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第22話 満席のカウンター
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グルメ企画の初日、朝のアーケードは、いつもより少しだけ早口だった。
パン屋の前には、焼きたての香りに誘われた人の列。
和菓子屋では、限定どら焼きの札がぶら下がり、八百屋の店先には「本日サービス品」と書かれた段ボールが積み上がっている。
その真ん中で、みつよ食堂の前だけ、ひときわ目立っていた。
まだ暖簾も掛かっていないのに、ガラス戸の前には、すでに数人の人影が立っている。
戸の横に貼られたポスターの前で、「これこれ」と指を差す人。
入り口のブラックボードに書かれた「お腹、空いてますか」の文字を、楽しそうに読み上げる子ども。
「……ほんとに、並んでる」
内側からガラス戸を拭きながら、桜子は思わずつぶやいた。
ポスターの中の自分と目が合う。
そこでは、エプロン姿で皿の横に立つ自分が、少しだけ肩の力を抜いて笑っていた。
「そりゃ並ぶよ」
後ろから、美津代の声がする。
「“お腹空いてる人、いらっしゃい”って看板出してるんだから。
空いてる人から飛び込んでくるさ」
「それにしたって、開店前からは想像してませんでした」
「想像以上になるのが、祭りの日ってもんだよ」
「祭りって言い切りましたね」
「だってそうじゃない。
今日のうちは、“腹の鳴るほうが正義”の日だよ」
厨房では、すでに準備が整っていた。
コンロの上には、スープの鍋とソースの鍋がずらりと並び、炊飯器は二台体制。
カウンターの端には、「手のひらシンデレラ」用のグラスと小鉢が、整列して出番を待っている。
「伝票、増量しておきました」
雄之が、伝票ホルダーを掲げる。
「昨日のままだと、途中で紙切れそうだったから」
「見た目以上に用意が細かいですね」
「見た目で損してるタイプなんで。
せめて中身くらいはきっちりしてないと」
ぶっきらぼうな言い方なのに、どこか嬉しそうだ。
琉叶は、コンロの前で深呼吸を一つした。
包帯はもう取れているが、その指先には、まだ薄く傷痕が残っている。
木べらを握る手つきは、いつもより少しだけ慎重だった。
「大丈夫?」
桜子が、横に並んで小声で尋ねる。
「はい。
皿の数が増えるだけです」
「“だけ”って言い方」
「忙しい日も、やることは変わりませんから」
瑞々しい野菜をざるに上げながら、琉叶は静かに言う。
「一皿ずつ、お腹の空き具合に合わせて送り出すだけです」
その言葉に、桜子の胸の中の緊張が、少しだけ形を変えた。
怖さから、楽しみに近いものへと。
*
時計が十一時を回ったところで、暖簾が外からそっと持ち上げられた。
ガラス戸を引き、最初の客が一歩踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
桜子の声が、いつもより少しだけ大きく響いた。
自分の声が、店内の木の壁に跳ね返る。
心臓が、どくんと跳ねた。
続いて、二人組、三人組と、客が次々と入ってくる。
カウンター席から埋まり、四人掛けのテーブルもあっという間に埋まっていった。
「ポスター見てきたんです」
カウンターに座った女性が、メニューを開きながら言う。
「“手のひらシンデレラ”、まだありますか」
「ございます」
桜子は、笑顔を絶やさずに頷いた。
「数量限定ですが、今でしたら大丈夫です」
「こっちも、それ二つ」
隣の席から声が飛ぶ。
「あと、普通の定食も食べたいので、シンデレラ一つ追加で」
「シンデレラ三で、定食がお決まりになりましたらお呼びください」
伝票に走り書きしながら、カウンターの内側へ声を飛ばす。
「シンデレラ三入りましたー」
「はーい」
琉叶の返事も、いつもより少しだけ強い。
グラスと小鉢を、一皿分ずつ丁寧に並べていく。
手のひらサイズの器たちが、まるで小さな行列を作るようにカウンターの上を進んでいった。
「桜子」
美津代が、流しの前から声をかける。
「伝票は、まとめすぎないこと。
一人ひとり、“どんなふうにお腹空かせてきたか”だけ覚えてて」
「全部ですか」
「全部は無理でも、印象の一つ二つは拾える」
皿を拭きながら、美津代は続ける。
「“急いでそう”“ゆっくりしたそう”“初めて来た顔”“前にも来たことある目”。
そういうの、皿の出し方に全部出るから」
