22 / 31
第21話 グルメ企画、開幕前夜
しおりを挟む
グルメ企画の前日、みつよ食堂の厨房は、いつもの倍くらい早く目を覚ましていた。
まだシャッターの半分しか上がっていない時間から、店の裏口には、八百屋の軽トラックが横付けされている。
「はい、キャベツ三玉と、玉ねぎ二十個ね。
いつもより多め」
「ありがとうございます」
桜子は、段ボール箱を受け取りながら、腕の感覚だけで重さを測る。
箱の中では、丸々と太ったキャベツが、ぎっしりと詰まっていた。
厨房に入ると、すでに別の段ボールがいくつも積み上がっている。
トマト、じゃがいも、色とりどりのパプリカ。
流し台の横には、洗ったばかりの野菜が山のように積み上がり、その向こうのコンロからは、出汁の湯気がもうもうと立ち上っていた。
「まな板、増設したいくらいだね」
美津代が、手ぬぐいで額をぬぐいながらぼやく。
「ま、こういう“台所戦争”は嫌いじゃないけどさ」
「戦争って言い方」
桜子は苦笑しながら、キャベツの外葉を外していく。
「でも、ちょっとだけわかります。
玉ねぎ、この量はさすがに、覚悟を決めないといけないので」
「泣きながら刻んでた頃が、懐かしいねえ」
「いまも泣きますよ」
「それは、涙腺の問題だね」
コンロの前では、琉叶が大きな鍋を二つ並べ、片方には鶏ガラと野菜くず、もう片方には昆布と鰹節を入れている。
腕には、まだ薄く包帯が巻かれていた。
その上から、透明なビニール手袋をはめ、結び目をぎゅっと締める。
「その手、大丈夫?」
美津代が、鍋の湯気越しにじっと見つめる。
「昨日より赤みは引いてるけど」
「大丈夫です。
絆創膏レベルですから」
「その“絆創膏レベル”で包丁振り回してるのが、一番怖いんだけどね」
口調は厳しい。
けれど、その目は心配を隠しきれていない。
「今日は、重いもんは俺と雄之でやるから」
裏口から顔を出した雄之が、箱を肩に担ぎながら言う。
「包丁仕事も、俺、案外やれるんだよ。
パン屋だからって、切るのはパンだけってわけじゃないし」
「パン以外も切れるアピール、初めて聞きました」
桜子が笑うと、雄之は「信用ないな」と肩をすくめた。
*
午前中のうちに、仕込みの山は少しずつ崩されていく。
キャベツは千切りになり、玉ねぎはみじん切りに。
人参はきれいな細切りになって、色とりどりの小鉢候補に分かれていった。
桜子の指先には、また新しい小さなまめが出来ている。
それでも、包丁を握る手は前より安定していた。
目の前の山を、「終わらない苦行」ではなく、「明日のお腹を満たすための準備」として見られるようになっているのを、自分でも感じていた。
「桜子さーん」
カウンターのほうから声がする。
顔を上げると、勇一がスケッチブックと何かのファイルを抱えて立っていた。
「差し入れと、原稿」
「原稿?」
「あとで説明する」
勇一は、紙袋からひだまりベーカリーのパンを取り出し、テーブルの上に並べた。
シナモンロール、チーズ入りフランスパン、あんバターサンド。
甘い香りが、出汁の匂いと混ざり合って、厨房に流れ込んでくる。
「うわ、いい匂い」
美津代が、思わず顔をほころばせる。
「こういうときの糖分補給は、正義だからねえ」
「ちゃんとお昼ご飯も食べてくださいね」
桜子が笑うと、「ご飯はご飯、これは別腹」と返される。
「で、その原稿って?」
仕込みの区切りがついたタイミングで、桜子はエプロンの手を止めた。
「“シンデレラになぞらえた現代恋愛ドラマ”の最終話ネーム」
勇一は、誇らしげなような、どこか不安げな表情でスケッチブックを掲げる。
「商店街ポスター企画のスピンオフ的に、ネットに連載してたやつ。
締め切りギリギリで、ラストだけ何パターンも悩んでてさ。
やっと一つに絞った」
「読ませて」
実記が、いち早く前に出る。
ノートパソコンを閉じ、勇一の隣の席に腰を下ろした。
「どういうラスト?」
「それを今から見てもらいたいんだよ」
