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第2話 キョロ充OL、迷い込む
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翌日の朝、桜子はいつもより少し丁寧にまつげを整えていた。
鏡の前でビューラーを握りながら、視線は自分の顔ではなく、洗面台の片隅に置いた小さな付箋に向かっている。
そこには、昨夜眠る前に書いた一行が、ボールペンの跡で少しだけ紙をへこませていた。
――明日も、ちゃんと食べる。
文字の横には、丸で囲った「シンデレラ」の四文字。
今朝はその丸印がやけにまっすぐ胸に刺さる。
昨日のみつよ食堂での時間を思い出すと、頬の内側がじんわりと熱くなった。
湯気の向こうでやわらかく笑っていた青年の顔。
「主役さん用です」と、少し照れくさそうに皿を差し出したときの声音。
コロッケの衣を割った瞬間にあふれた香りと、じゅわりと舌に広がった温かさ。
そして、気づけばこぼれていた涙を、何も聞かずに見逃してくれたカウンター越しの視線。
「……よし」
桜子は、マスカラを一度だけ塗り、鏡から目を離した。
今日は打ち合わせも会議も詰まっている。目を腫らすわけにはいかない。
メイクポーチを閉じる手つきに、ほんの少しだけ力がこもる。
通勤電車のなかで、桜子はいつものようにスマホを開いた。
グループトークには、「今日のランチどうする?」「新しくできたカフェ行かない?」と、次々に吹き出しが積み重なっていく。
画面をスクロールする指は迷わない。返事も、顔文字も、話題の方向も、すでに身体のどこかに染み込んでいた。
「例のパスタ行こうよ」「外観かわいい」といったやり取りを数行打ち込むと、すぐに「楽しみ」の文字が並ぶ。
車内の揺れに合わせて、桜子の視線は窓の外と画面のあいだをいったりきたりした。
昨夜、みつよ食堂を出るとき、「また、残り物が出たころに来ます」と冗談めかした自分の声がよみがえる。
あの言葉が、どうしても胸のどこかに引っかかっていた。
残り物でいいと笑って言う癖は、いつから身についたのだろう。
会社に着くと、ビルのエントランスは既にスーツ姿の人であふれていた。
エレベーター前で同僚に手を振られ、桜子は反射的に笑顔を作る。
「おはよう、昨日も飲み会行ってたでしょ?」
「行ってた行ってた。帰ったら日付変わっててさ、さすがにちょっと反省してる」
軽口に、周りの笑いが重なる。
その笑いの波にうまく乗りながら、心のどこかでは「本当に反省してる?」と自分に問いかける声があった。
午前中の仕事は、メールの返信と資料の修正であっという間に過ぎていく。
複数のチームに顔を出し、どこに座っても違和感なく会話に入っていける自分。
椅子から立ち上がるたびに、「今日もちゃんとキョロキョロしてるなあ」と、どこか他人事のように思ってしまう。
正午少し前、チャットの通知が一斉に鳴った。
『そろそろ行く?』
『予約してないから、早めがいいよね』
約束していた同期たちと、ビルの外に出ると、昼の陽射しが一気に視界を白くした。
角を曲がった先にある、その日のお目当てのカフェは、ガラス張りの外観に淡い色のロゴが浮かぶ、いかにもおしゃれな店だった。
「わあ、かわいい~」
「ほら、入口のところで写真撮ろうよ」
入口の前で自然と輪になり、誰かがスマホを掲げる。
桜子は一歩引き気味に、しかし笑顔は崩さず、輪の端に収まった。
「もう一枚撮る? 今度は縦で」
「じゃあ次は、桜子センターで」
「え、私? いやいや、似合わないって」
口では否定しながらも中央に移動し、自分でも驚くほど自然に笑顔を作っていた。
店内に案内されると、白い皿の真ん中に絵のように盛り付けられたパスタやサラダが並ぶ。
誰かが「この断面かわいくない?」と笑い、全員がスマホを構えた。
シャッター音が重なるあいだ、湯気は少しずつ薄れていく。
