残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第21話 グルメ企画、開幕前夜

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 グルメ企画の前日、みつよ食堂の厨房は、いつもの倍くらい早く目を覚ましていた。
 まだシャッターの半分しか上がっていない時間から、店の裏口には、八百屋の軽トラックが横付けされている。

「はい、キャベツ三玉と、玉ねぎ二十個ね。
 いつもより多め」
「ありがとうございます」
 桜子は、段ボール箱を受け取りながら、腕の感覚だけで重さを測る。
 箱の中では、丸々と太ったキャベツが、ぎっしりと詰まっていた。

 厨房に入ると、すでに別の段ボールがいくつも積み上がっている。
 トマト、じゃがいも、色とりどりのパプリカ。
 流し台の横には、洗ったばかりの野菜が山のように積み上がり、その向こうのコンロからは、出汁の湯気がもうもうと立ち上っていた。

「まな板、増設したいくらいだね」
 美津代が、手ぬぐいで額をぬぐいながらぼやく。
「ま、こういう“台所戦争”は嫌いじゃないけどさ」
「戦争って言い方」
 桜子は苦笑しながら、キャベツの外葉を外していく。
「でも、ちょっとだけわかります。
 玉ねぎ、この量はさすがに、覚悟を決めないといけないので」
「泣きながら刻んでた頃が、懐かしいねえ」
「いまも泣きますよ」
「それは、涙腺の問題だね」

 コンロの前では、琉叶が大きな鍋を二つ並べ、片方には鶏ガラと野菜くず、もう片方には昆布と鰹節を入れている。
 腕には、まだ薄く包帯が巻かれていた。
 その上から、透明なビニール手袋をはめ、結び目をぎゅっと締める。

「その手、大丈夫?」
 美津代が、鍋の湯気越しにじっと見つめる。
「昨日より赤みは引いてるけど」
「大丈夫です。
 絆創膏レベルですから」
「その“絆創膏レベル”で包丁振り回してるのが、一番怖いんだけどね」
 口調は厳しい。
 けれど、その目は心配を隠しきれていない。

「今日は、重いもんは俺と雄之でやるから」
 裏口から顔を出した雄之が、箱を肩に担ぎながら言う。
「包丁仕事も、俺、案外やれるんだよ。
 パン屋だからって、切るのはパンだけってわけじゃないし」
「パン以外も切れるアピール、初めて聞きました」
 桜子が笑うと、雄之は「信用ないな」と肩をすくめた。

     *

 午前中のうちに、仕込みの山は少しずつ崩されていく。
 キャベツは千切りになり、玉ねぎはみじん切りに。
 人参はきれいな細切りになって、色とりどりの小鉢候補に分かれていった。

 桜子の指先には、また新しい小さなまめが出来ている。
 それでも、包丁を握る手は前より安定していた。
 目の前の山を、「終わらない苦行」ではなく、「明日のお腹を満たすための準備」として見られるようになっているのを、自分でも感じていた。

「桜子さーん」
 カウンターのほうから声がする。
 顔を上げると、勇一がスケッチブックと何かのファイルを抱えて立っていた。
「差し入れと、原稿」
「原稿?」
「あとで説明する」
 勇一は、紙袋からひだまりベーカリーのパンを取り出し、テーブルの上に並べた。
 シナモンロール、チーズ入りフランスパン、あんバターサンド。
 甘い香りが、出汁の匂いと混ざり合って、厨房に流れ込んでくる。

「うわ、いい匂い」
 美津代が、思わず顔をほころばせる。
「こういうときの糖分補給は、正義だからねえ」
「ちゃんとお昼ご飯も食べてくださいね」
 桜子が笑うと、「ご飯はご飯、これは別腹」と返される。

