26 / 31
第25話 元恋人のシンデレラ定食
しおりを挟む
アーケードを吹き抜ける風が、少しだけ冷たくなり始めた頃だった。
みつよ食堂のガラス戸には、例のポスターと、一緒に貼られた記事のコピーが並んでいる。
『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』。
その見出しを、何度も読み返していく人がいる。
立ち止まって、ポスターの中の皿と、記事の文字を見比べていく人もいる。
その日も、桜子は開店準備を終え、カウンターの内側から外の様子を眺めていた。
ガラスの向こうで足を止めた一人の男性が、記事に顔を近づける。
スーツにコート、片手にはビジネスバッグ。
見慣れた横顔に気づいた瞬間、胸の中の空気が一瞬止まった。
(……凌)
花束も、紙袋も持っていない。
両手は、バッグの取っ手と、ポケットの中の何かを行ったり来たりしているように見えた。
迷っているのが、ガラス越しにも伝わってくる。
やがて、彼は小さく息を吐いてから、引き戸に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じように声を出す。
喉が少しだけ乾いているのを、ごまかすように。
「……こんにちは」
凌は、少し気まずそうに会釈した。
「この前は、どうも」
「こちらこそ」
桜子は、短く頭を下げる。
「今日は、お一人ですか」
「うん。
……ちゃんと、客として来た」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
“やり直したい”とか、“話し合いたい”とか、そういう言葉を構えていた自分が、拍子抜けする。
「カウンター、空いてます」
「じゃあ、端っこいい?」
「どうぞ」
凌は、ポスターから一番よく見える席に腰を下ろした。
カウンターの木目を指でなぞりながら、周りを見回す。
初めて来た場所のように、少しだけ緊張した表情だった。
*
「知り合い?」
小声で尋ねてきたのは、美津代だった。
洗い場から顔を出し、凌のほうをちらりと見る。
「……元、です」
桜子は、声をさらに落として答える。
「この前、ここに来た人」
「ああ。
お花、持ってきた子ね」
「はい」
「今日は、手ぶらか」
美津代は、少しだけ口角を上げた。
「いいじゃない。
そのほうが、身軽で」
桜子が戸惑っているあいだに、美津代はすでに決めていたようだ。
カウンター下の棚から、カードの束を取り出す。
「ねえ」
美津代は、カウンター越しにカードを一枚差し出した。
「うちの“シンデレラ”、頼んでみない?」
「え」
桜子と凌の声が、同時に重なった。
「し、シンデレラ定食は、予約制じゃないですけど、今日はちょっと――」
「出しなさい」
美津代が、桜子の言葉をやわらかく遮る。
「せっかく“ちゃんと客として来た”って言ってるんだから。
あんたにも、今日だけ主役になってもらいな」
凌は、差し出されたカードと、ポスターの皿を見比べた。
カードの上部には、「今日だけ主役になりたい理由」と印刷されている。
「これ、記事に書いてあったやつだ」
凌が、かすかに笑う。
「“手書きカードの魔法”って見出しの」
「読んだんですね」
思わず口から出ると、凌は耳の後ろをかいた。
「駅で待ち合わせしてたら、友だちが“お前の元カノっぽい”って送ってきてさ。
なんか見覚えあるなと思ったら、やっぱり桜子で」
「“っぽい”って言い方」
自分で突っ込みながらも、頬が少しだけ熱くなる。
「……で、その“主役になりたい理由”っていうのを書けばいいの?」
「はい」
桜子は、カードとペンをそっと差し出した。
「無理にじゃなくて、大丈夫です。
書きたくないときは、“今日はパス”って言ってくだされば」
「書くよ」
凌は、少しだけ間を置いてから言った。
「せっかく来たんだし」
*
カードに向かう凌の横顔は、思っていたより真剣だった。