桜子も、いつものように角度を変えながら何枚か撮った。
しかし、撮った写真を拡大して確認している途中で、ふと手が止まる。
画面の向こうには、自分の笑顔と、鮮やかな皿の色彩。
その奥に、昨日見た素朴な木のカウンターと、湯気の立つ味噌汁の映像が、勝手に重なってしまった。
「ねえ、聞いた? 隣の部署のリーダーがさ」
「え、また? あの人ほんとに……」
テーブルの上に、別の話題が広がりはじめる。
人事の噂話、先輩と後輩の距離感、上司の失言。
言葉のひとつひとつは軽くても、積み重なると、何かをじわじわと削っていく。
「桜子はさ、そのうち誰と付き合うの?」
唐突に飛んできた言葉に、桜子は手を止めた。
「え、なにその話」
「だってさ、飲み会とかもよく顔出すし。誰とでもそれなりに仲いいじゃん」
「逆に怪しいよね~。絶対一人くらいは本命いるって」
笑い交じりの追撃に、桜子は反射的に笑ってみせる。
「残念ながら、今のところゼロでーす」
「じゃあ、拾ってくれる人探しておかなきゃ」
「うわ、その言い方ひどくない? 余り物みたいじゃん」
冗談交じりのやり取りに、テーブルは再び笑い声で満たされる。
その笑いの真ん中で、「余り物」という言葉だけが、桜子の胸に重く沈んだ。
フォークの先に刺したパスタが、急に味を失ったように感じる。
口に運んでも、塩気と酸味だけが舌の上を通り過ぎていった。
ランチを終えてビルに戻るころには、笑い疲れと中途半端な満腹感だけが残っていた。
午後の会議室は、空調が効きすぎていて、桜子の指先は少し冷たかった。
配られた資料にメモを書き込みながら、頭の片隅では別のことを考えてしまう。
昨日のみつよ食堂のカウンター。目の前に置かれた「シンデレラ定食」の皿。
「主役って、自分で名乗らないと、誰も呼んでくれないですよ」と言った青年の声。
時計の針が五時を回ったころ、ようやく一日の仕事に区切りがついた。
パソコンをシャットダウンしながら、桜子はいつものように「お先に失礼します」と周囲に頭を下げる。
「今日、飲みは?」
「さすがに今日はまっすぐ帰る。明日も朝から会議だし」
「えらい、じゃあまた今度ね」
軽いやり取りを交わしながら、エレベーターに乗り込む。
一階のロビーに降り立ったとき、外はすでに薄暗くなりはじめていた。
ビルの自動扉が開くと、冷たい風が頬を撫でる。
桜子は一度駅とは反対方向に足を向けかけ、立ち止まった。
頭の中に、あの赤いひさしと木の引き戸が浮かぶ。
「……寄り道くらい、いいよね」
誰にともなくつぶやいて、桜子は駅とは逆方向に曲がった。
ビル街を抜け、少しずつ建物の高さが低くなっていく。
舗装の端に並ぶ古い自転車、シャッターが半分降りた文房具屋、揚げ物の匂いを漂わせる惣菜屋。
昼間は見落としていた看板や貼り紙が、夕方の光の中で急に生活感を帯びて浮かび上がる。
商店街のアーケードに入ると、天井に吊るされた提灯がぽつぽつと灯りはじめていた。
仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎる中で、桜子の歩幅だけが、ほんの少しだけゆっくりになる。
やがて、あの赤いひさしと「みつよ食堂」の看板が見えてきた。
店の前で、桜子は一度立ち止まった。
昨日と同じ木の引き戸。その隣に、小さなホワイトボードが立てかけられている。
手書きの文字で、「本日も、シンデレラ定食あります」と書かれていた。
文字の端のほうに、黒いマーカーのインクが少しだけにじんでいるのが、妙にいとおしい。
引き戸に手をかけると、木の感触が掌に伝わった。
昨日よりも少しだけ力を込めて戸を引くと、カラン、とドアベルの音が鳴る。
「いらっしゃい」
中から聞こえたのは、聞き慣れない男性の声だった。
店内には、昨日とは違う賑やかさがあった。
カウンターの端では、眼鏡をかけた青年がスケッチブックを広げ、何かを描き込んでいる。
