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【前編】気が付いたらホームレス

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『モラハラDV夫を地獄に突き落としました』
と、いうネット漫画がある。世界規模で展開する動画配信サイトには、こうしたネット漫画が多々ある。俺の最近の楽しみは、こういう系統の動画を見つつ晩酌をすることだ。
漫画での話とはいえ、よく自分の嫁にモラハラやらDVが出来るなと思う。こういう話は現実でも起こったことだから、こうして漫画の題材となっているのだろう。そういう男にも結婚相手はいたのに俺はいまだ独身だ。今年で三十三歳、いつの間にやら坂本龍馬と同じ年になってしまったよ。

俺の名前は三田村源、埼玉県戸田市で独り暮らしをしている。
「職業は心臓血管外科医、我ながら優良物件だと思うのだがな…。まあ醜男だしな…。腹も出てきたし」
晩酌の焼酎を飲みながら自分で調理した煮物と青椒肉絲を食べている。
「おっ、このチャンネル新作を出しているな。ははは、またモラハラ夫に鉄槌を下す作品か」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ネット漫画【モラハラDV夫を地獄に突き落としました】
「あなた、浮気しているわね」
「ああ?だからどうしたよ」
「私に義母の介護を押し付けて…貴方は若い女と浮気だなんて…!」
主人公の湊陽子は結婚以来、要介護の義母の介護を担い、夫の湊正幸は大学出たての若い新人社員と不倫をしていた。
妻の陽子にそれが露見しても開き直り、それがどうしたという始末。陽子は施設出身で帰る家が無いので正幸は元々母の介護要員として利用するため結婚した。
それを悪びれる様子もなく
「お前は女として終わっているんだよ。やつれて髪はボサボサ、抱く気にもならない。俺を不倫に走らせたのはお前が女であることを放棄したためだよ」
何たる言いぐさか。四六時中義母の介護をしていれば容姿など気にしていられない。
いったい誰の母親の介護をしていると思っているのか。

その義母が亡くなった。葬儀の席で『お袋が死んで介護の必要が無くなった。だからお前とは離婚だ』と切り出す正幸。
しかし、義母は遺産を息子の正幸ではなく嫁の陽子に譲ることを弁護士立ち合いの元作成した遺書に記しており、ここから陽子の大逆転劇と正幸の転落が始まる。

また、陽子が一人で介護を担い、施設に入れようという提案を『遺産が減るから』という理由で容認しなかったことを親戚たちが知っており、正幸は四面楚歌へと。
陽子は長期にわたる夫のモラハラの記録をつけていた。暴言はボイスレコーダーに保存されていて日記には正幸の所業が事細かく記されていた。正幸は陽子に離婚を突き付けられたうえ多額の慰謝料を請求されることに。

浮気相手の女にも請求、それは陽子が正幸の務める会社に内容証明を送付することにより露見。正幸と愛人、双方とも退職を余儀なくされる。慰謝料の分割払いは認められず、一括払いのみ。正幸は方々から借金をして支払うことに。
慰謝料請求がされたことから浮気相手の女は激怒して、正幸と別れた。
自宅も陽子のものとなったので、陽子はすぐに売却、解体され更地となった自宅前で正幸は愕然とした。陽子に連絡を取ろうとするも陽子はすでに携帯電話を変えてしまい連絡が取れない。

住む家を失い、伴侶と仕事も失い、あるのは多額の借金のみとなった正幸。
陽子はその後、良縁を得て再婚、子供も生まれて幸せに。
正幸はホームレスとなり、借金の取り立てから逃れる毎日へと。
多くの視聴者が『モラハラ野郎ざまぁ』とコメントを残していく。



