があると思います。――それでも、わたしは……わたしを望んでくださった、あなたとともに生きていきたいと、思います」
馬車の床に座り込んだままのハーシェスに向かって、どうにかそう告げる。リュシーナは、自分の顔が真っ赤になっているのを感じた。
しかし、なかなかハーシェスから言葉が返ってこない。
(……ち……沈黙が、痛いのです……っ)
恥ずかしさといたたまれなさが耐えがたくなった頃、片手で顔を覆った彼が低く呻いた。
「……やばい。可愛い。何この拷問。落ち着けオレ。がんばれオレ。ここで理性飛ばしたら、あの阿呆と同じ阿呆判定されるからなオレ」
ハーシェスが、ぶつぶつとよくわからないことをつぶやきだす。ちょっと怖い。
「あの……ハーシェスさま……?」
おそるおそる声をかけたリュシーナの腕に、そっとヘレンが触れた。
「大丈夫ですわ、リュシーナさま。殿方はときに、こういった不思議な症状に見舞われることがあるのです」
「そうなの?」
ほっとしたリュシーナに、ヘレンはにこやかにうなずいた。
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