テーブル席のひとつでは、ショートカットの女性がノートパソコンを閉じるところだった。
奥の席には、腕を組んで椅子にもたれかかる男の人がいて、こちらをちらりとも見ないまま湯気の立つ料理を口に運んでいる。
「お、昨日のシンデレラさんじゃない」
ショートカットの女性が、真っ先に声を上げた。
その声に続いて、カウンターの中から美津代が顔を出す。
「ほんとだ。よく来てくれたねえ」
琉叶も、包丁を置いてこちらに向き直った。
「えっ、えっと……」
いきなり「シンデレラさん」と呼ばれて、桜子は慌ててバッグを握りしめた。
その様子を見て、カウンターの端の青年がニヤリと笑う。
「昨日の話、もうネタになってるからさ」
「ネタって言わないの」
ショートカットの女性が、すぐさまツッコミを入れる。
「紹介しとこうかね」
美津代が、手ぬぐいで手を拭きながら桜子のそばまで来る。
「そこのスケッチブック広げてるのが勇一。向かいの古本屋の息子さんで、漫画描いてるんだわ」
「どうも。勝手に観察して勝手に描くタイプです」
勇一と呼ばれた青年が、スケッチブックから目を離さずに軽く手を挙げた。
「で、ノート持ってるのが実記。地域の情報紙に記事書いてる子」
「はじめまして。昨日の定食の話、もうちょっと詳しく聞かせてもらえません?」
実記は、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「奥で腕組んでるのが雄之。コワーキングキッチンの管理人さんで、文句言いながらも結局全部食べる人」
「余計な説明つけんな」
雄之が、眉間に皺を寄せたままぼそりと突っ込んだ。
知らない名前と顔が一気に押し寄せてきて、桜子は思わず笑ってしまう。
誰も自分を値踏みするような目で見ていない。
「どのグループに属してるか」も、「誰と仲がいいか」も、ここでは関係なさそうだった。
「あ、あの、昨日はありがとうございました」
桜子は、カウンター越しに頭を下げた。
「とんでもない。こっちこそ来てくれてありがとう」
琉叶が、少しだけ照れくさそうに笑う。
「今日も、シンデレラ定食……ありますか?」
自分でその言葉を口にして、桜子は少しだけ耳が熱くなる。
「もちろん」
琉叶は、ホワイトボードにちらりと視線を投げてから、厨房のほうへ向き直った。
「今日の主役さんは、どんな一日でした?」
その問いかけは、昨日と同じようでいて、どこか違って聞こえた。
桜子は、カウンター席に腰を下ろしながら、ほんの少しだけ迷ったあと、正直に口を開いた。
「写真の顔と、ほんとの顔が、だんだんわからなくなってきた一日でした」
その言葉に、カウンターの端でスケッチブックをめくっていた勇一の手が止まる。
実記は、ノートの表紙を指でとんとんと叩きながら、「それ、いいコピーですね」と小さくつぶやいた。
雄之は、腕を組んだまま「ふん」と鼻を鳴らす。
「……なるほど」
琉叶は、一度だけ目を細め、何かを決めたように頷いた。
「じゃあ、今日のシンデレラ定食は、『迷い込んだ人用』にしましょう」
「迷い込んだ?」
「ええ。どこに座ってもそれなりに馴染んじゃう人が、ふっと立ち止まれる場所用の」
そう言って微笑んだ瞬間、桜子の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
注文が決まると、店内には再びそれぞれの時間が流れはじめる。
勇一のペン先が紙の上を走る音。
実記がストラップだらけのボールペンをくるくる回す小さな音。
雄之が味噌汁の椀を置く、器の重なる控えめな音。
そのどれもが、桜子には心地よいざわめきに聞こえた。
カウンター越しに、琉叶が野菜を刻む音、油のはぜる音が重なる。
桜子は、昨日と同じように、その音を聞きながら、自分の手をそっと見下ろした。
会議室でメモを書いていた指先と、スマホを握りしめていた掌。
そして今、カウンターの木目に触れている手のひら。
