君が笑う理由を知りたくて──再生と成長のオフィス日常録

第三章：将康のブラック企業論

　朝、オフィスに到着すると、すでに水野将康がデスクに腰掛け、パソコンに向かってキーボードを叩いていた。出社時間よりもかなり早い。将康は普段から「早朝出勤が基本」と豪語しており、その言葉通り、誰よりも早く職場にいることが多い。結仁はふとその姿を見て思った。
「すごいな...毎日こんなに早く来てるのか」
　将康の働きぶりを見ていると、自分がいかに甘いかを思い知らされる。結仁が席に着こうとすると、将康が背中越しに声をかけてきた。
「お、結仁。今日も来たか。昨日、業務の流れは覚えたか？」
「うん、なんとか。でも、やっぱり覚えることが多くて」
「それでいいんだ。苦しんで覚えるのが成長の証だ。簡単に覚えられる仕事なんて、やる意味ないからな」
　将康の言葉はまっすぐで、力強さがある。だが、どこか危うさも感じた。結仁がモヤモヤしていると、他の社員たちが集まってきた。朝礼が始まる直前だが、将康は構わず話を続けた。
「俺さ、よく言われるんだよ。『なんでそんなブラック企業にこだわるんだ』って。でもさ、ブラックこそが人を鍛えるんだぜ。どんな状況でも耐え抜く力、それが俺の強さだ」
　隣で聞いていた後藤恭輝が苦笑しながら言った。
「いやいや、将康さん、それ誇ることじゃないっすよ。耐えるだけじゃなくて、自分を大事にすることも必要じゃないですか？」
「甘いな、恭輝。辛さを避けてどうする？厳しい環境でしか培えないものがある。それをわかってない奴が多すぎる」
　その言葉に、フロア全体が微妙な空気に包まれた。誰もが将康の意見に対して口を開けないでいる。称一が少し困った顔をして、間に入った。
「まあ、強さも大事だけど、無理しすぎても意味がないよ。身体壊したら元も子もない」
「そんな弱音を吐いてるから駄目なんだ。俺は誰が辞めても残ってきた。その強さが誇りなんだよ」
　将康の言葉には揺るぎない自信があった。しかし、その「強さ」に違和感を覚えたのは結仁だけではない。周囲の同僚たちも、どこか引き気味で将康を見つめている。
「辞めていった人たちはどう思ってるんだろう」
　結仁が心の中でそうつぶやいた時、朱莉が静かに近づき、淡々と言葉を発した。
「残ることが強さじゃない。逃げることが弱さでもない。ただ、その価値観を押し付けない方がいい」
　将康は一瞬驚いたように朱莉を見たが、すぐに笑って肩をすくめた。
「千葉、お前もそんなこと言うんだな。まあ、確かに強制するつもりはない。ただ、俺はこのやり方で生き残ってきた。それだけだ」
　その後、朝礼が始まり、会話は自然と途切れた。だが、結仁の中では何か引っかかるものが残ったままだった。
　昼休み、休憩スペースで弁当を食べながら、結仁は恭輝と称一に尋ねた。
「将康さんって、ああいう考え方なのかな。ちょっと、違和感があって」
　恭輝はサンドイッチをかじりながら、少し眉をひそめた。
「まあ、確かにあの人は極端すぎるよ。でも、俺らが入社する前からずっとあそこで働いてて、みんなが辞めていっても残ってたのは事実だしな」
　称一は味噌汁をすすりながら、静かに付け加えた。
「将康の言い分も分かるけどさ、強さってそういう形だけじゃないと思うんだよね。人と支え合って生きるのも、強さの一つだと思うし」
　結仁は、ふと将康が一人で早朝に作業をしている姿を思い出した。周囲が辞めていく中で、ただ一人耐え続けてきた。それは確かに強さかもしれないが、どこか孤独を感じさせた。
「残ることでしか強さを証明できないのかな...」
　午後、再び業務に戻ると、将康が一人で書類を抱えてフロアを移動していた。結仁は少し躊躇したが、思い切って声をかけた。
「将康さん、ちょっといいですか？」
「ん？どうした？」
「強さって...残ることだけじゃないと思うんです。人と協力して支え合うのも、強さじゃないですか？」
　将康は一瞬、表情を曇らせた。しかし、すぐにいつものように笑って答えた。
「それも一つの考え方だな。俺は、誰に頼らなくても立てる強さを求めてきた。でも、確かに、支え合う強さってのもあるかもしれない」
　その言葉には、わずかに自嘲が混じっていた。結仁は、その姿にどこか切なさを感じた。
「もしかして、頼れる人がいなかっただけなのかもしれない...」
　結仁がそう思った時、将康は書類を整理しながらぼそりと言った。
「でもな、結仁。俺だって、全部が正しいとは思ってねえ。ただ、自分で決めた生き方だから、貫きたいだけだ」
　その言葉が、少しだけ悲しく響いた。結仁は何も言えず、ただ将康の背中を見送った。職場に響くキーボードの音が、妙に心に引っかかる。
　将康の「強さ」と「孤独」。その二つが混ざり合って、結仁の胸には複雑な思いが残っていた。