「ううむ…。こういうざまぁ系、スカッと系の主人公たちは男女問わず、仕返しをした相手の逆恨みが怖くないのかといつも思う。陽子が徹底した仕返しをしたいのは理解できるが、結果を見れば自分を憎悪する無敵の人が出来上がっただけ。自暴自棄の復讐鬼になった者は、どっちが悪か善か、先か後か、なんてことは考えないぞ。少しの退路を残しておくことが自分の身も守ることだと思うがなぁ…」
まあ、徹底した地獄を見せることが視聴者の溜飲を下げるのだろうが、現実なら、こんな仕返しをする女は後先考えない馬鹿女としか思えない。陽子は再婚をして幸せになった、それで話は終わっているけれど、元旦那が再婚相手と子供に何をしでかすか分からない。陽子はまだ若く、これからの人生の方が長いのだから人から恨みを買わないに越したことはないのに。
相手を地獄に叩き落すには、自分も地獄を味わう可能性があるのだから。
俺はそう思いつつも、違うモラハラ夫のネット漫画を見続けるのであった。
「さて、明日も仕事だし、そろそろ寝るかな」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ガタン、ガタン…
ガタン、ガタン…

「ん…」
電車の音…?それと何か臭うな…。まさか就寝中に大失禁でもしたのか…?
臀部に手を当ててみると、いつものパジャマじゃない。ジーンズをはいている。
「なんだ…?」
ムクリと起き上がると俺はどこかの高架下にいた。段ボールのベッド、小汚い外套、顔に触れてみれば伸び放題の無精ひげと髪の毛…。
「…な、なんだ?」

近くに水たまりがあったので自分の姿を映し出してみた。
「だ、誰だ、こいつは!?」
明らかに自分ではない何者かになっている俺。唖然とすると同時に強烈な頭痛に襲われた。
「今度は何だ、くそっ!」
激痛のあまり目をつぶり、頭を押さえつつ高架下の壁に手をつくと
≪あなた、浮気をしているわね?≫
≪ああ?だからどうしたよ≫
≪私に義母の介護を押し付けて…貴方は若い女と浮気だなんて…!≫

≪ふざけるなぁ!どうしてお袋の遺産すべての受取人が陽子なんだよ!≫
≪お義母さん…。ありがとう…≫

≪お前がいらんことを会社に言ったせいでクビになった!そのうえでまだ慰謝料を取るというのか!≫
≪正当な権利を行使するまで。地獄に落ちろ≫


「……」
やがて頭痛が収まった。
「なんだ、いま脳裏に浮かんだ光景は…。この記憶はなんだ?」
昨夜見たネット漫画『モラハラDV夫を地獄に突き落としました』そのものじゃないか。
動画で見た内容が、そっくりこの肉体の持ち主の経験となっている。
俺は…主人公陽子に徹底した仕返しを受けて社会的に詰んだ夫の湊正幸…。
「痛くない…。夢じゃないのか、これは…」
頬を抓ったら痛かった。残念ながら夢じゃない。

状況を受け入れ難く、俺はしばらく高架下で項垂れていた。
「病院…。無断欠勤になってしまうな…。午後から手術もあったというのに…」
どうやって元の三田村源に戻れるのか分からない。どうすればいいのか…。答えは出ないまま時は過ぎた。

また、一つ分かったことがある。正幸の記憶の中にあった。
正幸は元嫁の陽子と再婚相手、その男との間に生まれた子供を殺すつもりでいた。包丁も用意してあれば、元嫁の住居の場所はもちろん、家族三人が確実に家にいる日と時刻も把握していた。復讐者の執念たるや、すさまじいな。決行日は明日だった。

それ見たことかと思う。陽子は正幸を追い詰めすぎた。徹底した報復がしたいという気持ちも分かるが、これは愚策に過ぎる。あの女は逆恨みを考えなかった。正幸は無敵の人になっている。死刑になってもかまわないと腹を括られたら逃げようがない。
今日、俺が正幸にならなければ陽子とその家族は惨殺されていたわけだ。
まあ、この世界における三つの命を守ることが出来たのは医者の端くれとして喜ぶべきか。

いい加減、腹が減ってきた。とにかく夢でない以上、湊正幸の衣食住を確保しなくてはならない。
「ホームレスになっているということは…物語のあとの世界ってことか…」
せめて湊陽子と結婚している間なら復活戦も在りえただろうが、物語のあとでは完全に正幸の人生は詰んでいる状態だ。慰謝料を一括で支払うことを余儀なくされたため、正幸は怪しい街金から金も借りて、現在借金はどれほど膨れ上がっているか分からない。