「了解です」
桜子は、客席をぐるりと見渡した。
腕時計をちらちら気にするスーツ姿。
メニューの写真を、目を輝かせながら眺める親子。
ガラス戸のポスターと、カウンターの本物の皿を交互に見比べている大学生らしきグループ。
一枚のポスターの中でしか見えなかった「今日」が、目の前で立体的に動いている。
*
「お待たせしました。
シンデレラ定食、三つです」
カウンターから客席へ、小さな行列が移動していく。
中央のグラス、その周りの小鉢たち。
皿をおいた瞬間、テーブルの空気が少しだけ明るくなる。
「わあ、かわいい」
「どこから食べるか迷う」
「写真、撮っていいですか」
「どうぞ。
そのかわり、冷める前にも食べてあげてくださいね」
桜子がそう言うと、客の笑顔がさらに広がった。
ふと、カウンターの端に座る一人客の姿が目に入る。
スーツ姿の男性が、ポスターと実物の皿をじっと見比べていた。
「写真と同じですね」
そう言われて、桜子は一瞬だけ言葉に詰まる。
「写真より……」
その先を続けるのは、自分の役目ではない気がした。
「写真より、手が届きやすいですよ」
代わりに声を出したのは、カウンターの中の人だった。
琉叶が、まかない用の味噌汁の鍋をかき混ぜながら、ちらりとこちらを見る。
「写真は、飾って眺めてるだけですけど。
これは、ちゃんとお腹に入りますから」
その言葉に、男性は少し驚いたように目を瞬かせ、それから笑った。
「たしかに。
じゃあ、遠慮なく」
箸が、小さな器に伸びていく。
*
昼のピークが来ると、店内は完全に満席になった。
カウンターの椅子は、空席ができるたびに新しい客で埋まり、テーブル席では、「次、どれ食べる?」という声が飛び交う。
「シンデレラ二と、焼き魚定食一、入りましたー」
「はいよー」
「こっちシンデレラ四でーす」
「四!? まかせろ」
声と、皿と、湯気と、笑い声。
その全部が、ひとつの場所でぐるぐると回っている。
「……すごいな」
忙しい合間を縫って、雄之がカウンターの端に立った。
自分の店の仕込みを早めに切り上げ、様子を見に来たらしい。
「どうですか。
うちの“シンデレラ騒ぎ”は」
桜子が息を整えながら尋ねると、雄之は少しだけ肩をすくめた。
「味はともかく」
「ちょっと」
即座にツッコミが入った。
「まだ最後まで聞いて」
「はい」
「味はともかく」
わざと二度繰り返してから、雄之は続ける。
「空気は、悪くない」
一瞬、何と返していいのかわからなくなる言い方だ。
けれど、雄之の顔は、明らかに楽しそうだった。
「“悪くない”って、最高級の褒め言葉だからね、あの人の場合」
横から実記が小声で解説を入れる。
「“いい”って言ったら照れるから、ああやって逃がしてるだけ」
「解説やめろ」
雄之は、耳まで赤くしながら視線をそらす。
「でもまあ……」
客席を見回し、少しだけ息を吐いた。
「ちゃんと、ここに人が集まってるのは、事実だから」
その言い方は、いつになく素直だった。
「よかったですね」
桜子がそう言うと、雄之は首を振る。
「“よかった”のは、これからでしょ。
今日はただのスタート。
ここから、“また来たい”って言われるかどうかが、本番だよ」
「プレッシャーかけないでください」
「期待してるだけ。
プレッシャーは、自分で勝手に感じて」
雄之は、スケッチブックを胸に抱え直す。
その表紙には、「シンデレラ定食レポート(仮)」と、書きかけのタイトルが見えた。
*
忙しさの波が最高潮に達したころ、桜子はふと、自分の足元を意識した。
白い靴下とスニーカー。
昨日ポスターを見たときから、何度も目にした組み合わせだ。
けれど、こうして客席と厨房の間を何往復もしているうちに、その足元が「仕事の制服」の一部になっているのを実感する。
(ああ、本当に、この店の人になったんだな)
伝票を片手に走り回りながら、そんなことを考える余裕がある自分にも驚いた。
右手で皿を運び、左手でグラスを受け取り、空いた皿を下げる。
動きが、少しずつ身体に馴染んでいく。
カウンターの向こうでは、美津代が、一皿一皿に必ず「間」を入れていた。
どれだけ注文が重なっても、最後に必ず全体を見渡す。
グラスの高さ、小鉢の向き、ご飯のこんもり具合。
その全部を一瞬で確認してから、「はいよ」と皿を送り出す。
「忙しいですね」
タイミングを見計らって声をかけると、美津代は笑った。
「忙しいけど、雑にはならない。