ペンを持つ手が、何度も止まっては動く。
桜子は、カウンターの内側で、他の客の注文を取りながらも、視界の端でその様子を追っていた。
気になるけれど、覗き込む勇気はない。
ここで、勝手に読んでしまうのは違う気がした。
「できたら、こっちに回してね」
美津代が、さりげなく声をかける。
「料理人にも、理由を見せてやらないと。
皿の顔が変わるから」
「そんな変わるんですか」
「変わるんだよ、これが」
しばらくして、凌は息を吐き、カードを裏返しにして差し出した。
裏面には、小さく名前だけが書いてある。
表に何が書かれているのかは見えない。
「字、汚かったらごめん」
「それは料理には関係ないから大丈夫」
美津代は、にやりと笑ってカードを受け取ると、器用に指先でくるりとひっくり返した。
視線が、紙の中央で止まる。
「……ふうん」
短い相槌。
けれど、その目はどこか柔らかい。
「どうですか」
桜子が、小声で尋ねる。
「大丈夫そう?」
「大丈夫かどうかは、自分で決めるんだよ」
美津代は、そう言ってカードをそっと琉叶に渡した。
「ほら。
“今日の主役”」
*
厨房にカードが回される。
琉叶は、受け取った紙を、まな板の端に立てかけた。
そこには、震えのない、すっとまっすぐな字で、一行だけ書かれていた。
――誰かの時間を奪わない人になりたい。
読み上げはしない。
けれど、言葉の重さは、紙の薄さとはまるで釣り合っていない。
あの日、カウンター越しに見た花束。
桜子が、「奪われたのは時間だけ」と言ったときの声。
会計のあと、「ありがとう」とだけ残して帰っていった背中。
それらが、短い一文にまとめて押し込められているような気がした。
「……どうします?」
隣で鍋を見ていた雄之が、小声で尋ねる。
「元カレ専用メニュー、考える?」
「そんなジャンルはありません」
琉叶は、苦笑した。
「でも、普通にやるのも、違う気がしますね」
まな板の上に、キャベツと玉ねぎ、少し厚めに切ったベーコンを並べる。
どれも、ここ数日、何度も触れてきた食材だ。
けれど、今日は少しだけ、切り方を変える。
「時間を奪わない、か」
包丁を握る手に、力が入る。
「“奪わないように”って思いすぎると、今度は自分の時間を差し出しすぎる。
……むずかしいですね」
「説教?
ポエム?」
「独り言です」
キャベツは、いつもの千切りよりも太めに切る。
噛むたびに、ちゃんと口の中に残るように。
玉ねぎは、じっくり炒めれば甘くなる厚さに。
ベーコンは、焦げ目がつくくらいカリッと焼けるサイズに。
フライパンに油をひき、ベーコンを先に炒める。
じゅう、と音が立つ。
脂が溶け出し、香ばしい匂いが広がる。
そこに、玉ねぎとキャベツを加え、ゆっくりと火を通していく。
焦らず、急がず。
時間をかけて甘みを引き出す。
別の鍋では、コンソメベースのスープを温める。
じゃがいもと人参を小さめに切り、口に運びやすい大きさにまとめていく。
「派手さはないけど、腹に残るやつ」
琉叶は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「“誰かの時間を奪わない”って、多分、こういう味なんだと思います」
炒めた野菜を皿に敷き、上からベーコンを散らす。
横には、小さなグラタン皿に入れたポテトグラタン。
スープとご飯、サラダのかわりに、野菜多めのマリネ。
本日のシンデレラ定食。
テーマは、「奪った時間のお返し」。
琉叶は、カードにちらりと目をやりながら、最後にパセリをひとつまみだけ散らした。
*
「お待たせしました。
元恋人……じゃなくて、お客さまのシンデレラ定食です」
「今、絶対余計な一言乗せましたよね」
凌が苦笑する。
「“元恋人”って言葉、メニュー名にしないでよ」
「しません。
ご安心ください」
桜子は、お盆をカウンターにそっと置いた。
湯気が立ちのぼり、ベーコンと野菜の香りがふわりと広がる。
