残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第24話 記事になる恋とごはん

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 グルメ企画が始まって一週間。
 みつよ食堂のカウンターの端は、すっかり私の「仮デスク」になっていた。

 ノートパソコン。
 取材メモがぎっしり詰まったノート。
 湯気の立つ味噌汁。
 いつもの私なら、ここに紙コップのコーヒーが加わるところだけど、さすがにこの店でそれをやる勇気はない。

「インスタント持ち込んだら、出禁にするからね」
 初日に釘を刺したのは、美津代さんだ。
「ここは、お茶と味噌汁とスープの守備範囲だから」
「守備範囲って言い方、好きです」
「でしょ」

 だから私は、今日もカウンターに味噌汁を置いている。
 わかめと豆腐と、少し多めの葱。
 スプーンではなく箸で飲む味噌汁を横目に見ながら、キーボードを叩く。

 画面の上には、特集記事の仮タイトルが光っていた。

 ――「奪う恋じゃなくて、分け合うごはん」。

 打ったのは自分の指なのに、時々こそばゆくなる。

     *

 商店街の広報誌と、街の情報サイトが一緒に進めているグルメ企画。
 その特集記事の一部を、私が任されたのは、たぶん偶然だけじゃない。

 編集長曰く。
「例の“シンデレラ定食”のポスター企画、取材に行ってるんだろ。
 せっかくだから、現場の空気ごと持ってきてよ」

 現場の空気、ねえ。

 そう思いながら、画面に向き直る。
 ポスターのコピーに使われた言葉、カウンターに貼られた小さなカード、ブラックボードの「お腹、空いてますか」。
 ここ数日でメモしたフレーズが、頭の中でぐるぐる回っている。

 キーボードの上で指を止めて、店内を見渡した。

 昼のピークを過ぎたみつよ食堂は、少しだけ深呼吸をしている。
 カウンターの半分は常連で埋まり、奥のテーブル席では、商店街の人たちが遅い昼食をとっていた。

 その真ん中で、桜子ちゃんが伝票を片手に動いている。
 白い靴下とスニーカー。
 例のポスターそのままの足元だ。

 カウンターの内側では、琉叶くんが鍋の火加減を見ていた。
 包帯はもう取れている。
 けれど、その指先には、まだかすかな赤みが残っている。

(うん。
 やっぱり、この視点で書こう)

 私は、キーボードに手を戻した。

     *

 ――「満席のカウンターの内側には、ひとつだけ椅子のない席がある」

 冒頭の一文を書き込む。
 自分で書いておきながら、「ちょっと気取ってるかな」と苦笑する。

 続けて、あの日のことを思い出す。
 グルメ企画初日、満席のカウンター、入口で待つ人たち。
 手が足りなくなった夜に、客席から伸びてきた手。

 洗い場を手伝った人。
 皿を下げてくれた人。
 水を運んでくれた人。

 ここ数日で、この店には何度「ありがとう」が飛び交っただろう。

 記事の中で、その全部を名前付きで紹介することはできない。
 それでも、いくつかのエピソードを抜き取って、文章にすることはできる。

 私は、ノートをめくりながらキーを打った。

 ――「前の恋が終わった夜、“何も食べたくない”と言いながら入ってきた人がいる」。

 あの「失恋シンデレラ」さん。
 唐揚げのレモンを絞りすぎて、酸っぱさで泣いていた人。

 ――「その人は、数日後、“今日は手伝わせてください”と言って皿を下げ始めた」。

 キャッチーな見出しにするなら、「失恋からの立ち直り物語」なんて書き方もある。
 けれど、それだけじゃない気がして、私はわざとその言葉を避けた。

 失恋も、残業も、家事も、育児も。
 いろんな疲れを抱えて、「お腹空いた」とここに来る人たち。

 その誰かの皿を、ときどき別の誰かが手伝って下げる。
 そういう光景が、ここでは自然に起きる。

 それを、「恋バナ」だけで括ってしまうのは、もったいない。

     *

 味噌汁を一口飲んでから、私は記事のタイトルの下に、小さく見出しを打ち込んだ。

 ――「二番目の恋人、という言葉は使わない」。

 先週の編集会議で、編集長が嬉々として言ったのを思い出す。
「こういうのってさ、“二番目の恋人は定食屋でした”みたいな見出し、強いんだよ。
 惹きがある」

 たしかに、惹きはある。
 クリック数も取れそうだ。
 だけど、どこか違う。

 あのとき私は、会議室の端で手を挙げた。

「すみません。
 その言葉、使わないほうがいいと思います」

 編集長が、意外そうな顔でこちらを見る。
「どうして。
 別に、悪い意味じゃないよ。
 “恋人”が一番で、その次に“心の拠りどころとしての定食屋”って意味で――」

「その順番が、違うんだと思います」
 気づいたら、口が勝手に動いていた。

「ここに来る人は、誰かの一番になれなくて、二番目で我慢してるわけじゃないから。
 お腹空いて、ちゃんと食べたいときに、ここに来るだけで。
 それを“二番目の恋人”って言われるの、たぶん店のみんなが嫌がります」

