残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第18話 切れた包丁と切れた関係

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 土曜日の午前、商店街のアーケードは、いつもより少し早くざわついていた。
 アーチの柱には、昨夜張り出されたばかりのポスターが揺れている。まだ仮デザインのままの「手のひらシンデレラ試食会」の文字。その下に、小さな字で「本日プレ体験」と書き足されていた。

 みつよ食堂の前には、いつもの赤いひさしと暖簾。
 その横のホワイトボードには、美津代の字で「仕込み中ですが、声をかけてください」と一言添えられている。

「おはようございます」
 引き戸を開けながら、桜子は深呼吸をした。
 厨房からは、すでに出汁の匂いと、野菜を炒める音が聞こえてくる。

「おはよう」
 琉叶が、まな板の前から顔を上げる。
「今日、無理してないですか」
「無理してる暇がない、が正解です」
 冗談めいた返事に、思わず笑いがこぼれた。

 時計はまだ十時過ぎだというのに、炊飯器の蓋は何度目かの湯気を上げている。
 カウンターには、小さなグラスや器が整列し、昨日決めた「手のひらシンデレラ」の配置図が、ラミネートされた紙になって貼られていた。

「すごい……もう図面になってる」
「雄之さんが夜中に持ってきました」
 琉叶が、少しだけ肩をすくめる。
「“これで迷子にならないで済むだろ”って」
「ありがたいですね」
「ええ。なので、迷子になると怒られます」
「迷子にならないようにします」

 そんな会話を交わしながら、桜子はエプロンの紐をぎゅっと結んだ。
 ポケットの中では、スマホが小さく震えている。
 画面には、凌からのメッセージがいくつか並んでいた。

『今日の夜さ、例の店、予約取れた』
『七時から。服とか決めといて』
『まさか、また定食屋の手伝いとか言わないよね?』

 昨夜、グルメ企画の準備で土日は店に出ると伝えたとき、凌は明らかに不機嫌になっていた。
 それでも、「日曜の夜なら大丈夫」と折り合いをつけたはずだった。
 なのに、今朝届いたメッセージは、当然のように「今日の夜」に予定を組んでいる。

『ごめん。今日は夜まで店』
 そう打って送信すると、すぐに既読がついた。
 けれど、返事は来ない。

「桜子さん」
 琉叶の声に、スマホから視線を離す。
「はい」
「手、空いてたら、野菜の水気、切ってもらえますか。
 今日の人出だと、途中で追加する余裕ないかもしれないので」
「了解です」

 まな板の横で、ザルに上がった色とりどりの野菜たちが待っていた。
 ペーパータオルで一つ一つ優しく押さえながら、桜子は自分の「手」に意識を集中させる。
 スマホの震えは、いったんポケットの奥に押し込んだ。

     *

 昼が近づくにつれ、店内の空気は一気に忙しさを帯びていった。
 常連たちに加え、「ポスター見たよ」と言いながら入ってくる顔ぶれもちらほら現れる。
 今日は、正式なグルメ企画の前に、数量限定で「手のひらシンデレラ」を試してもらう日だ。

「シンデレラ三つ入りましたー」
「こっちは二つ追加ー」
 ホールの声が飛ぶたびに、厨房の手が加速する。

「ご飯、三番炊き上がりまーす」
 炊飯器の蓋を開けると、湯気が一気に顔に押し寄せてくる。
 桜子は、しゃもじを持つ手を止めずに、湯気越しにカウンターを見る。

 琉叶は、ほとんど表情を変えずに、次々と手まりサイズのご飯を握っていた。
 その隣で、美津代が、グラスと小鉢に具材を詰め、皿の上に配置していく。
 一皿仕上がるたびに、必ず一拍置いて全体を見る。
 忙しいのに、決して「だいたい」で終わらせない視線。

「美津代さん、写真撮りたいくらいです」
 思わず言うと、美津代は肩をすくめた。
「撮ってる暇があったら、皿増やしな。
 一皿一皿、ちゃんと“うちから出ていく顔”にしてやんないと」
「“顔”」
「そう。
 あんた、自分の顔テキトーにして外出る?」
「……気合い入れます」
「それでよし」

 たしかに、美津代の手が仕上げた皿は、どれも少しずつ違うのに、どこか共通した「表情」を持っていた。
 真ん中のグラスが、「ここに手を伸ばしてね」と静かに主張し、その周りの器たちが「ようこそ」と笑っているみたいだ。