勇一は、スケッチブックを開き、最後の数ページをテーブルに広げた。
*
ネームの中では、「定食屋でバイトする女性」と「不器用な料理人」が、何度もすれ違いながら、少しずつ距離を縮めていた。
ポスター撮影、グルメ企画、元カレとの決着。
どこかで聞いたことのあるような出来事が、漫画のコマの中で、少しだけ脚色されて並んでいる。
「……これ、ほぼノンフィクションでは」
数ページ読んだところで、実記が眉をひそめる。
「モデル、誰」
「さあ」
勇一が、わざとらしく視線をそらす。
「“身近なシンデレラ”ってテーマで、取材協力してくれた人はいるけど」
「取材協力って言い方」
桜子は、苦笑しながらも、ページから目が離せなかった。
最終話のラスト数ページ。
ポスター撮影を終えた主人公たちが、閉店後の店内で向かい合っているシーンだった。
『――じゃあさ。
もし、誰かが“君を奪いに来た”って言ったら、どうする?』
漫画の中の料理人が、カウンター越しに問いかける。
『奪えるもんなら、奪ってみろって言う』
主人公の女性は、そう答える。
『だって、私の時間は、もう私が使い切るって決めたから。
誰かに持ってかれるくらいなら、自分でおかわりして食べる』
最後のコマには、二人の笑顔と、カウンターの上の皿が描かれている。
そこには、「今日くらい、自分の手で選んでいい」というコピーが、小さな文字で添えられていた。
「……」
読み終えた実記は、しばらく口を開かなかった。
勇一が、そわそわと落ち着かない様子で様子をうかがう。
「どう?」
「率直に言っていい?」
「怖いけど、お願い」
実記は、スケッチブックをぱたんと閉じてから言った。
「現実のほうが、ドラマチックだったりして、って思っちゃった」
「え」
「だってさ。
ここ数日の出来事、あんたのネームよりよっぽど起伏あるし。
“包丁事件”とか、“白い靴下シンデレラ”とか」
「タイトルが雑」
桜子が思わず突っ込む。
「でも」
実記は、少し柔らかい顔になる。
「このラスト、嫌いじゃないよ。
“奪えるもんなら、奪ってみろ”って、かなりの宣言だからね。
誰かに選ばれるんじゃなくて、自分の時間を食べきる宣言」
「……よかった」
勇一は、大きく息を吐いた。
「ボツって言われたら、もう一回ネーム地獄に戻るとこだった」
「でもさ」
実記は、視線を桜子に向けた。
「現実の桜子は、何て言うんだろうね」
突然話を振られ、桜子は目を瞬かせた。
「え、今ですか」
「うん。
もし、誰かが“君を奪いに来た”って言ったら、どうする?」
数日前に聞いたばかりの言葉が、胸の奥で反響する。
ガラス戸の向こうで、ポスターの中の自分が、何かを言いたげにこちらを見ている気がした。
「……奪えるもんなら、奪ってみろ、とは言わないかも」
「おや」
「でも、“私の時間は、もうここで使うから”って、はっきり言うと思います」
そう答えてから、自分でも驚いた。
迷いが、前より少なくなっている。
「それ、漫画のセリフに書き換えたくなってきた」
勇一が、目を輝かせる。
「“おかわりして食べる”も捨てがたいけどなあ」
「そこは、二本立てにすれば?」
実記がさらりと言う。
「どっちがしっくりくるかは、現実のほうが教えてくれるから」
*
午後になると、店内は飾りつけタイムに突入した。
アーケードのポスターと同じデザインの小さなカードが、テーブルごとに置かれる。
「手のひらシンデレラ」の説明文と、「今日くらい、自分の手で選んでいい」という一文。
「フォントで悩みすぎて、肩こりひどいからね、こっち」
実記が、肩を回しながらぼやく。
「でも、いい感じに仕上がったでしょ」
「うん」
桜子は、カードを一枚手に取って見つめた。
印刷された自分の言葉は、他人事のようでいて、しっかりと自分の背中を押してくる。
「入り口のところ、どうする?」
雄之が、白いチョークを持ちながら尋ねる。