ここは、誰の居場所なんだろう。
ふと浮かんだその問いに、すぐには答えが見つからない。
ただ、胸のあたりが少しだけ軽くなっていることだけははっきりとわかった。
鏡の前でビューラーを握りながら、視線は自分の顔ではなく、洗面台の片隅に置いた小さな付箋に向かっている。
そこには、昨夜眠る前に書いた一行が、ボールペンの跡で少しだけ紙をへこませていた。
――明日も、ちゃんと食べる。
文字の横には、丸で囲った「シンデレラ」の四文字。
今朝はその丸印がやけにまっすぐ胸に刺さる。
昨日のみつよ食堂での時間を思い出すと、頬の内側がじんわりと熱くなった。
湯気の向こうでやわらかく笑っていた青年の顔。
「主役さん用です」と、少し照れくさそうに皿を差し出したときの声音。
コロッケの衣を割った瞬間にあふれた香りと、じゅわりと舌に広がった温かさ。
そして、気づけばこぼれていた涙を、何も聞かずに見逃してくれたカウンター越しの視線。
「……よし」
桜子は、マスカラを一度だけ塗り、鏡から目を離した。
今日は打ち合わせも会議も詰まっている。目を腫らすわけにはいかない。
メイクポーチを閉じる手つきに、ほんの少しだけ力がこもる。
通勤電車のなかで、桜子はいつものようにスマホを開いた。
グループトークには、「今日のランチどうする?」「新しくできたカフェ行かない?」と、次々に吹き出しが積み重なっていく。
画面をスクロールする指は迷わない。返事も、顔文字も、話題の方向も、すでに身体のどこかに染み込んでいた。
「例のパスタ行こうよ」「外観かわいい」といったやり取りを数行打ち込むと、すぐに「楽しみ」の文字が並ぶ。
車内の揺れに合わせて、桜子の視線は窓の外と画面のあいだをいったりきたりした。
昨夜、みつよ食堂を出るとき、「また、残り物が出たころに来ます」と冗談めかした自分の声がよみがえる。
あの言葉が、どうしても胸のどこかに引っかかっていた。
残り物でいいと笑って言う癖は、いつから身についたのだろう。
会社に着くと、ビルのエントランスは既にスーツ姿の人であふれていた。
エレベーター前で同僚に手を振られ、桜子は反射的に笑顔を作る。
「おはよう、昨日も飲み会行ってたでしょ?」
「行ってた行ってた。帰ったら日付変わっててさ、さすがにちょっと反省してる」
軽口に、周りの笑いが重なる。
その笑いの波にうまく乗りながら、心のどこかでは「本当に反省してる?」と自分に問いかける声があった。
午前中の仕事は、メールの返信と資料の修正であっという間に過ぎていく。
複数のチームに顔を出し、どこに座っても違和感なく会話に入っていける自分。
椅子から立ち上がるたびに、「今日もちゃんとキョロキョロしてるなあ」と、どこか他人事のように思ってしまう。
正午少し前、チャットの通知が一斉に鳴った。
『そろそろ行く?』
『予約してないから、早めがいいよね』
約束していた同期たちと、ビルの外に出ると、昼の陽射しが一気に視界を白くした。
角を曲がった先にある、その日のお目当てのカフェは、ガラス張りの外観に淡い色のロゴが浮かぶ、いかにもおしゃれな店だった。
「わあ、かわいい~」
「ほら、入口のところで写真撮ろうよ」
入口の前で自然と輪になり、誰かがスマホを掲げる。
桜子は一歩引き気味に、しかし笑顔は崩さず、輪の端に収まった。
「もう一枚撮る? 今度は縦で」
「じゃあ次は、桜子センターで」
「え、私? いやいや、似合わないって」
口では否定しながらも中央に移動し、自分でも驚くほど自然に笑顔を作っていた。
店内に案内されると、白い皿の真ん中に絵のように盛り付けられたパスタやサラダが並ぶ。
誰かが「この断面かわいくない?」と笑い、全員がスマホを構えた。
シャッター音が重なるあいだ、湯気は少しずつ薄れていく。
桜子も、いつものように角度を変えながら何枚か撮った。
しかし、撮った写真を拡大して確認している途中で、ふと手が止まる。
