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第24話 記事になる恋とごはん
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グルメ企画が始まって一週間。
みつよ食堂のカウンターの端は、すっかり私の「仮デスク」になっていた。
ノートパソコン。
取材メモがぎっしり詰まったノート。
湯気の立つ味噌汁。
いつもの私なら、ここに紙コップのコーヒーが加わるところだけど、さすがにこの店でそれをやる勇気はない。
「インスタント持ち込んだら、出禁にするからね」
初日に釘を刺したのは、美津代さんだ。
「ここは、お茶と味噌汁とスープの守備範囲だから」
「守備範囲って言い方、好きです」
「でしょ」
だから私は、今日もカウンターに味噌汁を置いている。
わかめと豆腐と、少し多めの葱。
スプーンではなく箸で飲む味噌汁を横目に見ながら、キーボードを叩く。
画面の上には、特集記事の仮タイトルが光っていた。
――「奪う恋じゃなくて、分け合うごはん」。
打ったのは自分の指なのに、時々こそばゆくなる。
*
商店街の広報誌と、街の情報サイトが一緒に進めているグルメ企画。
その特集記事の一部を、私が任されたのは、たぶん偶然だけじゃない。
編集長曰く。
「例の“シンデレラ定食”のポスター企画、取材に行ってるんだろ。
せっかくだから、現場の空気ごと持ってきてよ」
現場の空気、ねえ。
そう思いながら、画面に向き直る。
ポスターのコピーに使われた言葉、カウンターに貼られた小さなカード、ブラックボードの「お腹、空いてますか」。
ここ数日でメモしたフレーズが、頭の中でぐるぐる回っている。
キーボードの上で指を止めて、店内を見渡した。
昼のピークを過ぎたみつよ食堂は、少しだけ深呼吸をしている。
カウンターの半分は常連で埋まり、奥のテーブル席では、商店街の人たちが遅い昼食をとっていた。
その真ん中で、桜子ちゃんが伝票を片手に動いている。
白い靴下とスニーカー。
例のポスターそのままの足元だ。
カウンターの内側では、琉叶くんが鍋の火加減を見ていた。
包帯はもう取れている。
けれど、その指先には、まだかすかな赤みが残っている。
(うん。
やっぱり、この視点で書こう)
私は、キーボードに手を戻した。
*
――「満席のカウンターの内側には、ひとつだけ椅子のない席がある」
冒頭の一文を書き込む。
自分で書いておきながら、「ちょっと気取ってるかな」と苦笑する。
続けて、あの日のことを思い出す。
グルメ企画初日、満席のカウンター、入口で待つ人たち。
手が足りなくなった夜に、客席から伸びてきた手。
洗い場を手伝った人。
皿を下げてくれた人。
水を運んでくれた人。
ここ数日で、この店には何度「ありがとう」が飛び交っただろう。
記事の中で、その全部を名前付きで紹介することはできない。
それでも、いくつかのエピソードを抜き取って、文章にすることはできる。
私は、ノートをめくりながらキーを打った。
――「前の恋が終わった夜、“何も食べたくない”と言いながら入ってきた人がいる」。
あの「失恋シンデレラ」さん。
唐揚げのレモンを絞りすぎて、酸っぱさで泣いていた人。
――「その人は、数日後、“今日は手伝わせてください”と言って皿を下げ始めた」。
キャッチーな見出しにするなら、「失恋からの立ち直り物語」なんて書き方もある。
けれど、それだけじゃない気がして、私はわざとその言葉を避けた。
失恋も、残業も、家事も、育児も。
いろんな疲れを抱えて、「お腹空いた」とここに来る人たち。
その誰かの皿を、ときどき別の誰かが手伝って下げる。
そういう光景が、ここでは自然に起きる。
それを、「恋バナ」だけで括ってしまうのは、もったいない。
*
味噌汁を一口飲んでから、私は記事のタイトルの下に、小さく見出しを打ち込んだ。
――「二番目の恋人、という言葉は使わない」。
先週の編集会議で、編集長が嬉々として言ったのを思い出す。
「こういうのってさ、“二番目の恋人は定食屋でした”みたいな見出し、強いんだよ。
惹きがある」