店先のブラックボードには、いつもの「本日のおすすめ」の文字が消され、新しいスペースが用意されていた。
「“気楽に入ってきてください”とか?」
桜子が提案すると、美津代が首を振った。
「それ、書かないと伝わらない時点で、店の負けだよ。
見た瞬間に“あ、入ってもいいんだ”って思える板にしないと」
「難易度高いですね」
「大丈夫。
うちには、文章書く人と絵を描く人が余ってるから」
「余ってるって言い方」
勇一が笑いながら、ブラックボードに近づいた。
「じゃあ、“今日くらい、自分の手で選んでいい”を、入り口用にちょっと変えようか」
「例えば?」
「“今日くらい、自分のお腹の声を信じてみませんか”とか」
「長い」
即座にツッコミが入る。
「あ、じゃあ」
桜子が、ふとひらめいたように口を開いた。
「“お腹、空いてますか”」
「シンプル」
「“はい”って思った人だけ、入ってきてください、みたいな」
その案に、美津代が満足そうに頷く。
「いいじゃない。
うちは、そういう店だよ。
“お腹空いてる人、いらっしゃい”」
ブラックボードには、大きな文字で「お腹、空いてますか」と書かれ、その下に小さく「手のひらシンデレラあります」と添えられた。
*
日が傾き始めるころ、ようやく仕込みと飾りつけの全てに目処がついた。
厨房のシンクは、一時的に空を取り戻し、まな板もきれいに洗われて立てかけられている。
鍋の中では、明日の分のスープが弱火で静かに呼吸していた。
「ふー」
桜子は、椅子に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。
指先は少しむくみ、腕は重い。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
「明日、どれくらい人、来るかな」
勇一が、スケッチブックを閉じながらつぶやく。
「ポスター見てきました、って人も増えるだろうし」
「緊張してきた」
桜子は、自分の手のひらを見つめる。
「でも、楽しみでもあります」
「大丈夫」
カウンターの向こうから、琉叶の声がした。
「お腹空かせて来てくれる人には、ちゃんと出せるだけの準備はしましたから」
包帯の下の指先が、静かに鍋の蓋を押さえる。
その仕草には、不思議な安心感があった。
「じゃあ」
実記が、ノートパソコンを閉じて立ち上がる。
「明日のために、今日は早く帰ろ。
現実のほうがドラマチックになりすぎると、ネームが追いつかなくなるから」
「それ、ライターとしては複雑な悩みだね」
勇一が笑う。
「読者としては、歓迎だけど」
「明日、ちゃんと目撃してよ」
実記は、桜子と琉叶を交互に見た。
「“身近なシンデレラ”の本番をさ。
あとで、“現実のほうがドラマチックだったね”って笑えるように」
桜子は、ゆっくりと頷いた。
ポスターの中の自分も、ガラス越しに同じように頷いている気がした。
グルメ企画、開幕前夜。
奪われた時間の先に、自分たちで選んだ時間が、ようやく形になろうとしていた。
まだシャッターの半分しか上がっていない時間から、店の裏口には、八百屋の軽トラックが横付けされている。
「はい、キャベツ三玉と、玉ねぎ二十個ね。
いつもより多め」
「ありがとうございます」
桜子は、段ボール箱を受け取りながら、腕の感覚だけで重さを測る。
箱の中では、丸々と太ったキャベツが、ぎっしりと詰まっていた。
厨房に入ると、すでに別の段ボールがいくつも積み上がっている。
トマト、じゃがいも、色とりどりのパプリカ。
流し台の横には、洗ったばかりの野菜が山のように積み上がり、その向こうのコンロからは、出汁の湯気がもうもうと立ち上っていた。
「まな板、増設したいくらいだね」
美津代が、手ぬぐいで額をぬぐいながらぼやく。
「ま、こういう“台所戦争”は嫌いじゃないけどさ」
「戦争って言い方」
桜子は苦笑しながら、キャベツの外葉を外していく。
「でも、ちょっとだけわかります。
