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第4話 手書きカードの魔法
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その日も、みつよ食堂のカウンターには、いつもの顔ぶれが揃っていた。
カウンターの端では、勇一がスケッチブックを広げて鉛筆を走らせている。
向かいの席では、実記がノートパソコンを開き、画面の明かりを顔に映しながら記事の下書きを睨んでいた。
奥では雄之が、腕を組んだまま日替わり定食の皿を前に置き、いつものしかめっ面で味噌汁をすすっている。
その少し離れた場所に、桜子はそっと腰を下ろした。
目の前のカウンターには、「本日も、シンデレラ定食あります」と書かれたホワイトボードの端が見える。
昨日と同じ文字なのに、何度見ても少しだけ胸がくすぐったくなる。
「……んー」
ノートパソコンの前で、実記が唸り声をあげた。
画面には、「手からはじまるごはん」と仮タイトルのついた原稿が開かれている。
「どうしたの」
美津代が、カウンター越しにお茶を置きながら声をかけた。
「なんか、画面で見てると、全部同じに見えちゃうんですよね」
実記は、モニターをつつきながら眉を寄せる。
「ここに書いてることは間違ってないんですけど、『今日だけの感じ』が、文章に押し込められて、平らになっちゃうというか」
「贅沢な悩みだねえ」
美津代は笑いながらも、その言葉を少し考えるように湯呑を回した。
「じゃあ、平らじゃない形にすりゃいいんじゃない?」
「平らじゃない形?」
「紙よ、紙」
美津代は、カウンターの下から伝票用の小さな紙片を取り出してみせた。
「こういうのに、ちょこっと書くとかさ」
「……それだ」
ぱっと顔を上げたのは、実記だった。
ノートパソコンをバタンと閉じると、椅子をきしませて立ち上がる。
「画面じゃなくて紙でやりましょうよ」
「なにを?」
琉叶が、厨房から顔を出す。
「シンデレラ定食に、『今日だけ主役になりたい理由』を添えるんです」
実記は、伝票用紙をひらひらと振ってみせた。
「お客さんに一言書いてもらって、それを小さなカードにして、定食に添える。記事にもそのカードを写して載せたら、絶対伝わります」
「『今日だけ主役になりたい理由』ねえ」
勇一が、鉛筆の尻で自分の頬をつつく。
「漫画だったら吹き出しにするやつだな。『昇進したい』とか『宝くじ当たってほしい』とか」
「宝くじは却下です」
実記が即座に切り捨てる。
「もうちょっと生活に寄ってください。現実味のあるやつ」
「紙なら、私に任せとき」
美津代は、何かを思いついたようにニヤリと笑った。
「文房具屋のおばちゃんとこで、ちょうどいいの見てくるから」
「さすが」
実記が親指を立てる。
「じゃあ、決まりですね。シンデレラ定食には、理由カードを一枚セットで」
「勝手にセットにしないでくださいよ」
琉叶は、苦笑しながらも否定しきれない顔をしていた。
*
翌日、昼のピークが落ち着いたころ。
みつよ食堂のカウンターには、新しい小物たちが並んでいた。
「どうよ」
誇らしげな顔で、美津代が袋から取り出したのは、名刺より少し小さい、厚みのあるカードだった。
角が丸くカットされていて、手に取るとさらさらとした手触りがある。
カードの上部には、小さく「今日だけ主役になりたい理由」と印刷されていて、その下は自由に書き込めるよう余白が広がっていた。
「わ、かわいい」
桜子は、思わず声を上げた。
「紙、ちょっと厚めですね」
「そう、そこがポイントなの」
美津代は、胸を張る。
「薄いとね、書いた人の手の跡が透けて見えちゃうでしょ。これは、ぎゅっと握っても大丈夫」
実際、カードを指で挟んでみると、少しくらい力を込めても折れ曲がらない。
「ペンもこだわったんだよ」
カウンターの端には、インクの色がそれぞれ違うボールペンが何本も立ててある。
青、緑、オレンジ、ぶどうみたいな紫。
「文房具屋のおばちゃんがさ、『書くなら、楽しくなる色じゃないと』ってね」
美津代は、その言葉を真似して笑う。
