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第12話 恋人とシンデレラ定食
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火曜日の夕方、オフィスの窓ガラスに、街の灯りがぽつぽつと映り始めていた。
桜子はメールボックスをすべて既読にしてから、机の引き出しに手を伸ばす。
そこには、週末に外したまましまっておいた、みつよ食堂のエプロンが畳んで入っていた。
指先で布を軽くなぞると、まだほんのりと、玉ねぎと出汁の匂いが残っている気がする。
そのとき、スマホが震えた。
画面には、「凌」の名前とメッセージのプレビュー。
『今日さ、久しぶりに外でごはんどう?』
『例の、君がよく行く定食屋。近くまで行く予定あるからさ』
「……え」
思わず、椅子の背にもたれかかった。
みつよ食堂のことを話したのは、確か、先週の帰り道だった。
「最近、どこでランチしてるの」と聞かれ、「商店街の定食屋さん」とさらっと答えたつもりが、「写真、全然送ってこないよね」と笑われ、言葉に詰まった。
あのとき、凌は「今度、見に行ってみようかな」と軽く言っていた。
社交辞令かと思っていたその一言が、今日、現実になろうとしている。
『うちの最寄り駅、七時半くらいには着きそう』
『どう? 仕事、抜けられる?』
時計を見ると、針はちょうど七時前を指していた。
残っている作業は、明日の朝でも間に合う。
頭のどこかでそう計算しながら、胸のあたりがきゅっと縮こまる。
『大丈夫。七時半に駅の改札で』
そう打って送信すると、エプロンを引き出しの奥に押し戻した。
布が、わずかな音を立てた。
*
七時半ぴったりに改札を出ると、凌はすでに柱にもたれてスマホをいじっていた。
紺のスーツに細いネクタイ。髪は少し伸びて、ワックスで軽く流してある。
周りの視線を自然と引き寄せるような雰囲気は、相変わらずだった。
「お待たせ」
「ギリギリ、セーフかな」
凌は笑いながらスマホをポケットにしまう。
「このへん、夜来るの、珍しいね」
「そうだね。最近はお昼ばっかりだったから」
「ほら、例の店、教えてよ。『いつも助かってる』って言ってたとこ」
その言い方に、桜子は少しだけうつむいた。
「……そんなに大したこと、言ってないよ」
「言ってたよ。『あそこで食べると、なんか落ち着く』って。
どんなとこか、気になるじゃん」
商店街に向かう道を並んで歩く。
アーケードの明かりは、昼よりも落ち着いた色で足元を照らしていた。
開いている店は半分ほど。惣菜屋のショーケースには、売れ残りのコロッケが数えるほど並び、パン屋は明日の仕込みなのか、奥から小麦粉の匂いが漂ってくる。
「ここ、なんか懐かしい感じだね」
凌が周りを見回す。
「最近、こういうとこ来てなかったわ」
「たまには、悪くないよ」
「まあね。ただ、店選びは慎重にしないと」
冗談めかしたその一言に、桜子の肩がわずかに強張る。
みつよ食堂の前に着くと、赤いひさしの下で、出汁の匂いがふわりと迎えてくれた。
暖簾には、いつもの文字が揺れている。
『本日も、シンデレラ定食あります』
「ここ?」
凌が、ガラス戸越しに中を覗き込む。
「うん」
「へえ。思ったより、ちゃんとしてるじゃん」
その言葉が、褒め言葉なのかどうか、桜子には判断がつかなかった。
ガラリ、と引き戸を開けると、店内には数組の客が残っていた。
仕事帰りの夫婦らしき二人、常連らしい作業着の男性たち。
テレビの小さな音と、箸の触れ合う音が混じり合っている。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、琉叶の声が聞こえた。
顔を上げた彼の視線が、一瞬だけ止まる。
「……こんばんは」
「こんばんは」
桜子が慌てて会釈すると、琉叶も、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「二人ですか?」
「はい」
「じゃあ、カウンター、真ん中あたりどうぞ」
いつもの位置を指し示す。
そこは、ホワイトボードの文字がいちばんよく見える席だった。
凌は、椅子を引きながら、自分で座面を軽く払った。
ほこりがついているわけではないはずなのに、その仕草が妙に目につく。
「いい感じにレトロだね」