それが、うちの自慢だから」
「自慢、ですか」
「そう。
“忙しいから仕方ないよね”って顔して出した皿って、自分で後から思い出しても、あんまり嬉しくないの。
だから、どんなときでも、“これなら胸張れる”って皿で終わらせたい」
その言葉に、桜子は、カウンターの内側で動く手をじっと見つめた。
火傷の痕や小さな傷が刻まれた手が、慣れた動きで器をつかみ、箸で具材をつまみ、最後にふっと力を抜いて皿を送り出す。
すべての動作が、「ここから先は、あなたたちの時間ですよ」と言っているようだった。
*
気づけば、昼のピークは過ぎていた。
それでも、カウンターの席は、途切れることなく埋まり続けている。
テーブル席では、食後のコーヒーを飲みながら、ポスターの話をしている人たちもいた。
「ねえ」
伝票整理をしながら、桜子は勇一に声をかけた。
「“満席のカウンター”って、こういう景色のことなんですね」
「そうだよ」
勇一は、スケッチブックに走り書きをしながら頷く。
「席が埋まってること以上にさ。
そこに座ってる人たちが、“ここにいていい”って顔してるかどうかが、大事なんだと思う」
カウンターの客たちは、それぞれ違う表情をしていた。
疲れをほぐすように湯気を見つめる人。
友だちと小声で感想を言い合う人。
ポスターのコピーを指でなぞりながら、「今度は誰連れてこようかな」とつぶやく人。
その全部が、「ここにいていい」と言っているように見えた。
「……満席ですね」
桜子は、改めてカウンターを見渡した。
「はい」
琉叶の声が、鍋の湯気越しに返ってくる。
「でも、まだ座れる場所はあります」
「え?」
「ほら」
琉叶は、桜子のほうを見ずに、皿を一枚カウンターに置いた。
「ここ。
“ここに立ってる人”の席は、いつでも空けてありますから」
一瞬、意味がわからなかった。
けれど、視線を皿と自分の足元に往復させたとき、ようやく気づいた。
カウンターの内側には、桜子の立ち位置がある。
そこには、椅子はない。
それでも、「ここにいる」という実感は、どの席よりもはっきりしていた。
「……じゃあ、私は、ここに座らずに立ってます」
そう答えると、琉叶は小さく笑った。
「はい。
立ちっぱなしのシンデレラさん、よろしくお願いします」
満席のカウンター。
その内側に一つだけ空いている「席」は、白い靴下とスニーカーで、今日も忙しく動き続けていた。
パン屋の前には、焼きたての香りに誘われた人の列。
和菓子屋では、限定どら焼きの札がぶら下がり、八百屋の店先には「本日サービス品」と書かれた段ボールが積み上がっている。
その真ん中で、みつよ食堂の前だけ、ひときわ目立っていた。
まだ暖簾も掛かっていないのに、ガラス戸の前には、すでに数人の人影が立っている。
戸の横に貼られたポスターの前で、「これこれ」と指を差す人。
入り口のブラックボードに書かれた「お腹、空いてますか」の文字を、楽しそうに読み上げる子ども。
「……ほんとに、並んでる」
内側からガラス戸を拭きながら、桜子は思わずつぶやいた。
ポスターの中の自分と目が合う。
そこでは、エプロン姿で皿の横に立つ自分が、少しだけ肩の力を抜いて笑っていた。
「そりゃ並ぶよ」
後ろから、美津代の声がする。
「“お腹空いてる人、いらっしゃい”って看板出してるんだから。
空いてる人から飛び込んでくるさ」
「それにしたって、開店前からは想像してませんでした」
「想像以上になるのが、祭りの日ってもんだよ」
「祭りって言い切りましたね」
「だってそうじゃない。
今日のうちは、“腹の鳴るほうが正義”の日だよ」
厨房では、すでに準備が整っていた。
コンロの上には、スープの鍋とソースの鍋がずらりと並び、炊飯器は二台体制。
カウンターの端には、「手のひらシンデレラ」用のグラスと小鉢が、整列して出番を待っている。
「伝票、増量しておきました」
雄之が、伝票ホルダーを掲げる。
「昨日のままだと、途中で紙切れそうだったから」
「見た目以上に用意が細かいですね」
「見た目で損してるタイプなんで。
せめて中身くらいはきっちりしてないと」
ぶっきらぼうな言い方なのに、どこか嬉しそうだ。
琉叶は、コンロの前で深呼吸を一つした。
包帯はもう取れているが、その指先には、まだ薄く傷痕が残っている。
木べらを握る手つきは、いつもより少しだけ慎重だった。
「大丈夫?」
桜子が、横に並んで小声で尋ねる。
「はい。
皿の数が増えるだけです」
