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第5話 泣き笑いのまかない
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昼の暖簾をいったん下ろしたみつよ食堂には、さっきまでのざわめきが嘘みたいに静けさが降りていた。
シャッターは半分だけ下り、「準備中」の札が揺れている。
厨房の奥からは、水を流す音と、包丁がまな板に当たる鈍い音だけが聞こえてきた。
琉叶は、冷蔵庫の中をのぞき込みながら、頭の中で今日のまかないの絵を組み立てていた。
ランチで出した唐揚げの鶏肉が少しと、仕込み過ぎた野菜の残り。
端っこだけ残ったコロッケのタネが、ボウルの底で寂しそうに丸まっている。
ガス台の上には、大鍋いっぱいの味噌汁。具が沈んで、ときどき湯気の隙間から豆腐の角だけが顔を出す。
「今日のまかない、なーに?」
カウンターの向こうから、実記の声が飛んできた。
ノートパソコンは閉じられ、その代わりにテーブルの上には手書きカードの束が積み上がっている。
勇一は、その隣で鉛筆を耳に挟みながら、カードを一枚一枚ひっくり返していた。
「余ったやつをまとめて丼にしようかなって」
琉叶は、冷蔵庫の扉を閉めてから答えた。
「コロッケのタネで丸めた小さいメンチカツと、野菜の甘辛炒め。それを全部のせて、上から半熟卵を落として……」
「絶対うまいやつ」
実記が、椅子の上で身を乗り出す。
「名前つけるなら?」
「名前?」
「ほら、シンデレラ定食みたいに」
勇一が、カードを振りながら笑った。
「『裏メニュー・まかないプリンス丼』とか」
「なんですかそれ」
琉叶は苦笑しながら、ボウルに残ったコロッケのタネを丸め始めた。
油の温度を確かめ、ひとつ目のメンチカツを落とす。
ジュワッと音が立ち、空気の温度が少しだけ上がった。
細かいパン粉が油の中で踊り、きつね色に変わっていく。
隣のコンロでは、薄切りにした玉ねぎとピーマン、人参がフライパンの上でしんなりと色を変えている。
砂糖と醤油を合わせた調味料を回し入れると、甘い匂いがゆっくりと店内に広がった。
「おーい、そろそろ座っていい?」
奥から雄之の声がした。
閉店作業を終えたらしく、エプロンを外して椅子を引きずってくる音がする。
「もうちょい待ってください。ご飯が炊けるまで」
「腹減ってるときに、それが一番きついんだよな」
口では文句を言いながら、雄之はいつもの席にどっかり腰を下ろした。
メンチカツが揚がり終わるころには、ご飯の炊ける音も止んでいた。
蓋を開けると、湯気の向こうに、ふっくらとした白い米が顔を出す。
しゃもじを入れて底から返すと、立ちのぼる湯気にさっきまでの疲れが少しだけ溶けていくような気がした。
「はいはい、並んで並んで」
琉叶は、炊きたてのご飯をどんぶりに盛り、その上に野菜炒めとメンチカツをのせ、真ん中に半熟卵を落とした。
黄身の表面がぷるんと揺れる。
仕上げに刻みネギをぱらりと散らし、味噌汁を添えたら、まかないの完成だ。
「いただきます」
四つの「いただきます」が、狭い厨房兼まかないスペースに重なる。
最初に卵を割ったのは、案の定勇一だった。
箸で黄身を割ると、とろりとした黄色がご飯とメンチカツの隙間に流れ落ちる。
「うわ、これ反則」
「写真撮りたい」
実記が、スマホを構えかけてから、「まかないは目で撮って心で保存する」とかなんとか言いながら自分で照れて笑った。
「で、今日のカードは?」
味噌汁をひと口すすってから、雄之がぶっきらぼうに尋ねた。
テーブルの上のカードの束に視線が集まる。
実記が、代表するように束の真ん中あたりから一枚を抜き出した。
「今日の一枚は……これかな」
そう言って、カードを読み上げる。
――失恋しました。
その四文字だけのカードに、場の空気がすっと変わった。
冗談半分で笑っていた口元が、同時に黙り込む。
「一言すぎだろ」
最初に声を出したのは雄之だった。
「そこに全部詰まってるんだよ」
勇一が、どこか目を輝かせながら言う。