「黒だけだと、書く前からため息出ちゃうからって」
「いいですね、それ」
実記は、一枚カードを取り上げ、ペンの試し書きのように端に線を引いた。
「これ、記事に写真で載せたら映えます。『手書きカードの魔法』ってタイトルでいけそう」
「魔法?」
勇一が、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「タイトルもらっていい? 漫画のほうでも使えそう」
「許可制なの、それ」
桜子が思わず笑うと、勇一は「権利関係は大事だから」と真剣な顔でうなずいた。
「じゃ、試しに書いてもらおうかね」
美津代が、カード束をひょいと持ち上げた。
「最初の一枚は……」
「はい勇一」
実記が、迷いなくカードを突き出す。
「漫画家さんはネタに困ってるでしょ。『今日だけ主役になりたい理由』、何?」
「急にハードル高くない?」
勇一は、ペンを握りしめたまま固まった。
「えーと……『ネームを落としたくない』?」
「現実的」
桜子が思わず吹き出す。
「『ネームを落としたくない』シンデレラって、なんか夜中まで机に張り付いてそうですね」
「ガラスのペン先が折れるとかね」
実記が、すかさず笑いを足す。
「ふざけたこと書いたら、本気で怒るからね」
奥から雄之が低い声を飛ばした。
「そのカード、あとで客に見せんだろ」
「わかってますよ」
勇一は、舌を出しつつも、真面目な顔に戻る。
しばらく考え込んだあと、ゆっくりとペンを走らせた。
――昇進したい。
書き終えたカードを見て、本人が一番照れくさそうに笑った。
「なんか、普通だな」
「普通が一番効くの」
美津代は、そのカードを大事そうに受け取り、カウンター奥の小さな木製スタンドに立てかけた。
「じゃ、次は」
実記は、今度は雄之の前にカードを差し出した。
「遠慮します」
「なにその即答」
「主役とか柄じゃねえし」
言いながらも、雄之の視線はカードに吸い寄せられている。
しばらく押し問答をしていると、美津代がふっと笑って、別のカードを差し出した。
「じゃあこうしなよ」
カードの端には、「怒られたけど、気持ちを切り替えたい」と、きれいな字で書かれていた。
「さっき、電話で誰かに怒られてたでしょ」
「聞いてたのか」
「声でだいたい分かるよ」
美津代は、さらりと言う。
「これはサービス。あんたの代わりに私が書いといたから、ちゃんと食べて切り替えな」
雄之は、一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに観念したように息を吐いた。
「……余計なお世話だ」
そう言いつつ、そのカードが立てられたスタンドから目をそらさない。
「桜子さんも、どうです?」
実記が、そっとカードを差し出してきた。
「え、私?」
「昨日も迷い込んできてたし」
「その言い方」
桜子は苦笑しながらも、カードを受け取った。
指先に、紙のざらりとした感触が伝わる。
――今日だけ主役になりたい理由。
印刷された文字を見つめていると、自分の内側が少しだけむずがゆくなる。
ペンを握り、何度か空中で文字をなぞってみる。
けれど、いざ紙の上に置こうとすると、手が止まってしまった。
「無理に書かなくてもいいですよ」
いつのまにか、カウンターの向こうに来ていた琉叶が、柔らかい声で言った。
「書きたいときに書けばいいんで」
「……そうですね」
桜子は、小さく息を吐いて、カードを裏返しにした。
裏面は真っ白で、少しだけほっとする。
「でも、ひとつだけ」
琉叶は、カードを受け取ると、代わりに別の一枚を桜子の前に置いた。
そのカードの上には、すでに小さな字で一言が書かれている。
――ちゃんとお腹が空いたって思えたら、それだけで今日は主役。
「これは、僕から」
琉叶は、少し照れくさそうに笑う。
「理由がわかんなくても、お腹が空いたって感じられたら、それだけで十分じゃないかなって」
「……ずるいですね」
桜子は、カードを両手で包み込んだ。
「そうやって代わりに言葉を用意してもらうと、甘えたくなります」
「甘えるのも、主役の特権ですよ」
