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1巻
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しおりを挟む「そうなのですわ。何も心配することはございません。ですから――お屋敷に着くまでの間、少々考えごとをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ。もちろんよ」
「ありがとうございます」
そう言うとヘレンは、馬車の座席に腰かけて目を閉じたまま、微動だにしなくなった。
そんな彼女を見たハーシェスが、困惑した様子で首を傾げる。
「リュシーナさま? 彼女は、一体……?」
「大丈夫ですわ。少し考えごとをしているだけですから」
ヘレンは今、リュシーナとハーシェスが婚姻するための最善策を練っているのだろう。もし二人の婚姻を邪魔しようとする者がいたなら、ヘレンによって容赦なく排除されるに違いない。
それから少しの間、よくできた人形のように静止していたヘレンは、突然ぱっと目を開いてハーシェスを見た。
「――ランさま」
ハーシェスは一瞬驚いた様子で目を見開いたが、ゆっくりと微笑を浮かべる。
「はい。なんでしょうか、ヘレンさん」
ヘレンはどこか遠くを見るような表情で口を開く。
「もしやランさまは、ラン商会の代表であられるルーカス・ランさまのご子息でいらっしゃいますか?」
「はい。父をご存じなのですか?」
ハーシェスが意外そうな口調で応じる。しかし、彼の答えには、リュシーナのほうが驚かされた。
ラン商会は、その名を広く知られている。リュシーナたちの暮らすこの王都でも、五本の指に入るほどの豪商だ。
ラン商会は、庶民向けの生活用品から貴族階級の求める高価な品まで、幅広い商品を扱っている。中でも、異国からの輸入品は高品質だと定評があった。
ヘレンはハーシェスの顔をじっと見つめると、ひとつうなずいて「よし」とつぶやいた。
若干腰の引けた様子のハーシェスに、ヘレンは淡々と口を開く。
「前提条件の大幅な修正に伴い、より成功確率の高い方向へ作戦を変更いたします。――ランさま。旦那さまは、他人の感情の機微に疎いところがおありです。また、一度こうと思いこんだことに関しては、なかなか意見を変えない面倒な方でもございます」
身も蓋もないことをさらりと言ったヘレンは、ハーシェスの目をまっすぐ見ながら続ける。
「ですが、頭が固いばかりで先を見る目のない、旧態依然とした貴族の当主ではございません。あなたさまが旦那さまに提示できる条件が、侯爵家にとって利があると納得させられるものであったなら、リュシーナさまとの婚姻を前向きに検討していただけるかと存じます」
淀みなく告げられたヘレンの言葉に、ハーシェスは呆気にとられたようだった。
少しの間のあと、軽く眉をひそめて口を開く。
「……商人として、侯爵からリュシーナさまを買い取れとおっしゃるのですか?」
不快げに言うハーシェスに、ヘレンはにこりとほほえんだ。
「ラン家の後継ともあろうお方が、恋情に溺れるのですか? リュシーナさまを正しく奥方さまにお迎えする機会を、ふいになさると?」
「……っ」
ぐっと詰まったハーシェスに、ヘレンは笑みを深める。
「まぁ、ここで一切の迷いもなくリュシーナさまを買い取ろうとなさる方でしたら、今すぐ馬車から蹴り出して差し上げましたが。――よろしいですか、ランさま。リュシーナさまがあなたさまのもとへ嫁がれたら、いずれ心ない方々から『身を落とした』と蔑まれるのです。あるいは『お気の毒に』と哀れみを向けられたり、ご友人から今後のおつきあいを絶たれたりするでしょう」
「あら、ヘレン。怖ーいおばさま方のおしゃべりにおつきあいしなくてもよくなるのなら、わたしはとっても嬉しいわ。それに、こんなことでおつきあいのなくなる方なら、遅かれ早かれお友達ではいられなくなったと思うの」