たしかに、惹きはある。
クリック数も取れそうだ。
だけど、どこか違う。
あのとき私は、会議室の端で手を挙げた。
「すみません。
その言葉、使わないほうがいいと思います」
編集長が、意外そうな顔でこちらを見る。
「どうして。
別に、悪い意味じゃないよ。
“恋人”が一番で、その次に“心の拠りどころとしての定食屋”って意味で――」
「その順番が、違うんだと思います」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「ここに来る人は、誰かの一番になれなくて、二番目で我慢してるわけじゃないから。
お腹空いて、ちゃんと食べたいときに、ここに来るだけで。
それを“二番目の恋人”って言われるの、たぶん店のみんなが嫌がります」
言いながら、頭の中では桜子ちゃんと琉叶くんの顔を思い浮かべていた。
カウンター越しの「おいしいです」と「よかった」が、恋人ごっこみたいに扱われるのは、やっぱり違う。
「……なるほどね」
編集長は、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、“恋人”って単語自体を外して、別の切り口を探そうか」
そのとき、パソコンの画面の隅に、ポスターのコピー案が視界に入った。
『今日くらい、自分の手で選んでいい』
あの言葉を考えたときの桜子ちゃんの顔。
それを聞いた瞬間に、少しだけ肩の力を抜いた琉叶くんの表情。
思い出した途端、タイトルがひとつ浮かんだ。
「奪う恋じゃなくて、分け合うごはん、はどうですか」
自分でも、どうして「恋」という単語を残したのか、はっきりとは説明できない。
ただ、「恋」と「ごはん」を同じ皿の上に並べたかった。
「奪う恋」より、「分け合うごはん」のほうが、ずっと腹持ちがいい。
そんな感覚だけが、妙にすとんと胸に落ちた。
「いいじゃない。
ちょっと長いけど」
編集長は笑って、すぐにホワイトボードにその言葉を書いた。
「じゃあ、その方向でいこう。
本文、期待してるから」
*
カウンターの端で、その続きを書きながら、私は時々視線を上げる。
桜子ちゃんが、お冷やを運んでいる。
琉叶くんが、まかない用の味噌汁の味を見ている。
美津代さんが、満席の店内を一瞬で見渡して、「大丈夫、大丈夫」と小さく頷いている。
その光景を、私は「恋」だとは呼びたくなかった。
でも、「好きな場所」とか「大事な関係」と言うだけでは、どうしても足りない気もしていた。
だから、記事の中では、こう書くことにした。
――「奪い合わない恋は、案外、ごはんと一緒に出てくる」。
なんて、それっぽくまとめたけれど。
「実記」
隣から声が飛んできた。
顔を上げると、勇一がスケッチブックを抱えて立っている。
「今の一文、ちょっと見せて」
「嫌です」
「ケチ」
「プロット泥棒はお断りです」
「プロットって言い方やめて。
こっちはこっちでネーム地獄なんだから」
勇一は、それでも諦めずにスケッチブックを開いた。
「じゃあ交換条件。
こっちのラスト案、見て。
“奪えるもんなら奪ってみろ”バージョンと、“私の時間はここで使うから”バージョン。
どっち押し?」
「両方使えば」
「欲張り」
「ごはんの世界では、“少しずついろいろ”が一番強いの」
「はい出た。
食堂理論」
からかい合いながらも、お互いのページをちらりと見せ合う。
そうやって行き来した言葉たちが、気づけば記事のあちこちに紛れ込んでいた。
*
数日後。
特集記事が掲載された日、私は印刷物と画面のスクリーンショットを抱えて、みつよ食堂に向かった。
アーケードの途中で、ひだまりベーカリーの前を通る。
店先の棚には、「シンデレラ定食に合うパンセット」と手書きで書かれた紙が貼ってあった。
「コラボ、してるし」
思わず笑いながら、みつよ食堂のほうを見る。
ガラス戸には、すでに例のポスターと、小さな花瓶。
そして、その横に、新しく印刷したばかりの記事が貼られていた。
「……貼るの、早くないですか」
店に入るなり、私はそう言った。
「そりゃ、うちの記事だからねえ」
カウンターの中で、布巾片手に美津代さんが笑う。