玉ねぎ、この量はさすがに、覚悟を決めないといけないので」
「泣きながら刻んでた頃が、懐かしいねえ」
「いまも泣きますよ」
「それは、涙腺の問題だね」
コンロの前では、琉叶が大きな鍋を二つ並べ、片方には鶏ガラと野菜くず、もう片方には昆布と鰹節を入れている。
腕には、まだ薄く包帯が巻かれていた。
その上から、透明なビニール手袋をはめ、結び目をぎゅっと締める。
「その手、大丈夫?」
美津代が、鍋の湯気越しにじっと見つめる。
「昨日より赤みは引いてるけど」
「大丈夫です。
絆創膏レベルですから」
「その“絆創膏レベル”で包丁振り回してるのが、一番怖いんだけどね」
口調は厳しい。
けれど、その目は心配を隠しきれていない。
「今日は、重いもんは俺と雄之でやるから」
裏口から顔を出した雄之が、箱を肩に担ぎながら言う。
「包丁仕事も、俺、案外やれるんだよ。
パン屋だからって、切るのはパンだけってわけじゃないし」
「パン以外も切れるアピール、初めて聞きました」
桜子が笑うと、雄之は「信用ないな」と肩をすくめた。
*
午前中のうちに、仕込みの山は少しずつ崩されていく。
キャベツは千切りになり、玉ねぎはみじん切りに。
人参はきれいな細切りになって、色とりどりの小鉢候補に分かれていった。
桜子の指先には、また新しい小さなまめが出来ている。
それでも、包丁を握る手は前より安定していた。
目の前の山を、「終わらない苦行」ではなく、「明日のお腹を満たすための準備」として見られるようになっているのを、自分でも感じていた。
「桜子さーん」
カウンターのほうから声がする。
顔を上げると、勇一がスケッチブックと何かのファイルを抱えて立っていた。
「差し入れと、原稿」
「原稿?」
「あとで説明する」
勇一は、紙袋からひだまりベーカリーのパンを取り出し、テーブルの上に並べた。
シナモンロール、チーズ入りフランスパン、あんバターサンド。
甘い香りが、出汁の匂いと混ざり合って、厨房に流れ込んでくる。
「うわ、いい匂い」
美津代が、思わず顔をほころばせる。
「こういうときの糖分補給は、正義だからねえ」
「ちゃんとお昼ご飯も食べてくださいね」
桜子が笑うと、「ご飯はご飯、これは別腹」と返される。
「で、その原稿って?」
仕込みの区切りがついたタイミングで、桜子はエプロンの手を止めた。
「“シンデレラになぞらえた現代恋愛ドラマ”の最終話ネーム」
勇一は、誇らしげなような、どこか不安げな表情でスケッチブックを掲げる。
「商店街ポスター企画のスピンオフ的に、ネットに連載してたやつ。
締め切りギリギリで、ラストだけ何パターンも悩んでてさ。
やっと一つに絞った」
「読ませて」
実記が、いち早く前に出る。
ノートパソコンを閉じ、勇一の隣の席に腰を下ろした。
「どういうラスト?」
「それを今から見てもらいたいんだよ」
勇一は、スケッチブックを開き、最後の数ページをテーブルに広げた。
*
ネームの中では、「定食屋でバイトする女性」と「不器用な料理人」が、何度もすれ違いながら、少しずつ距離を縮めていた。
ポスター撮影、グルメ企画、元カレとの決着。
どこかで聞いたことのあるような出来事が、漫画のコマの中で、少しだけ脚色されて並んでいる。
「……これ、ほぼノンフィクションでは」
数ページ読んだところで、実記が眉をひそめる。
「モデル、誰」
「さあ」
勇一が、わざとらしく視線をそらす。
「“身近なシンデレラ”ってテーマで、取材協力してくれた人はいるけど」
「取材協力って言い方」
桜子は、苦笑しながらも、ページから目が離せなかった。
最終話のラスト数ページ。
ポスター撮影を終えた主人公たちが、閉店後の店内で向かい合っているシーンだった。
『――じゃあさ。
もし、誰かが“君を奪いに来た”って言ったら、どうする?』
漫画の中の料理人が、カウンター越しに問いかける。
『奪えるもんなら、奪ってみろって言う』