 そんなふうに皿の顔を見ていると、ポケットの中で再びスマホが震えた。
 手が離せないタイミングではない。
 けれど、いま画面を見たら、何かが揺らぎそうな気がして、桜子はあえて無視した。

     *

「水分、多めのやつこっちに回して」
「はい」

 何往復目かのやりとりのあと、厨房の空気が一瞬だけ変わった。
 まな板に当たる音が、いつものリズムと違う。

「……っ」
 小さな息が漏れる音がした。
 振り向くと、琉叶が持っていた包丁の先に、細い赤い線がついているのが見えた。

「琉叶さん!」
 まな板の上には、半分に切られた青じそと、その端に、ほんの少しだけ赤い跡。
 指先から、ぽた、と赤いものが落ちる。

「大丈夫です」
 琉叶は、反射的にそう言った。
 けれど、その声はいつもより少しだけ低い。

「大丈夫じゃないです」
 桜子は、すぐそばのふきんを掴み、琉叶の手首を取った。
「水道、こっち」
「でも、今、皿が――」
「血のソースなんて、誰も望んでません!」
 強めに言い返すと、美津代がすぐさまフォローに入る。

「あとは私がやる。
 あんたは一旦下がりな」
 そう言って、琉叶の前からまな板を引き寄せた。
 動きに迷いはない。

 流し台の前で、桜子は蛇口をひねり、琉叶の指先に水を当てる。
 赤い色が少しずつ薄まり、切り口の深さが見えてくる。
 幸い、骨に届くほどではない。けれど、仕事を続ければすぐに開いてしまいそうな位置だった。

「ちょっとしみますよ」
「ええ」
 琉叶の肩が、ほんの少しだけ震える。

 そのとき、ポケットの中で、スマホがけたたましく鳴った。
 着信音。
 画面を見なくても、誰からかはわかる。

「出てください」
 琉叶が、片手でふきんを押さえながら言う。
「こっちは平気ですから」
「平気じゃないです」
「これくらい、よくあることです」
「“よくあること”が一番怖いんです」
 思わず、声が強くなる。

 着信は一度切れ、すぐにメッセージが入った。
『なんで出ないの?』

 桜子は、スマホを流しの横に置き、棚から救急箱を引っ張り出した。
 消毒液とガーゼ、包帯。
 テーブルの端にタオルを敷き、その上に琉叶の手を乗せる。

「利き手側ですよね」
「はい」
「今日は、重い包丁は持たないでください」
「無理です」
「無理じゃないです」
 今度は、少しだけ笑い混じりに言い返した。
「うちには、まだ手が三人分ありますから」

     *

 消毒液をしみ込ませたガーゼを、切り口にそっと当てる。
 琉叶の指先がぴくりと動いた。
「すみません」
「大丈夫です。
 “これくらい、よくあること”なんですよね?」
 自分で言っておきながら、視線を合わせてくる。

 近くで見る琉叶の「手」は、想像していたよりもずっとごつごつしていた。
 包丁を握る指には小さな傷痕と固くなった皮膚。
 熱い鍋を避け損ねたのか、ところどころに薄い火傷の跡。
 それなのに、皿を差し出すときの仕草は、いつも驚くほど丁寧だった。

 ガーゼを当てたまま、包帯をゆっくり巻いていく。
 一周ごとに、白い布が指を覆い、赤い色を隠していく。
 その過程が、なぜだか目を離せなかった。

(……この手が好きだ)

 心の中で、ふいに言葉が浮かぶ。
 誰かから何かを奪うためではなく、何かを差し出すために動く「手」。
 今日も明日も、たぶんこれからも、同じようにまな板とコンロの前に立つだろう「手」。

 その手に包帯を巻いている自分の「手」も、今までより少しだけ、まっすぐに見られる気がした。

「きつくないですか」
「ちょうどいいです。
 ……桜子さん、手当て、うまいですね」
「最近、玉ねぎと戦ってるので」
「頼もしい限りです」

 そんな会話をしているあいだにも、スマホにはメッセージが増えていた。

『電話に出て』
『店のこと、そんなに大事?』
『今日くらい、俺を優先してよ』

 画面に並ぶ文字を、一つひとつ読むたびに、胸の奥で何かがきしむ。
 包帯を留め具で止める音が、やけに大きく聞こえた。

「戻ります」
 琉叶が、包帯を巻いた手を軽く握りしめる。
「片手でもできること、探しますので」
「無理しないでくださいね」
「“無理させないでください”じゃなくて、ですか」
「それは、お互い様です」
 そう答えると、琉叶は小さく笑い、そのまま厨房へ戻っていった。