「これが、あの記事の」
「そうです」
桜子は、少し背筋を伸ばした。
「“今日だけ主役になりたい理由”付きの、シンデレラ定食です」
「見た目、意外と地味だね」
「褒めてます?」
「褒めてるよ。
なんか、懐かしい匂いする」
凌は、箸を手に取り、まずは野菜とベーコンを一口。
少しだけ目を細めて噛みしめる。
「……ちゃんと、おいしい」
「“ちゃんと”は、やめてください」
「いや、ほら。
“ちゃんと”って、なんか、当たり前の安心感あるじゃん」
「そういうフォローも、“ちゃんと”してますね」
桜子は、カウンターの向こうで、ほっと小さく息を吐いた。
*
凌が黙々と食べているあいだ、店内にはいつもの昼のざわめきが流れていた。
仕事の合間に来た人たち、記事を見て訪れた人たち。
誰も、カウンターの端の「元恋人」を特別扱いはしない。
それが、ありがたかった。
「……なあ」
皿の上が半分ほど減ったところで、凌がぽつりと言った。
「この記事さ。
“奪われた時間の上に皿が立ってる”って書いてあったろ」
「はい」
桜子は、壁の記事をちらりと見る。
「実記さんの文章です」
「あれ読んだとき、ちょっと刺さった」
凌は、苦笑いのような顔をした。
「“奪ってた側”だなって、思って」
桜子は、返事を急がなかった。
代わりに、手元のグラスを拭きながら、彼の言葉を待つ。
「別に、悪いことしてるつもりはなかったんだよ」
「うん」
「“そのうちちゃんと紹介するし”とか、“今日だけだから”とかさ。
全部、本気で言ってたつもりだった」
「知ってる」
「でもさ」
凌は、箸を皿の端に置いた。
「本気で言ってたからって、相手の時間を奪ってなかったかって言われると、答えに困る」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、前ほど、息が詰まるような痛みではなかった。
「カードに書いたの、そういうこと?」
桜子は、静かに尋ねた。
「“誰かの時間を奪わない人になりたい”って」
凌の手が、ぴくりと止まる。
「見た?」
「見てません。
でも、美津代さんが、ちょっとだけ教えてくれました」
「プライバシーとは」
「厨房に回すから、料理人は全部知ってます」
「だよな」
凌は、小さく笑った。
「まあ、書いた以上、どこかで誰かに読まれるのは覚悟してたけど」
しばし沈黙が落ちる。
カウンターの木目の上で、二人の視線が交差して、またそれぞれ別の方向へ散っていく。
「……ありがとな」
凌が、ふいに言った。
「この前、“奪われたのは時間だけ”って言ってくれて」
「別に、お礼言われるために言ったわけじゃないです」
「わかってる。
でも、あれ言われて、ちょっとだけ救われた」
「そうですか」
「“時間だけ”って言葉、結構重いんだなって、後から気づいた」
凌は、スープを一口飲んでから続ける。
「金とか物だったら、返せるかもしれないけど。
時間って、返せないじゃん」
「そうですね」
「だから、これからは、なるべく奪わないようにしたいなって。
それくらいしか、今の俺にできることないし」
その言葉に、桜子はようやく真正面から頷けた。
「じゃあ、その練習台として、今日ここに来たってことで」
「練習台?」
「ちゃんとお客さんとして来て、ちゃんとお金払って、ちゃんとごはん食べる。
それだけで、十分ですよ」
「“ちゃんと”多くない?」
「お互いさまです」
*
やがて、凌は最後の一口まできれいに食べ終え、箸を揃えて置いた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
会計を済ませ、レシートを財布にしまう手つきは、少しだけぎこちない。
それでも、そこに「未練」は見えなかった。
ガラス戸の前で、凌はもう一度ポスターを見上げた。
皿と、エプロン姿の桜子。
その写真の隣に、記事の見出し。
「……似合ってるよ」
