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第13話 噂の「二番目」
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水曜の昼、会社の給湯室にはインスタントスープの匂いが立ちこめていた。
電子レンジの前には行列ができ、紙コップにお湯を注ぐ音が小さく響いている。
桜子は、自分のマグカップにお湯を注ぎながら、ぼんやりと湯気を眺めていた。
カップの底から溶け出した粉末スープが、渦を巻いて色を変えていく。
昨日の夜、みつよ食堂で飲んだ味噌汁の湯気が、ふと頭をよぎった。
「桜子、またあの商店街のとこ?」
背後から声がして振り向くと、同期の麻衣がカップ麺を抱えて立っていた。
「この前も、『定食屋さん行ってくる』って言ってなかった?」
「たまたまだよ」
「たまたまが多くない?」
麻衣の後ろから、別の同僚が顔を出す。
「彼氏さんが『二番目の恋人みたい』って言ってた店?」
「ちょっと待って、それどこから」
心臓が、どくんと跳ねた。
あの日の会話を、軽い愚痴のつもりで麻衣にこぼしたのを思い出す。
「この前、飲みのときに言ってたじゃん」
麻衣が、平然と続けた。
「『なんかさ、凌に“二番目の恋人みたいだね”ってからかわれてさー』って」
「そんな言い方してた?」
「してたしてた。
で、『いやいや違うから』って笑ってた」
横から、同僚が楽しそうに口を挟む。
「いいなあ、二番目までいるなんて」
「いないから」
「定食屋の店員さん、でしょ?」
「だから違うってば」
笑い声が給湯室に広がる。
悪意はないとわかっている。それでも、胸の奥がざらりとした。
「その人、どんな人なの?」
「どんなって……ただの、いつものお店の人」
「ほら出た、『いつものお店』」
麻衣は、カップ麺にお湯を注ぎながら言う。
「彼氏さん、やきもち焼かない?」
「どうだろ……」
昨日の帰り道の会話が、耳の奥で蘇る。
『君があそこまでハマるの、ちょっとわかったかも。
でも、ちゃんとしたとこにも連れてかなきゃって気になるんだよね』
「まあ、二番目とか言っても、本気で怒ってるわけじゃないでしょ」
麻衣は、ふたを閉めながら笑った。
「彼氏は一人、定食屋は心のオアシス。
そんな感じ?」
「……うん」
うなずきながらも、その言葉がしっくりこない。
心のどこかで、「オアシス」という便利な言葉に逃げている自分を自覚していた。
給湯室を出るとき、廊下の窓から外を見下ろす。
遠くに、商店街のアーケードの屋根が小さく見えた。
そこにある店の中で、今日も誰かがごはんを食べている。
それを想像すると、ほんの少しだけ落ち着いた。
*
その頃、商店街では、別の場所でも小さな会話が生まれていた。
アーケードの真ん中あたりにあるパン屋「ひだまりベーカリー」。
焼きたての甘い匂いが漂う店内で、店員たちがレジのあいまに声を交わしている。
「今日も、みつよ食堂のとこ、ランチ行列できてたね」
「うんうん。
あそこの若いお兄さん、前よりちょっと雰囲気柔らかくなってない?」
「なってるなってる。
この前なんか、会社帰りっぽい女の子と一緒に歩いてたよ。
彼氏いるって噂だけど」
「え、あの子?