そのやり取りを聞いていた勇一が、「今の会話も漫画に使える」と鉛筆を走らせる。
*
その日の夜。
閉店後の店内で、琉叶はカウンターに積まれたカードの束を前に、深く息を吸った。
カードの一枚一枚には、お昼から夜にかけて来店した客たちの小さな本音が書かれていた。
「昇進したい」「告白したい」「テストで赤点取りたくない」
そこに混じって、「怒られたけど、気持ちを切り替えたい」「子どもの弁当、明日はちゃんと作りたい」など、疲れた文字で書かれたものもある。
一枚目を手に取る。
紙の端には、書いた人の指の跡がうっすらと残っていた。
ボールペンのインクが少しだけにじんでいるのは、書いたときに手が震えていたのかもしれない。
「どう?」
厨房から出てきた美津代が、湯呑を二つ持ってカウンターに座った。
「なかなかの量だねえ」
「はい」
琉叶は、カードの束を見つめたまま頷く。
「……これ、全部、シンデレラ定食に添えるんですよね」
「そのつもりだよ」
美津代は、湯呑をひとつ琉叶の前に置く。
「ついでに、あんたの一言もね」
「僕の?」
「ほら」
美津代は、カードの隅を指でとんとんと叩く。
「『がんばりすぎなくていい』とか『今日はよく噛んでいきましょう』とか、そういうやつ」
「そんなお洒落なこと、言えないですよ」
「さっき桜子ちゃんに渡したカード、十分お洒落だったけどねえ」
からかうような口調に、琉叶は慌てて視線をそらす。
一枚目のカードを、もう一度読み直す。
――昇進したい。
その文字を見ていると、昼間、ネクタイを何度も直していたスーツ姿の客の顔が浮かぶ。
定食を前に座りながらも、スマホの画面をちらちら気にしていたあの表情。
自分の手でよそったご飯を、どこか落ち着かない様子でかき込んでいた仕草。
「……よし」
琉叶は、ペンを握った。
カードの空いている端に、そっと一言書き足す。
――ごはん中だけは、通知切っても大丈夫です。
書き終えた瞬間、ペン先がわずかに震えた。
その震えをごまかすように、湯呑を両手で包み込む。
「次は?」
美津代が、別のカードを指差す。
「『告白したい』」
琉叶は、思わず息を飲んだ。
途端に、胸のどこかがざわつく。
「顔、赤くなってるよ」
「なってません」
「なってるなってる」
美津代のからかいを無視するように、琉叶はペン先をカードに近づけた。
――うまく言えなくても、ちゃんと噛めてたら大丈夫。
書きながら、自分で自分に言い聞かせているような感覚になる。
ペンを置くとき、指先がさっきよりもはっきりと震えた。
カードの束は、まだまだ厚い。
けれど、一枚一枚に目を通していくうちに、震えは少しずつ落ち着いていった。
どのカードにも、その日その時間の「手」が残っている。
震えていたり、急いでいたり、迷って止まっていたり。
その跡をなぞるように、琉叶のペンもゆっくりと動く。
「全部書き終わったらさ」
美津代が、湯呑を口に運びながらぽつりと言った。
「カウンターの端に、『今日の一枚』って立てかけようか」
「今日の一枚?」
「その日、一番ぐっときたカードと、あんたの一言をさ」
想像しただけで、胸が少し熱くなる。
「……魔法みたいですね」
気づけば、琉叶の口から自然とそんな言葉がこぼれていた。
「料理ができる前に、もう何かが変わってる気がします」
「紙切れ一枚で?」
「はい」
琉叶は、カードの束を見つめたまま微笑んだ。
「この紙、みんなの『手』が通ってきたんだなって思うと、放り出せないです」
その夜の最後に、琉叶は一枚だけ、誰にも見せないカードを書いた。
――明日も、ちゃんと「本日も」と書けますように。
カードを裏返し、その上に手を重ねる。
カウンターの上には、整えられたカードとペン立て。
厨房のほうからは、鍋や包丁を片づける小さな音が聞こえる。
みつよ食堂の暖簾は、外の夜風に揺れていた。
引き戸の横には、「本日も、シンデレラ定食あります」と、少しインクのにじんだ手書きの札。
その隣に、小さな説明書きが増えている。
――ご注文の方には、「今日だけ主役になりたい理由」をお聞きします。
手書きカードの魔法は、静かに、けれど確かに、店に根を張り始めていた。