「『失恋しました』。そのままタイトルで一本描ける」
「すぐ漫画にしようとする」
実記が苦笑しつつも、カードを指先でなぞった。
「でも、字の感じ、丁寧なんですよね。力んでないというか……」
「覚えてます?」
実記に問われる前に、琉叶はうなずいていた。
「ビール頼んで、ほとんど飲まずに帰ったお客さん」
「スーツのジャケット脱がないで、ネクタイだけ緩めてた人?」
勇一が、記憶を辿るように言う。
「そうです。おしぼり握りしめて、しばらくメニュー見てて……」
言いながら、琉叶の頭の中には、そのときの光景が鮮やかに蘇っていた。
――『失恋しました。なんか、あたたかいものが食べたいです』
会計のとき、小さな声でそう付け足した客の言葉。
あのとき、自分は一瞬だけ返事に詰まった。
「おめでとうございます」でも「どんまいです」でもない、適切な一言が見つからなかったからだ。
「結局、何出したんだっけ?」
実記が尋ねる。
「鯖の味噌煮と、じゃがいもの煮っころがし。それから、焼き長ねぎの味噌添え」
琉叶は、どんぶりをつつきながら答えた。
「骨を取るの、ちょっと面倒かなって思ったんですけど、あえて」
「なんで?」
「手を動かしてると、少しだけ泣きづらくなるかなって」
言ってから、自分でも照れくさくなって箸を止めた。
「うわ、それ、今聞くだけで泣きそう」
実記が、どんぶりを支えながら笑う。
「『失恋しました』の人、ちゃんと食べてました?」
「途中でちょっと泣いてましたけど」
琉叶は、味噌汁の椀を両手で包んだ。
「最後は、ごちそうさまって笑ってました」
「……いいな、それ」
勇一が、スケッチブックを引き寄せ、何かを書き込む。
「『泣きながらごはん食べる人』って、絵にするとめちゃくちゃきれいなんだよね」
「きれいって言い方どうなの」
実記が突っ込みながらも、どこか同意しているような顔をする。
「でもまあ、ぐしゃぐしゃの顔で笑ってる人って、確かに忘れられないかも」
「そこでさ」
勇一が、スケッチブックから顔を上げた。
「もしその人に、二番目の恋人ができたらどうする?」
「は?」
「ほら、一番目にフラれてさ。二番目の人が、こう……傷を癒やしてくれる感じで」
手振りを交えて説明しながら、勇一の目は完全に漫画モードになっていた。
「で、その二番目のほうが、結果的に本命になるみたいな」
「二番目の恋人、ねえ」
実記が、カードを指でとんとんと叩く。
「タイトル候補、『二番目の恋人、奪っちゃった!?』とかどう?」
その言葉が飛び出した瞬間、テーブルの上の空気が一瞬だけ固まった。
琉叶は、どんぶりの上で箸を止めた。
メンチカツの欠片が、黄身の池の中で静かに沈んでいく。
「なに、その沈黙」
実記が苦笑する。
「いや、単にキャッチーかなって思っただけで」
「キャッチーだけどさ」
勇一は楽しそうに笑っている。
「『奪っちゃった』って、ちょっとドキッとするよね」
「……あんまり好きじゃないな」
思わず、琉叶の口から言葉がこぼれた。
自分でも驚いて、少し目を瞬かせる。
「『奪う』って言葉」
「お、珍しくはっきり言うじゃん」
勇一が、興味深そうに身を乗り出した。
「なんで?」
「だって」
琉叶は、どんぶりの中身を見つめた。
「ごはんって、誰かから奪って食べるもんじゃないじゃないですか」
「まあね」
「隣の皿を勝手につついたら怒られるし」
勇一の軽口に、少しだけ笑いが戻る。
「恋人も、ごはんも。誰かから奪って手に入れたって、たぶんおいしくないと思うんです」
言葉を選びながら話しているうちに、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
テーブルの上に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、意外にも雄之だった。
「二番目の恋人のほうが大事ってこともある」
いつものしかめっ面のまま、ぽつりと言う。
「一番目が奪われたとか、奪ったとか、そういう話じゃなくてさ」
どんぶりのご飯を一口頬張り、ゆっくり噛んで飲み込んでから続ける。