すかさずそう言ったリュシーナに、ヘレンは半眼を向けた。
「リュシーナさま。殿方はある程度逆境に追いこんでこそ、その真価がわかるものなのです。もちろん、あまり追いこみすぎては危険です。突然ぷっちりとキレた挙げ句、自爆してしまいかねない繊細さをお持ちですから。そのあたりのさじ加減がなかなか難しいところではありますが……とりあえず今は、大変気合いを入れなければならない正念場です。ランさまを甘やかして差し上げるのは、すべての片がつくまで、もうしばしお待ちくださいませ」
びしっと教育的指導をされて、リュシーナは素直に謝る。
「わかったわ。邪魔をしてごめんなさいね」
ヘレンは「よろしいのですよ」と笑ってうなずく。
そのときリュシーナは、ハーシェスが少し戸惑った顔で自分たちを見ているのに気がついた。もしかしたら、ヘレンのリュシーナに対する遠慮のなさに驚いているのかもしれない。
「ヘレンは、わたしの乳姉妹なのですわ。小さな頃からずっと一緒だったものですから、とても頭が上がりませんの」
リュシーナが笑みを浮かべてそう言うと、ハーシェスも笑みを返してくれた。
「そうだったのですか」
(はう……っ)
彼の甘いほほえみに、リュシーナの正直すぎる心臓は、『きゅんきゅん』を通り越して『きゅっ』と潰れそうになった。
……今まで、こんなふうに命の危機を感じたことはない。美麗な殿方の素敵な笑顔が、まさかこれほど心臓に悪いものだとは。
だがリュシーナとて、レディの一員。良家の子女が礼儀作法を学ぶフィニッシング・スクールだって卒業している。これ以上ハーシェスに恥ずかしいところを見せてなるものか、と穏やかな笑顔をキープした。
(ふふふ……偉いわ、わたし)
リュシーナがレディの誇りを守り切ったところで、ハーシェスはあらためてヘレンに向き直った。
「それでは、ヘレンさん。ここからは、私のことを騎士ではなく商人――ラン家の次期当主と思ってお相手していただけますか?」
――リュシーナの父であるティレル侯爵に、利があると思わせるほどの条件を提示できるかどうか。
ハーシェスは、先ほどのヘレンの言葉に応える気でいるようだ。
ヘレンはわずかに目を瞠ったあと、わずかに唇の端を持ち上げた。面白いものを見つけたときの、彼女の癖である。
「もちろんですわ。ランさま」
ヘレンがそう返すと、リュシーナは思わず両手を組み合わせた。
(ハ……ハーシェスさま! こうなったヘレンは、とっても手強いのですが……どうか、がんばってくださいませね!)
はらはらしながら見守るリュシーナの前で、ハーシェスは落ち着いた口調で続ける。
「ありがとうございます。私の提示できるカードは、ラン家の財力と、後継者という立場。私の父は、商工連の顔役のひとりでもあります。加えて、国内外の主要な商人たちと繋がるネットワーク。リュシーナさまとの仲を認めていただけない場合、侯爵家に縁のある方々への資金援助を打ち切る、という手段も辞さないつもりですが――」
王都でも屈指の豪商ラン家はかなりの財力があり、今や経済界に多大な影響力を持つ。そして多くの貴族は、ラン家のような商家から資金を借り入れているのだ。
ハーシェスの言葉に、ヘレンはうなずきながら答える。
「確かに、有効な手段であるかと存じます。ですが、ティレル侯爵家との友好的な関係が完全に断たれることにも繋がりますので、あくまでも最終手段にとどめておいたほうがよろしいかと」
「ええ。それは私の望むところでもございません。そこでこの際、ダニエルには徹底的に悪役となってもらおうかと思うのですが、いかがでしょう?」
「……一体、どのようにして?」
『にやり』としか言いようのない笑みを浮かべたヘレンに、ハーシェスは穏やかな微笑を返す。
リュシーナは、またもときめいてしまった。
「侯爵へのご挨拶は、しばらくお待ちいただいてもよろしいでしょうか。それまでの間、リュシーナさまには少々居心地の悪い思いをさせてしまいますが――リュシーナさまを最悪の形で侮辱した愚か者をのさばらせておくなど、私は断じて我慢ならないのですよ」