そう言いながら、メニュー表を手に取る。
紙に手書きされた品書きは、写真も飾りもない。文字だけが素朴に並んでいた。
「写真、ないんだ」
凌が、少しだけ驚いたように言った。
「最近、珍しいね」
「うちは、口とお腹で決めてもらう店なんで」
カウンター越しに、琉叶が柔らかく返す。
「ごはんの写真撮るときは、実物だけで勘弁してください」
「はは、そうなんですね」
凌は笑いながらも、ちらりと桜子を見る。
「例のシンデレラ定食って、これ?」
ホワイトボードの端に書かれた文字を指さす。
「はい」
琉叶が、ペンを持ったままこちらに向き直る。
「今日だけ主役になりたい理由を書いてもらって、その人に合わせて作る定食です。
よかったら、お二人で一つでも、別々でも」
「へえ、そういうノリか」
凌は、面白がるようにカードを手に取った。
小さな白いカードには、「今日だけ主役になりたい理由」と印刷されている。
「君、いつもこれ書いてるの?」
「うん。なんとなく」
「なんて書くの」
「内緒」
そう答えながらも、桜子の手はカードの上で止まっていた。
今日は、何と書けばいいのか、うまく浮かんでこない。
「俺は……そうだな」
凌は、ペンを走らせて、さっさとカードをスタンドに立てた。
そこには、『彼女のおすすめを知りたい』と一言だけ書かれている。
「ほら、これでいいでしょ」
「十分です」
琉叶が、小さく笑ってカードを受け取る。
ペン先の動きは、ほんの一瞬だけ止まったが、すぐにいつもの調子でホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、シンデレラ定食、お二人分でよろしいですか」
「はい」
桜子が答えると、凌が横で軽く肩をすくめる。
「君がいつも食べてるなら、冒険してみようかな」
*
厨房からは、油の跳ねる音と、出汁の沸く音が交互に聞こえてくる。
カウンター越しに、琉叶の「手」がいつもより少しだけ慎重に動いているように見えた。
フライパンで焼かれているのは、薄めの豚肉と、色よく茹でた野菜。
鍋の中では、玉ねぎときのこが静かに煮込まれている。
「ねえ」
凌が、スマホを取り出して画面をタップした。
「せっかくだし、あとで写真撮ろうよ」
「写真?」
「ほら、最近全然送ってくれないからさ。
君がどんなとこで何食べてるのか、ちゃんと見ておきたいじゃん」
言葉だけ聞けば優しさに聞こえる。
けれど、桜子の胸の奥には、どこか小さな棘が刺さったような違和感が残った。
店内を見回すと、常連たちがちらりとこちらをうかがっているのがわかる。
実記はノートパソコンを閉じかけた手を止め、勇一はスケッチブックのページをめくるふりをしながら様子を見ていた。
「そういえばさ」
凌が、店内を見回しながら言った。
「この店の人、みんな君に優しいよね。
前に話してた『いつもシンデレラ定食出してくれる人』って、あの人?」
顎で、琉叶の背中を指す。
「うん」
「なんか、二番目の恋人みたいじゃない?」
冗談だとわかる軽さで笑う。
それでも、その言葉は、氷のかけらみたいに胸の奥に落ちた。
「そんなことないよ」
桜子は、慌てて笑い飛ばす。
「ただの、いつものお店」
「『いつものお店』にしては、よく通ってるよね」
「通いやすいから」
「ふーん」
凌は、納得したのかしないのか、曖昧な相槌を打った。
*
「お待たせしました」
琉叶の声とともに、お盆が二人の前に置かれた。
白い皿には、豚肉のソテーと色とりどりの野菜。
脇には、小さなグラスに入ったマリネと、ポテトサラダ。
味噌汁には、細かく刻んだ玉ねぎとわかめが浮かんでいる。
「本日のシンデレラ定食です。
テーマは、『いつもの人のおすすめを、ちゃんと味わう』」
琉叶が、少しだけ照れくさそうに言う。
「写真撮るなら、湯気が出てるうちにどうぞ」
「おお」
凌が、すかさずスマホを取り出した。
カメラモードにして画面を覗き込む。
「ちょっと待って……光、弱いな。
フラッシュつけたほうがいいかな」
「フラッシュは、ほかのお客さんの迷惑になるかも」
桜子が慌てて言うと、凌は一瞬眉をひそめたが、すぐに肩をすくめた。
「じゃあ、あとで外で撮ろうか」
何枚かシャッター音を鳴らしたあと、ようやく箸を手に取る。
「いただきます」
その声に合わせて、桜子も小さく手を合わせた。
一口、肉を口に運んだ凌は、少しだけ目を見開いた。
「……あ、普通にうまい」