「一番目がいたから、二番目にちゃんと気づけることもある。そういうのも、世の中にはある」
その言い方が、あまりにも淡々としていて、かえって重かった。
実記も勇一も、思わず息を飲む。
琉叶は、雄之の横顔をちらりと見た。
腕を組むでもなく、ただ黙々とまかない丼をかき込む姿。
さっきの言葉は、自分のことを話しているのか、それとも誰か別の人の話なのか。
「……ごちそうさま」
雄之は、それ以上何も言わずに味噌汁を飲み干した。
その背中には、「これ以上は踏み込むなよ」という無言の線が引かれているように見えた。
沈黙が、さっきよりも少しだけ重たくなったところで、美津代が厨房から顔を出した。
「なに、みんな揃ってお葬式みたいな顔して」
片手には、片づけ忘れたフライパン。
もう片方の手には、さっきのカードの束。
「カード見ながら、恋だの何だの話してたんですよ」
実記が苦笑する。
「失恋しました、からの、二番目の恋人がどうのこうの」
「ははん」
美津代は、フライパンをコンロに戻し、代わりに湯呑を一つ手に取った。
「どっちだっていいよ」
「どっち、って」
「一番目だろうが二番目だろうがさ」
湯呑にお茶を注ぎながら、美津代はにっこり笑った。
「腹いっぱいになって、明日も生きてりゃ」
あまりにもあっけらかんとした言葉に、全員が一瞬固まった。
次の瞬間、勇一が吹き出す。
「それ、最高」
実記も笑いながら、慌ててノートを引き寄せた。
「ちょっと待ってください、それ書きます。今の、たいへんよいまとめでした」
「なにそれ」
美津代は、肩をすくめて笑う。
「失恋してさ、ごはんも喉を通らないって人もいるわけだけど」
そう言いながら、テーブルの上の空になりかけたどんぶりを見回した。
「ここでこうやって、泣きそうになりながらでも食べてる人たちは、まだ大丈夫よ」
「泣きそうになりながら」という言葉に、桜子の顔がふと脳裏に浮かんだ。
雨に濡れた髪。コロッケの一口で崩れた表情。
「おいしいだけなのに」と言いながら、皿の縁に落ちた涙。
「……泣きながら笑えるごはん、作れたらいいですね」
琉叶は、思わず口にしていた。
「泣き笑いになるくらいのやつ」
「泣き笑いのごはん?」
実記が、ペンを止めて顔を上げる。
「うん」
琉叶は、言葉を探すように視線を泳がせた。
「ちゃんとしょっぱさも甘さもあって。泣きたくなるのに、口は止まらない感じの」
「それ、まさにさっきの『失恋しました』の人じゃん」
勇一が、スケッチブックをめくりながら笑う。
「泣きながら骨とって、最後は笑ってた」
「タイトル決まりだな」
実記が、ノートの上に大きく書いた。
「『泣き笑いのまかない』」
「それ、うちのまかないの名前?」
琉叶が苦笑すると、美津代が「いいじゃない」と頷いた。
「失恋した人にも、昇進したい人にも、二番目の恋人ができたかもしれない人にも」
手近な椅子に腰を下ろし、湯呑を両手で包む。
「ここで一回泣いて、一回笑って、ちゃんとお腹いっぱいになって帰ってもらいましょ」
気づけば、さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつゆるんでいた。
どんぶりの底が見え始め、味噌汁の椀も空になっていく。
「……ごちそうさまでした」
四つの声が、さっきよりもゆっくりと重なった。
*
その日の片づけがひと段落したあと、琉叶はカウンターの端に、今日のカードの束を積み上げた。
その中から、「失恋しました」のカードをそっと取り出す。
ボールペンのインクが少しだけにじんでいて、書いたときの呼吸の揺れが透けて見えるようだった。
空いている端に、細く一言だけ書き足す。
――泣きながらでも、ちゃんと噛めていたら、それで十分です。
書き終えたカードを、木製のスタンドに立てかける。
上から小さなライトが当たって、文字の影がカウンターに落ちる。
明日はまた、別のカードが増える。
恋の話かもしれないし、仕事の愚痴かもしれない。
それでも、ここで食べるまかないと同じように、泣き笑いしながら飲み込めるごはんを作りたい。
琉叶は、指先に残ったインクの感触を確かめながら、小さく息を吐いた。