振り返らずに、そう言った。
「ここ」
誰に向けた言葉か、今回ははっきりしていた。
「ありがとう」
桜子は、カウンターの内側から、小さく会釈した。
見送る背中に、花束の影はもうない。
ガラス戸が閉まる音がして、アーケードのざわめきが戻ってくる。
桜子は、しばらくのあいだ、その背中が消えていった方向を見つめていた。
胸の中で、何かが静かにほどけていく。
「……終わりましたね」
ぽつりとこぼすと、すぐ横から声がした。
「“終わった”というより、“ひと区切り”かな」
美津代が、布巾を肩にかけたまま立っている。
「でもまあ、よく頑張りました」
「何もしてないです」
「してたよ。
ちゃんと“客として”迎えて、ちゃんと“客として”送り出したでしょ。
それが一番、難しいんだから」
その言葉に、桜子は小さく笑った。
「じゃあ、次のカード、書き換えます?」
「なにを」
「“ちゃんと自分で決めたい”の次」
「お、出世だね」
桜子は、カウンターの端に置かれたカードスタンドを見た。
そこには、いくつもの「今日だけ主役になりたい理由」が並んでいる。
「今度書くときは、そうですね……」
少し考えてから、言葉を探す。
「“奪われた時間のぶん、おいしいごはんを出したい”とか」
「欲張りだねえ」
美津代は、楽しそうに笑った。
「でも、そういうの、嫌いじゃないよ」
カウンターの向こうでは、琉叶が鍋の火を弱めながら、二人のほうをちらりと見ていた。
何も言わない。
けれど、その背中は、どこかほっとしたように見えた。
元恋人のシンデレラ定食。
奪われた時間のお返しは、一皿ではとても足りない。
それでも、今日この店で過ごした時間だけは、お互いに「奪われた」と呼ばなくていい。
そう思えたことが、何よりの救いだった。
みつよ食堂のガラス戸には、例のポスターと、一緒に貼られた記事のコピーが並んでいる。
『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』。
その見出しを、何度も読み返していく人がいる。
立ち止まって、ポスターの中の皿と、記事の文字を見比べていく人もいる。
その日も、桜子は開店準備を終え、カウンターの内側から外の様子を眺めていた。
ガラスの向こうで足を止めた一人の男性が、記事に顔を近づける。
スーツにコート、片手にはビジネスバッグ。
見慣れた横顔に気づいた瞬間、胸の中の空気が一瞬止まった。
(……凌)
花束も、紙袋も持っていない。
両手は、バッグの取っ手と、ポケットの中の何かを行ったり来たりしているように見えた。
迷っているのが、ガラス越しにも伝わってくる。
やがて、彼は小さく息を吐いてから、引き戸に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じように声を出す。
喉が少しだけ乾いているのを、ごまかすように。
「……こんにちは」
凌は、少し気まずそうに会釈した。
「この前は、どうも」
「こちらこそ」
桜子は、短く頭を下げる。
「今日は、お一人ですか」
「うん。
……ちゃんと、客として来た」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
“やり直したい”とか、“話し合いたい”とか、そういう言葉を構えていた自分が、拍子抜けする。
「カウンター、空いてます」
「じゃあ、端っこいい?」
「どうぞ」
凌は、ポスターから一番よく見える席に腰を下ろした。
カウンターの木目を指でなぞりながら、周りを見回す。
初めて来た場所のように、少しだけ緊張した表情だった。
*
「知り合い?」
小声で尋ねてきたのは、美津代だった。
洗い場から顔を出し、凌のほうをちらりと見る。
「……元、です」
桜子は、声をさらに落として答える。
「この前、ここに来た人」
「ああ。
お花、持ってきた子ね」
「はい」
「今日は、手ぶらか」
美津代は、少しだけ口角を上げた。