「あんた、自分の名前入ってるとこ、もう百回くらい見たでしょ」
「五回くらいです」
「謙遜はやめな」
壁に貼られた記事は、見出しの文字だけでも目を引いた。
『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』
その下に、小さな文字で続く。
『――満席のカウンターの内側で、椅子のない席に立つ人たちへ』
「やめてくださいよ、こんなの」
顔が熱くなる。
「“椅子のない席”って、誰が見てもここで働いてる人たちの話じゃないですか」
「いいじゃない。
隠すようなこと書いてないんだから」
記事の本文には、シンデレラ定食の誕生秘話、ポスター撮影の裏話、「お腹、空いてますか」のブラックボードの話。
そして、「手が足りない夜」に客席から伸びてきた手のことも書かれていた。
そのどれにも、名前は出ていない。
桜子ちゃんも、琉叶くんも、「ホールの女性」や「厨房の料理人」として描かれている。
元カレの存在も、「別の約束から解放された誰か」としてぼかしてある。
「本当はさ」
私は、記事の中ほどの段落を指でなぞった。
「編集部のほうで、もっと派手なフレーズ入れたがってたんです。
“定食屋が二番目の恋人になった話”とか。
“奪い合う恋の末にたどり着いた場所”とか」
「言いそう」
勇一が、カウンターの端で苦笑する。
「でも全部削ったんだ」
「はい」
私は、記事の最後の一文を見上げた。
『――ここは、誰かの一番になれなかった人が、二番で我慢する場所ではない。
ただ、お腹が空いたときに、自分で選んだごはんを分け合う場所だ。』
「なんかさ」
桜子ちゃんが、壁の記事とカウンターの間を行ったり来たりしながら言う。
「こうやって文字になって並ぶと、ちょっと気恥ずかしいですね」
「気恥ずかしいくらいが、ちょうどいいんだよ」
美津代さんが、湯呑みを洗いながら笑う。
「言葉ってさ、“あんた、こう言ったよね”ってあとから突きつけてくるためにあるんだから」
「脅しですか」
「保険だよ。
“奪い合わないって決めたんだよね”って、自分に言い聞かせるための」
その会話を聞きながら、私は少しだけ肩の力が抜けた。
*
「ところでさ」
勇一が、記事の中央あたりを指さす。
「ここの“ここで出される皿は、誰かの『奪われた時間』の上に立っている”って一文。
これ、結構攻めてない?」
「あー」
そこは、最後まで悩んだところだった。
「“奪われた時間”ってさ。
凌くんのこと?」
桜子ちゃんが、おそるおそる聞く。
その名前を、ここで口にするのは、初めてかもしれなかった。
「半分は、そうかもしれないです」
私は正直に言った。
「でも、半分は、ここに来る人全員の話でもあります。
残業で削られた時間とか、通勤電車で吸い取られた気力とか。
そういうのも全部含めての“奪われた時間”。
その上に、ちゃんとごはん乗せてあげたいなって」
桜子ちゃんは、少し黙ってから笑った。
「……じゃあ、そんな大事な一文、簡単に削れないですね」
「うん。
だから、編集部にちょっとだけ粘りました」
そのときのメールのログを思い出す。
「ここ、丸ごと削るのはもったいないです」と送った自分の文章。
あれは、かなりの珍事だ。
「珍しく、仕事でゴリ押ししたんだから」
勇一が、からかうように言う。
「普段、“まあ、どっちでもいいですよ”って顔してるのに」
「やめてください。
そんな印象操作」
でも、たしかに。
私はあのとき、この店のことになると、少しだけ頑固になる自分に気づいた。
*
夕方、アーケードを通る人が増え始める時間。
みつよ食堂の前で立ち止まる人たちが、ポスターだけでなく、記事のほうにも目を向けていた。
「へえ、“奪う恋じゃなくて、分け合うごはん”か」
「なにそれ、ちょっと良い」
「ここだよ。
この定食屋」
ちらりと視線が店内に入ってきて、桜子ちゃんと目が合う。
そのたびに、桜子ちゃんは少し照れながらも、「いらっしゃいませ」と笑った。
カウンターの内側では、琉叶くんが、いつもどおり出汁の味を確かめている。
記事に書かれた「料理人」は、目の前にいる彼そのものだ。
でも、彼は記事のことを、ほとんど口にしない。