「“だけ”って言い方」
「忙しい日も、やることは変わりませんから」
瑞々しい野菜をざるに上げながら、琉叶は静かに言う。
「一皿ずつ、お腹の空き具合に合わせて送り出すだけです」
その言葉に、桜子の胸の中の緊張が、少しだけ形を変えた。
怖さから、楽しみに近いものへと。
*
時計が十一時を回ったところで、暖簾が外からそっと持ち上げられた。
ガラス戸を引き、最初の客が一歩踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
桜子の声が、いつもより少しだけ大きく響いた。
自分の声が、店内の木の壁に跳ね返る。
心臓が、どくんと跳ねた。
続いて、二人組、三人組と、客が次々と入ってくる。
カウンター席から埋まり、四人掛けのテーブルもあっという間に埋まっていった。
「ポスター見てきたんです」
カウンターに座った女性が、メニューを開きながら言う。
「“手のひらシンデレラ”、まだありますか」
「ございます」
桜子は、笑顔を絶やさずに頷いた。
「数量限定ですが、今でしたら大丈夫です」
「こっちも、それ二つ」
隣の席から声が飛ぶ。
「あと、普通の定食も食べたいので、シンデレラ一つ追加で」
「シンデレラ三で、定食がお決まりになりましたらお呼びください」
伝票に走り書きしながら、カウンターの内側へ声を飛ばす。
「シンデレラ三入りましたー」
「はーい」
琉叶の返事も、いつもより少しだけ強い。
グラスと小鉢を、一皿分ずつ丁寧に並べていく。
手のひらサイズの器たちが、まるで小さな行列を作るようにカウンターの上を進んでいった。
「桜子」
美津代が、流しの前から声をかける。
「伝票は、まとめすぎないこと。
一人ひとり、“どんなふうにお腹空かせてきたか”だけ覚えてて」
「全部ですか」
「全部は無理でも、印象の一つ二つは拾える」
皿を拭きながら、美津代は続ける。
「“急いでそう”“ゆっくりしたそう”“初めて来た顔”“前にも来たことある目”。
そういうの、皿の出し方に全部出るから」
「了解です」
桜子は、客席をぐるりと見渡した。
腕時計をちらちら気にするスーツ姿。
メニューの写真を、目を輝かせながら眺める親子。
ガラス戸のポスターと、カウンターの本物の皿を交互に見比べている大学生らしきグループ。
一枚のポスターの中でしか見えなかった「今日」が、目の前で立体的に動いている。
*
「お待たせしました。
シンデレラ定食、三つです」
カウンターから客席へ、小さな行列が移動していく。
中央のグラス、その周りの小鉢たち。
皿をおいた瞬間、テーブルの空気が少しだけ明るくなる。
「わあ、かわいい」
「どこから食べるか迷う」
「写真、撮っていいですか」
「どうぞ。
そのかわり、冷める前にも食べてあげてくださいね」
桜子がそう言うと、客の笑顔がさらに広がった。
ふと、カウンターの端に座る一人客の姿が目に入る。
スーツ姿の男性が、ポスターと実物の皿をじっと見比べていた。
「写真と同じですね」
そう言われて、桜子は一瞬だけ言葉に詰まる。
「写真より……」
その先を続けるのは、自分の役目ではない気がした。
「写真より、手が届きやすいですよ」
代わりに声を出したのは、カウンターの中の人だった。
琉叶が、まかない用の味噌汁の鍋をかき混ぜながら、ちらりとこちらを見る。
「写真は、飾って眺めてるだけですけど。
これは、ちゃんとお腹に入りますから」
その言葉に、男性は少し驚いたように目を瞬かせ、それから笑った。
「たしかに。
じゃあ、遠慮なく」
箸が、小さな器に伸びていく。
*
昼のピークが来ると、店内は完全に満席になった。
カウンターの椅子は、空席ができるたびに新しい客で埋まり、テーブル席では、「次、どれ食べる?」という声が飛び交う。
「シンデレラ二と、焼き魚定食一、入りましたー」
「はいよー」
「こっちシンデレラ四でーす」
「四!? まかせろ」
声と、皿と、湯気と、笑い声。
その全部が、ひとつの場所でぐるぐると回っている。
「……すごいな」
忙しい合間を縫って、雄之がカウンターの端に立った。
自分の店の仕込みを早めに切り上げ、様子を見に来たらしい。
「どうですか。
うちの“シンデレラ騒ぎ”は」
桜子が息を整えながら尋ねると、雄之は少しだけ肩をすくめた。
「味はともかく」
「ちょっと」
即座にツッコミが入った。
「まだ最後まで聞いて」
「はい」
「味はともかく」
わざと二度繰り返してから、雄之は続ける。