前から一人で来てた子じゃない?」
「そうそう。
“彼氏持ちなのに、定食屋の彼と仲良し”って、八百屋のおばちゃんが言ってた」
「うわあ、モテるねえ、みつよの彼」
レジ前で、その会話を聞きながら、トレイを持った雄之が口の端を上げた。
今日は仕事帰りに差し入れ用のパンを買いに来ていた。
手の上の塩バターロールを眺めながら、心の中でつぶやく。
「……定食屋の彼、ね」
会計を済ませるとき、店員がにこにこしながら言った。
「そこの角曲がると、ちょうど見えるでしょ。
今日も明るいですよ、みつよさん」
「そうですね」
雄之は、曖昧に笑って店を出た。
アーケードの角を曲がると、赤いひさしが目に飛び込んでくる。
暖簾の向こうには、いつものように琉叶の姿。
カウンターには、見慣れた常連たち。
奥の席には――今日は、桜子の姿はなかった。
「残念」
小さくつぶやいてから、雄之はポケットからスマホを取り出した。
画面には、「勇一」の名前。
『いま、パン持って向かってる。
噂話のお土産もある』
そう打って送信すると、足取りが少しだけ軽くなった。
*
夕方のみつよ食堂。
ピークが一段落した時間帯に、カウンターの端では勇一がスケッチブックを広げていた。
鉛筆の走る音と、厨房から聞こえるまな板のリズムが、不思議な合奏を作っている。
「勇一、また何か描いてんの」
実記が、ノートパソコンを抱えて席に腰を下ろした。
「締め切り、平気?」
「平気じゃないけど、ここにいる」
勇一は、鉛筆を止めずに答える。
「ネタ出しと資料集め。
ここがいちばん進むんだよね」
「へえ、ありがたいこと言ってくれるね」
奥から美津代の声が飛ぶ。
「お代はネタでいいからね」
「じゃあ、遠慮なく使わせてもらいます」
勇一は、にやりと笑ってスケッチブックの隅に何かを書き足した。
ちょうどそのとき、引き戸が開いて雄之が入ってきた。
「お疲れ」
「お、来た」
勇一が手を挙げる。
「差し入れ」
テーブルの上に、紙袋が置かれた。
ひだまりベーカリーのロゴが入った袋から、パンのいい匂いが立ちのぼる。
「はいはい、先に用件聞こうか」
実記が、袋を覗き込みながら言う。
「顔が『面白いもの持ってきました』って書いてる」
「さすが」
雄之は、カウンター席に腰を下ろすと、さっき聞いた話をかいつまんで話した。
パン屋の店員たちの会話、八百屋の噂。
「“彼氏持ちなのに、定食屋の彼と仲良し”だってさ」
「うわ」
実記が、思わず額に手を当てる。
「タイトルみたいな言い回し」
「ね」
勇一は、スケッチブックの一ページをくるりとめくった。
「ちょうど、さっき仮タイトル考えてたとこなんだよ」
実記が覗き込むと、ページの端に鉛筆で大きく書かれた文字が目に入る。
『シンデレラ定食と二番目の恋人』
「……タイトル強すぎ」
思わず本音が口をついて出た。
「だよね」
雄之も、噴き出す。
「これ、雑誌に載ってたら即手に取るけど、本人たちに見せたら死ぬやつ」
「だから仮。
下に“仮”って書いてあるでしょ」
勇一は、スケッチブックの端を指さす。
小さく「仮」と書き添えられていて、余計に可笑しかった。
「何の話?」
タイミングを見計らったように、琉叶がカウンターの内側から顔を出した。
「パンのいい匂いで、こっちまで気が散るんだけど」
「お、主人公来た」
雄之が、からかうように言う。
「主人公じゃないです」
「じゃあ、何?」
「ただの定食屋の兄ちゃんです」
「“彼氏持ちのお客と仲良しな定食屋の兄ちゃん”ね」
実記が、さらっと続ける。
「ちょっと待って、それ誰情報ですか」
琉叶が眉をひそめる。
「パン屋と八百屋と、たぶん商店街全体」
「範囲広いな」
肩を落とす琉叶の前に、雄之がスケッチブックをそっと差し出した。
「ほら、今まさに生まれた仮タイトル」
ページの文字を見た瞬間、琉叶の顔が固まった。
「……誰の、二番目?」
「さあ」
勇一が肩をすくめる。
「それは、本人たちが決めることでしょ」
一瞬、空気が止まる。
実記が、ノートパソコンを閉じる手を止めた。
雄之は、わざとらしく塩バターロールをもぐもぐかじる。
美津代が、奥からちらりと様子をうかがっている。
「こらあんたたち」
耐えきれなくなったように、美津代が声を上げた。
「人のこと勝手にタイトルにしないの。
当人が嫌がるかもしれないでしょ」
「はい」
三人が同時に返事をする。
琉叶は、スケッチブックから視線を外し、カウンターの端に目を落とした。
そこには、午前の仕込みで使ったまな板と包丁が置かれている。
包丁に映る自分の顔が、いつもより少しだけ複雑に見えた。
「……本人たちが決める、か」
小さくつぶやく声は、誰にも届かなかった。
すぐに「注文入ってますよ」という美津代の声にかき消されて、琉叶はいつものようにコンロの前へ戻っていった。
*
その夜、自分の部屋のベッドの上で、桜子は天井を見つめていた。
部屋の照明を落とし、スタンドライトだけを点けると、天井に柔らかい影が揺れる。
仕事用の鞄は椅子の背にかかり、机の上には今日のメモが開きっぱなしになっていた。