ハーシェスが力強く言えば、ヘレンも我が意を得たりとばかりにうなずく。
「ええ、まったくです。了解いたしました、ランさま。それでは私も、微力ながらお手伝いさせていただきます。ティレル侯爵家とトゥエン伯爵家にお仕えする使用人仲間全員に、今回の一件を細大漏らさず多少の脚色を加え、面白おかしく広めてまいりましょう」
「ありがとうございます、ヘレンさん。……リュシーナさま、申し訳ありませんが、少しの間だけ辛抱していただけますか?」
ハーシェスから気遣うように問いかけられ、リュシーナも自分にできることを考えた。
「あの……そういうことでしたら、わたしもお友達のみなさんに、ダニエルさまの不実を涙ながらに訴えたほうがよろしいでしょうか?」
侮辱されたまま泣き寝入りするなど、断じてリュシーナの趣味ではない。
リュシーナは、ちょっと楽しくなってきた。
そんな彼女の気持ちが伝わったのか、ヘレンも晴れやかに笑いかけてくる。
「それがよろしいですわ、リュシーナさま。ですがランさまに求愛されたことは、まだ秘密にしておかなくてはなりませんよ? 噂というものには、尾ひれがつくものです。どこでおかしなことを言われるか、わかったものではありませんから」
「ひどいわ、ヘレン。わたしだって、そこまでおばかさんじゃありません」
むっとしてヘレンを睨みつけたリュシーナは、ふと小さな不安を覚えた。
「ヘレン? あなたこそ、やりすぎるようなことはしないでちょうだいね。確かにトゥエンさまは紳士の風上にも置けないような最低の殿方だけれど、伯爵家の方々にとっては大切なお坊ちゃまなのですもの。ばかな子ほど可愛いとも言うし、逆恨みでもされたら大変よ?」
リュシーナの指摘に、ヘレンは不思議そうに首を傾げる。
「大変でしょうか? 多少、面倒なことになるかとは思いますが……」
どうやらヘレンにとって、『大変なこと』と『面倒なこと』はイコールにならないらしい。
リュシーナは、彼女にやんわりとほほえみかけた。
「……それにね、ヘレン。トゥエン伯爵家のメイド頭には、おいしいマフィンの焼き方を教わったでしょう?」
ヘレンが、ぽんと両手を合わせる。
「そういえば、そのご恩がございましたね。わかりました。今後あちらの使用人のみなさまが、恥ずかしさのあまり表を歩けない、なんてことにはならないように、できるだけ注意いたします」
もしメイド頭から素敵なマフィンのレシピを伝授されていなければ、トゥエン伯爵家にもたらされる災厄がどれほどのものになったのか――リュシーナはちょっぴり怖くなった。
その後、三人でおおまかな計画をまとめ上げると、ハーシェスは人気のない路地で馬車から降りた。
――これからしばらくの間、ハーシェスとは言葉を交わすどころか、顔を合わせることさえできなくなる。どれほど望んでも、リュシーナから彼に会いに行くことは絶対に許されない。
胸の奥が、ぎゅっと引き絞られたように痛んだ。
まだ出会って間もないのに、リュシーナは自分でも驚くほどハーシェスに心惹かれていた。
切ないくらいの離れがたさを感じたけれど、それをハーシェスに悟られてはいけない、とリュシーナは自分に言い聞かせる。そんな彼女に、彼は騎士服のポケットから取り出したものを差し出してきた。
「リュシーナさま。どうかこれを、再会のお約束代わりに」
それはクラシカルな細工の施された懐中時計だった。
長い間、彼が身につけていたのだろう。
社交の場で貴族が身につける煌びやかな品とは違い、ところどころに傷がついているけれど、彼が大切に扱っていることが伝わってくる。
……こんなふうに、彼に大切にしてもらえる自分になりたい。そのためにも、今は違う場所でがんばらなければならない。
リュシーナは懐中時計を胸に抱くと、幼い頃に祖母から受け継いだ耳飾りを片方外した。
