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第五話「あと1cmの高さを目指して」
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朝の体育館裏は、誰にも知られていない時間が流れていた。
陽が差し込むまでには、まだ少しだけ間がある。グラウンドからは、ソフト部の掛け声が遠く届いていたが、ここには誰の気配もない。
絢香は、その裏手のコンクリートに立っていた。ジャージ姿のまま、跳躍用の踏切ラインを小石でうっすらなぞっている。
誰にも知られない場所で、彼女は一人、跳び続けていた。
――目指すは、走り高跳びの記録更新。
体育の測定値としてはもう十分なラインをクリアしていた。けれど、絢香にとってはそれだけでは足りなかった。
「データは、他人に納得してもらって初めて“意味”になる」
そう言っていたのは、理科室でプリントを配っていた物理の岡田先生だった。
それを聞いたとき、絢香の中で何かが鳴った。
(説得力のある数字。それが、評価の土台になる)
(ならば私は、“証明できる身体”でいたい)
このクラブでやることは、紙の上のレポートだけじゃない。
“誰が、どうやって、なにを出したか”が問われるのだ。
そして、それを自分の言葉ではなく、記録という「結果」で語るには――自分がまず限界を越える必要がある。
その日、彼女が狙っていたのは、いつもの記録から「あと1cm」の高さだった。
たった1cm。
でも、その1cmのために、何度も踏み切り直し、腕を振り、腰を浮かせては着地のたびに白い息を吐いた。
――バサッ。
着地用に持ってきた体育マットの上に、絢香は背中から落ちた。わずかに左膝を押さえる仕草。痛みはない――はずだったが、少しだけ表情が歪んだ。
「……まだ。もう1回だけ」
そうつぶやくと、彼女は立ち上がった。
風が吹き、ジャージの袖が揺れる。
次の踏切は、さっきよりもきれいに入った。
空中で、肩と腰が一直線に抜ける。
――そして、バーに触れた。
乾いた音を立てて、バーが地面に転がった。
絢香は膝に手をつき、肩で息をした。
(記録には届いてない。けど、近づいた)
その時だった。
「……それ、記録取ってる?」
声がした。
振り向くと、陽太が水筒を片手に立っていた。
絢香は目を見開いた。
「え……見てた?」
「たまたま。朝、資料プリント取りに来たら、外で音がしたから」
彼女は少しだけ頬を赤くして、視線をそらした。
「……サボってたわけじゃないから」
「わかってる。むしろ、誰よりも“やってる”の、見てたよ」
陽太は、踏切ラインを見ながら静かに言った。
「データに説得力を持たせたいって、絢香さんのノートに書いてあったよね。あれ、すごく共感した」
「……共感?」
「うん。“証明”って、言葉より強いから。誰かを説得するときにも、自分を守るときにも」
絢香は黙って聞いていた。
「でもね、“無理した成果”って、数字として残っても、支えがなければ続かない」
そう言って、陽太は差し出していた水筒を持たせた。
中身はぬるい麦茶だった。
「次のコンテストで必要なのは、単なる記録じゃない。“どう積み上げたか”のストーリーだと思うよ」
絢香は、水筒のキャップを開けながら、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、そのストーリーの一部、君が撮ってくれる?」
「もちろん。今度はみんなでね」
絢香はゆっくりうなずいた。
体育館裏のマットに腰を下ろし、絢香はふぅと長く息を吐いた。
左膝にはやや赤みがある。明らかな外傷はなかったが、ここ数日、無理が続いていたのは事実だった。
陽太は彼女の近くにしゃがみ、何も言わずに手元のメモを取り出した。
「絢香さん、膝、ほんとは痛いんじゃない?」
「……少しだけ。まだ跳べる」
「少しだけ、が一番怖いんだよ」
陽太の声は、からかいでも注意でもなかった。ただ、本気で心配している声だった。