「空気は、悪くない」
一瞬、何と返していいのかわからなくなる言い方だ。
けれど、雄之の顔は、明らかに楽しそうだった。
「“悪くない”って、最高級の褒め言葉だからね、あの人の場合」
横から実記が小声で解説を入れる。
「“いい”って言ったら照れるから、ああやって逃がしてるだけ」
「解説やめろ」
雄之は、耳まで赤くしながら視線をそらす。
「でもまあ……」
客席を見回し、少しだけ息を吐いた。
「ちゃんと、ここに人が集まってるのは、事実だから」
その言い方は、いつになく素直だった。
「よかったですね」
桜子がそう言うと、雄之は首を振る。
「“よかった”のは、これからでしょ。
今日はただのスタート。
ここから、“また来たい”って言われるかどうかが、本番だよ」
「プレッシャーかけないでください」
「期待してるだけ。
プレッシャーは、自分で勝手に感じて」
雄之は、スケッチブックを胸に抱え直す。
その表紙には、「シンデレラ定食レポート(仮)」と、書きかけのタイトルが見えた。
*
忙しさの波が最高潮に達したころ、桜子はふと、自分の足元を意識した。
白い靴下とスニーカー。
昨日ポスターを見たときから、何度も目にした組み合わせだ。
けれど、こうして客席と厨房の間を何往復もしているうちに、その足元が「仕事の制服」の一部になっているのを実感する。
(ああ、本当に、この店の人になったんだな)
伝票を片手に走り回りながら、そんなことを考える余裕がある自分にも驚いた。
右手で皿を運び、左手でグラスを受け取り、空いた皿を下げる。
動きが、少しずつ身体に馴染んでいく。
カウンターの向こうでは、美津代が、一皿一皿に必ず「間」を入れていた。
どれだけ注文が重なっても、最後に必ず全体を見渡す。
グラスの高さ、小鉢の向き、ご飯のこんもり具合。
その全部を一瞬で確認してから、「はいよ」と皿を送り出す。
「忙しいですね」
タイミングを見計らって声をかけると、美津代は笑った。
「忙しいけど、雑にはならない。
それが、うちの自慢だから」
「自慢、ですか」
「そう。
“忙しいから仕方ないよね”って顔して出した皿って、自分で後から思い出しても、あんまり嬉しくないの。
だから、どんなときでも、“これなら胸張れる”って皿で終わらせたい」
その言葉に、桜子は、カウンターの内側で動く手をじっと見つめた。
火傷の痕や小さな傷が刻まれた手が、慣れた動きで器をつかみ、箸で具材をつまみ、最後にふっと力を抜いて皿を送り出す。
すべての動作が、「ここから先は、あなたたちの時間ですよ」と言っているようだった。
*
気づけば、昼のピークは過ぎていた。
それでも、カウンターの席は、途切れることなく埋まり続けている。
テーブル席では、食後のコーヒーを飲みながら、ポスターの話をしている人たちもいた。
「ねえ」
伝票整理をしながら、桜子は勇一に声をかけた。
「“満席のカウンター”って、こういう景色のことなんですね」
「そうだよ」
勇一は、スケッチブックに走り書きをしながら頷く。
「席が埋まってること以上にさ。
そこに座ってる人たちが、“ここにいていい”って顔してるかどうかが、大事なんだと思う」
カウンターの客たちは、それぞれ違う表情をしていた。
疲れをほぐすように湯気を見つめる人。
友だちと小声で感想を言い合う人。
ポスターのコピーを指でなぞりながら、「今度は誰連れてこようかな」とつぶやく人。
その全部が、「ここにいていい」と言っているように見えた。
「……満席ですね」
桜子は、改めてカウンターを見渡した。
「はい」
琉叶の声が、鍋の湯気越しに返ってくる。
「でも、まだ座れる場所はあります」
「え?」
「ほら」
琉叶は、桜子のほうを見ずに、皿を一枚カウンターに置いた。
「ここ。
“ここに立ってる人”の席は、いつでも空けてありますから」
一瞬、意味がわからなかった。
けれど、視線を皿と自分の足元に往復させたとき、ようやく気づいた。
カウンターの内側には、桜子の立ち位置がある。
そこには、椅子はない。
それでも、「ここにいる」という実感は、どの席よりもはっきりしていた。
「……じゃあ、私は、ここに座らずに立ってます」
そう答えると、琉叶は小さく笑った。
「はい。
立ちっぱなしのシンデレラさん、よろしくお願いします」
満席のカウンター。
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