「ありがとうございます、ハーシェスさま。……あの、次にお会いするときまで、こちらをお持ちいただけますか?」
祖母は、リュシーナと同じコバルトブルーの瞳をしていた。そんな彼女がとても大切にしていた耳飾り。これは、リュシーナにとって亡くなった祖母との思い出の品である。
――この耳飾りを託すことに、迷いを覚えなかったわけじゃない。けれど、ハーシェスは大切にしている懐中時計を自分に預けてくれた。ならば自分も、彼に大切なものを預けるべきだ。
ハーシェスは耳飾りを受け取り、そっと握りしめた。
「……ありがとうございます、リュシーナさま。いずれ必ず、お返しいたします」
「はい。わたしも、必ず――。それまで、大切にお預かりいたします」
生まれてはじめて交わした、恋しい男性との再会の約束。それはリュシーナが想像していたよりも、ずっと切ないものだった。
ハーシェスと別れたあと、リュシーナとヘレンを乗せた馬車はティレル侯爵家に向かって走っていた。
リュシーナはふと、隣に座るヘレンに目を向ける。
幼い頃から、いつも一緒に過ごしていた乳姉妹のヘレン。
リュシーナよりひとつ年上の彼女は、非常に優れた頭脳を持つ少女だった。ティレル侯爵家の本邸で同じことを習っても、ヘレンはすべてをすぐさま理解し、リュシーナのはるか先を行く。
(だからわたし、自分のことをとってもおばかさんだと思いこんでいたのよね……)
いつの間にかヘレンが基準になっていたリュシーナは、十二歳でフィニッシング・スクールに入学したときに衝撃を受けた。
世の一般的な少女たちは、自分と同じく、学習内容を理解するためにはそれなりの時間を必要とするらしい。つまりリュシーナがおばかさんだったわけではなく、ヘレンの頭がよすぎたのだ。
多くの知識を次々と吸収し、ためらうことなくそれらを応用するヘレン。もっとも、その応用方法は多少ナナメ上をいくことが多かったのだが。
頭のよすぎる人間というのは、得てして普通の人間には理解しがたいところがあるのですよ――そう言ったのは、古典文学の家庭教師だっただろうか。
ヘレンは、頭の回転が速すぎるためか、他者とのコミュニケーションの取り方が独特で、どこかずれているところがあった。
それでも、彼女と長い時間を過ごしてきたリュシーナからすれば、その思考パターンはある意味非常に単純だ。
――身内か、それ以外か。
ヘレンの基準は、そこに集約されている。
彼女にとって優先すべきなのは家族と、主家であるティレル侯爵家。そして何より、生まれたときから彼女の『主』と定められていたリュシーナだ。
家庭教師たちは、口を揃えて「もったいない」と言った。もしヘレンが男に生まれていたなら、きっとその才覚で偉業を成し遂げていただろうに、と。
しかし、リュシーナは常々、彼らはおかしなことを言うものだと思っていた。
ヘレンの人生は、彼女のものだ。
その優れた才能をどのように使うかは、彼女自身が選ぶべきだろう。
そう、リュシーナは、生まれたときからヘレンの『主』だった。
ヘレンの才を活かすも殺すも、リュシーナ次第である。
リュシーナが学んだ歴史書の中に、このようなことが書かれていた。
『よき主とは、部下の才をあまねく花開かせる者のことである』
かつて一軍の将を務めていた人物の言葉である。
リュシーナは、おそらく見てみたかったのだろう。いつだってはるか未来を見据えているヘレンが、その才を開花させた先で何を得るのか、何を望むのか――
だからこそ、リュシーナは、彼女に与えることのできるものすべてを与えた。
偉大な先人の知恵を記した書物、最新の知識を得られる機会、彼女の才を正しく評価できる人々と出会う機会。
世界が広がるほど、ヘレンの瞳の輝きは増していった。
リュシーナは、そんな彼女の姿を誰より近くで見つめ続けてきたのだ。
だが――
「ふ……ふふふふっふっふ。リュシーナさま。正直に申し上げますと、私は以前から、このたび浮気の発覚したロクデナシ男が大変気に入らなかったのですよ。今後、あの男にどのような不幸が降りかかろうとも、私は心からの高笑いを捧げさせていただく所存です」