カウンターの端では、勇一がスケッチブックを広げて鉛筆を走らせている。
向かいの席では、実記がノートパソコンを開き、画面の明かりを顔に映しながら記事の下書きを睨んでいた。
奥では雄之が、腕を組んだまま日替わり定食の皿を前に置き、いつものしかめっ面で味噌汁をすすっている。
その少し離れた場所に、桜子はそっと腰を下ろした。
目の前のカウンターには、「本日も、シンデレラ定食あります」と書かれたホワイトボードの端が見える。
昨日と同じ文字なのに、何度見ても少しだけ胸がくすぐったくなる。
「……んー」
ノートパソコンの前で、実記が唸り声をあげた。
画面には、「手からはじまるごはん」と仮タイトルのついた原稿が開かれている。
「どうしたの」
美津代が、カウンター越しにお茶を置きながら声をかけた。
「なんか、画面で見てると、全部同じに見えちゃうんですよね」
実記は、モニターをつつきながら眉を寄せる。
「ここに書いてることは間違ってないんですけど、『今日だけの感じ』が、文章に押し込められて、平らになっちゃうというか」
「贅沢な悩みだねえ」
美津代は笑いながらも、その言葉を少し考えるように湯呑を回した。
「じゃあ、平らじゃない形にすりゃいいんじゃない?」
「平らじゃない形?」
「紙よ、紙」
美津代は、カウンターの下から伝票用の小さな紙片を取り出してみせた。
「こういうのに、ちょこっと書くとかさ」
「……それだ」
ぱっと顔を上げたのは、実記だった。
ノートパソコンをバタンと閉じると、椅子をきしませて立ち上がる。
「画面じゃなくて紙でやりましょうよ」
「なにを?」
琉叶が、厨房から顔を出す。
「シンデレラ定食に、『今日だけ主役になりたい理由』を添えるんです」
実記は、伝票用紙をひらひらと振ってみせた。
「お客さんに一言書いてもらって、それを小さなカードにして、定食に添える。記事にもそのカードを写して載せたら、絶対伝わります」
「『今日だけ主役になりたい理由』ねえ」
勇一が、鉛筆の尻で自分の頬をつつく。
「漫画だったら吹き出しにするやつだな。『昇進したい』とか『宝くじ当たってほしい』とか」
「宝くじは却下です」
実記が即座に切り捨てる。
「もうちょっと生活に寄ってください。現実味のあるやつ」
「紙なら、私に任せとき」
美津代は、何かを思いついたようにニヤリと笑った。
「文房具屋のおばちゃんとこで、ちょうどいいの見てくるから」
「さすが」
実記が親指を立てる。
「じゃあ、決まりですね。シンデレラ定食には、理由カードを一枚セットで」
「勝手にセットにしないでくださいよ」
琉叶は、苦笑しながらも否定しきれない顔をしていた。
*
翌日、昼のピークが落ち着いたころ。
みつよ食堂のカウンターには、新しい小物たちが並んでいた。
「どうよ」
誇らしげな顔で、美津代が袋から取り出したのは、名刺より少し小さい、厚みのあるカードだった。
角が丸くカットされていて、手に取るとさらさらとした手触りがある。
カードの上部には、小さく「今日だけ主役になりたい理由」と印刷されていて、その下は自由に書き込めるよう余白が広がっていた。
「わ、かわいい」
桜子は、思わず声を上げた。
「紙、ちょっと厚めですね」
「そう、そこがポイントなの」
美津代は、胸を張る。
「薄いとね、書いた人の手の跡が透けて見えちゃうでしょ。これは、ぎゅっと握っても大丈夫」
実際、カードを指で挟んでみると、少しくらい力を込めても折れ曲がらない。
「ペンもこだわったんだよ」
カウンターの端には、インクの色がそれぞれ違うボールペンが何本も立ててある。
青、緑、オレンジ、ぶどうみたいな紫。
「文房具屋のおばちゃんがさ、『書くなら、楽しくなる色じゃないと』ってね」
美津代は、その言葉を真似して笑う。
「黒だけだと、書く前からため息出ちゃうからって」
「いいですね、それ」
実記は、一枚カードを取り上げ、ペンの試し書きのように端に線を引いた。
「これ、記事に写真で載せたら映えます。『手書きカードの魔法』ってタイトルでいけそう」
「魔法?」