「普通に?」
「いや、ごめん。
もっと古びた感じの味かと思ってた。
ちゃんと、レストランみたい」
それが褒め言葉だとわかっていながら、桜子の心は、なぜか落ち着かなかった。
「シンデレラ定食っていう割には、あんまり映えないね」
凌が、皿を眺めながら言う。
「インスタとかだったら、もっと色強くしたり、ソースとか派手にかけたほうが……」
「うちは、写真より、食べ終わった皿が空かどうかで勝負してるので」
琉叶が、別の客の皿を片づけながら、穏やかに返す。
「すみません。飾りっ気なくて」
「いや、全然。味はいいですよ」
凌は、笑って箸を動かした。
その笑顔を見ているはずなのに、桜子は、皿の隅の漬物を箸でいじるばかりだった。
「君は、どう?」
「……うん。おいしいよ」
本当は、とてもおいしかった。
いつもの出汁の匂いと、口の中に広がる優しい味。
でも、横に座る凌の視線と、カウンター越しにたまに感じる琉叶の視線。
その両方を意識しているうちに、味の感じ方がいつもと少し違っていた。
*
食事が終わるころ、店内の客はほとんど帰っていた。
テレビの音量が少しだけ下げられ、美津代がテーブル席を片づけている。
時計の針は、閉店時間に近づいていた。
「ごちそうさまでした」
凌が会計を済ませる。
「おいしかったです」
「ありがとうございます。
また、いつでもどうぞ」
琉叶が、いつものように頭を下げる。
その声色は、いつもと変わらないはずなのに、桜子にはほんの少しだけ硬く聞こえた。
店を出る前、凌がふと振り返った。
「今度はさ」
「うん?」
「ちゃんとしたとこ、行こうか。
こういう店も悪くないけどさ。
たまには、夜景見ながらコース出てくるとことか」
その言葉を聞いた瞬間、桜子の胸の奥で、何かが小さくきしんだ。
ガラス戸の内側で、その会話を耳の端で拾った琉叶が、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
すぐに表情を戻し、「いってらっしゃい」といつもの言葉を口にした。
*
商店街を抜け、駅に向かう道。
ネオンのない夜道は、さっきまでより暗く感じられた。
凌は、スマホでさっそく今日の写真を確認している。
「やっぱり、ちょっと暗いなあ。
今度は昼に行って、窓際の席で撮らないと」
「今日のでも、十分じゃない?」
「せっかくなら、もっと映えるやつ撮りたいじゃん。
君がいつも頼んでるやつも、撮っておきたいし」
「うん……」
桜子は、自分の「手」を見下ろした。
週末にできた小さなまめは、もう少し硬くなっている。
さっき箸を握っていた指先には、出汁の匂いがまだ残っていた。
「ねえ、凌」
「ん?」
「今日のシンデレラ定食、どうだった?」
「さっきも言ったけど、普通においしかったよ」
「普通に、ね」
「うん。
でも、君があそこまでハマるの、ちょっとわかったかも。
居心地いいし、店の人も感じいいし。
ただ……」
凌は、少しだけ足を止めた。
「やっぱり、ああいうとこに通ってる君って、『ちゃんとした場所に連れてかなきゃ』って気になるんだよね」
その一言に、言葉が詰まる。
どこがどう違うのか、すぐに説明できない。
でも、「ちゃんとした場所」という言葉が、みつよ食堂と、自分自身のどこかをまとめて切り分けられたように感じた。
「……そう、なんだ」
「うん。
今度の給料日あたり、予約取っておくよ。
夜景きれいなとこ。
シンデレラ定食のリベンジってことで」
「リベンジ、なんだ」
「言い方悪かった?」
「ちょっとだけ」
そう言って笑ってみせると、凌は「ごめんごめん」と頭をかいた。
駅の改札前で別れの挨拶をしてから、桜子は一人でホームに向かった。
電車を待つあいだ、スマホを取り出す。
メッセージの画面を開いては閉じ、写真フォルダを開いては閉じる。
そこには、今日撮った料理の写真が一枚もない。
代わりに浮かんでくるのは、カウンター越しに見えた琉叶の横顔と、カードを受け取ったときの、あの一瞬の間だった。
『彼女のおすすめを知りたい』
凌の字で書かれたその一文が、頭の中で何度も反芻される。
あの言葉の本当の意味が、どこに向いていたのか。
自分の好きなものを、どう説明すればよかったのか。
答えは出ないまま、電車の到着を告げるアナウンスがホームに響いた。
乗り込んだ車内で、桜子は自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