「読んだ?」
まかないの時間に、さりげなく聞いてみたことがある。
「はい」
琉叶くんは、湯気の向こうで静かに頷いた。
「どうでした?」
「……腹が減りました」
「感想、それですか」
「いい文章って、そういうものでしょう」
そう言って、まかないの皿を一口食べる。
その答え方があまりにも彼らしくて、私は思わず笑ってしまった。
*
その日の閉店後。
片づけを終えた店内で、私はもう一度記事を見上げた。
昼間より、文字が少し落ち着いて見える。
「こうやって壁に貼られると、やっぱり変な感じですね」
桜子ちゃんが、隣に立つ。
「“記事になる恋とごはん”って、ちょっと大げさかなって最初は思ってたんですけど」
「うん」
「でも、別にいいのかも。
だって、ここに書いてあることって、全部“誰かのお腹が空いた話”ですもんね」
「そう。
恋も仕事も、人生も」
私は、カウンターに手を置いた。
「最初に実感するのって、大体“お腹空いた”なんだよね」
奪われた時間の先で、ようやく自分で選んだごはんを食べる人。
誰かの皿を手伝いながら、自分の居場所を見つける人。
そして、その全部を、少し離れた場所から見ている人。
私は、この記事がいつか色あせてもいいと思っている。
色あせた紙の隣に、新しい言葉が貼られていくなら、そのほうがずっといい。
「ねえ、実記」
背後から、勇一の声がした。
「次のシリーズのタイトル、決めた」
「また急ですね」
「“記事にならない恋とごはん”」
「やめてください。
どこに載せる気なんですか」
「この店の壁」
「それ、一番すぐバレるやつ」
笑い声が、空になった店内に広がる。
記事になる恋とごはん。
記事にならない恋とごはん。
どっちも、ここでは同じ温度で湯気を立てている。
その湯気を、これからも言葉にしていけたらいいな、と。
カウンターの端で味噌汁を飲み干しながら、私はそっと思った。
みつよ食堂のカウンターの端は、すっかり私の「仮デスク」になっていた。
ノートパソコン。
取材メモがぎっしり詰まったノート。
湯気の立つ味噌汁。
いつもの私なら、ここに紙コップのコーヒーが加わるところだけど、さすがにこの店でそれをやる勇気はない。
「インスタント持ち込んだら、出禁にするからね」
初日に釘を刺したのは、美津代さんだ。
「ここは、お茶と味噌汁とスープの守備範囲だから」
「守備範囲って言い方、好きです」
「でしょ」
だから私は、今日もカウンターに味噌汁を置いている。
わかめと豆腐と、少し多めの葱。
スプーンではなく箸で飲む味噌汁を横目に見ながら、キーボードを叩く。
画面の上には、特集記事の仮タイトルが光っていた。
――「奪う恋じゃなくて、分け合うごはん」。
打ったのは自分の指なのに、時々こそばゆくなる。
*
商店街の広報誌と、街の情報サイトが一緒に進めているグルメ企画。
その特集記事の一部を、私が任されたのは、たぶん偶然だけじゃない。
編集長曰く。
「例の“シンデレラ定食”のポスター企画、取材に行ってるんだろ。
せっかくだから、現場の空気ごと持ってきてよ」
現場の空気、ねえ。
そう思いながら、画面に向き直る。
ポスターのコピーに使われた言葉、カウンターに貼られた小さなカード、ブラックボードの「お腹、空いてますか」。
ここ数日でメモしたフレーズが、頭の中でぐるぐる回っている。
キーボードの上で指を止めて、店内を見渡した。
昼のピークを過ぎたみつよ食堂は、少しだけ深呼吸をしている。
カウンターの半分は常連で埋まり、奥のテーブル席では、商店街の人たちが遅い昼食をとっていた。
その真ん中で、桜子ちゃんが伝票を片手に動いている。
白い靴下とスニーカー。
例のポスターそのままの足元だ。
カウンターの内側では、琉叶くんが鍋の火加減を見ていた。
包帯はもう取れている。
けれど、その指先には、まだかすかな赤みが残っている。
(うん。
やっぱり、この視点で書こう)
私は、キーボードに手を戻した。
*
――「満席のカウンターの内側には、ひとつだけ椅子のない席がある」
冒頭の一文を書き込む。
自分で書いておきながら、「ちょっと気取ってるかな」と苦笑する。