だからホームレスになって逃げるしかなかったのだろうが…。
「いや、このままじゃだめだ。その借金とも正対し、完済した上で正幸の人生をやり直そう」
正幸は普通のサラリーマンで特別優秀というわけじゃないから、この状態からの復活は難しいだろうが、今の彼には俺、三田村源の知識と経験が宿る。
「この世界でも、俺は外科医となろう」
自分で言うのも何だけれど、俺はこれでも腕のいい心臓血管外科医なのだ。まあ醜男だから女には無縁だったけどな。

とりあえず、近くの公園の水場で体を綺麗にして、ホームレス仲間に剃刀とハサミを貸してもらい髪の毛を切り、無精ひげを剃った。小汚い外套は脱いで、何とか町を歩いても大丈夫そうな服を同じく水場で洗い、身なりを整えたあとに役所へと向かった。
ホームレス救済の窓口へと。乞食は三日やったらやめられないと言うが、ホームレスの方から社会復帰のための申請をしてくるのは少ないそうだ。
施設に入居して、そこから仕事先を探す。元いた世界では、ホームレスが社会復帰するためにはどうすればいいのかよくは知らなかったけれど、やはりこういう場合は役所に頼るのが一番いい。
ちなみに俺の住居は戸田市だったけれど、あの物語の舞台は隣の川口市だった。

当然社会復帰のために動き出すと借金取りが居場所を見つけてやってくるものだ。だから俺は施設に借金取りが来る前に、川口市、戸田市、蕨市を縄張りにしている街金…まあ暴力団の事務所に足を運び

「今まで雲隠れして申し訳ございません。現在、社会復帰のため施設に入居して仕事先を探しています。そして、その仕事をしながら私は医者になろうと思っています。借金の支払いは分割払いとなってしまいますが…」
「医者?」
暴力団幹部だ。土下座して俺は訴えた。医者を目指すと言ったら大笑いされた。
「おいおい、ホームレスで雲隠れしていた身から、わざわざ事務所に来た度胸だけは褒めてやるが、不倫やらかしたやつが医者になれるとでも?笑わせるな」
「いえ、私は本気です。確かに私は一度ホームレスに落ちましたが、まだ若い。人生を投げ出す年でもなく…」
「ああ、分かった、分かった。おい、佐伯を呼べ」

佐伯という三十代半ばの男が幹部の部屋へと訪れた。
「湊さんよ、こいつは元医大生だがワケあって、この世界に入った。医者を目指すっていうのなら佐伯が出す医療知識の問いかけに答えてみな。医者になるって言うんだ。今のうちからある程度でなければ支払いを待つことは出来ない」
「言い分は分かりますが私の分野は心臓血管外科、心療内科や皮膚科のことを問われても…」
「ほう、そりゃ奇遇だ。佐伯、お前も確か…」
「はい、心臓血管外科を学んでいました。初めていいか?」
「はい、お願いします」

俺は佐伯が出す心臓血管外科に伴う問いかけにすべて正確に答えた。かなり難しいものもあったけれど医学書の知識の範疇に留まっている。佐伯とやらは実際の手術をしたことはないだろう。佐伯は驚愕し
「若頭、本物です。このぶんなら明日にでも医師免許を取れるでしょう」
「ああ、それはお前と湊さんのやり取りを見て分かったよ。湊さん」
「はい」
「とりあえず、現状の金額で利息もストップしておく。医師免許を取得し、医者として収入が得られるようになったら返済について、もう一度話し合おう。それでいいか?」
「ありがとうございますっ!」
「いや、ホームレスまで落ちた男が外科医として再出発、こんな逆転劇を成し遂げたやつはいないだろう。見てみたくなった、お前さんの今後をよ」


「若頭、らしくないですね。現時点で利息もストップさせるなんて」
「ああ、利用価値のある素人になるかもしれないと思ってな。恩を売っておく」

俺が退室したあと、何を話しているのかは知らないが、とりあえず借金の問題は落ち着いた。金額は想像より少なく、無事に心臓血管外科医になれれば完済するのは難しくはない。

完済したあとは婚活でもしてみようかと思う。三田村源は醜男だが湊正幸は中々の美男だ。チャンスと出会いもあるかもしれない。
「さて、医師免許を取りに行くか」
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