残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第29話 シンデレラになぞらえた現代恋愛ドラマ

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 アーケードの灯りが背中から遠ざかるにつれて、足元の影が少しずつ長くなっていく。

 夜の商店街は、昼の賑わいが嘘みたいに静かだった。
 シャッターの降りた店の前を通るたび、金属の匂いと、昼間に焼きついた油やパンの香りが、かすかに残っている。

 琉叶は、歩幅を桜子に合わせながら、両手でひとつの紙袋を抱えていた。
 白地に、みつよ食堂の小さなロゴが押された包装紙。
 その中身が、ほんのりと温かい。

「屋台、片づけ大変だったんじゃないですか」
 桜子は、隣を歩きながら口を開いた。
「さっき、商店街の奥のほうから、ガラガラって音してましたけど」

「みんなのおかげで、思ったより早く終わりました」
 琉叶は、紙袋を持ち直しながら答える。
「余った具材も、なんとかこうして救出できましたし」

「救出」
 その言い方に、思わず笑みがこぼれる。
「おにぎりが“救出されました”って言われる店、なかなかないですよ」

「ここ数週間で、だいぶ感覚がおかしくなりましたね」
「悪い意味じゃないといいんですけど」
「少なくとも、僕には悪くないです」

 それ以上、しばらく会話は途切れた。
 けれど、気まずさはない。
 紙袋から立ち上る、海苔とごはんの匂い。
 商店街の端に近づくにつれ、車の音が少しずつ増えていく。

     *

 商店街の外れに、小さな公園がある。
 滑り台とブランコ、低い鉄棒。
 ベンチが二つだけ並んでいて、その向こうには、川にかかる橋の街灯がいくつか見えた。

 昼間は近所の子どもたちが走り回っている場所も、今は人影がない。
 街灯のオレンジ色の光が、地面の砂を柔らかく照らしているだけだ。

「ここ、初めて来ました」
 桜子は、ベンチの前で足を止めた。
「商店街の先に、こんな場所あったんですね」

「仕込みが早く終わった日とか、たまに来ます」
 琉叶は、そう言って紙袋をベンチの上に置いた。
「頭の中がぐるぐるしてるときとか」

「ぐるぐるしてたんですね」
「最近は、ずっとです」
 あっさり言われて、桜子は一瞬返す言葉に困る。
「店のことですか」
「それもあります」
「それも」

 その続きを聞きたいような、聞くのが怖いような。
 胸の奥で二つの気持ちがぶつかり合って、喉のあたりで渋滞した。

「座りましょう」
 琉叶は、無理に続きを言おうとはせず、ベンチの端に腰を下ろした。
 桜子も、その隣に座る。
 少しだけ隙間をあけて。
 でも、手を伸ばせば届く距離に。

 紙袋の口を開くと、湯気がふわりと上がった。
 握りたてのときほどではないけれど、まだ十分に温かい。

「おにぎりと、スープです」
 琉叶は、紙袋から包みを取り出した。
 コンビニのビニールでも、チェーン店のロゴ入りの紙袋でもない。
 いつもテイクアウト用に使っている、みつよ食堂の包装紙だ。

「特別な具とかは、入ってません」
 琉叶は、少し照れたように言う。
「屋台で余った、鮭と梅と昆布。
 あとは、屋台用に炊いたごはんの、最後のほう」

「余りものって言い方、失礼じゃないですか」
「おいしい余りものです」
「なら許します」

 笑いながらも、胸の中がじんわりと熱くなる。
 余りものを、こんなふうに丁寧に持ち出してくれる人がいる。
 それだけで、十分すぎるほど特別だった。

     *

 紙コップに注がれたスープは、コンソメベースのやさしい味だった。
 じゃがいもとにんじん、それから小さなウインナーがいくつか沈んでいる。
 屋台で使った鍋の“名残り”だ。

「いただきます」
 小さく手を合わせ、桜子はおにぎりをひとつ手に取った。
 海苔が、指先で少しだけしっとりしている。

 一口かじると、口の中に広がる塩気とごはんの甘さ。
 屋台の喧噪の中で食べるそれとは違って、静かな夜の空気に包まれながら味わうと、どこかしら落ち着く。

「……おいしいです」
 素直な感想が口から漏れた。
「ほっとします」
「よかったです」
 琉叶も、おにぎりにかじりつく。
 頬が少しだけふくらんで、声がもごもごする。