カウンターの向こうでは、美津代が暖簾をたたむ音がする。
今日のまかないの皿は、きれいに洗われて、棚のいつもの場所に戻っていた。
シャッターは半分だけ下り、「準備中」の札が揺れている。
厨房の奥からは、水を流す音と、包丁がまな板に当たる鈍い音だけが聞こえてきた。
琉叶は、冷蔵庫の中をのぞき込みながら、頭の中で今日のまかないの絵を組み立てていた。
ランチで出した唐揚げの鶏肉が少しと、仕込み過ぎた野菜の残り。
端っこだけ残ったコロッケのタネが、ボウルの底で寂しそうに丸まっている。
ガス台の上には、大鍋いっぱいの味噌汁。具が沈んで、ときどき湯気の隙間から豆腐の角だけが顔を出す。
「今日のまかない、なーに?」
カウンターの向こうから、実記の声が飛んできた。
ノートパソコンは閉じられ、その代わりにテーブルの上には手書きカードの束が積み上がっている。
勇一は、その隣で鉛筆を耳に挟みながら、カードを一枚一枚ひっくり返していた。
「余ったやつをまとめて丼にしようかなって」
琉叶は、冷蔵庫の扉を閉めてから答えた。
「コロッケのタネで丸めた小さいメンチカツと、野菜の甘辛炒め。それを全部のせて、上から半熟卵を落として……」
「絶対うまいやつ」
実記が、椅子の上で身を乗り出す。
「名前つけるなら?」
「名前?」
「ほら、シンデレラ定食みたいに」
勇一が、カードを振りながら笑った。
「『裏メニュー・まかないプリンス丼』とか」
「なんですかそれ」
琉叶は苦笑しながら、ボウルに残ったコロッケのタネを丸め始めた。
油の温度を確かめ、ひとつ目のメンチカツを落とす。
ジュワッと音が立ち、空気の温度が少しだけ上がった。
細かいパン粉が油の中で踊り、きつね色に変わっていく。
隣のコンロでは、薄切りにした玉ねぎとピーマン、人参がフライパンの上でしんなりと色を変えている。
砂糖と醤油を合わせた調味料を回し入れると、甘い匂いがゆっくりと店内に広がった。
「おーい、そろそろ座っていい?」
奥から雄之の声がした。
閉店作業を終えたらしく、エプロンを外して椅子を引きずってくる音がする。
「もうちょい待ってください。ご飯が炊けるまで」
「腹減ってるときに、それが一番きついんだよな」
口では文句を言いながら、雄之はいつもの席にどっかり腰を下ろした。
メンチカツが揚がり終わるころには、ご飯の炊ける音も止んでいた。
蓋を開けると、湯気の向こうに、ふっくらとした白い米が顔を出す。
しゃもじを入れて底から返すと、立ちのぼる湯気にさっきまでの疲れが少しだけ溶けていくような気がした。
「はいはい、並んで並んで」
琉叶は、炊きたてのご飯をどんぶりに盛り、その上に野菜炒めとメンチカツをのせ、真ん中に半熟卵を落とした。
黄身の表面がぷるんと揺れる。
仕上げに刻みネギをぱらりと散らし、味噌汁を添えたら、まかないの完成だ。
「いただきます」
四つの「いただきます」が、狭い厨房兼まかないスペースに重なる。
最初に卵を割ったのは、案の定勇一だった。
箸で黄身を割ると、とろりとした黄色がご飯とメンチカツの隙間に流れ落ちる。
「うわ、これ反則」
「写真撮りたい」
実記が、スマホを構えかけてから、「まかないは目で撮って心で保存する」とかなんとか言いながら自分で照れて笑った。
「で、今日のカードは?」
味噌汁をひと口すすってから、雄之がぶっきらぼうに尋ねた。
テーブルの上のカードの束に視線が集まる。
実記が、代表するように束の真ん中あたりから一枚を抜き出した。
「今日の一枚は……これかな」
そう言って、カードを読み上げる。
――失恋しました。
その四文字だけのカードに、場の空気がすっと変わった。
冗談半分で笑っていた口元が、同時に黙り込む。
「一言すぎだろ」
最初に声を出したのは雄之だった。
「そこに全部詰まってるんだよ」
勇一が、どこか目を輝かせながら言う。
「『失恋しました』。そのままタイトルで一本描ける」
「すぐ漫画にしようとする」
実記が苦笑しつつも、カードを指先でなぞった。
「でも、字の感じ、丁寧なんですよね。力んでないというか……」
「覚えてます?」
実記に問われる前に、琉叶はうなずいていた。
