残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第23話 手が足りない夜

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 グルメ企画が始まって三日目の夜、みつよ食堂の時計は、いつもよりずっと早く壊れたみたいに感じられた。
 針はちゃんと動いているのに、時間の感覚だけが、どこか遠くに置いていかれている。

「シンデレラ二と、唐揚げ定食三、入りましたー!」
「はいよー」
「こっち、シンデレラ四と焼き魚二!」
「四!? 了解!」

 ホールと厨房を行き交う声が、店内の天井にぶつかっては跳ね返る。
 テーブル席は満席。
 カウンター席も、さっきから一度も空にならない。
 入口横の椅子で、順番待ちをしている客までいる状態だった。

「お待たせしてすみません。
 順番にお作りしてますので……」
 桜子は、伝票を片手に何度も頭を下げる。
 白いスニーカーが、床の木目を擦り減らす勢いで動き回っていた。

「大丈夫大丈夫。
 “お腹空いてるから来た”んでしょ、うちら」
 四人組の女性客の一人が、笑って手を振る。
「空きすぎて倒れる前には、きっと出てくるって信じてます」
「がんばります」
 その言葉に、桜子の背筋が自然と伸びた。

 厨房では、コンロがフル稼働している。
 フライパンの油がパチパチと跳ね、鍋の蓋が小さく震える。
 炊飯器の蓋は、何度目かの「保温から炊飯へ」を繰り返していた。

「ご飯、あと一回で今日の仕込み分終わりです!」
 桜子が叫ぶと、琉叶がすぐに返す。
「了解しました。
 その前に、すでに注文いただいてる分を優先します」
「はい!」

 そう答えながらも、桜子の頭の中では、目の前の伝票と、入口の待ち椅子と、厨房の鍋の数が、同時に並んでいた。
(この感じ……完全に、手が足りてない)

     *

 その予感は、ほどなくして現実になった。

「すみません、水、もう一杯いいですか」
「あ、はい! すぐに!」
 奥のテーブルから声が飛ぶ。
 同時に、カウンターの端からも声。

「お皿、下げて大丈夫です」
「こちらも、お会計お願いしまーす」

「桜子」
 カウンターの中から、美津代が呼ぶ。
「揚げ場、今の注文だけでもうパンパン。
 皿下げと水と会計、全部一度には無理だよ」
「わかってます。
 でも、なんとか――」

 そう言いかけたところで、厨房の奥から、短い息が漏れた。

「……っ」

 振り向くと、琉叶が一瞬だけ顔をしかめている。
 包帯は外れているはずなのに、その手の甲にうっすらと赤い滲みが見えた。

「琉叶さん!」
「大丈夫です。
 ちょっと熱かっただけです」
「“ちょっと熱かった”って、一番信用できないやつです!」
 思わず声が強くなる。
「冷やしてください!」
「でも、今離れると――」
「離れてください!」

 そのやりとりを聞きつけたのか、カウンター席のほうから、ひょいと手が上がった。

「じゃあ、ちょっとだけ借りるね」

 声の主は、見覚えのある女性だった。
 少し前に、「失恋した夜」に一人でシンデレラ定食を食べに来ていたあの人だ。
 今日は友人らしき人と二人でカウンターに座っていた。

「えっと……」
「皿、下げていいところから、下げちゃっていい?」
 女性は、立ち上がりながら聞く。
「“失恋シンデレラ”です。
 覚えてる?」
「覚えてますけど!」
 名前のインパクトが強すぎて、思わず素で返事をしてしまう。

「前にここで、“もうちょっとだけ頑張ってみるか”って気持ちになれたから。
 今日は、その分ちょっと返させてよ」
 女性は、カウンターに置かれていた空の皿を手際よく重ね始める。
「ホールの動線、邪魔しないように動くから」
「でも、お客さんにそんなこと――」
「“お腹空いてる人、いらっしゃい”って店なんでしょ。
 お腹満たされた側も、たまには動いていいんじゃない?」

 その言葉に、桜子は返す言葉を一瞬失った。
 胸のどこかが、じんわりと熱くなる。

「……ありがとうございます。
 じゃあ、カウンター側の空いた皿だけ、お願いしてもいいですか」
「任せて」
 女性は、袖を軽くまくり上げ、カウンター席をひとつひとつ回り始めた。

     *

 その動きに、連鎖はすぐに起きた。

「すみませーん。
 こっち、グラス集めちゃっていいですか?」
 四人掛けテーブルの若い男性が、トレーを片手に立ち上がる。
「前にここで、二日酔いを救ってもらった身としては、今日くらい働かせてください」

「私、洗い場ならいけます」
 入口近くの席からは、主婦らしき人が手を挙げた。
「職場体験で中学生がいつもやってるやつですよね。
 任せてください」

 いつの間にか、客席のあちこちで、「ちょっとこれ持ちます」「そこ、拭いておきますね」といった声が飛び交い始めた。
 ほんの数分前まで、「待たせてしまって申し訳ない」と思っていた人たちが、自分から動き出している。

「……これ、何が起きてるんですか」
 桜子は、半ば呆然とつぶやいた。
「恩返しの連鎖」
 勇一が、スケッチブックを抱えながらニヤリと笑う。
「こういうの、ネームに描こうとすると嘘っぽくなるんだよなあ」
「現実で起きてるから、嘘っぽくてもいいんです」
「名言きた」