「で、その原稿って?」
 仕込みの区切りがついたタイミングで、桜子はエプロンの手を止めた。
「“シンデレラになぞらえた現代恋愛ドラマ”の最終話ネーム」
 勇一は、誇らしげなような、どこか不安げな表情でスケッチブックを掲げる。
「商店街ポスター企画のスピンオフ的に、ネットに連載してたやつ。
 締め切りギリギリで、ラストだけ何パターンも悩んでてさ。
 やっと一つに絞った」

「読ませて」
 実記が、いち早く前に出る。
 ノートパソコンを閉じ、勇一の隣の席に腰を下ろした。
「どういうラスト?」
「それを今から見てもらいたいんだよ」
 勇一は、スケッチブックを開き、最後の数ページをテーブルに広げた。

     *

 ネームの中では、「定食屋でバイトする女性」と「不器用な料理人」が、何度もすれ違いながら、少しずつ距離を縮めていた。
 ポスター撮影、グルメ企画、元カレとの決着。
 どこかで聞いたことのあるような出来事が、漫画のコマの中で、少しだけ脚色されて並んでいる。

「……これ、ほぼノンフィクションでは」
 数ページ読んだところで、実記が眉をひそめる。
「モデル、誰」
「さあ」
 勇一が、わざとらしく視線をそらす。
「“身近なシンデレラ”ってテーマで、取材協力してくれた人はいるけど」
「取材協力って言い方」
 桜子は、苦笑しながらも、ページから目が離せなかった。

 最終話のラスト数ページ。
 ポスター撮影を終えた主人公たちが、閉店後の店内で向かい合っているシーンだった。

『――じゃあさ。
 もし、誰かが“君を奪いに来た”って言ったら、どうする?』

 漫画の中の料理人が、カウンター越しに問いかける。

『奪えるもんなら、奪ってみろって言う』
 主人公の女性は、そう答える。
『だって、私の時間は、もう私が使い切るって決めたから。
 誰かに持ってかれるくらいなら、自分でおかわりして食べる』

 最後のコマには、二人の笑顔と、カウンターの上の皿が描かれている。
 そこには、「今日くらい、自分の手で選んでいい」というコピーが、小さな文字で添えられていた。

「……」
 読み終えた実記は、しばらく口を開かなかった。
 勇一が、そわそわと落ち着かない様子で様子をうかがう。

「どう?」
「率直に言っていい?」
「怖いけど、お願い」

 実記は、スケッチブックをぱたんと閉じてから言った。
「現実のほうが、ドラマチックだったりして、って思っちゃった」
「え」
「だってさ。
 ここ数日の出来事、あんたのネームよりよっぽど起伏あるし。
 “包丁事件”とか、“白い靴下シンデレラ”とか」
「タイトルが雑」
 桜子が思わず突っ込む。

「でも」
 実記は、少し柔らかい顔になる。
「このラスト、嫌いじゃないよ。
 “奪えるもんなら、奪ってみろ”って、かなりの宣言だからね。
 誰かに選ばれるんじゃなくて、自分の時間を食べきる宣言」
「……よかった」
 勇一は、大きく息を吐いた。
「ボツって言われたら、もう一回ネーム地獄に戻るとこだった」

「でもさ」
 実記は、視線を桜子に向けた。
「現実の桜子は、何て言うんだろうね」

 突然話を振られ、桜子は目を瞬かせた。
「え、今ですか」
「うん。
 もし、誰かが“君を奪いに来た”って言ったら、どうする?」

 数日前に聞いたばかりの言葉が、胸の奥で反響する。
 ガラス戸の向こうで、ポスターの中の自分が、何かを言いたげにこちらを見ている気がした。

「……奪えるもんなら、奪ってみろ、とは言わないかも」
「おや」
「でも、“私の時間は、もうここで使うから”って、はっきり言うと思います」
 そう答えてから、自分でも驚いた。
 迷いが、前より少なくなっている。

「それ、漫画のセリフに書き換えたくなってきた」
 勇一が、目を輝かせる。
「“おかわりして食べる”も捨てがたいけどなあ」
「そこは、二本立てにすれば?」
 実記がさらりと言う。
「どっちがしっくりくるかは、現実のほうが教えてくれるから」