     *

 昼のピークが過ぎ、店内に少しだけ静けさが戻ったころ。
 カウンターの端で、水の入ったコップを前に、桜子はようやくスマホを手に取った。

 画面には、さっきよりさらに多くの通知が並んでいる。
『既読なのに返事ないの?』
『俺、なにかした?』
『まさか、あの定食屋の人に、変なこと吹き込まれてないよね』

 最後の一文で、指先が止まった。
 喉の奥が、きゅっと締め付けられる。

 そのとき、着信音が鳴った。
 今度は逃げなかった。
 深呼吸を一つしてから、通話ボタンを押す。

「もしもし」
『やっと出た。
 いま、どこ?』
「店です。
 さっきからずっと」
『ほんとに、今日もそこなの?
 予約、どうするの』
「ごめん。
 今日の予約、行けない」
『またそれ?』
 ため息混じりの声が、耳の奥で膨らむ。
『君さ、最近ちょっとおかしいよ。
 定食屋の手伝いにそんなに必死になる意味が、俺にはわからない』

 胸の奥で、何かがぱちんと弾けた気がした。
 包帯を巻いた琉叶の手。
 一皿一皿を「顔」にする美津代の手。
 「手のひらシンデレラ」の配置図を夜中に持ってきた雄之の手。

 ここには、ちゃんと意味がある。
 自分で選んだ意味が。

「……凌」
 気づくと、声が少し震えていた。
「前にも言ったよね。
 “誰でもできる”って言われるのが、一番つらいって」
『そんなつもりで言ったんじゃ――』
「つもりは、いいよ。
 結果として、私は傷ついたから」

 一呼吸置いてから、言葉を続ける。
 カードに書いた文字を、頭の中でなぞる。

『ちゃんと自分で決めたい』

「私、ここを選びたい」
『……は?』
「みつよ食堂で働いてる時間も、ここで出す皿も。
 誰かに笑われてもいいから、自分の“好き”として守りたい」
『だからって、俺を捨てるの?』
「捨てるとかじゃない」
 思わず、テーブルの縁を握る。
「もう、持ちきれないだけ。
 “ちゃんとしたとこ”に連れていかれる私と、ここで一緒に皿を出したい私。
 どっちかを選ばなきゃいけないなら――」

 言葉が喉でつかえる。
 けれど、もう引き返したくなかった。

「ごめん。
 私、ここを選ぶ」

 電話の向こうで、短い沈黙が落ちた。
 エアコンの音だけが、妙にはっきり聞こえる。

『……そう』
 ようやく、凌が口を開いた。
『じゃあ、もういいよ』
 その言い方は、驚くほどあっさりしていた。
『君がそこまで言うなら、俺が口出しする筋合い、ないよね』
「凌」
『仕事、がんばって』

 プツン、と音がして、通話が切れた。
 画面には「通話終了」の文字。
 それは、これまでの二人の関係が切れたことを告げる表示にも見えた。

 桜子は、しばらくスマホを見つめたまま動けなかった。
 そのあいだにも、厨房からは、まな板の音と、フライパンの音が絶えず聞こえてくる。

「桜子」
 背後から、美津代の声がした。
「水、ぬるくなってるよ。
 替えておいで」
「……はい」

 立ち上がってコップを流しに運ぶと、包帯を巻いた琉叶の手が一瞬視界に入った。
 動きはいつもより少しだけ慎重だが、皿を差し出すときの仕草は変わらない。

(この手が好きだ)

 さっき心の中に浮かんだ言葉が、もう一度戻ってくる。
 “誰のもの”とか、“奪われる”とか、そういうラベルがつく前の、自分の実感として。

 背筋を伸ばし、冷たい水を注ぎながら、桜子はそっと自分の手のひらを握りしめた。
 切れた包丁は研ぎ直せる。
 切れた関係は、もう元には戻らないかもしれない。
 それでも、この手で選んだ場所と、この手で巻いた包帯の感触だけは、確かにここに残っている。
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