絢香は、ふと空を見上げた。
五月の空は澄んでいて、真上には一羽のカラスが旋回していた。
「……私ね、昔は体力測定とか、あまり得意じゃなかったの。平均以下だった」
「意外」
「努力すれば伸びるって知ったの、去年の冬。だから、証明したいんだ。私は“変われた”って」
陽太は目を細めた。
「……それが“あと1cm”なんだね」
「うん。0から100を目指すんじゃない。ただ、前より1だけ高く跳べれば、それが“本物の努力”だと思う」
言いながら、絢香は拳を膝の上でぎゅっと握った。
「でも、時々怖くなる。無理して跳んだ結果が、“壊れた証明”になったらって」
「壊れそうになったら、頼ってほしい。誰かの記録じゃなくて、“自分の記録”を守るためにも」
陽太のその一言に、絢香はしばらく沈黙した。
その静けさの中で、潮の音が遠くから聞こえる。
「……じゃあ、ひとつだけ頼っていい?」
「うん、なんでも」
「次の市民科学コンテスト、私のパートに“補助係”をつけて。記録の裏付けを支える人。……自分でやりきりたいけど、たぶん、そうもいかない気がするから」
陽太は、すぐにうなずいた。
「もちろん。その役、誰がいいか一緒に考えよう。僕もデータ補助の候補、何人か見てる」
絢香は、もう一度だけ遠くを見てから、立ち上がった。
その動作は慎重だったが、しっかりとした軸があった。
「あと1cmは、私が跳ぶ。だけどその踏切までの“走り”は、みんなに作ってもらう」
陽太は静かに拍手した。
「それ、いいね。……まさに、祝福の走りだ」
「ふふ、変な名前」
「でも、ぴったりでしょ?」
「……うん。ちょっとだけね」
二人はマットを畳み、ラインを消し、静かにその場をあとにした。
その日の午後。
職員室の隅で、陽太は市民科学コンテストの資料申請書に「補助係:要相談」と鉛筆で小さく書き添えていた。
そして、自分の手帳にも書き込む。
《□ 絢香:補助担当選定(信頼ベース)》
この時、陽太の頭の中ではすでに数人の名前が浮かんでいた。
チームで記録を支えるために。
「無理をしてでも成果を出す」絢香が、「誰かに頼る勇気」を手に入れた朝だった。
陽が差し込むまでには、まだ少しだけ間がある。グラウンドからは、ソフト部の掛け声が遠く届いていたが、ここには誰の気配もない。
絢香は、その裏手のコンクリートに立っていた。ジャージ姿のまま、跳躍用の踏切ラインを小石でうっすらなぞっている。
誰にも知られない場所で、彼女は一人、跳び続けていた。
――目指すは、走り高跳びの記録更新。
体育の測定値としてはもう十分なラインをクリアしていた。けれど、絢香にとってはそれだけでは足りなかった。
「データは、他人に納得してもらって初めて“意味”になる」
そう言っていたのは、理科室でプリントを配っていた物理の岡田先生だった。
それを聞いたとき、絢香の中で何かが鳴った。
(説得力のある数字。それが、評価の土台になる)
(ならば私は、“証明できる身体”でいたい)
このクラブでやることは、紙の上のレポートだけじゃない。
“誰が、どうやって、なにを出したか”が問われるのだ。
そして、それを自分の言葉ではなく、記録という「結果」で語るには――自分がまず限界を越える必要がある。
その日、彼女が狙っていたのは、いつもの記録から「あと1cm」の高さだった。
たった1cm。
でも、その1cmのために、何度も踏み切り直し、腕を振り、腰を浮かせては着地のたびに白い息を吐いた。
――バサッ。
着地用に持ってきた体育マットの上に、絢香は背中から落ちた。わずかに左膝を押さえる仕草。痛みはない――はずだったが、少しだけ表情が歪んだ。
「……まだ。もう1回だけ」
そうつぶやくと、彼女は立ち上がった。
風が吹き、ジャージの袖が揺れる。
次の踏切は、さっきよりもきれいに入った。
空中で、肩と腰が一直線に抜ける。
――そして、バーに触れた。
乾いた音を立てて、バーが地面に転がった。
絢香は膝に手をつき、肩で息をした。
(記録には届いてない。けど、近づいた)
その時だった。