     *

 午後になると、店内は飾りつけタイムに突入した。
 アーケードのポスターと同じデザインの小さなカードが、テーブルごとに置かれる。
 「手のひらシンデレラ」の説明文と、「今日くらい、自分の手で選んでいい」という一文。

「フォントで悩みすぎて、肩こりひどいからね、こっち」
 実記が、肩を回しながらぼやく。
「でも、いい感じに仕上がったでしょ」
「うん」
 桜子は、カードを一枚手に取って見つめた。
 印刷された自分の言葉は、他人事のようでいて、しっかりと自分の背中を押してくる。

「入り口のところ、どうする?」
 雄之が、白いチョークを持ちながら尋ねる。
 店先のブラックボードには、いつもの「本日のおすすめ」の文字が消され、新しいスペースが用意されていた。

「“気楽に入ってきてください”とか?」
 桜子が提案すると、美津代が首を振った。
「それ、書かないと伝わらない時点で、店の負けだよ。
 見た瞬間に“あ、入ってもいいんだ”って思える板にしないと」
「難易度高いですね」
「大丈夫。
 うちには、文章書く人と絵を描く人が余ってるから」

「余ってるって言い方」
 勇一が笑いながら、ブラックボードに近づいた。
「じゃあ、“今日くらい、自分の手で選んでいい”を、入り口用にちょっと変えようか」
「例えば?」
「“今日くらい、自分のお腹の声を信じてみませんか”とか」
「長い」
 即座にツッコミが入る。

「あ、じゃあ」
 桜子が、ふとひらめいたように口を開いた。
「“お腹、空いてますか”」
「シンプル」
「“はい”って思った人だけ、入ってきてください、みたいな」

 その案に、美津代が満足そうに頷く。
「いいじゃない。
 うちは、そういう店だよ。
 “お腹空いてる人、いらっしゃい”」

 ブラックボードには、大きな文字で「お腹、空いてますか」と書かれ、その下に小さく「手のひらシンデレラあります」と添えられた。

     *

 日が傾き始めるころ、ようやく仕込みと飾りつけの全てに目処がついた。
 厨房のシンクは、一時的に空を取り戻し、まな板もきれいに洗われて立てかけられている。
 鍋の中では、明日の分のスープが弱火で静かに呼吸していた。

「ふー」
 桜子は、椅子に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。
 指先は少しむくみ、腕は重い。
 それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。

「明日、どれくらい人、来るかな」
 勇一が、スケッチブックを閉じながらつぶやく。
「ポスター見てきました、って人も増えるだろうし」
「緊張してきた」
 桜子は、自分の手のひらを見つめる。
「でも、楽しみでもあります」

「大丈夫」
 カウンターの向こうから、琉叶の声がした。
「お腹空かせて来てくれる人には、ちゃんと出せるだけの準備はしましたから」
 包帯の下の指先が、静かに鍋の蓋を押さえる。
 その仕草には、不思議な安心感があった。

「じゃあ」
 実記が、ノートパソコンを閉じて立ち上がる。
「明日のために、今日は早く帰ろ。
 現実のほうがドラマチックになりすぎると、ネームが追いつかなくなるから」
「それ、ライターとしては複雑な悩みだね」
 勇一が笑う。
「読者としては、歓迎だけど」

「明日、ちゃんと目撃してよ」
 実記は、桜子と琉叶を交互に見た。
「“身近なシンデレラ”の本番をさ。
 あとで、“現実のほうがドラマチックだったね”って笑えるように」

 桜子は、ゆっくりと頷いた。
 ポスターの中の自分も、ガラス越しに同じように頷いている気がした。

 グルメ企画、開幕前夜。
 奪われた時間の先に、自分たちで選んだ時間が、ようやく形になろうとしていた。
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