――少々不気味な笑みを浮かべるヘレンが、ちょっと怖い。完全に、目が据わっている。
ヘレンとは長いつきあいだが、これほどやる気に満ちあふれている彼女を見るのは、はじめてかもしれない。
ひょっとして、ここはダニエルの冥福を祈る場面なのだろうか。
暴走気味のヘレンは、なおも続ける。
「平民風情、でございますか。……苦労知らず世間知らずのお坊ちゃまだとは思っておりましたが、まさかここまで残念な頭の持ち主だったとは。ふふ、平民風情に何ができるのか、これからじっくりしっかり心ゆくまでご理解いただこうではありませんか」
……リュシーナは、ダニエルの冥福を祈ることにした。
さりげなく、馬車の窓から外を見る。
(本来なら、ダニエルさまとジャネットさんに対してわたしが一番憤るべきなのでしょうけれど……。将来確実に不幸になることがわかっている相手には、とても寛容な気持ちになれるものなのね)
この短時間で、寛容さが数段レベルアップしたリュシーナは、にこりと笑ってメイド姿の最終兵器――もとい、親友を見た。
やりすぎてはいけない、という注意はすでにしている。
ならば、今回の件についてリュシーナが憂うべきことは何もない。
「ありがとう、ヘレン。とても楽しみよ」
ヘレンも嬉しそうに笑い返してくる。
「リュシーナさまのご期待に沿えるよう、鋭意努めさせていただきます」
そしてふたりは、にっこりと笑い合った。
◆ ◇ ◆
ティレル侯爵邸に戻ったリュシーナが真っ先にしなければならなかったのは、ヘレンに支えられながら悄然とした足取りで自室に向かい、ベッドに潜りこむことだった。
なんとも情けない限りだが、『婚約者と友人に裏切られ、人生に絶望しているお嬢さま』を演出するには、ハーシェスから預かった懐中時計を抱きしめ、幸せいっぱいの顔をしているところなど、誰にも見せてはいけないのである。
最初の任務が『仮病』であるという情けなさに、リュシーナは憤りと理不尽さを感じずにはいられなかった。
(ああぁ……っ、今頃ハーシェスさまは、今後のためにいろいろと動いていらっしゃるのでしょう。ヘレンも、使用人仲間たちと楽しくおしゃべりをしながら、今後の予定をわくわく考えているに違いありません。なのに、わたしだけこんなふうにベッドに引きこもることがお仕事だなんて、とっても不公平だと思うのです……!)
とはいえ、今のリュシーナにできるのは『傷心のお嬢さま』を演じることだけ。そしてこれもまた、今後のために必要なことである。
(……いいえ、嘆いている暇があったら、少しは自分にできることを考えるべきよね。ハーシェスさまとヘレンに、任せっ切りにしてはいけないわ)
――リュシーナは、落ちこむところまで落ちこんだあと、割とすぐに頭を切り替えることができる。結構頑丈な精神構造を持っているのだ。
あまりにいろいろなことがありすぎて、頭が飽和状態になっている。ただ、幸いなことに今、考える時間だけは充分にある。
ここはきちんと状況を整理して、自分にもできることを模索すべき場面だろう。
リュシーナが今置かれているのは、『婚約者を友人に寝取られた貴族令嬢』という、情けなくも腹立たしい立場である。
普通、この状況でリュシーナが選べるのは、俗世の何もかもを捨てて修道院に入るか、恥と不名誉と屈辱に耐え、何事もなかった顔をしてトゥエン伯爵家に嫁ぐかだ。
――しかし、こんな醜聞にまみれてしまった自分を、ハーシェスは望んでくれた。
どうして彼のように素敵な男性が自分を選んでくれたのか。本当に不思議で仕方ない。
けれど、あのとき彼がリュシーナを見つめて告げた言葉に、嘘はなかった。
彼は、リュシーナのことを欲しいと言ってくれたのだ。
どんなに困難なことなのかをわかった上で、それでもリュシーナを望んでくれた。
(……わたし、ハーシェスさまにふさわしい女性になりたいわ)