主人公の女性は、そう答える。
『だって、私の時間は、もう私が使い切るって決めたから。
誰かに持ってかれるくらいなら、自分でおかわりして食べる』
最後のコマには、二人の笑顔と、カウンターの上の皿が描かれている。
そこには、「今日くらい、自分の手で選んでいい」というコピーが、小さな文字で添えられていた。
「……」
読み終えた実記は、しばらく口を開かなかった。
勇一が、そわそわと落ち着かない様子で様子をうかがう。
「どう?」
「率直に言っていい?」
「怖いけど、お願い」
実記は、スケッチブックをぱたんと閉じてから言った。
「現実のほうが、ドラマチックだったりして、って思っちゃった」
「え」
「だってさ。
ここ数日の出来事、あんたのネームよりよっぽど起伏あるし。
“包丁事件”とか、“白い靴下シンデレラ”とか」
「タイトルが雑」
桜子が思わず突っ込む。
「でも」
実記は、少し柔らかい顔になる。
「このラスト、嫌いじゃないよ。
“奪えるもんなら、奪ってみろ”って、かなりの宣言だからね。
誰かに選ばれるんじゃなくて、自分の時間を食べきる宣言」
「……よかった」
勇一は、大きく息を吐いた。
「ボツって言われたら、もう一回ネーム地獄に戻るとこだった」
「でもさ」
実記は、視線を桜子に向けた。
「現実の桜子は、何て言うんだろうね」
突然話を振られ、桜子は目を瞬かせた。
「え、今ですか」
「うん。
もし、誰かが“君を奪いに来た”って言ったら、どうする?」
数日前に聞いたばかりの言葉が、胸の奥で反響する。
ガラス戸の向こうで、ポスターの中の自分が、何かを言いたげにこちらを見ている気がした。
「……奪えるもんなら、奪ってみろ、とは言わないかも」
「おや」
「でも、“私の時間は、もうここで使うから”って、はっきり言うと思います」
そう答えてから、自分でも驚いた。
迷いが、前より少なくなっている。
「それ、漫画のセリフに書き換えたくなってきた」
勇一が、目を輝かせる。
「“おかわりして食べる”も捨てがたいけどなあ」
「そこは、二本立てにすれば?」
実記がさらりと言う。
「どっちがしっくりくるかは、現実のほうが教えてくれるから」
*
午後になると、店内は飾りつけタイムに突入した。
アーケードのポスターと同じデザインの小さなカードが、テーブルごとに置かれる。
「手のひらシンデレラ」の説明文と、「今日くらい、自分の手で選んでいい」という一文。
「フォントで悩みすぎて、肩こりひどいからね、こっち」
実記が、肩を回しながらぼやく。
「でも、いい感じに仕上がったでしょ」
「うん」
桜子は、カードを一枚手に取って見つめた。
印刷された自分の言葉は、他人事のようでいて、しっかりと自分の背中を押してくる。
「入り口のところ、どうする?」
雄之が、白いチョークを持ちながら尋ねる。
店先のブラックボードには、いつもの「本日のおすすめ」の文字が消され、新しいスペースが用意されていた。
「“気楽に入ってきてください”とか?」
桜子が提案すると、美津代が首を振った。
「それ、書かないと伝わらない時点で、店の負けだよ。
見た瞬間に“あ、入ってもいいんだ”って思える板にしないと」
「難易度高いですね」
「大丈夫。
うちには、文章書く人と絵を描く人が余ってるから」
「余ってるって言い方」
勇一が笑いながら、ブラックボードに近づいた。
「じゃあ、“今日くらい、自分の手で選んでいい”を、入り口用にちょっと変えようか」
「例えば?」
「“今日くらい、自分のお腹の声を信じてみませんか”とか」
「長い」
即座にツッコミが入る。
「あ、じゃあ」
桜子が、ふとひらめいたように口を開いた。
「“お腹、空いてますか”」
「シンプル」
「“はい”って思った人だけ、入ってきてください、みたいな」
その案に、美津代が満足そうに頷く。
「いいじゃない。
うちは、そういう店だよ。
“お腹空いてる人、いらっしゃい”」