「いいじゃない。
そのほうが、身軽で」
桜子が戸惑っているあいだに、美津代はすでに決めていたようだ。
カウンター下の棚から、カードの束を取り出す。
「ねえ」
美津代は、カウンター越しにカードを一枚差し出した。
「うちの“シンデレラ”、頼んでみない?」
「え」
桜子と凌の声が、同時に重なった。
「し、シンデレラ定食は、予約制じゃないですけど、今日はちょっと――」
「出しなさい」
美津代が、桜子の言葉をやわらかく遮る。
「せっかく“ちゃんと客として来た”って言ってるんだから。
あんたにも、今日だけ主役になってもらいな」
凌は、差し出されたカードと、ポスターの皿を見比べた。
カードの上部には、「今日だけ主役になりたい理由」と印刷されている。
「これ、記事に書いてあったやつだ」
凌が、かすかに笑う。
「“手書きカードの魔法”って見出しの」
「読んだんですね」
思わず口から出ると、凌は耳の後ろをかいた。
「駅で待ち合わせしてたら、友だちが“お前の元カノっぽい”って送ってきてさ。
なんか見覚えあるなと思ったら、やっぱり桜子で」
「“っぽい”って言い方」
自分で突っ込みながらも、頬が少しだけ熱くなる。
「……で、その“主役になりたい理由”っていうのを書けばいいの?」
「はい」
桜子は、カードとペンをそっと差し出した。
「無理にじゃなくて、大丈夫です。
書きたくないときは、“今日はパス”って言ってくだされば」
「書くよ」
凌は、少しだけ間を置いてから言った。
「せっかく来たんだし」
*
カードに向かう凌の横顔は、思っていたより真剣だった。
ペンを持つ手が、何度も止まっては動く。
桜子は、カウンターの内側で、他の客の注文を取りながらも、視界の端でその様子を追っていた。
気になるけれど、覗き込む勇気はない。
ここで、勝手に読んでしまうのは違う気がした。
「できたら、こっちに回してね」
美津代が、さりげなく声をかける。
「料理人にも、理由を見せてやらないと。
皿の顔が変わるから」
「そんな変わるんですか」
「変わるんだよ、これが」
しばらくして、凌は息を吐き、カードを裏返しにして差し出した。
裏面には、小さく名前だけが書いてある。
表に何が書かれているのかは見えない。
「字、汚かったらごめん」
「それは料理には関係ないから大丈夫」
美津代は、にやりと笑ってカードを受け取ると、器用に指先でくるりとひっくり返した。
視線が、紙の中央で止まる。
「……ふうん」
短い相槌。
けれど、その目はどこか柔らかい。
「どうですか」
桜子が、小声で尋ねる。
「大丈夫そう?」
「大丈夫かどうかは、自分で決めるんだよ」
美津代は、そう言ってカードをそっと琉叶に渡した。
「ほら。
“今日の主役”」
*
厨房にカードが回される。
琉叶は、受け取った紙を、まな板の端に立てかけた。
そこには、震えのない、すっとまっすぐな字で、一行だけ書かれていた。
――誰かの時間を奪わない人になりたい。
読み上げはしない。
けれど、言葉の重さは、紙の薄さとはまるで釣り合っていない。
あの日、カウンター越しに見た花束。
桜子が、「奪われたのは時間だけ」と言ったときの声。
会計のあと、「ありがとう」とだけ残して帰っていった背中。
それらが、短い一文にまとめて押し込められているような気がした。
「……どうします?」
隣で鍋を見ていた雄之が、小声で尋ねる。
「元カレ専用メニュー、考える?」
「そんなジャンルはありません」
琉叶は、苦笑した。
「でも、普通にやるのも、違う気がしますね」
まな板の上に、キャベツと玉ねぎ、少し厚めに切ったベーコンを並べる。
どれも、ここ数日、何度も触れてきた食材だ。
けれど、今日は少しだけ、切り方を変える。
「時間を奪わない、か」
包丁を握る手に、力が入る。
「“奪わないように”って思いすぎると、今度は自分の時間を差し出しすぎる。
……むずかしいですね」
「説教?