「ビール頼んで、ほとんど飲まずに帰ったお客さん」
「スーツのジャケット脱がないで、ネクタイだけ緩めてた人?」
勇一が、記憶を辿るように言う。
「そうです。おしぼり握りしめて、しばらくメニュー見てて……」
言いながら、琉叶の頭の中には、そのときの光景が鮮やかに蘇っていた。
――『失恋しました。なんか、あたたかいものが食べたいです』
会計のとき、小さな声でそう付け足した客の言葉。
あのとき、自分は一瞬だけ返事に詰まった。
「おめでとうございます」でも「どんまいです」でもない、適切な一言が見つからなかったからだ。
「結局、何出したんだっけ?」
実記が尋ねる。
「鯖の味噌煮と、じゃがいもの煮っころがし。それから、焼き長ねぎの味噌添え」
琉叶は、どんぶりをつつきながら答えた。
「骨を取るの、ちょっと面倒かなって思ったんですけど、あえて」
「なんで?」
「手を動かしてると、少しだけ泣きづらくなるかなって」
言ってから、自分でも照れくさくなって箸を止めた。
「うわ、それ、今聞くだけで泣きそう」
実記が、どんぶりを支えながら笑う。
「『失恋しました』の人、ちゃんと食べてました?」
「途中でちょっと泣いてましたけど」
琉叶は、味噌汁の椀を両手で包んだ。
「最後は、ごちそうさまって笑ってました」
「……いいな、それ」
勇一が、スケッチブックを引き寄せ、何かを書き込む。
「『泣きながらごはん食べる人』って、絵にするとめちゃくちゃきれいなんだよね」
「きれいって言い方どうなの」
実記が突っ込みながらも、どこか同意しているような顔をする。
「でもまあ、ぐしゃぐしゃの顔で笑ってる人って、確かに忘れられないかも」
「そこでさ」
勇一が、スケッチブックから顔を上げた。
「もしその人に、二番目の恋人ができたらどうする?」
「は?」
「ほら、一番目にフラれてさ。二番目の人が、こう……傷を癒やしてくれる感じで」
手振りを交えて説明しながら、勇一の目は完全に漫画モードになっていた。
「で、その二番目のほうが、結果的に本命になるみたいな」
「二番目の恋人、ねえ」
実記が、カードを指でとんとんと叩く。
「タイトル候補、『二番目の恋人、奪っちゃった!?』とかどう?」
その言葉が飛び出した瞬間、テーブルの上の空気が一瞬だけ固まった。
琉叶は、どんぶりの上で箸を止めた。
メンチカツの欠片が、黄身の池の中で静かに沈んでいく。
「なに、その沈黙」
実記が苦笑する。
「いや、単にキャッチーかなって思っただけで」
「キャッチーだけどさ」
勇一は楽しそうに笑っている。
「『奪っちゃった』って、ちょっとドキッとするよね」
「……あんまり好きじゃないな」
思わず、琉叶の口から言葉がこぼれた。
自分でも驚いて、少し目を瞬かせる。
「『奪う』って言葉」
「お、珍しくはっきり言うじゃん」
勇一が、興味深そうに身を乗り出した。
「なんで?」
「だって」
琉叶は、どんぶりの中身を見つめた。
「ごはんって、誰かから奪って食べるもんじゃないじゃないですか」
「まあね」
「隣の皿を勝手につついたら怒られるし」
勇一の軽口に、少しだけ笑いが戻る。
「恋人も、ごはんも。誰かから奪って手に入れたって、たぶんおいしくないと思うんです」
言葉を選びながら話しているうちに、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
テーブルの上に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、意外にも雄之だった。
「二番目の恋人のほうが大事ってこともある」
いつものしかめっ面のまま、ぽつりと言う。
「一番目が奪われたとか、奪ったとか、そういう話じゃなくてさ」
どんぶりのご飯を一口頬張り、ゆっくり噛んで飲み込んでから続ける。
「一番目がいたから、二番目にちゃんと気づけることもある。そういうのも、世の中にはある」
その言い方が、あまりにも淡々としていて、かえって重かった。
実記も勇一も、思わず息を飲む。
琉叶は、雄之の横顔をちらりと見た。
腕を組むでもなく、ただ黙々とまかない丼をかき込む姿。