 しばらくのあいだ、二人はおにぎりとスープに集中した。
 公園の隅の街灯が、ふたりの影をベンチの後ろに落としている。

 お腹のほうが少し落ち着いたころ、ようやく、言葉のほうが前に出てきた。

「……勇一さんが」
 スープのカップを両手で包み込みながら、琉叶が口を開いた。
「ネームのタイトル、決めたんです」

「本当ですか」
 桜子は顔を上げる。
「あんなに悩んでたのに」

「“シンデレラになぞらえた現代恋愛ドラマ”」
 少し照れくさそうに、タイトルを口にする。
「正式なタイトルはもう少し短くするみたいですけど。
 コンセプトとしては、そんな感じだそうで」

「らしいですね」
 桜子は、思わず笑ってしまった。
「“なぞらえた”って言葉、勇一さん好きそうです」
「ですよね」

 しばしの沈黙。
 風が、ベンチの背もたれの隙間を抜けていく。

「でも」
 琉叶は、紙コップの縁を指でなぞりながら続けた。
「僕は、そうは思ってません」

「……?」

「勇一さんは、“みつよ食堂のこの数週間は、シンデレラみたいなもんだ”って言ってくれました。
 ガラスの靴じゃなくて、シンデレラ定食で、変身していく人たちの話だって」

 あの編集会議のとき、勇一が興奮気味に話していた様子が頭に浮かぶ。
 “日常の中の魔法”とか、“皿がガラスの靴の役目をしてる”とか。
 言い得て妙だと思った。

「でも、僕は」
 琉叶は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「なぞらえ話で済ませたくないなと思って」

「なぞらえ話」
「シンデレラみたいな、きれいな物語に“似ていること”で片づけたくないっていうか。
 どの一皿も、どの一日も、本物だったから」

 その「本物」という言葉が、夜の空気を少しだけ震わせた気がした。

「“物語みたいだったね”って笑えるのは、きっとあとからでいい。
 今は、ここまでの全部を、そのまま受け止めておきたいんです」

 桜子は、膝の上で指を組んだ。
 視線を落とすと、自分の手と、その隣に置かれた琉叶の手が、ほんの数センチの距離で並んでいる。

 シフト表を一緒に見た日。
 キャベツを刻みすぎた夜。
 元恋人のシンデレラ定食を出した昼。
 カードスタンドの前で、何度も立ち止まった時間。

 どれも、「似た話」ではなく、自分たちの生活だった。

     *

「桜子さん」
 名前を呼ばれる声に、胸の奥が小さく跳ねる。
「はい」

「さっき、店を出る前に言ってましたよね」
 琉叶は、少しだけ笑った。
「“行ってきます”って」

 自分で言った言葉なのに、そのときのことを思い出して、頬が熱くなる。

「あれ、ずるいなと思いました」
「ずるい?」
「僕も、ずっと言いたかったので」

 琉叶は、おにぎりの包みをたたんでから、真っすぐこちらを見た。

「みつよ食堂に来てからの毎日が、どこか“自分の居場所を探しに来てる途中”みたいな気持ちでいました。
 いつか、“そろそろ別の場所へ行きます”って言わなきゃいけない日が来るんだろうって。
 どこかで覚悟してたんです」

 それは、きっと店に来る前から染みついていた癖だ。
 長居しない。
 深く関わりすぎない。
 そうして自分を守ってきた人の言葉だった。

「でも」
 琉叶は、手のひらをぎゅっと握る。
「この数週間、あの店でシンデレラ定食を出して、カードを読んで、皿を洗って。
 誰かの“今日だけ”に付き合っているうちに、自分の“これから”も、ここで考えたくなりました」

 桜子の喉が、ごくりと鳴る。
 うまく息が吸えない。

「だから、ちゃんと言いたいんです」
 琉叶は、息を吸ってから、一度だけ目を閉じた。
 そして、ゆっくりと目を開ける。

「僕は、これからもここで、ごはんを作っていきたい。
 ――桜子さんと、一緒に」

 その言葉は、街灯の下で、ガラスの靴よりずっと確かに光っていた。

     *

 胸の奥で何かがはじける音がした気がした。

 嬉しいのか、驚いているのか、怖いのか。
 全部が一度に押し寄せてきて、うまく整理がつかない。
 ただ、目の奥が熱くなって、視界が少しにじんだ。

「……ずるいのは、そっちです」
 ようやく絞り出した言葉は、思っていたよりも掠れていた。
「そんなこと言われたら、もう“ここ、試しに働かせてもらってるだけで”って言い訳できないじゃないですか」