スマホの通知が、枕元で小さく光る。
凌からのメッセージが並んでいた。
『今日はありがとう』
『次は、ちゃんとしたところ、予約しておくね』
指先で画面をスクロールすると、過去の写真がいくつか現れる。
高いグラスに入ったカクテル、夜景の見える窓辺、コース料理の前で笑っている自分たち。
どれも、きれいに整っている。
別のアルバムを開くと、商店街で撮った写真が少しだけ混ざっていた。
アーケードの天井、雨の日の路面、ひだまりベーカリーのパン。
みつよ食堂の外観を撮った写真は、一枚もない。
いつも、撮ろうと思ってやめてしまっていた。
目を閉じると、二種類のごはんの記憶が、頭の中で交互に浮かぶ。
グラス越しに見た夜景と、静かなピアノの音。
フォークとナイフのカチャリという音。
「似合うね」と笑う凌の声。
カウンター越しに見た厨房と、油の跳ねる音。
味噌汁の湯気と、まな板のリズム。
「いってらっしゃい」と送り出す琉叶の声。
どちらも、嫌いではない。
どちらにも、自分がいる。
ただ、その中で、自分の「手」がどこに一番なじんでいるのか、ふと考えてしまう。
昨日、エプロンを引き出しにしまい込んだときの感触が、指先に蘇る。
ハンガーにかけるか、引き出しにしまうか。
たったそれだけの違いなのに、その選び方が、何かを表している気がした。
「二番目、か」
小さくつぶやいてみる。
口に出した瞬間、その言葉の居心地の悪さが、胸のあたりに残った。
誰にとっての二番目なのか。
何の二番目なのか。
そもそも、自分は、誰の何番目でいたいのか。
答えはまだ出ない。
でも、今日一日、会社の給湯室と商店街とみつよ食堂の片隅で交わされた言葉たちが、頭の中で静かに反芻される。
布団の中で、桜子は自分の「手」をぎゅっと握りしめた。
指先の小さなまめが、じんわりとした痛みを伝えてくる。
その痛みだけは、誰のものでもなく、自分が選んで手に入れたものだと、ようやく気づいた。
「……ちゃんと、考えなきゃ」
天井に向かって、かすかに呟く。
その言葉は、誰に約束したわけでもない。
ただ、自分の中で、何かを決めるための小さな合図のように感じられた。
電子レンジの前には行列ができ、紙コップにお湯を注ぐ音が小さく響いている。
桜子は、自分のマグカップにお湯を注ぎながら、ぼんやりと湯気を眺めていた。
カップの底から溶け出した粉末スープが、渦を巻いて色を変えていく。
昨日の夜、みつよ食堂で飲んだ味噌汁の湯気が、ふと頭をよぎった。
「桜子、またあの商店街のとこ?」
背後から声がして振り向くと、同期の麻衣がカップ麺を抱えて立っていた。
「この前も、『定食屋さん行ってくる』って言ってなかった?」
「たまたまだよ」
「たまたまが多くない?」
麻衣の後ろから、別の同僚が顔を出す。
「彼氏さんが『二番目の恋人みたい』って言ってた店?」
「ちょっと待って、それどこから」
心臓が、どくんと跳ねた。
あの日の会話を、軽い愚痴のつもりで麻衣にこぼしたのを思い出す。
「この前、飲みのときに言ってたじゃん」
麻衣が、平然と続けた。
「『なんかさ、凌に“二番目の恋人みたいだね”ってからかわれてさー』って」
「そんな言い方してた?」
「してたしてた。
で、『いやいや違うから』って笑ってた」
横から、同僚が楽しそうに口を挟む。
「いいなあ、二番目までいるなんて」
「いないから」
「定食屋の店員さん、でしょ?」
「だから違うってば」
笑い声が給湯室に広がる。
悪意はないとわかっている。それでも、胸の奥がざらりとした。
「その人、どんな人なの?」
「どんなって……ただの、いつものお店の人」
「ほら出た、『いつものお店』」
麻衣は、カップ麺にお湯を注ぎながら言う。
「彼氏さん、やきもち焼かない?」
「どうだろ……」
昨日の帰り道の会話が、耳の奥で蘇る。
『君があそこまでハマるの、ちょっとわかったかも。
でも、ちゃんとしたとこにも連れてかなきゃって気になるんだよね』
「まあ、二番目とか言っても、本気で怒ってるわけじゃないでしょ」
麻衣は、ふたを閉めながら笑った。
「彼氏は一人、定食屋は心のオアシス。
そんな感じ?」
「……うん」
うなずきながらも、その言葉がしっくりこない。
心のどこかで、「オアシス」という便利な言葉に逃げている自分を自覚していた。
給湯室を出るとき、廊下の窓から外を見下ろす。
遠くに、商店街のアーケードの屋根が小さく見えた。
そこにある店の中で、今日も誰かがごはんを食べている。
それを想像すると、ほんの少しだけ落ち着いた。
*
その頃、商店街では、別の場所でも小さな会話が生まれていた。
アーケードの真ん中あたりにあるパン屋「ひだまりベーカリー」。
焼きたての甘い匂いが漂う店内で、店員たちがレジのあいまに声を交わしている。
「今日も、みつよ食堂のとこ、ランチ行列できてたね」
「うんうん。
あそこの若いお兄さん、前よりちょっと雰囲気柔らかくなってない?」
「なってるなってる。
この前なんか、会社帰りっぽい女の子と一緒に歩いてたよ。
彼氏いるって噂だけど」
「え、あの子?