みつよ食堂のエプロンをしまい込んだ引き出しの感触が、なぜかやけにはっきりと思い出された。
桜子はメールボックスをすべて既読にしてから、机の引き出しに手を伸ばす。
そこには、週末に外したまましまっておいた、みつよ食堂のエプロンが畳んで入っていた。
指先で布を軽くなぞると、まだほんのりと、玉ねぎと出汁の匂いが残っている気がする。
そのとき、スマホが震えた。
画面には、「凌」の名前とメッセージのプレビュー。
『今日さ、久しぶりに外でごはんどう?』
『例の、君がよく行く定食屋。近くまで行く予定あるからさ』
「……え」
思わず、椅子の背にもたれかかった。
みつよ食堂のことを話したのは、確か、先週の帰り道だった。
「最近、どこでランチしてるの」と聞かれ、「商店街の定食屋さん」とさらっと答えたつもりが、「写真、全然送ってこないよね」と笑われ、言葉に詰まった。
あのとき、凌は「今度、見に行ってみようかな」と軽く言っていた。
社交辞令かと思っていたその一言が、今日、現実になろうとしている。
『うちの最寄り駅、七時半くらいには着きそう』
『どう? 仕事、抜けられる?』
時計を見ると、針はちょうど七時前を指していた。
残っている作業は、明日の朝でも間に合う。
頭のどこかでそう計算しながら、胸のあたりがきゅっと縮こまる。
『大丈夫。七時半に駅の改札で』
そう打って送信すると、エプロンを引き出しの奥に押し戻した。
布が、わずかな音を立てた。
*
七時半ぴったりに改札を出ると、凌はすでに柱にもたれてスマホをいじっていた。
紺のスーツに細いネクタイ。髪は少し伸びて、ワックスで軽く流してある。
周りの視線を自然と引き寄せるような雰囲気は、相変わらずだった。
「お待たせ」
「ギリギリ、セーフかな」
凌は笑いながらスマホをポケットにしまう。
「このへん、夜来るの、珍しいね」
「そうだね。最近はお昼ばっかりだったから」
「ほら、例の店、教えてよ。『いつも助かってる』って言ってたとこ」
その言い方に、桜子は少しだけうつむいた。
「……そんなに大したこと、言ってないよ」
「言ってたよ。『あそこで食べると、なんか落ち着く』って。
どんなとこか、気になるじゃん」
商店街に向かう道を並んで歩く。
アーケードの明かりは、昼よりも落ち着いた色で足元を照らしていた。
開いている店は半分ほど。惣菜屋のショーケースには、売れ残りのコロッケが数えるほど並び、パン屋は明日の仕込みなのか、奥から小麦粉の匂いが漂ってくる。
「ここ、なんか懐かしい感じだね」
凌が周りを見回す。
「最近、こういうとこ来てなかったわ」
「たまには、悪くないよ」
「まあね。ただ、店選びは慎重にしないと」
冗談めかしたその一言に、桜子の肩がわずかに強張る。
みつよ食堂の前に着くと、赤いひさしの下で、出汁の匂いがふわりと迎えてくれた。
暖簾には、いつもの文字が揺れている。
『本日も、シンデレラ定食あります』
「ここ?」
凌が、ガラス戸越しに中を覗き込む。
「うん」
「へえ。思ったより、ちゃんとしてるじゃん」
その言葉が、褒め言葉なのかどうか、桜子には判断がつかなかった。
ガラリ、と引き戸を開けると、店内には数組の客が残っていた。
仕事帰りの夫婦らしき二人、常連らしい作業着の男性たち。
テレビの小さな音と、箸の触れ合う音が混じり合っている。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、琉叶の声が聞こえた。
顔を上げた彼の視線が、一瞬だけ止まる。
「……こんばんは」
「こんばんは」
桜子が慌てて会釈すると、琉叶も、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「二人ですか?」
「はい」
「じゃあ、カウンター、真ん中あたりどうぞ」
いつもの位置を指し示す。
そこは、ホワイトボードの文字がいちばんよく見える席だった。
凌は、椅子を引きながら、自分で座面を軽く払った。
ほこりがついているわけではないはずなのに、その仕草が妙に目につく。
「いい感じにレトロだね」
そう言いながら、メニュー表を手に取る。
紙に手書きされた品書きは、写真も飾りもない。文字だけが素朴に並んでいた。
「写真、ないんだ」
凌が、少しだけ驚いたように言った。
「最近、珍しいね」