勇一が、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「タイトルもらっていい? 漫画のほうでも使えそう」
「許可制なの、それ」
桜子が思わず笑うと、勇一は「権利関係は大事だから」と真剣な顔でうなずいた。
「じゃ、試しに書いてもらおうかね」
美津代が、カード束をひょいと持ち上げた。
「最初の一枚は……」
「はい勇一」
実記が、迷いなくカードを突き出す。
「漫画家さんはネタに困ってるでしょ。『今日だけ主役になりたい理由』、何?」
「急にハードル高くない?」
勇一は、ペンを握りしめたまま固まった。
「えーと……『ネームを落としたくない』?」
「現実的」
桜子が思わず吹き出す。
「『ネームを落としたくない』シンデレラって、なんか夜中まで机に張り付いてそうですね」
「ガラスのペン先が折れるとかね」
実記が、すかさず笑いを足す。
「ふざけたこと書いたら、本気で怒るからね」
奥から雄之が低い声を飛ばした。
「そのカード、あとで客に見せんだろ」
「わかってますよ」
勇一は、舌を出しつつも、真面目な顔に戻る。
しばらく考え込んだあと、ゆっくりとペンを走らせた。
――昇進したい。
書き終えたカードを見て、本人が一番照れくさそうに笑った。
「なんか、普通だな」
「普通が一番効くの」
美津代は、そのカードを大事そうに受け取り、カウンター奥の小さな木製スタンドに立てかけた。
「じゃ、次は」
実記は、今度は雄之の前にカードを差し出した。
「遠慮します」
「なにその即答」
「主役とか柄じゃねえし」
言いながらも、雄之の視線はカードに吸い寄せられている。
しばらく押し問答をしていると、美津代がふっと笑って、別のカードを差し出した。
「じゃあこうしなよ」
カードの端には、「怒られたけど、気持ちを切り替えたい」と、きれいな字で書かれていた。
「さっき、電話で誰かに怒られてたでしょ」
「聞いてたのか」
「声でだいたい分かるよ」
美津代は、さらりと言う。
「これはサービス。あんたの代わりに私が書いといたから、ちゃんと食べて切り替えな」
雄之は、一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに観念したように息を吐いた。
「……余計なお世話だ」
そう言いつつ、そのカードが立てられたスタンドから目をそらさない。
「桜子さんも、どうです?」
実記が、そっとカードを差し出してきた。
「え、私?」
「昨日も迷い込んできてたし」
「その言い方」
桜子は苦笑しながらも、カードを受け取った。
指先に、紙のざらりとした感触が伝わる。
――今日だけ主役になりたい理由。
印刷された文字を見つめていると、自分の内側が少しだけむずがゆくなる。
ペンを握り、何度か空中で文字をなぞってみる。
けれど、いざ紙の上に置こうとすると、手が止まってしまった。
「無理に書かなくてもいいですよ」
いつのまにか、カウンターの向こうに来ていた琉叶が、柔らかい声で言った。
「書きたいときに書けばいいんで」
「……そうですね」
桜子は、小さく息を吐いて、カードを裏返しにした。
裏面は真っ白で、少しだけほっとする。
「でも、ひとつだけ」
琉叶は、カードを受け取ると、代わりに別の一枚を桜子の前に置いた。
そのカードの上には、すでに小さな字で一言が書かれている。
――ちゃんとお腹が空いたって思えたら、それだけで今日は主役。
「これは、僕から」
琉叶は、少し照れくさそうに笑う。
「理由がわかんなくても、お腹が空いたって感じられたら、それだけで十分じゃないかなって」
「……ずるいですね」
桜子は、カードを両手で包み込んだ。
「そうやって代わりに言葉を用意してもらうと、甘えたくなります」
「甘えるのも、主役の特権ですよ」
そのやり取りを聞いていた勇一が、「今の会話も漫画に使える」と鉛筆を走らせる。
*
その日の夜。
閉店後の店内で、琉叶はカウンターに積まれたカードの束を前に、深く息を吸った。
カードの一枚一枚には、お昼から夜にかけて来店した客たちの小さな本音が書かれていた。
「昇進したい」「告白したい」「テストで赤点取りたくない」