続けて、あの日のことを思い出す。
グルメ企画初日、満席のカウンター、入口で待つ人たち。
手が足りなくなった夜に、客席から伸びてきた手。
洗い場を手伝った人。
皿を下げてくれた人。
水を運んでくれた人。
ここ数日で、この店には何度「ありがとう」が飛び交っただろう。
記事の中で、その全部を名前付きで紹介することはできない。
それでも、いくつかのエピソードを抜き取って、文章にすることはできる。
私は、ノートをめくりながらキーを打った。
――「前の恋が終わった夜、“何も食べたくない”と言いながら入ってきた人がいる」。
あの「失恋シンデレラ」さん。
唐揚げのレモンを絞りすぎて、酸っぱさで泣いていた人。
――「その人は、数日後、“今日は手伝わせてください”と言って皿を下げ始めた」。
キャッチーな見出しにするなら、「失恋からの立ち直り物語」なんて書き方もある。
けれど、それだけじゃない気がして、私はわざとその言葉を避けた。
失恋も、残業も、家事も、育児も。
いろんな疲れを抱えて、「お腹空いた」とここに来る人たち。
その誰かの皿を、ときどき別の誰かが手伝って下げる。
そういう光景が、ここでは自然に起きる。
それを、「恋バナ」だけで括ってしまうのは、もったいない。
*
味噌汁を一口飲んでから、私は記事のタイトルの下に、小さく見出しを打ち込んだ。
――「二番目の恋人、という言葉は使わない」。
先週の編集会議で、編集長が嬉々として言ったのを思い出す。
「こういうのってさ、“二番目の恋人は定食屋でした”みたいな見出し、強いんだよ。
惹きがある」
たしかに、惹きはある。
クリック数も取れそうだ。
だけど、どこか違う。
あのとき私は、会議室の端で手を挙げた。
「すみません。
その言葉、使わないほうがいいと思います」
編集長が、意外そうな顔でこちらを見る。
「どうして。
別に、悪い意味じゃないよ。
“恋人”が一番で、その次に“心の拠りどころとしての定食屋”って意味で――」
「その順番が、違うんだと思います」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「ここに来る人は、誰かの一番になれなくて、二番目で我慢してるわけじゃないから。
お腹空いて、ちゃんと食べたいときに、ここに来るだけで。
それを“二番目の恋人”って言われるの、たぶん店のみんなが嫌がります」
言いながら、頭の中では桜子ちゃんと琉叶くんの顔を思い浮かべていた。
カウンター越しの「おいしいです」と「よかった」が、恋人ごっこみたいに扱われるのは、やっぱり違う。
「……なるほどね」
編集長は、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、“恋人”って単語自体を外して、別の切り口を探そうか」
そのとき、パソコンの画面の隅に、ポスターのコピー案が視界に入った。
『今日くらい、自分の手で選んでいい』
あの言葉を考えたときの桜子ちゃんの顔。
それを聞いた瞬間に、少しだけ肩の力を抜いた琉叶くんの表情。
思い出した途端、タイトルがひとつ浮かんだ。
「奪う恋じゃなくて、分け合うごはん、はどうですか」
自分でも、どうして「恋」という単語を残したのか、はっきりとは説明できない。
ただ、「恋」と「ごはん」を同じ皿の上に並べたかった。
「奪う恋」より、「分け合うごはん」のほうが、ずっと腹持ちがいい。
そんな感覚だけが、妙にすとんと胸に落ちた。
「いいじゃない。
ちょっと長いけど」
編集長は笑って、すぐにホワイトボードにその言葉を書いた。
「じゃあ、その方向でいこう。
本文、期待してるから」
*
カウンターの端で、その続きを書きながら、私は時々視線を上げる。
桜子ちゃんが、お冷やを運んでいる。
琉叶くんが、まかない用の味噌汁の味を見ている。
美津代さんが、満席の店内を一瞬で見渡して、「大丈夫、大丈夫」と小さく頷いている。
その光景を、私は「恋」だとは呼びたくなかった。
でも、「好きな場所」とか「大事な関係」と言うだけでは、どうしても足りない気もしていた。
だから、記事の中では、こう書くことにした。