「うちは、口とお腹で決めてもらう店なんで」
カウンター越しに、琉叶が柔らかく返す。
「ごはんの写真撮るときは、実物だけで勘弁してください」
「はは、そうなんですね」
凌は笑いながらも、ちらりと桜子を見る。
「例のシンデレラ定食って、これ?」
ホワイトボードの端に書かれた文字を指さす。
「はい」
琉叶が、ペンを持ったままこちらに向き直る。
「今日だけ主役になりたい理由を書いてもらって、その人に合わせて作る定食です。
よかったら、お二人で一つでも、別々でも」
「へえ、そういうノリか」
凌は、面白がるようにカードを手に取った。
小さな白いカードには、「今日だけ主役になりたい理由」と印刷されている。
「君、いつもこれ書いてるの?」
「うん。なんとなく」
「なんて書くの」
「内緒」
そう答えながらも、桜子の手はカードの上で止まっていた。
今日は、何と書けばいいのか、うまく浮かんでこない。
「俺は……そうだな」
凌は、ペンを走らせて、さっさとカードをスタンドに立てた。
そこには、『彼女のおすすめを知りたい』と一言だけ書かれている。
「ほら、これでいいでしょ」
「十分です」
琉叶が、小さく笑ってカードを受け取る。
ペン先の動きは、ほんの一瞬だけ止まったが、すぐにいつもの調子でホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、シンデレラ定食、お二人分でよろしいですか」
「はい」
桜子が答えると、凌が横で軽く肩をすくめる。
「君がいつも食べてるなら、冒険してみようかな」
*
厨房からは、油の跳ねる音と、出汁の沸く音が交互に聞こえてくる。
カウンター越しに、琉叶の「手」がいつもより少しだけ慎重に動いているように見えた。
フライパンで焼かれているのは、薄めの豚肉と、色よく茹でた野菜。
鍋の中では、玉ねぎときのこが静かに煮込まれている。
「ねえ」
凌が、スマホを取り出して画面をタップした。
「せっかくだし、あとで写真撮ろうよ」
「写真?」
「ほら、最近全然送ってくれないからさ。
君がどんなとこで何食べてるのか、ちゃんと見ておきたいじゃん」
言葉だけ聞けば優しさに聞こえる。
けれど、桜子の胸の奥には、どこか小さな棘が刺さったような違和感が残った。
店内を見回すと、常連たちがちらりとこちらをうかがっているのがわかる。
実記はノートパソコンを閉じかけた手を止め、勇一はスケッチブックのページをめくるふりをしながら様子を見ていた。
「そういえばさ」
凌が、店内を見回しながら言った。
「この店の人、みんな君に優しいよね。
前に話してた『いつもシンデレラ定食出してくれる人』って、あの人?」
顎で、琉叶の背中を指す。
「うん」
「なんか、二番目の恋人みたいじゃない?」
冗談だとわかる軽さで笑う。
それでも、その言葉は、氷のかけらみたいに胸の奥に落ちた。
「そんなことないよ」
桜子は、慌てて笑い飛ばす。
「ただの、いつものお店」
「『いつものお店』にしては、よく通ってるよね」
「通いやすいから」
「ふーん」
凌は、納得したのかしないのか、曖昧な相槌を打った。
*
「お待たせしました」
琉叶の声とともに、お盆が二人の前に置かれた。
白い皿には、豚肉のソテーと色とりどりの野菜。
脇には、小さなグラスに入ったマリネと、ポテトサラダ。
味噌汁には、細かく刻んだ玉ねぎとわかめが浮かんでいる。
「本日のシンデレラ定食です。
テーマは、『いつもの人のおすすめを、ちゃんと味わう』」
琉叶が、少しだけ照れくさそうに言う。
「写真撮るなら、湯気が出てるうちにどうぞ」
「おお」
凌が、すかさずスマホを取り出した。
カメラモードにして画面を覗き込む。
「ちょっと待って……光、弱いな。
フラッシュつけたほうがいいかな」
「フラッシュは、ほかのお客さんの迷惑になるかも」
桜子が慌てて言うと、凌は一瞬眉をひそめたが、すぐに肩をすくめた。
「じゃあ、あとで外で撮ろうか」
何枚かシャッター音を鳴らしたあと、ようやく箸を手に取る。
「いただきます」
その声に合わせて、桜子も小さく手を合わせた。
一口、肉を口に運んだ凌は、少しだけ目を見開いた。
「……あ、普通にうまい」
「普通に?」
「いや、ごめん。
もっと古びた感じの味かと思ってた。
ちゃんと、レストランみたい」
それが褒め言葉だとわかっていながら、桜子の心は、なぜか落ち着かなかった。