 実記は、洗い場のほうに目を向けた。
 さっき手を挙げた主婦らしき人が、エプロンを借りて、慣れた手つきで食器を洗っている。
 その横で、勇一も袖をまくり、スポンジを手にしていた。

「勇一、原稿は」
「締め切りより、目の前の皿が優先」
「それ、担当さんに聞かせてあげたい」

     *

 そのあいだにも、厨房の熱は下がらない。
 フライパンの上で、唐揚げがこんがりと色づき、鍋の中ではスープが静かに煮立っている。

「冷やしました」
 流し台から戻ってきた琉叶の手には、氷で冷やした跡が残っていた。
 その指先の一部が、赤くなっている。
「ほんとに大丈夫?」
「はい。
 さっきよりましです」
「“さっきよりまし”も、信用できないやつです」
「厳しいですね」
「厳しくする人がいなかったら、自分で自分を甘やかしますから」
 桜子は、少しだけ笑ってみせた。

「じゃあ、こうしましょう」
 琉叶は、まな板の前から半歩下がる。
「揚げ場と強火のコンロは、今日だけ雄之さんに任せます。
 僕は、盛りつけと味見に専念します」
「いいんですか」
「はい。
 今の僕が一番まっすぐ動けるのは、多分そこなので」

 その言葉に、美津代が、ふっと目を細めた。
「ようやく、そういうこと言えるようになったじゃない」
「え?」
「“全部自分でやらなきゃ”って顔、前より減ったよ」
 揚げたての唐揚げをバットに上げながら、美津代は言う。
「手が足りないときに、“誰ならここを任せられるか”って考えられるようになったら、そっから先が本当の意味での“料理人”だよ」

 琉叶は、一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
「はい」
 そして、カウンターに並ぶ器たちに向かい合う。
 まるで、再配置された戦場を見渡す司令官のように。

     *

 手が足りない夜は、いつの間にか、「手を出してくれる人」で満ちていた。

「水、これで全部行き渡りました!」
「皿、こっち側は全部下がりました!」
「洗い場、あと二回転分で追いつきます!」

 桜子の頭の中の「足りないリスト」が、ひとつ、またひとつと消えていく。
 そのたびに、胸の奥に小さな火が灯る。
(ああ、私、一人で戦ってたわけじゃないんだ)

 カウンターの中では、琉叶が、一皿ずつ皿の顔を整えていた。
 グラスの高さ、小鉢の向き、ご飯の盛り加減。
 忙しさの真ん中でも、その「一拍」を忘れない。

「はい、シンデレラ二、唐揚げ三、出ます」
「受け取ります!」
 桜子は、トレイを抱えてカウンターを飛び出す。
 テーブルに皿を置く瞬間、客の表情が変わる。
 空腹の色から、「届いた」という安堵の色へと。

「お待たせしました」
「いえいえ。
 この忙しさで、これだけちゃんとしてたら十分ですよ」
 そう言って笑う客の顔を見ていると、涙腺がまた危険なラインを越えそうになる。

「泣くのは、玉ねぎの前だけにしな」
 後ろから、美津代の声が飛んでくる。
「はい」
「でも、泣きそうになるくらいなら、悪くないよ。
 それだけ、“ここにいたい”って思ってる証拠だから」

     *

 ピークが少し落ち着いたころ、入口のブラックボードが目に入った。
 「お腹、空いてますか」の文字。
 その下に、小さくチョークで書き足された一行がある。

『お手すきの方、ちょっとだけ手もお貸しください』

「これ、いつ書き足したんですか」
 桜子が尋ねると、勇一が手を挙げた。
「さっき。
 見た人たち、わりと素直に手を貸してくれてるでしょ」
「ほんとに。
 こんなに素直に伝わるとは思ってませんでした」
「“手が足りない”って言葉、隠さず出したほうがいいときもあるんだよ」
 実記が、空になったマグカップを片づけながら言う。
「誰だって、“ここ好きだな”って思った場所が困ってたら、ちょっとは何かしたくなるから」

 その言葉に、桜子は、自分の胸の奥をそっと覗き込んだ。
(私も、そうだった)

 初めてこの店のまかないを食べた日。
 シンデレラ定食の試作品を一緒に囲んだ日。
 包帯を巻いた手を見て、「この手が好きだ」と思った日。

 その全部が、「何か返したい」という気持ちにつながっている。

「……私」
 気づけば、声が出ていた。
「ここで、いっぱい受け取ってたんですね」
「今さら?」
 美津代が、唐揚げ用のレモンを切りながら笑う。
「でも、気づくタイミングとしては悪くないね。
 “返す番だ”って思ったときに、手を動かせる場所にいるんだから」

 桜子は、自分の手のひらを見下ろした。
 少し赤くなった指先、小さな傷痕、洗い物で乾燥した甲。
 そこには、「ここで過ごした時間」がそのまま刻まれている。

「……はい」
 自然と、笑みが浮かんだ。
「ここ、私の居場所ですから」

 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
 それでも、厨房の音が、ほんの一瞬だけ静かになった気がした。

「じゃあ」
 琉叶が、鍋の前から顔を上げる。
「“居場所のホール係”さん。
 次のシンデレラ四、お願いします」
「喜んで」
 桜子は、胸の前で軽く拳を握ると、再び客席へと走り出した。

 手が足りない夜。
 それでも、ここには、手を伸ばしてくれる人がいる。
 受け取ったものを返すために動く手と、「ここにいていい」と背中を押す手が。

 白い靴下とスニーカーの足音が、満席のカウンターの内側で、今日も忙しく響き続けていた。
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