そして彼から預かった時計のように、末永く彼に必要とされたい。
頭が痛くなるほどいろいろ考えていたリュシーナは、小さなノックの音で我に返った。
静かに開かれた扉の先には、ティーセットを載せたワゴンを押すヘレンの姿が見える。彼女がしっかり扉を閉めるのを確認し、リュシーナは勢いよく体を起こした。
けれど口を開こうとする前に、ヘレンがそっと人差し指を立てた。どうやら、扉の前に誰かが控えているらしい。
仕方なくヘレンが近寄るのを待っていると、彼女は低く抑えた声でこう言った。
「みなさん、リュシーナさまのことをとても心配していますよ」
「……そう」
事情はどうあれ、こうして気遣ってくれる人々を騙しているというのは、やはり胸の奥が重くなる。
申し訳なさに目を伏せたリュシーナだったが、ヘレンはさらりと続けた。
「まぁ、敵を騙すにはまず味方からと申します。そのあたりは気にしても仕方がないので、忘れることにしましょう、リュシーナさま。まず、現状についてお話しさせていただきたいのですが――」
……ヘレンは、リュシーナよりもはるかに頭の切り替えが早かった。
彼女がさらさらとよどみなく語った内容は、先ほど馬車の中で立てた計画通りのものだった。
いつでもどこでも冷静沈着なヘレンだが、本気で怒ると、普段以上に落ち着いた空気をまとう。
ヘレンはいつも以上に静かな口調で事の次第を執事頭に報告したあと、使用人仲間たちの前で、ダニエルとジャネットの関係について話したらしい。どのように伝えたのか、ヘレンが再現してくれたのだが、その罵詈雑言の嵐に、リュシーナは少し顔を引きつらせた。
なんの心の準備もなく、ヘレンの怒りの言葉を耳にした使用人たちは、さぞかし恐ろしい思いをしたに違いない。
ヘレンが話し終えると、リュシーナは、あらためてヘレンに向き直った。
そしてベッドの中で考えていたことを整理しながら、ゆっくりと口を開く。
「――あのね、ヘレン。今の状況を動かすために、わたしにできることがあまりないのはわかっているわ。だからわたしは、もっと先のことを考えたいと思うの」
一度瞬きをしたヘレンが、視線だけで続きを促す。
リュシーナは、ぎゅっと指を握りしめた。
「いずれハーシェスさまの妻となったとき、わたしがあの方のためにできることは何かしらって考えたの。ラン家のお仕事をお手伝いさせていただくために、今、何をしておいたらいいかしらって。――それでね、ラン商会が扱っている品は異国のものが多いでしょう? 異国からのお客さまをお迎えする機会も、きっとたくさんあるのではないかと思うの」
ヘレンは微笑した。
「ええ、そうですわね。ラン家は、本当に多くの国々と取引をされていらっしゃるようですから。日用品に限らず、学者の先生方向けの稀覯本まで扱われていると聞いていますわ」
「まぁ、そうなの?」
学術的な分野にまで通じているとなると、ハーシェスの実家は、リュシーナが思っていたよりもはるかに手広く商売をしているらしい。
幼い頃から、リュシーナはふたつほど外国語を学んでいるけれど、それらの言語を使う機会に恵まれたことは一度もない。
だがこうして異国に関わりのある男性に嫁ぐと決めた以上、もっと実践的な学習をしておくべきだろう。
決意のほどを話すと、ヘレンは楽しげに笑った。
「それでは、あの変態との婚約が解消されましたら、こうするのはいかがでしょう。リュシーナさまは、男嫌いになられてしまうのです。婚約者からひどい裏切り方をされてしまったのですもの、決しておかしな話ではありません。そして将来的に家庭教師を目指されるということにしておけば、異国の言葉や文化を学ばれていても、おかしいと思われることはありませんわ」
リュシーナは、彼女の案に目を輝かせた。
今後、屋敷の中では『目指せ、ひとりでも生きていける職業婦人!』の看板を掲げることにしよう。
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