 言いながら、頭の中では桜子ちゃんと琉叶くんの顔を思い浮かべていた。
 カウンター越しの「おいしいです」と「よかった」が、恋人ごっこみたいに扱われるのは、やっぱり違う。

「……なるほどね」
 編集長は、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、“恋人”って単語自体を外して、別の切り口を探そうか」

 そのとき、パソコンの画面の隅に、ポスターのコピー案が視界に入った。

『今日くらい、自分の手で選んでいい』

 あの言葉を考えたときの桜子ちゃんの顔。
 それを聞いた瞬間に、少しだけ肩の力を抜いた琉叶くんの表情。

 思い出した途端、タイトルがひとつ浮かんだ。

「奪う恋じゃなくて、分け合うごはん、はどうですか」

 自分でも、どうして「恋」という単語を残したのか、はっきりとは説明できない。
 ただ、「恋」と「ごはん」を同じ皿の上に並べたかった。

「奪う恋」より、「分け合うごはん」のほうが、ずっと腹持ちがいい。

 そんな感覚だけが、妙にすとんと胸に落ちた。

「いいじゃない。
 ちょっと長いけど」
 編集長は笑って、すぐにホワイトボードにその言葉を書いた。
「じゃあ、その方向でいこう。
 本文、期待してるから」

     *

 カウンターの端で、その続きを書きながら、私は時々視線を上げる。

 桜子ちゃんが、お冷やを運んでいる。
 琉叶くんが、まかない用の味噌汁の味を見ている。
 美津代さんが、満席の店内を一瞬で見渡して、「大丈夫、大丈夫」と小さく頷いている。

 その光景を、私は「恋」だとは呼びたくなかった。
 でも、「好きな場所」とか「大事な関係」と言うだけでは、どうしても足りない気もしていた。

 だから、記事の中では、こう書くことにした。

 ――「奪い合わない恋は、案外、ごはんと一緒に出てくる」。

 なんて、それっぽくまとめたけれど。

「実記」
 隣から声が飛んできた。
 顔を上げると、勇一がスケッチブックを抱えて立っている。
「今の一文、ちょっと見せて」
「嫌です」
「ケチ」
「プロット泥棒はお断りです」
「プロットって言い方やめて。
 こっちはこっちでネーム地獄なんだから」

 勇一は、それでも諦めずにスケッチブックを開いた。
「じゃあ交換条件。
 こっちのラスト案、見て。
 “奪えるもんなら奪ってみろ”バージョンと、“私の時間はここで使うから”バージョン。
 どっち押し?」

「両方使えば」
「欲張り」
「ごはんの世界では、“少しずついろいろ”が一番強いの」
「はい出た。
 食堂理論」

 からかい合いながらも、お互いのページをちらりと見せ合う。
 そうやって行き来した言葉たちが、気づけば記事のあちこちに紛れ込んでいた。

     *

 数日後。

 特集記事が掲載された日、私は印刷物と画面のスクリーンショットを抱えて、みつよ食堂に向かった。

 アーケードの途中で、ひだまりベーカリーの前を通る。
 店先の棚には、「シンデレラ定食に合うパンセット」と手書きで書かれた紙が貼ってあった。

「コラボ、してるし」
 思わず笑いながら、みつよ食堂のほうを見る。

 ガラス戸には、すでに例のポスターと、小さな花瓶。
 そして、その横に、新しく印刷したばかりの記事が貼られていた。

「……貼るの、早くないですか」
 店に入るなり、私はそう言った。
「そりゃ、うちの記事だからねえ」
 カウンターの中で、布巾片手に美津代さんが笑う。
「あんた、自分の名前入ってるとこ、もう百回くらい見たでしょ」
「五回くらいです」
「謙遜はやめな」

 壁に貼られた記事は、見出しの文字だけでも目を引いた。

『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』

 その下に、小さな文字で続く。

『――満席のカウンターの内側で、椅子のない席に立つ人たちへ』

「やめてくださいよ、こんなの」
 顔が熱くなる。
「“椅子のない席”って、誰が見てもここで働いてる人たちの話じゃないですか」
「いいじゃない。
 隠すようなこと書いてないんだから」

 記事の本文には、シンデレラ定食の誕生秘話、ポスター撮影の裏話、「お腹、空いてますか」のブラックボードの話。
 そして、「手が足りない夜」に客席から伸びてきた手のことも書かれていた。

 そのどれにも、名前は出ていない。
 桜子ちゃんも、琉叶くんも、「ホールの女性」や「厨房の料理人」として描かれている。
 元カレの存在も、「別の約束から解放された誰か」としてぼかしてある。

「本当はさ」
 私は、記事の中ほどの段落を指でなぞった。
「編集部のほうで、もっと派手なフレーズ入れたがってたんです。
 “定食屋が二番目の恋人になった話”とか。
 “奪い合う恋の末にたどり着いた場所”とか」

「言いそう」
 勇一が、カウンターの端で苦笑する。
「でも全部削ったんだ」
「はい」
 私は、記事の最後の一文を見上げた。

『――ここは、誰かの一番になれなかった人が、二番で我慢する場所ではない。
 ただ、お腹が空いたときに、自分で選んだごはんを分け合う場所だ。』

「なんかさ」
 桜子ちゃんが、壁の記事とカウンターの間を行ったり来たりしながら言う。
「こうやって文字になって並ぶと、ちょっと気恥ずかしいですね」
「気恥ずかしいくらいが、ちょうどいいんだよ」
 美津代さんが、湯呑みを洗いながら笑う。
「言葉ってさ、“あんた、こう言ったよね”ってあとから突きつけてくるためにあるんだから」

「脅しですか」
「保険だよ。
 “奪い合わないって決めたんだよね”って、自分に言い聞かせるための」

 その会話を聞きながら、私は少しだけ肩の力が抜けた。

     *

「ところでさ」
 勇一が、記事の中央あたりを指さす。
「ここの“ここで出される皿は、誰かの『奪われた時間』の上に立っている”って一文。
 これ、結構攻めてない?」
「あー」
 そこは、最後まで悩んだところだった。

「“奪われた時間”ってさ。
 凌くんのこと?」
 桜子ちゃんが、おそるおそる聞く。
 その名前を、ここで口にするのは、初めてかもしれなかった。

「半分は、そうかもしれないです」
 私は正直に言った。
「でも、半分は、ここに来る人全員の話でもあります。
 残業で削られた時間とか、通勤電車で吸い取られた気力とか。
 そういうのも全部含めての“奪われた時間”。
 その上に、ちゃんとごはん乗せてあげたいなって」

 桜子ちゃんは、少し黙ってから笑った。
「……じゃあ、そんな大事な一文、簡単に削れないですね」
「うん。
 だから、編集部にちょっとだけ粘りました」
 そのときのメールのログを思い出す。
 「ここ、丸ごと削るのはもったいないです」と送った自分の文章。
 あれは、かなりの珍事だ。

「珍しく、仕事でゴリ押ししたんだから」
 勇一が、からかうように言う。
「普段、“まあ、どっちでもいいですよ”って顔してるのに」
「やめてください。
 そんな印象操作」

 でも、たしかに。
 私はあのとき、この店のことになると、少しだけ頑固になる自分に気づいた。

     *

 夕方、アーケードを通る人が増え始める時間。

 みつよ食堂の前で立ち止まる人たちが、ポスターだけでなく、記事のほうにも目を向けていた。

「へえ、“奪う恋じゃなくて、分け合うごはん”か」
「なにそれ、ちょっと良い」
「ここだよ。
 この定食屋」

 ちらりと視線が店内に入ってきて、桜子ちゃんと目が合う。
 そのたびに、桜子ちゃんは少し照れながらも、「いらっしゃいませ」と笑った。

 カウンターの内側では、琉叶くんが、いつもどおり出汁の味を確かめている。
 記事に書かれた「料理人」は、目の前にいる彼そのものだ。
 でも、彼は記事のことを、ほとんど口にしない。

「読んだ?」
 まかないの時間に、さりげなく聞いてみたことがある。
「はい」
 琉叶くんは、湯気の向こうで静かに頷いた。
「どうでした?」
「……腹が減りました」
「感想、それですか」
「いい文章って、そういうものでしょう」
 そう言って、まかないの皿を一口食べる。
 その答え方があまりにも彼らしくて、私は思わず笑ってしまった。

     *

 その日の閉店後。

 片づけを終えた店内で、私はもう一度記事を見上げた。
 昼間より、文字が少し落ち着いて見える。

「こうやって壁に貼られると、やっぱり変な感じですね」
 桜子ちゃんが、隣に立つ。
「“記事になる恋とごはん”って、ちょっと大げさかなって最初は思ってたんですけど」
「うん」
「でも、別にいいのかも。
 だって、ここに書いてあることって、全部“誰かのお腹が空いた話”ですもんね」
「そう。
 恋も仕事も、人生も」
 私は、カウンターに手を置いた。
「最初に実感するのって、大体“お腹空いた”なんだよね」

 奪われた時間の先で、ようやく自分で選んだごはんを食べる人。
 誰かの皿を手伝いながら、自分の居場所を見つける人。
 そして、その全部を、少し離れた場所から見ている人。

 私は、この記事がいつか色あせてもいいと思っている。
 色あせた紙の隣に、新しい言葉が貼られていくなら、そのほうがずっといい。

「ねえ、実記」
 背後から、勇一の声がした。
「次のシリーズのタイトル、決めた」
「また急ですね」
「“記事にならない恋とごはん”」
「やめてください。
 どこに載せる気なんですか」
「この店の壁」
「それ、一番すぐバレるやつ」

 笑い声が、空になった店内に広がる。

 記事になる恋とごはん。
 記事にならない恋とごはん。
 どっちも、ここでは同じ温度で湯気を立てている。

 その湯気を、これからも言葉にしていけたらいいな、と。
 カウンターの端で味噌汁を飲み干しながら、私はそっと思った。
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