――「奪い合わない恋は、案外、ごはんと一緒に出てくる」。
なんて、それっぽくまとめたけれど。
「実記」
隣から声が飛んできた。
顔を上げると、勇一がスケッチブックを抱えて立っている。
「今の一文、ちょっと見せて」
「嫌です」
「ケチ」
「プロット泥棒はお断りです」
「プロットって言い方やめて。
こっちはこっちでネーム地獄なんだから」
勇一は、それでも諦めずにスケッチブックを開いた。
「じゃあ交換条件。
こっちのラスト案、見て。
“奪えるもんなら奪ってみろ”バージョンと、“私の時間はここで使うから”バージョン。
どっち押し?」
「両方使えば」
「欲張り」
「ごはんの世界では、“少しずついろいろ”が一番強いの」
「はい出た。
食堂理論」
からかい合いながらも、お互いのページをちらりと見せ合う。
そうやって行き来した言葉たちが、気づけば記事のあちこちに紛れ込んでいた。
*
数日後。
特集記事が掲載された日、私は印刷物と画面のスクリーンショットを抱えて、みつよ食堂に向かった。
アーケードの途中で、ひだまりベーカリーの前を通る。
店先の棚には、「シンデレラ定食に合うパンセット」と手書きで書かれた紙が貼ってあった。
「コラボ、してるし」
思わず笑いながら、みつよ食堂のほうを見る。
ガラス戸には、すでに例のポスターと、小さな花瓶。
そして、その横に、新しく印刷したばかりの記事が貼られていた。
「……貼るの、早くないですか」
店に入るなり、私はそう言った。
「そりゃ、うちの記事だからねえ」
カウンターの中で、布巾片手に美津代さんが笑う。
「あんた、自分の名前入ってるとこ、もう百回くらい見たでしょ」
「五回くらいです」
「謙遜はやめな」
壁に貼られた記事は、見出しの文字だけでも目を引いた。
『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』
その下に、小さな文字で続く。
『――満席のカウンターの内側で、椅子のない席に立つ人たちへ』
「やめてくださいよ、こんなの」
顔が熱くなる。
「“椅子のない席”って、誰が見てもここで働いてる人たちの話じゃないですか」
「いいじゃない。
隠すようなこと書いてないんだから」
記事の本文には、シンデレラ定食の誕生秘話、ポスター撮影の裏話、「お腹、空いてますか」のブラックボードの話。
そして、「手が足りない夜」に客席から伸びてきた手のことも書かれていた。
そのどれにも、名前は出ていない。
桜子ちゃんも、琉叶くんも、「ホールの女性」や「厨房の料理人」として描かれている。
元カレの存在も、「別の約束から解放された誰か」としてぼかしてある。
「本当はさ」
私は、記事の中ほどの段落を指でなぞった。
「編集部のほうで、もっと派手なフレーズ入れたがってたんです。
“定食屋が二番目の恋人になった話”とか。
“奪い合う恋の末にたどり着いた場所”とか」
「言いそう」
勇一が、カウンターの端で苦笑する。
「でも全部削ったんだ」
「はい」
私は、記事の最後の一文を見上げた。
『――ここは、誰かの一番になれなかった人が、二番で我慢する場所ではない。
ただ、お腹が空いたときに、自分で選んだごはんを分け合う場所だ。』
「なんかさ」
桜子ちゃんが、壁の記事とカウンターの間を行ったり来たりしながら言う。
「こうやって文字になって並ぶと、ちょっと気恥ずかしいですね」
「気恥ずかしいくらいが、ちょうどいいんだよ」
美津代さんが、湯呑みを洗いながら笑う。
「言葉ってさ、“あんた、こう言ったよね”ってあとから突きつけてくるためにあるんだから」
「脅しですか」
「保険だよ。
“奪い合わないって決めたんだよね”って、自分に言い聞かせるための」
その会話を聞きながら、私は少しだけ肩の力が抜けた。
*
「ところでさ」
勇一が、記事の中央あたりを指さす。
「ここの“ここで出される皿は、誰かの『奪われた時間』の上に立っている”って一文。
これ、結構攻めてない?」
「あー」
そこは、最後まで悩んだところだった。
「“奪われた時間”ってさ。
凌くんのこと?」
桜子ちゃんが、おそるおそる聞く。
その名前を、ここで口にするのは、初めてかもしれなかった。