画面の向こうには、自分の笑顔と、鮮やかな皿の色彩。
その奥に、昨日見た素朴な木のカウンターと、湯気の立つ味噌汁の映像が、勝手に重なってしまった。
「ねえ、聞いた? 隣の部署のリーダーがさ」
「え、また? あの人ほんとに……」
テーブルの上に、別の話題が広がりはじめる。
人事の噂話、先輩と後輩の距離感、上司の失言。
言葉のひとつひとつは軽くても、積み重なると、何かをじわじわと削っていく。
「桜子はさ、そのうち誰と付き合うの?」
唐突に飛んできた言葉に、桜子は手を止めた。
「え、なにその話」
「だってさ、飲み会とかもよく顔出すし。誰とでもそれなりに仲いいじゃん」
「逆に怪しいよね~。絶対一人くらいは本命いるって」
笑い交じりの追撃に、桜子は反射的に笑ってみせる。
「残念ながら、今のところゼロでーす」
「じゃあ、拾ってくれる人探しておかなきゃ」
「うわ、その言い方ひどくない? 余り物みたいじゃん」
冗談交じりのやり取りに、テーブルは再び笑い声で満たされる。
その笑いの真ん中で、「余り物」という言葉だけが、桜子の胸に重く沈んだ。
フォークの先に刺したパスタが、急に味を失ったように感じる。
口に運んでも、塩気と酸味だけが舌の上を通り過ぎていった。
ランチを終えてビルに戻るころには、笑い疲れと中途半端な満腹感だけが残っていた。
午後の会議室は、空調が効きすぎていて、桜子の指先は少し冷たかった。
配られた資料にメモを書き込みながら、頭の片隅では別のことを考えてしまう。
昨日のみつよ食堂のカウンター。目の前に置かれた「シンデレラ定食」の皿。
「主役って、自分で名乗らないと、誰も呼んでくれないですよ」と言った青年の声。
時計の針が五時を回ったころ、ようやく一日の仕事に区切りがついた。
パソコンをシャットダウンしながら、桜子はいつものように「お先に失礼します」と周囲に頭を下げる。
「今日、飲みは?」
「さすがに今日はまっすぐ帰る。明日も朝から会議だし」
「えらい、じゃあまた今度ね」
軽いやり取りを交わしながら、エレベーターに乗り込む。
一階のロビーに降り立ったとき、外はすでに薄暗くなりはじめていた。
ビルの自動扉が開くと、冷たい風が頬を撫でる。
桜子は一度駅とは反対方向に足を向けかけ、立ち止まった。
頭の中に、あの赤いひさしと木の引き戸が浮かぶ。
「……寄り道くらい、いいよね」
誰にともなくつぶやいて、桜子は駅とは逆方向に曲がった。
ビル街を抜け、少しずつ建物の高さが低くなっていく。
舗装の端に並ぶ古い自転車、シャッターが半分降りた文房具屋、揚げ物の匂いを漂わせる惣菜屋。
昼間は見落としていた看板や貼り紙が、夕方の光の中で急に生活感を帯びて浮かび上がる。
商店街のアーケードに入ると、天井に吊るされた提灯がぽつぽつと灯りはじめていた。
仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎる中で、桜子の歩幅だけが、ほんの少しだけゆっくりになる。
やがて、あの赤いひさしと「みつよ食堂」の看板が見えてきた。
店の前で、桜子は一度立ち止まった。
昨日と同じ木の引き戸。その隣に、小さなホワイトボードが立てかけられている。
手書きの文字で、「本日も、シンデレラ定食あります」と書かれていた。
文字の端のほうに、黒いマーカーのインクが少しだけにじんでいるのが、妙にいとおしい。
引き戸に手をかけると、木の感触が掌に伝わった。
昨日よりも少しだけ力を込めて戸を引くと、カラン、とドアベルの音が鳴る。
「いらっしゃい」
中から聞こえたのは、聞き慣れない男性の声だった。
店内には、昨日とは違う賑やかさがあった。
カウンターの端では、眼鏡をかけた青年がスケッチブックを広げ、何かを描き込んでいる。
テーブル席のひとつでは、ショートカットの女性がノートパソコンを閉じるところだった。