ブラックボードには、大きな文字で「お腹、空いてますか」と書かれ、その下に小さく「手のひらシンデレラあります」と添えられた。
*
日が傾き始めるころ、ようやく仕込みと飾りつけの全てに目処がついた。
厨房のシンクは、一時的に空を取り戻し、まな板もきれいに洗われて立てかけられている。
鍋の中では、明日の分のスープが弱火で静かに呼吸していた。
「ふー」
桜子は、椅子に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。
指先は少しむくみ、腕は重い。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
「明日、どれくらい人、来るかな」
勇一が、スケッチブックを閉じながらつぶやく。
「ポスター見てきました、って人も増えるだろうし」
「緊張してきた」
桜子は、自分の手のひらを見つめる。
「でも、楽しみでもあります」
「大丈夫」
カウンターの向こうから、琉叶の声がした。
「お腹空かせて来てくれる人には、ちゃんと出せるだけの準備はしましたから」
包帯の下の指先が、静かに鍋の蓋を押さえる。
その仕草には、不思議な安心感があった。
「じゃあ」
実記が、ノートパソコンを閉じて立ち上がる。
「明日のために、今日は早く帰ろ。
現実のほうがドラマチックになりすぎると、ネームが追いつかなくなるから」
「それ、ライターとしては複雑な悩みだね」
勇一が笑う。
「読者としては、歓迎だけど」
「明日、ちゃんと目撃してよ」
実記は、桜子と琉叶を交互に見た。
「“身近なシンデレラ”の本番をさ。
あとで、“現実のほうがドラマチックだったね”って笑えるように」
桜子は、ゆっくりと頷いた。
ポスターの中の自分も、ガラス越しに同じように頷いている気がした。
グルメ企画、開幕前夜。
奪われた時間の先に、自分たちで選んだ時間が、ようやく形になろうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王命って何ですか? 虐げられ才女は理不尽な我慢をやめることにした
まるまる⭐️
恋愛
【第18回恋愛小説大賞において優秀賞を頂戴致しました。応援頂いた読者の皆様に心よりの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました】
その日、貴族裁判所前には多くの貴族達が傍聴券を求め、所狭しと行列を作っていた。
貴族達にとって注目すべき裁判が開かれるからだ。
現国王の妹王女の嫁ぎ先である建国以来の名門侯爵家が、新興貴族である伯爵家から訴えを起こされたこの裁判。
人々の関心を集めないはずがない。
裁判の冒頭、証言台に立った伯爵家長女は涙ながらに訴えた。
「私には婚約者がいました…。
彼を愛していました。でも、私とその方の婚約は破棄され、私は意に沿わぬ男性の元へと嫁ぎ、侯爵夫人となったのです。
そう…。誰も覆す事の出来ない王命と言う理不尽な制度によって…。
ですが、理不尽な制度には理不尽な扱いが待っていました…」
裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。裁判での証言でなければ不敬罪に問われても可笑しくはない発言だ。
だが、彼女はそんな事は全て承知の上であえてこの言葉を発した。
彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。
次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。
裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。
「王命って何ですか?」と。
✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる