Cat walK【完結】

Lucas

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さくと映画監督

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「さくちゃん、さっそくやけど六十分コース入ってるよ。はじめましてさんやけど大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
 慌ててロッカーに私物をしまう。仕事用のバッグに携帯電話とメイクポーチだけを入れて私はスタッフさんの後を追った。
 ごく普通のマンションの一室が私の勤めている職場になる。
 広めの玄関にはヒールが何足か並べられている。男性スタッフのタナカさんは、靴を履きながら私にオーダー票を差し出してきた。レストランなどで使われていそうな二つ折りのホルダーだ。
 玄関を出てすぐ目の前にエレベーター。六階建てのこのマンションはワンフロアに一部屋ずつしかない。職場があるのは四階だ。他のフロアの住人たちは、ここがデリバリーヘルスの事務所として使われていることを知っているのだろうか。
 エレベーターが静かに到着して、私達は乗り込む。
「場所は梅田やから近いね。そのあと堺の方での本指ほんしのお客さん入ってるよ百二十分コース。今日は予約はまだ二件だけやけど頑張るね」
「あ、ありがとうございます。頑張ります」
 こんなご時世でも呼んでくれる人がいるだけありがたい。
「このリピーターさんもよく呼んでくれるね。どう? 問題ない?」
 地上へと降りてきたエレベーターの扉を軽く押さえながらタナカさんはそう聞いてきた。私は会釈をしながら先に降りる。
「はい、すごい優しい感じで、普通の人です」
 堺のリピーターさん、自称『映画監督』。けして、普通なんかじゃない。でも、言えない。私にとっての唯一のリピーターさんだ。
「ドライバーはアサノさんね。もう前に車きてるから。じゃあ、頑張って」
 エントランスを抜けて扉を開けてくれるタナカさんに再び頭を下げてから、私は車へと向かう。
 マンション前の階段を降りたところに、すでに車は待機していた。後部座席の窓はスモークガラスで、中は見えないようになっている。その扉を開けて私はドライバーさんに会釈をしてから車に乗る。
 アサノさん。おそらく年は近いんだろうな。二十代前半だと思う。ずいぶんと背が高くて初めて会った時は驚いた。
「出発しますね」
 最低限の会話。今の状況で私がいちばん助かっている部分だ。
 アサノさんはオーダー票を確認して、それをまた私に返す。そして、車は緩やかに発進する。左手にある大きな神社と、右手にある派手な看板のラブホテルを眺めながら、私はオーダー票をバッグにしまった。お寺と神社とホテルが仲良く並ぶこの地域、大阪の谷町近辺のこの景色にはすっかり慣れた。
 こんなにも閑散とした大阪市内を見るのは初めてだけど。
 ああ、車がどんどん進んでいく。いつもみたいな渋滞もない。すぐにホテルについてしまう。
 頭を強引に仕事モードに切り替える。とにかく、最低限のやるべきことをこなす。
「面談いきます」
「あ、はい」
 あっという間にラブホテルに到着して、アサノさんが面談のために車を降りる。完全にご新規さんの場合利用規約にサインを貰わなければいけない。
 お店のスタッフさん直々にお客さんに会いに行くのは珍しいらしいが、多少なりとも抑止効果があるし事前にお客さんの印象も教えてもらえるので非常にありがたい。
 とはいえ部屋に入ってからの安全が確実に保障されるわけではない。盗撮、盗聴なんてほとんど防ぐことはできていない。それが現実だ。
 一応清楚系を謳ってはいるこのお店では、素人好みのお客さんが多くプロのような接客をあまり求められない。ただ、それでも風俗業は風俗業だ。素人ではなく、素人風にならなければならない。
 戻って来たアサノさんがスマホをこちらに向ける。単語が箇条書きで並んでいる。
『ふつうのおっさん。地味。サラリーマン風。四十代くらい』
 少し笑ってしまいそうになる。アサノさんは面倒だという態度をまったく隠さない。怖く感じる時もあるが、分かりやすい人だと思う。
 私は部屋番号を確認してホテルへと向かった。どんな人であれ、はじめましてさんは緊張する。私はいつも失敗してしまう。リピートに繋がらない。指名数はほとんどゼロに近い。それなのに、匿名掲示板では個人スレが立つ。
 次に予約が入っているお客さんは、そのスレッドを見て私を指名してくれたらしい。たまにそういう人はいる。叩かれているキャストを指名して、甘い言葉をかけて依存させようとする。
 今となっては、そういったお客さんの方がマシだったと思える。『映画監督』はなにもかもが異質だ。