奥の席には、腕を組んで椅子にもたれかかる男の人がいて、こちらをちらりとも見ないまま湯気の立つ料理を口に運んでいる。
「お、昨日のシンデレラさんじゃない」
ショートカットの女性が、真っ先に声を上げた。
その声に続いて、カウンターの中から美津代が顔を出す。
「ほんとだ。よく来てくれたねえ」
琉叶も、包丁を置いてこちらに向き直った。
「えっ、えっと……」
いきなり「シンデレラさん」と呼ばれて、桜子は慌ててバッグを握りしめた。
その様子を見て、カウンターの端の青年がニヤリと笑う。
「昨日の話、もうネタになってるからさ」
「ネタって言わないの」
ショートカットの女性が、すぐさまツッコミを入れる。
「紹介しとこうかね」
美津代が、手ぬぐいで手を拭きながら桜子のそばまで来る。
「そこのスケッチブック広げてるのが勇一。向かいの古本屋の息子さんで、漫画描いてるんだわ」
「どうも。勝手に観察して勝手に描くタイプです」
勇一と呼ばれた青年が、スケッチブックから目を離さずに軽く手を挙げた。
「で、ノート持ってるのが実記。地域の情報紙に記事書いてる子」
「はじめまして。昨日の定食の話、もうちょっと詳しく聞かせてもらえません?」
実記は、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「奥で腕組んでるのが雄之。コワーキングキッチンの管理人さんで、文句言いながらも結局全部食べる人」
「余計な説明つけんな」
雄之が、眉間に皺を寄せたままぼそりと突っ込んだ。
知らない名前と顔が一気に押し寄せてきて、桜子は思わず笑ってしまう。
誰も自分を値踏みするような目で見ていない。
「どのグループに属してるか」も、「誰と仲がいいか」も、ここでは関係なさそうだった。
「あ、あの、昨日はありがとうございました」
桜子は、カウンター越しに頭を下げた。
「とんでもない。こっちこそ来てくれてありがとう」
琉叶が、少しだけ照れくさそうに笑う。
「今日も、シンデレラ定食……ありますか?」
自分でその言葉を口にして、桜子は少しだけ耳が熱くなる。
「もちろん」
琉叶は、ホワイトボードにちらりと視線を投げてから、厨房のほうへ向き直った。
「今日の主役さんは、どんな一日でした?」
その問いかけは、昨日と同じようでいて、どこか違って聞こえた。
桜子は、カウンター席に腰を下ろしながら、ほんの少しだけ迷ったあと、正直に口を開いた。
「写真の顔と、ほんとの顔が、だんだんわからなくなってきた一日でした」
その言葉に、カウンターの端でスケッチブックをめくっていた勇一の手が止まる。
実記は、ノートの表紙を指でとんとんと叩きながら、「それ、いいコピーですね」と小さくつぶやいた。
雄之は、腕を組んだまま「ふん」と鼻を鳴らす。
「……なるほど」
琉叶は、一度だけ目を細め、何かを決めたように頷いた。
「じゃあ、今日のシンデレラ定食は、『迷い込んだ人用』にしましょう」
「迷い込んだ?」
「ええ。どこに座ってもそれなりに馴染んじゃう人が、ふっと立ち止まれる場所用の」
そう言って微笑んだ瞬間、桜子の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
注文が決まると、店内には再びそれぞれの時間が流れはじめる。
勇一のペン先が紙の上を走る音。
実記がストラップだらけのボールペンをくるくる回す小さな音。
雄之が味噌汁の椀を置く、器の重なる控えめな音。
そのどれもが、桜子には心地よいざわめきに聞こえた。
カウンター越しに、琉叶が野菜を刻む音、油のはぜる音が重なる。
桜子は、昨日と同じように、その音を聞きながら、自分の手をそっと見下ろした。
会議室でメモを書いていた指先と、スマホを握りしめていた掌。
そして今、カウンターの木目に触れている手のひら。
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