「シンデレラ定食っていう割には、あんまり映えないね」
凌が、皿を眺めながら言う。
「インスタとかだったら、もっと色強くしたり、ソースとか派手にかけたほうが……」
「うちは、写真より、食べ終わった皿が空かどうかで勝負してるので」
琉叶が、別の客の皿を片づけながら、穏やかに返す。
「すみません。飾りっ気なくて」
「いや、全然。味はいいですよ」
凌は、笑って箸を動かした。
その笑顔を見ているはずなのに、桜子は、皿の隅の漬物を箸でいじるばかりだった。
「君は、どう?」
「……うん。おいしいよ」
本当は、とてもおいしかった。
いつもの出汁の匂いと、口の中に広がる優しい味。
でも、横に座る凌の視線と、カウンター越しにたまに感じる琉叶の視線。
その両方を意識しているうちに、味の感じ方がいつもと少し違っていた。
*
食事が終わるころ、店内の客はほとんど帰っていた。
テレビの音量が少しだけ下げられ、美津代がテーブル席を片づけている。
時計の針は、閉店時間に近づいていた。
「ごちそうさまでした」
凌が会計を済ませる。
「おいしかったです」
「ありがとうございます。
また、いつでもどうぞ」
琉叶が、いつものように頭を下げる。
その声色は、いつもと変わらないはずなのに、桜子にはほんの少しだけ硬く聞こえた。
店を出る前、凌がふと振り返った。
「今度はさ」
「うん?」
「ちゃんとしたとこ、行こうか。
こういう店も悪くないけどさ。
たまには、夜景見ながらコース出てくるとことか」
その言葉を聞いた瞬間、桜子の胸の奥で、何かが小さくきしんだ。
ガラス戸の内側で、その会話を耳の端で拾った琉叶が、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
すぐに表情を戻し、「いってらっしゃい」といつもの言葉を口にした。
*
商店街を抜け、駅に向かう道。
ネオンのない夜道は、さっきまでより暗く感じられた。
凌は、スマホでさっそく今日の写真を確認している。
「やっぱり、ちょっと暗いなあ。
今度は昼に行って、窓際の席で撮らないと」
「今日のでも、十分じゃない?」
「せっかくなら、もっと映えるやつ撮りたいじゃん。
君がいつも頼んでるやつも、撮っておきたいし」
「うん……」
桜子は、自分の「手」を見下ろした。
週末にできた小さなまめは、もう少し硬くなっている。
さっき箸を握っていた指先には、出汁の匂いがまだ残っていた。
「ねえ、凌」
「ん?」
「今日のシンデレラ定食、どうだった?」
「さっきも言ったけど、普通においしかったよ」
「普通に、ね」
「うん。
でも、君があそこまでハマるの、ちょっとわかったかも。
居心地いいし、店の人も感じいいし。
ただ……」
凌は、少しだけ足を止めた。
「やっぱり、ああいうとこに通ってる君って、『ちゃんとした場所に連れてかなきゃ』って気になるんだよね」
その一言に、言葉が詰まる。
どこがどう違うのか、すぐに説明できない。
でも、「ちゃんとした場所」という言葉が、みつよ食堂と、自分自身のどこかをまとめて切り分けられたように感じた。
「……そう、なんだ」
「うん。
今度の給料日あたり、予約取っておくよ。
夜景きれいなとこ。
シンデレラ定食のリベンジってことで」
「リベンジ、なんだ」
「言い方悪かった?」
「ちょっとだけ」
そう言って笑ってみせると、凌は「ごめんごめん」と頭をかいた。
駅の改札前で別れの挨拶をしてから、桜子は一人でホームに向かった。
電車を待つあいだ、スマホを取り出す。
メッセージの画面を開いては閉じ、写真フォルダを開いては閉じる。
そこには、今日撮った料理の写真が一枚もない。
代わりに浮かんでくるのは、カウンター越しに見えた琉叶の横顔と、カードを受け取ったときの、あの一瞬の間だった。
『彼女のおすすめを知りたい』
凌の字で書かれたその一文が、頭の中で何度も反芻される。
あの言葉の本当の意味が、どこに向いていたのか。
自分の好きなものを、どう説明すればよかったのか。
答えは出ないまま、電車の到着を告げるアナウンスがホームに響いた。
乗り込んだ車内で、桜子は自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
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