 はじめましてさんはアサノさんの情報通りの人だった。リモートワークなのでその合間に呼んだとのこと。
 お客さんは、ウイルスに脅威なんてない、自分みたいに冷静に判断できる人間が少ないと、いかに周りが大袈裟に騒いでいるだけかと嘯く。緊急事態宣言が発令されている今でもこういった人がいるおかげで私は仕事を貰えている。
 どうでもいい。私は。パンデミックも、周りの人間のことも。
 私の明らかな愛想笑いや続かない会話に痺れを切らし、お客さんはプレイに移った。まだ優しい。ここから本番交渉が入るのだから。
 文句や説教がそのあとに待機している。もう新人ではないから緊張していての言い訳も通用しなくなってきている。
 結局今日もまた、リピータ―を掴めずに終わるんだ。でも、もう疲れすぎて頑張れない。本番だってしてもしなくても結局掲示板は荒れるのだろうから。
 それに今日はこの後のことを考えると取り繕う気にもなれなかった。映画監督は本番強要はない。それどころか、服も脱がなくていい。でも、彼からはもう絶対に逃げられない。
 不満そうなお客さんを部屋に残し、ホテルを出る。アサノさんの車がそこにまだあった。今日はあまり動きがないらしい。出勤する女の子も減っているからだ。
 アサノさんの車に乗りオーダー票を渡す。金額を確認したあと、次の仕事のオーダー票が渡される。そして、車は堺へと向かった。


「じゃあとりあえず散歩行くよ」
「え?」
 堺の『映画監督』の家に到着してすぐ、彼にそう告げられた。
 映画監督の家は四階建てのアパートの最上階。2LDKと広めの部屋だ。玄関を開けてすぐ、幼児を抱いた彼が現れてそう言った。
「あ、あの」
「なに? ああ、ごめん。ギャラ前払いだったね。今日は時間短くてごめんね」
「い、いえ……。あの、外出される場合、店外オプションになるので、別料金が発生するのですが」
 彼は聞いていないようだ。腕に抱かれた幼児は一歳くらいだろうか。紙おむつを履いていてそれ以外は何も着ていない。いくら五月といえどこれでは風邪を引いてしまう。ただでさえ感染の心配もあるのに赤ちゃんだからマスクもしていない。
「えっと、百二十分コースだったらいくらになるの?」
「あ、えっと、四万九千円です」
 私は指名料と交通費込みの料金を伝える。彼は財布から五万円を私に渡した。
「お釣りはいいよ。あと、これ。いつものね」
 お釣りとは別に封筒を受け取る。その中には十万円が入っている。
「い、いつもありがとうございます……そ、それで、あの外出の件ですが」
「ああ、なに? だめなの?」
「い、いえ、えっと、オプションになりますので、まずお店の方にも確認を」
「ふーん、なんか面倒そうだね。じゃあ今日はいいや。入って」
 いつもの綺麗な標準語でそう言って、彼は部屋に戻っていった。私も部屋へと入る。なぜ、幼児が? 聞きたいことは、それ以外にもある。この部屋の違和感についても。
 玄関を入ってすぐに短い廊下がある。左手にはバスルームとトイレの扉、右手に部屋が一つ。その奥の扉を開けるとダイニングで隣にもう一つ部屋がある。
 私はダイニング以外には入ったことがない。どちらも扉は閉ざされたままだ。
 ダイニングキッチンの中央に大きなベッドがある。初めてこの光景を見た時に、『時計仕掛けのオレンジ』の映画を思い出した。
 淡い黄色のシーツに、花柄のカバー。マカロン型のクッションや、小さな刺しゅう入りのピローケースを、この監督が自ら選んだとは思えない。女性と一緒に住んでいたのかも知れない。一人暮らしにしては部屋だって広すぎる。
 となれば、この幼児は監督の子どもなのだろうか。あまりお客さんの事情に踏み込むつもりはないが、今までもこの家に一緒にいたとは思えないし、やはり少し探りを入れてみた方がいいだろう。
「あの、そ、その子は?」
 そう判断して聞いてみることにしたのに、すぐに後悔することになった。
「ああ、犬を飼うことにしたんだ。きみ、犬は平気?」
「え?」
「豆柴だから豆太まめた。オスだよ」
「あ、あの、えっと、赤ちゃん、ですよ……ね?」
「うん。まだ赤ちゃんだね」
「えっと、人、ですよね? 人間の赤ちゃん……では」
「うん。ほら、あれだよ。今これのせいで世界が大変になってるもんね」
「え?」
「緊急事態宣言まで出てるし市内とかもっとすごいことになってたりする? この辺りは平和なものだけどね」
 この人、ウイルスのせいだと言ってる? この状況を? この人、今まで以上におかしい。
「えっと、あ、と、とりあえず、手洗ってもいいですか?」
 一度落ち着きたい。私は承諾を得てからキッチンで手を洗う。落ち着こう。この人がおかしなことを言いだすのは今に始まったことではないはずだ。
 入念に手を洗い、うがい、消毒とを続ける私を見て監督は「急に潔癖症みたいになったよね、きみ」と呑気なことを言う。この人もウイルスを脅威と見なさない部類の人なのだろうか。マスクをしているところも見たことがない。