そこに混じって、「怒られたけど、気持ちを切り替えたい」「子どもの弁当、明日はちゃんと作りたい」など、疲れた文字で書かれたものもある。
一枚目を手に取る。
紙の端には、書いた人の指の跡がうっすらと残っていた。
ボールペンのインクが少しだけにじんでいるのは、書いたときに手が震えていたのかもしれない。
「どう?」
厨房から出てきた美津代が、湯呑を二つ持ってカウンターに座った。
「なかなかの量だねえ」
「はい」
琉叶は、カードの束を見つめたまま頷く。
「……これ、全部、シンデレラ定食に添えるんですよね」
「そのつもりだよ」
美津代は、湯呑をひとつ琉叶の前に置く。
「ついでに、あんたの一言もね」
「僕の?」
「ほら」
美津代は、カードの隅を指でとんとんと叩く。
「『がんばりすぎなくていい』とか『今日はよく噛んでいきましょう』とか、そういうやつ」
「そんなお洒落なこと、言えないですよ」
「さっき桜子ちゃんに渡したカード、十分お洒落だったけどねえ」
からかうような口調に、琉叶は慌てて視線をそらす。
一枚目のカードを、もう一度読み直す。
――昇進したい。
その文字を見ていると、昼間、ネクタイを何度も直していたスーツ姿の客の顔が浮かぶ。
定食を前に座りながらも、スマホの画面をちらちら気にしていたあの表情。
自分の手でよそったご飯を、どこか落ち着かない様子でかき込んでいた仕草。
「……よし」
琉叶は、ペンを握った。
カードの空いている端に、そっと一言書き足す。
――ごはん中だけは、通知切っても大丈夫です。
書き終えた瞬間、ペン先がわずかに震えた。
その震えをごまかすように、湯呑を両手で包み込む。
「次は?」
美津代が、別のカードを指差す。
「『告白したい』」
琉叶は、思わず息を飲んだ。
途端に、胸のどこかがざわつく。
「顔、赤くなってるよ」
「なってません」
「なってるなってる」
美津代のからかいを無視するように、琉叶はペン先をカードに近づけた。
――うまく言えなくても、ちゃんと噛めてたら大丈夫。
書きながら、自分で自分に言い聞かせているような感覚になる。
ペンを置くとき、指先がさっきよりもはっきりと震えた。
カードの束は、まだまだ厚い。
けれど、一枚一枚に目を通していくうちに、震えは少しずつ落ち着いていった。
どのカードにも、その日その時間の「手」が残っている。
震えていたり、急いでいたり、迷って止まっていたり。
その跡をなぞるように、琉叶のペンもゆっくりと動く。
「全部書き終わったらさ」
美津代が、湯呑を口に運びながらぽつりと言った。
「カウンターの端に、『今日の一枚』って立てかけようか」
「今日の一枚?」
「その日、一番ぐっときたカードと、あんたの一言をさ」
想像しただけで、胸が少し熱くなる。
「……魔法みたいですね」
気づけば、琉叶の口から自然とそんな言葉がこぼれていた。
「料理ができる前に、もう何かが変わってる気がします」
「紙切れ一枚で?」
「はい」
琉叶は、カードの束を見つめたまま微笑んだ。
「この紙、みんなの『手』が通ってきたんだなって思うと、放り出せないです」
その夜の最後に、琉叶は一枚だけ、誰にも見せないカードを書いた。
――明日も、ちゃんと「本日も」と書けますように。
カードを裏返し、その上に手を重ねる。
カウンターの上には、整えられたカードとペン立て。
厨房のほうからは、鍋や包丁を片づける小さな音が聞こえる。
みつよ食堂の暖簾は、外の夜風に揺れていた。
引き戸の横には、「本日も、シンデレラ定食あります」と、少しインクのにじんだ手書きの札。
その隣に、小さな説明書きが増えている。
――ご注文の方には、「今日だけ主役になりたい理由」をお聞きします。
手書きカードの魔法は、静かに、けれど確かに、店に根を張り始めていた。
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https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
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