「半分は、そうかもしれないです」
私は正直に言った。
「でも、半分は、ここに来る人全員の話でもあります。
残業で削られた時間とか、通勤電車で吸い取られた気力とか。
そういうのも全部含めての“奪われた時間”。
その上に、ちゃんとごはん乗せてあげたいなって」
桜子ちゃんは、少し黙ってから笑った。
「……じゃあ、そんな大事な一文、簡単に削れないですね」
「うん。
だから、編集部にちょっとだけ粘りました」
そのときのメールのログを思い出す。
「ここ、丸ごと削るのはもったいないです」と送った自分の文章。
あれは、かなりの珍事だ。
「珍しく、仕事でゴリ押ししたんだから」
勇一が、からかうように言う。
「普段、“まあ、どっちでもいいですよ”って顔してるのに」
「やめてください。
そんな印象操作」
でも、たしかに。
私はあのとき、この店のことになると、少しだけ頑固になる自分に気づいた。
*
夕方、アーケードを通る人が増え始める時間。
みつよ食堂の前で立ち止まる人たちが、ポスターだけでなく、記事のほうにも目を向けていた。
「へえ、“奪う恋じゃなくて、分け合うごはん”か」
「なにそれ、ちょっと良い」
「ここだよ。
この定食屋」
ちらりと視線が店内に入ってきて、桜子ちゃんと目が合う。
そのたびに、桜子ちゃんは少し照れながらも、「いらっしゃいませ」と笑った。
カウンターの内側では、琉叶くんが、いつもどおり出汁の味を確かめている。
記事に書かれた「料理人」は、目の前にいる彼そのものだ。
でも、彼は記事のことを、ほとんど口にしない。
「読んだ?」
まかないの時間に、さりげなく聞いてみたことがある。
「はい」
琉叶くんは、湯気の向こうで静かに頷いた。
「どうでした?」
「……腹が減りました」
「感想、それですか」
「いい文章って、そういうものでしょう」
そう言って、まかないの皿を一口食べる。
その答え方があまりにも彼らしくて、私は思わず笑ってしまった。
*
その日の閉店後。
片づけを終えた店内で、私はもう一度記事を見上げた。
昼間より、文字が少し落ち着いて見える。
「こうやって壁に貼られると、やっぱり変な感じですね」
桜子ちゃんが、隣に立つ。
「“記事になる恋とごはん”って、ちょっと大げさかなって最初は思ってたんですけど」
「うん」
「でも、別にいいのかも。
だって、ここに書いてあることって、全部“誰かのお腹が空いた話”ですもんね」
「そう。
恋も仕事も、人生も」
私は、カウンターに手を置いた。
「最初に実感するのって、大体“お腹空いた”なんだよね」
奪われた時間の先で、ようやく自分で選んだごはんを食べる人。
誰かの皿を手伝いながら、自分の居場所を見つける人。
そして、その全部を、少し離れた場所から見ている人。
私は、この記事がいつか色あせてもいいと思っている。
色あせた紙の隣に、新しい言葉が貼られていくなら、そのほうがずっといい。
「ねえ、実記」
背後から、勇一の声がした。
「次のシリーズのタイトル、決めた」
「また急ですね」
「“記事にならない恋とごはん”」
「やめてください。
どこに載せる気なんですか」
「この店の壁」
「それ、一番すぐバレるやつ」
笑い声が、空になった店内に広がる。
記事になる恋とごはん。
記事にならない恋とごはん。
どっちも、ここでは同じ温度で湯気を立てている。
その湯気を、これからも言葉にしていけたらいいな、と。
カウンターの端で味噌汁を飲み干しながら、私はそっと思った。
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✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。
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結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
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