さっきの言葉は、自分のことを話しているのか、それとも誰か別の人の話なのか。
「……ごちそうさま」
雄之は、それ以上何も言わずに味噌汁を飲み干した。
その背中には、「これ以上は踏み込むなよ」という無言の線が引かれているように見えた。
沈黙が、さっきよりも少しだけ重たくなったところで、美津代が厨房から顔を出した。
「なに、みんな揃ってお葬式みたいな顔して」
片手には、片づけ忘れたフライパン。
もう片方の手には、さっきのカードの束。
「カード見ながら、恋だの何だの話してたんですよ」
実記が苦笑する。
「失恋しました、からの、二番目の恋人がどうのこうの」
「ははん」
美津代は、フライパンをコンロに戻し、代わりに湯呑を一つ手に取った。
「どっちだっていいよ」
「どっち、って」
「一番目だろうが二番目だろうがさ」
湯呑にお茶を注ぎながら、美津代はにっこり笑った。
「腹いっぱいになって、明日も生きてりゃ」
あまりにもあっけらかんとした言葉に、全員が一瞬固まった。
次の瞬間、勇一が吹き出す。
「それ、最高」
実記も笑いながら、慌ててノートを引き寄せた。
「ちょっと待ってください、それ書きます。今の、たいへんよいまとめでした」
「なにそれ」
美津代は、肩をすくめて笑う。
「失恋してさ、ごはんも喉を通らないって人もいるわけだけど」
そう言いながら、テーブルの上の空になりかけたどんぶりを見回した。
「ここでこうやって、泣きそうになりながらでも食べてる人たちは、まだ大丈夫よ」
「泣きそうになりながら」という言葉に、桜子の顔がふと脳裏に浮かんだ。
雨に濡れた髪。コロッケの一口で崩れた表情。
「おいしいだけなのに」と言いながら、皿の縁に落ちた涙。
「……泣きながら笑えるごはん、作れたらいいですね」
琉叶は、思わず口にしていた。
「泣き笑いになるくらいのやつ」
「泣き笑いのごはん?」
実記が、ペンを止めて顔を上げる。
「うん」
琉叶は、言葉を探すように視線を泳がせた。
「ちゃんとしょっぱさも甘さもあって。泣きたくなるのに、口は止まらない感じの」
「それ、まさにさっきの『失恋しました』の人じゃん」
勇一が、スケッチブックをめくりながら笑う。
「泣きながら骨とって、最後は笑ってた」
「タイトル決まりだな」
実記が、ノートの上に大きく書いた。
「『泣き笑いのまかない』」
「それ、うちのまかないの名前?」
琉叶が苦笑すると、美津代が「いいじゃない」と頷いた。
「失恋した人にも、昇進したい人にも、二番目の恋人ができたかもしれない人にも」
手近な椅子に腰を下ろし、湯呑を両手で包む。
「ここで一回泣いて、一回笑って、ちゃんとお腹いっぱいになって帰ってもらいましょ」
気づけば、さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつゆるんでいた。
どんぶりの底が見え始め、味噌汁の椀も空になっていく。
「……ごちそうさまでした」
四つの声が、さっきよりもゆっくりと重なった。
*
その日の片づけがひと段落したあと、琉叶はカウンターの端に、今日のカードの束を積み上げた。
その中から、「失恋しました」のカードをそっと取り出す。
ボールペンのインクが少しだけにじんでいて、書いたときの呼吸の揺れが透けて見えるようだった。
空いている端に、細く一言だけ書き足す。
――泣きながらでも、ちゃんと噛めていたら、それで十分です。
書き終えたカードを、木製のスタンドに立てかける。
上から小さなライトが当たって、文字の影がカウンターに落ちる。
明日はまた、別のカードが増える。
恋の話かもしれないし、仕事の愚痴かもしれない。
それでも、ここで食べるまかないと同じように、泣き笑いしながら飲み込めるごはんを作りたい。
琉叶は、指先に残ったインクの感触を確かめながら、小さく息を吐いた。
カウンターの向こうでは、美津代が暖簾をたたむ音がする。
今日のまかないの皿は、きれいに洗われて、棚のいつもの場所に戻っていた。
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