「……それ、記録取ってる?」
声がした。
振り向くと、陽太が水筒を片手に立っていた。
絢香は目を見開いた。
「え……見てた?」
「たまたま。朝、資料プリント取りに来たら、外で音がしたから」
彼女は少しだけ頬を赤くして、視線をそらした。
「……サボってたわけじゃないから」
「わかってる。むしろ、誰よりも“やってる”の、見てたよ」
陽太は、踏切ラインを見ながら静かに言った。
「データに説得力を持たせたいって、絢香さんのノートに書いてあったよね。あれ、すごく共感した」
「……共感?」
「うん。“証明”って、言葉より強いから。誰かを説得するときにも、自分を守るときにも」
絢香は黙って聞いていた。
「でもね、“無理した成果”って、数字として残っても、支えがなければ続かない」
そう言って、陽太は差し出していた水筒を持たせた。
中身はぬるい麦茶だった。
「次のコンテストで必要なのは、単なる記録じゃない。“どう積み上げたか”のストーリーだと思うよ」
絢香は、水筒のキャップを開けながら、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、そのストーリーの一部、君が撮ってくれる?」
「もちろん。今度はみんなでね」
絢香はゆっくりうなずいた。
体育館裏のマットに腰を下ろし、絢香はふぅと長く息を吐いた。
左膝にはやや赤みがある。明らかな外傷はなかったが、ここ数日、無理が続いていたのは事実だった。
陽太は彼女の近くにしゃがみ、何も言わずに手元のメモを取り出した。
「絢香さん、膝、ほんとは痛いんじゃない?」
「……少しだけ。まだ跳べる」
「少しだけ、が一番怖いんだよ」
陽太の声は、からかいでも注意でもなかった。ただ、本気で心配している声だった。
絢香は、ふと空を見上げた。
五月の空は澄んでいて、真上には一羽のカラスが旋回していた。
「……私ね、昔は体力測定とか、あまり得意じゃなかったの。平均以下だった」
「意外」
「努力すれば伸びるって知ったの、去年の冬。だから、証明したいんだ。私は“変われた”って」
陽太は目を細めた。
「……それが“あと1cm”なんだね」
「うん。0から100を目指すんじゃない。ただ、前より1だけ高く跳べれば、それが“本物の努力”だと思う」
言いながら、絢香は拳を膝の上でぎゅっと握った。
「でも、時々怖くなる。無理して跳んだ結果が、“壊れた証明”になったらって」
「壊れそうになったら、頼ってほしい。誰かの記録じゃなくて、“自分の記録”を守るためにも」
陽太のその一言に、絢香はしばらく沈黙した。
その静けさの中で、潮の音が遠くから聞こえる。
「……じゃあ、ひとつだけ頼っていい?」
「うん、なんでも」
「次の市民科学コンテスト、私のパートに“補助係”をつけて。記録の裏付けを支える人。……自分でやりきりたいけど、たぶん、そうもいかない気がするから」
陽太は、すぐにうなずいた。
「もちろん。その役、誰がいいか一緒に考えよう。僕もデータ補助の候補、何人か見てる」
絢香は、もう一度だけ遠くを見てから、立ち上がった。
その動作は慎重だったが、しっかりとした軸があった。
「あと1cmは、私が跳ぶ。だけどその踏切までの“走り”は、みんなに作ってもらう」
陽太は静かに拍手した。
「それ、いいね。……まさに、祝福の走りだ」
「ふふ、変な名前」
「でも、ぴったりでしょ?」
「……うん。ちょっとだけね」
二人はマットを畳み、ラインを消し、静かにその場をあとにした。
その日の午後。
職員室の隅で、陽太は市民科学コンテストの資料申請書に「補助係:要相談」と鉛筆で小さく書き添えていた。
そして、自分の手帳にも書き込む。
《□ 絢香:補助担当選定(信頼ベース)》
この時、陽太の頭の中ではすでに数人の名前が浮かんでいた。
チームで記録を支えるために。
「無理をしてでも成果を出す」絢香が、「誰かに頼る勇気」を手に入れた朝だった。
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