ポエム?」
「独り言です」
キャベツは、いつもの千切りよりも太めに切る。
噛むたびに、ちゃんと口の中に残るように。
玉ねぎは、じっくり炒めれば甘くなる厚さに。
ベーコンは、焦げ目がつくくらいカリッと焼けるサイズに。
フライパンに油をひき、ベーコンを先に炒める。
じゅう、と音が立つ。
脂が溶け出し、香ばしい匂いが広がる。
そこに、玉ねぎとキャベツを加え、ゆっくりと火を通していく。
焦らず、急がず。
時間をかけて甘みを引き出す。
別の鍋では、コンソメベースのスープを温める。
じゃがいもと人参を小さめに切り、口に運びやすい大きさにまとめていく。
「派手さはないけど、腹に残るやつ」
琉叶は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「“誰かの時間を奪わない”って、多分、こういう味なんだと思います」
炒めた野菜を皿に敷き、上からベーコンを散らす。
横には、小さなグラタン皿に入れたポテトグラタン。
スープとご飯、サラダのかわりに、野菜多めのマリネ。
本日のシンデレラ定食。
テーマは、「奪った時間のお返し」。
琉叶は、カードにちらりと目をやりながら、最後にパセリをひとつまみだけ散らした。
*
「お待たせしました。
元恋人……じゃなくて、お客さまのシンデレラ定食です」
「今、絶対余計な一言乗せましたよね」
凌が苦笑する。
「“元恋人”って言葉、メニュー名にしないでよ」
「しません。
ご安心ください」
桜子は、お盆をカウンターにそっと置いた。
湯気が立ちのぼり、ベーコンと野菜の香りがふわりと広がる。
「これが、あの記事の」
「そうです」
桜子は、少し背筋を伸ばした。
「“今日だけ主役になりたい理由”付きの、シンデレラ定食です」
「見た目、意外と地味だね」
「褒めてます?」
「褒めてるよ。
なんか、懐かしい匂いする」
凌は、箸を手に取り、まずは野菜とベーコンを一口。
少しだけ目を細めて噛みしめる。
「……ちゃんと、おいしい」
「“ちゃんと”は、やめてください」
「いや、ほら。
“ちゃんと”って、なんか、当たり前の安心感あるじゃん」
「そういうフォローも、“ちゃんと”してますね」
桜子は、カウンターの向こうで、ほっと小さく息を吐いた。
*
凌が黙々と食べているあいだ、店内にはいつもの昼のざわめきが流れていた。
仕事の合間に来た人たち、記事を見て訪れた人たち。
誰も、カウンターの端の「元恋人」を特別扱いはしない。
それが、ありがたかった。
「……なあ」
皿の上が半分ほど減ったところで、凌がぽつりと言った。
「この記事さ。
“奪われた時間の上に皿が立ってる”って書いてあったろ」
「はい」
桜子は、壁の記事をちらりと見る。
「実記さんの文章です」
「あれ読んだとき、ちょっと刺さった」
凌は、苦笑いのような顔をした。
「“奪ってた側”だなって、思って」
桜子は、返事を急がなかった。
代わりに、手元のグラスを拭きながら、彼の言葉を待つ。
「別に、悪いことしてるつもりはなかったんだよ」
「うん」
「“そのうちちゃんと紹介するし”とか、“今日だけだから”とかさ。
全部、本気で言ってたつもりだった」
「知ってる」
「でもさ」
凌は、箸を皿の端に置いた。
「本気で言ってたからって、相手の時間を奪ってなかったかって言われると、答えに困る」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、前ほど、息が詰まるような痛みではなかった。
「カードに書いたの、そういうこと?」
桜子は、静かに尋ねた。
「“誰かの時間を奪わない人になりたい”って」
凌の手が、ぴくりと止まる。
「見た?」
「見てません。
でも、美津代さんが、ちょっとだけ教えてくれました」
「プライバシーとは」
「厨房に回すから、料理人は全部知ってます」
「だよな」
凌は、小さく笑った。
「まあ、書いた以上、どこかで誰かに読まれるのは覚悟してたけど」
しばし沈黙が落ちる。
カウンターの木目の上で、二人の視線が交差して、またそれぞれ別の方向へ散っていく。
「……ありがとな」
凌が、ふいに言った。
「この前、“奪われたのは時間だけ”って言ってくれて」
「別に、お礼言われるために言ったわけじゃないです」
「わかってる。
でも、あれ言われて、ちょっとだけ救われた」
「そうですか」
「“時間だけ”って言葉、結構重いんだなって、後から気づいた」
凌は、スープを一口飲んでから続ける。
「金とか物だったら、返せるかもしれないけど。
時間って、返せないじゃん」
「そうですね」
「だから、これからは、なるべく奪わないようにしたいなって。