前から一人で来てた子じゃない?」
「そうそう。
“彼氏持ちなのに、定食屋の彼と仲良し”って、八百屋のおばちゃんが言ってた」
「うわあ、モテるねえ、みつよの彼」
レジ前で、その会話を聞きながら、トレイを持った雄之が口の端を上げた。
今日は仕事帰りに差し入れ用のパンを買いに来ていた。
手の上の塩バターロールを眺めながら、心の中でつぶやく。
「……定食屋の彼、ね」
会計を済ませるとき、店員がにこにこしながら言った。
「そこの角曲がると、ちょうど見えるでしょ。
今日も明るいですよ、みつよさん」
「そうですね」
雄之は、曖昧に笑って店を出た。
アーケードの角を曲がると、赤いひさしが目に飛び込んでくる。
暖簾の向こうには、いつものように琉叶の姿。
カウンターには、見慣れた常連たち。
奥の席には――今日は、桜子の姿はなかった。
「残念」
小さくつぶやいてから、雄之はポケットからスマホを取り出した。
画面には、「勇一」の名前。
『いま、パン持って向かってる。
噂話のお土産もある』
そう打って送信すると、足取りが少しだけ軽くなった。
*
夕方のみつよ食堂。
ピークが一段落した時間帯に、カウンターの端では勇一がスケッチブックを広げていた。
鉛筆の走る音と、厨房から聞こえるまな板のリズムが、不思議な合奏を作っている。
「勇一、また何か描いてんの」
実記が、ノートパソコンを抱えて席に腰を下ろした。
「締め切り、平気?」
「平気じゃないけど、ここにいる」
勇一は、鉛筆を止めずに答える。
「ネタ出しと資料集め。
ここがいちばん進むんだよね」
「へえ、ありがたいこと言ってくれるね」
奥から美津代の声が飛ぶ。
「お代はネタでいいからね」
「じゃあ、遠慮なく使わせてもらいます」
勇一は、にやりと笑ってスケッチブックの隅に何かを書き足した。
ちょうどそのとき、引き戸が開いて雄之が入ってきた。
「お疲れ」
「お、来た」
勇一が手を挙げる。
「差し入れ」
テーブルの上に、紙袋が置かれた。
ひだまりベーカリーのロゴが入った袋から、パンのいい匂いが立ちのぼる。
「はいはい、先に用件聞こうか」
実記が、袋を覗き込みながら言う。
「顔が『面白いもの持ってきました』って書いてる」
「さすが」
雄之は、カウンター席に腰を下ろすと、さっき聞いた話をかいつまんで話した。
パン屋の店員たちの会話、八百屋の噂。
「“彼氏持ちなのに、定食屋の彼と仲良し”だってさ」
「うわ」
実記が、思わず額に手を当てる。
「タイトルみたいな言い回し」
「ね」
勇一は、スケッチブックの一ページをくるりとめくった。
「ちょうど、さっき仮タイトル考えてたとこなんだよ」
実記が覗き込むと、ページの端に鉛筆で大きく書かれた文字が目に入る。
『シンデレラ定食と二番目の恋人』
「……タイトル強すぎ」
思わず本音が口をついて出た。
「だよね」
雄之も、噴き出す。
「これ、雑誌に載ってたら即手に取るけど、本人たちに見せたら死ぬやつ」
「だから仮。
下に“仮”って書いてあるでしょ」
勇一は、スケッチブックの端を指さす。
小さく「仮」と書き添えられていて、余計に可笑しかった。
「何の話?」
タイミングを見計らったように、琉叶がカウンターの内側から顔を出した。
「パンのいい匂いで、こっちまで気が散るんだけど」
「お、主人公来た」
雄之が、からかうように言う。
「主人公じゃないです」
「じゃあ、何?」
「ただの定食屋の兄ちゃんです」
「“彼氏持ちのお客と仲良しな定食屋の兄ちゃん”ね」
実記が、さらっと続ける。
「ちょっと待って、それ誰情報ですか」