「言い訳だったんですか」
「半分くらいは」
「残りの半分は」
「“自分で決めたい”っていう意地です」

 二人のあいだに、いつもの軽口が少しだけ戻る。
 それでも、戻らないものもあった。
 さっきまでの距離感には、もう戻れない。

 琉叶は、膝の上に置いていた自分の手を、そっと伸ばした。
 ためらいが、指先に集まる。
 けれど、そこで止まらなかった。

 桜子の手のひらの上に、自分の手を重ねる。
 それから、もう片方の手も添えた。
 冷えた指先を、両手で包み込むように。

「……大丈夫ですか」
「何がですか」
「手、冷たくないかなと」
「それは、こっちのセリフです」

 指先が、互いの鼓動を確かめ合うように、かすかに震えている。

「さっき言ったこと、もう一度だけ言わせてください」
 琉叶は、手を離さないまま続けた。
「今までのことを、“シンデレラみたいだったね”って笑える日がいつか来てもいい。
 でも、僕はちゃんと現実として、ここで桜子さんとごはんを作っていきたいです。
 これからも、一緒に」

 今度は、逃げ場のない言葉だった。
 どこにも「とりあえず」とか「仮に」とか、「いつか」は混ざっていない。

 桜子は、涙でにじむ視界の中で、その真っ直ぐな瞳を見つめた。

「……はい」

 それは、驚くほど小さな声だった。
 けれど、はっきりと、自分の耳にも届く。
 逃げようのない、自分自身の返事だ。

「はい」
 もう一度。
 今度は、涙と一緒に笑いがこみあげてきて、うまく発音できなかった。

 琉叶の表情が、ふっと緩む。
 安堵と、嬉しさと、少しの照れくささが混ざったような顔だった。

「ありがとうございます」
「まだ何もしてないですよ」
「ここまで、全部一緒にやってくれました」
「それは……」
「これからも、一緒にやってもらえるなら、それ以上のことは望まないでおきます」

「少しは望んでもいいと思いますけど」
「じゃあ、“たまにまかないのメニュー、意見言わせてもらう権利”欲しいです」
「それ、今もやってますよね」
「じゃあ、“それを嫌な顔しないで聞いてくれる権利”」
「最初から嫌な顔してないです」

 二人のあいだに、ようやく大きな笑いが生まれた。

     *

 ふと、足元を見下ろすと、ベンチの影が重なり合っていた。
 ひとつだった影が、少し長く伸びたあと、またひとつにまとまっていく。

「……シンデレラって、舞踏会のあと、どうしたんでしょうね」
 桜子が、手を繋いだままぽつりと言った。
「ガラスの靴拾ってもらって、お城に行って、めでたしめでたし、のあと」

「勇一さんなら、そこをスピンオフで描きたがりそうですね」
「“シンデレラのその後~余りものごはんと城下町~”みたいな」
「確実に連載始まります」

 想像しただけで、笑いがこみ上げる。

「でも」
 桜子は、つないだ手に力をこめた。
「私たちはきっと、“めでたしめでたし”のあとも、皿洗って、キャベツ刻んで、まかない食べて。
 そうやって続いていくんだろうなって思います」

「はい」
 琉叶も、頷く。
「それがいいです。
 派手な魔法じゃなくて、毎日の“おいしい”を、一緒に積み重ねていけたら」

 街灯の光が、二人の手の上に落ちる。
 ガラスの靴のような煌めきはない。
 けれど、そこにある温度は本物だ。

「……帰りましょうか」
「はい。
 明日も、仕込みありますし」

 ベンチから立ち上がり、握った手を離さずに歩き出す。
 公園を出て、商店街へ向かう道。
 さっきまでとは逆方向に、同じ二人分の足音が響いた。

 シンデレラになぞらえた現代恋愛ドラマ。
 もし誰かがそう呼ぶなら、それでも構わない。

 でも、二人にとっては。

 明日の仕込みと、今日のまかないと、これからのごはんを一緒に作っていく約束。
 それだけが、何より確かな物語だった。
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