「そ、それで、今日は」
「ん-、この子の散歩に付き合ってもらおうと思ってただけだよ。それに、こうなった以上普通のもの食べさせた方が良さそうだし餌もどれがいいか一緒に買いに行って貰おうと思って」
 餌。本当に犬だと思っているのか。でも、普通のものを食べさせた方がいいとの発言しているところを見るとドッグフードが適さないということも分かっている。
 何が何だか。
「ミルクや離乳食でしたら、つ、通販でも購入できますし、今は赤ちゃんといえどあまり外を出歩かない方が……」
「ああ、なるほどね。じゃあきみ選んでよ。僕こういうの分からないんだよね。君なら詳しいでしょ? 育児のことは」
「……は、はあ。えっと、服も選びましょうか? さすがにその恰好では」
「ふーん、服いるかな? まあ任せるよ。サイズとか分からないし」
 床に置いたノートパソコンがこちらに向けられる。私は言われるがまま通販でいくつか商品を購入した。どこまで踏み込んでいいものか分からない。幼児は彼に抱かれたまま私をまあるい目でまっすぐと見つめている。
 その視線を受けて、意を決して問いかけた。
「あの、その子は監督のお子さんなのでしょうか?」
「そんなわけないじゃん。何言ってんの?」
 一蹴された。予想はしていたけれど。
 彼はおかしなことばかり口走る。でも、それはすべて冗談ではない。彼はこの子をあくまで『犬』として受け入れている。
「映画に、必要な子ですか?」
「映画? 映画かあ。うーん、今のところその予定はないかな」
 じゃあ、それ誰。とすぐに聞き返すことはできず口を噤む。一通りカートに入れ終わった私は監督にパソコンを返した。監督は購入手続きを済ませ、そのまま別の画面を開いた。そこにはいつもの『脚本』が綴られている。
 監督からの要望は一つ。脚本のための取材。その対象として私が選ばれた。『かわいそうな人間』のモデルとして。
「じゃあ、始めようか」
 幼児についてまだ聞きたいことはある。だけど、あまり彼の機嫌を損ねることもできない。
 彼にはすべて知られてしまっている。
 彼は最初から私にひどく同情的だった。
 彼はよく自分のことを話した。だから、私も徐々に打ち開けていった。自己開示によって相手の情報を聞き出す。ありふれたテクニック。私はまんまとその手にを乗ってしまったわけだ。
 『さく』というのはもちろん源氏名だ。本名を聞き出そうとしてくるお客さんは多い。そのたびに「キラキラネームで恥ずかしいから」と言ってはぐらかしてきた。
 実際本名はキラキラネームだ。どうせ当てられない。そう思って、文字数や漢字での総画数、あまり名前に使われない漢字が含まれていることなどを聞かれるがままに答えた。
 だけど、彼は私の本名を言い当ててしまった。
 ゾッとしたのはそれだけではない。次に呼ばれてこの部屋を訪ねたとき、パソコンの画面には私の出身中学校のホームページが映し出されていたのだ。
 彼は、私から聞いた話をどんどん繋ぎ合わせ、そして身元を特定した。
 私は彼から逃げられないことを悟った。それだけではない。私には、彼から受け取るギャラがどうしても必要なのだ。
 言ってしまえば自業自得でしかない。私の人生は、今までだってすべてそうだ。
「あむ」
 その時、幼児が彼の服を引っ張って口に含んだ。お腹がすいているのだろうか。彼は無反応だ。幼児は泣くわけでもなく、ただひたすら口を動かす。
「あ、あの、赤ちゃん、お腹すいてるんじゃ?」
「ん? ああ、そうだね。昨日はとりあえずパンあげてみたんだけど」
 ベッドの上から片手で幼児が降ろされる。床に座っていた私は慌てて受け止めた。
「き、昨日からいるんですか?」
「うん。昨日届いた」
 届いた? 意味が分からない。
 幼児は私の服も口に含もうとするので慌ててその手を離した。けっして衛生的とは言えない服だ。よく見ると前歯が少し生えかけている。歯がかゆかっただけなのかもしれない。
「あ、きみなにか作ってよ。その子が食べられそうなもの」
「え? あ、はい。えっと、じゃあキッチンお借りします」
 とりあえず幼児を抱いたままキッチンへ移動して冷蔵庫を開けてみた。水に食パンが少しとコンビニのおにぎり。自炊している様子はない。どう見ても単身住まいの冷蔵庫といった感じだ。
 私は平常心を装って食材を探す振りをする。スマホ……はバッグの中だ。お店へのインコールは済ませてある。二時間過ぎて私が出てこなければドライバーさんが来てくれるはず。
 今までだって常に私は崖の上に立たされているようなものだった。でも、今、かつてないほどの恐怖感に包まれている。
 やばい。これ、たぶん誘拐だ。
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