琉叶が眉をひそめる。
「パン屋と八百屋と、たぶん商店街全体」
「範囲広いな」
肩を落とす琉叶の前に、雄之がスケッチブックをそっと差し出した。
「ほら、今まさに生まれた仮タイトル」
ページの文字を見た瞬間、琉叶の顔が固まった。
「……誰の、二番目?」
「さあ」
勇一が肩をすくめる。
「それは、本人たちが決めることでしょ」
一瞬、空気が止まる。
実記が、ノートパソコンを閉じる手を止めた。
雄之は、わざとらしく塩バターロールをもぐもぐかじる。
美津代が、奥からちらりと様子をうかがっている。
「こらあんたたち」
耐えきれなくなったように、美津代が声を上げた。
「人のこと勝手にタイトルにしないの。
当人が嫌がるかもしれないでしょ」
「はい」
三人が同時に返事をする。
琉叶は、スケッチブックから視線を外し、カウンターの端に目を落とした。
そこには、午前の仕込みで使ったまな板と包丁が置かれている。
包丁に映る自分の顔が、いつもより少しだけ複雑に見えた。
「……本人たちが決める、か」
小さくつぶやく声は、誰にも届かなかった。
すぐに「注文入ってますよ」という美津代の声にかき消されて、琉叶はいつものようにコンロの前へ戻っていった。
*
その夜、自分の部屋のベッドの上で、桜子は天井を見つめていた。
部屋の照明を落とし、スタンドライトだけを点けると、天井に柔らかい影が揺れる。
仕事用の鞄は椅子の背にかかり、机の上には今日のメモが開きっぱなしになっていた。
スマホの通知が、枕元で小さく光る。
凌からのメッセージが並んでいた。
『今日はありがとう』
『次は、ちゃんとしたところ、予約しておくね』
指先で画面をスクロールすると、過去の写真がいくつか現れる。
高いグラスに入ったカクテル、夜景の見える窓辺、コース料理の前で笑っている自分たち。
どれも、きれいに整っている。
別のアルバムを開くと、商店街で撮った写真が少しだけ混ざっていた。
アーケードの天井、雨の日の路面、ひだまりベーカリーのパン。
みつよ食堂の外観を撮った写真は、一枚もない。
いつも、撮ろうと思ってやめてしまっていた。
目を閉じると、二種類のごはんの記憶が、頭の中で交互に浮かぶ。
グラス越しに見た夜景と、静かなピアノの音。
フォークとナイフのカチャリという音。
「似合うね」と笑う凌の声。
カウンター越しに見た厨房と、油の跳ねる音。
味噌汁の湯気と、まな板のリズム。
「いってらっしゃい」と送り出す琉叶の声。
どちらも、嫌いではない。
どちらにも、自分がいる。
ただ、その中で、自分の「手」がどこに一番なじんでいるのか、ふと考えてしまう。
昨日、エプロンを引き出しにしまい込んだときの感触が、指先に蘇る。
ハンガーにかけるか、引き出しにしまうか。
たったそれだけの違いなのに、その選び方が、何かを表している気がした。
「二番目、か」
小さくつぶやいてみる。
口に出した瞬間、その言葉の居心地の悪さが、胸のあたりに残った。
誰にとっての二番目なのか。
何の二番目なのか。
そもそも、自分は、誰の何番目でいたいのか。
答えはまだ出ない。
でも、今日一日、会社の給湯室と商店街とみつよ食堂の片隅で交わされた言葉たちが、頭の中で静かに反芻される。
布団の中で、桜子は自分の「手」をぎゅっと握りしめた。
指先の小さなまめが、じんわりとした痛みを伝えてくる。
その痛みだけは、誰のものでもなく、自分が選んで手に入れたものだと、ようやく気づいた。
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