それくらいしか、今の俺にできることないし」
その言葉に、桜子はようやく真正面から頷けた。
「じゃあ、その練習台として、今日ここに来たってことで」
「練習台?」
「ちゃんとお客さんとして来て、ちゃんとお金払って、ちゃんとごはん食べる。
それだけで、十分ですよ」
「“ちゃんと”多くない?」
「お互いさまです」
*
やがて、凌は最後の一口まできれいに食べ終え、箸を揃えて置いた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
会計を済ませ、レシートを財布にしまう手つきは、少しだけぎこちない。
それでも、そこに「未練」は見えなかった。
ガラス戸の前で、凌はもう一度ポスターを見上げた。
皿と、エプロン姿の桜子。
その写真の隣に、記事の見出し。
「……似合ってるよ」
振り返らずに、そう言った。
「ここ」
誰に向けた言葉か、今回ははっきりしていた。
「ありがとう」
桜子は、カウンターの内側から、小さく会釈した。
見送る背中に、花束の影はもうない。
ガラス戸が閉まる音がして、アーケードのざわめきが戻ってくる。
桜子は、しばらくのあいだ、その背中が消えていった方向を見つめていた。
胸の中で、何かが静かにほどけていく。
「……終わりましたね」
ぽつりとこぼすと、すぐ横から声がした。
「“終わった”というより、“ひと区切り”かな」
美津代が、布巾を肩にかけたまま立っている。
「でもまあ、よく頑張りました」
「何もしてないです」
「してたよ。
ちゃんと“客として”迎えて、ちゃんと“客として”送り出したでしょ。
それが一番、難しいんだから」
その言葉に、桜子は小さく笑った。
「じゃあ、次のカード、書き換えます?」
「なにを」
「“ちゃんと自分で決めたい”の次」
「お、出世だね」
桜子は、カウンターの端に置かれたカードスタンドを見た。
そこには、いくつもの「今日だけ主役になりたい理由」が並んでいる。
「今度書くときは、そうですね……」
少し考えてから、言葉を探す。
「“奪われた時間のぶん、おいしいごはんを出したい”とか」
「欲張りだねえ」
美津代は、楽しそうに笑った。
「でも、そういうの、嫌いじゃないよ」
カウンターの向こうでは、琉叶が鍋の火を弱めながら、二人のほうをちらりと見ていた。
何も言わない。
けれど、その背中は、どこかほっとしたように見えた。
元恋人のシンデレラ定食。
奪われた時間のお返しは、一皿ではとても足りない。
それでも、今日この店で過ごした時間だけは、お互いに「奪われた」と呼ばなくていい。
そう思えたことが、何よりの救いだった。
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王命って何ですか? 虐げられ才女は理不尽な我慢をやめることにした
まるまる⭐️
恋愛
【第18回恋愛小説大賞において優秀賞を頂戴致しました。応援頂いた読者の皆様に心よりの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました】
その日、貴族裁判所前には多くの貴族達が傍聴券を求め、所狭しと行列を作っていた。
貴族達にとって注目すべき裁判が開かれるからだ。
現国王の妹王女の嫁ぎ先である建国以来の名門侯爵家が、新興貴族である伯爵家から訴えを起こされたこの裁判。
人々の関心を集めないはずがない。
裁判の冒頭、証言台に立った伯爵家長女は涙ながらに訴えた。
「私には婚約者がいました…。
彼を愛していました。でも、私とその方の婚約は破棄され、私は意に沿わぬ男性の元へと嫁ぎ、侯爵夫人となったのです。
そう…。誰も覆す事の出来ない王命と言う理不尽な制度によって…。
ですが、理不尽な制度には理不尽な扱いが待っていました…」
裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。裁判での証言でなければ不敬罪に問われても可笑しくはない発言だ。
だが、彼女はそんな事は全て承知の上であえてこの言葉を発した。
彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。
次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。
裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。
「王命って何ですか?」と。
✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる