29 / 31
第28話 シンデレラ定食、最終日
しおりを挟む
最終日の朝、みつよ食堂のシャッターが上がる音は、いつもより少しだけ高く響いた気がした。
アーケードの天井から落ちてくる光が、ガラス戸に貼られたポスターと記事を照らす。
『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』。
何度も目にしてきた見出しなのに、この日はまるで「本番だよ」と肩を叩かれているみたいだった。
「緊張してます?」
ブラックボードを拭きながら、桜子は自分に問いかけるようにつぶやいた。
チョークの白い粉が、指先につく。
それを、エプロンでこすり落とす。
背後で、シャッターの鎖が金属音を立てて揺れた。
「いつもどおりです」
琉叶の声がする。
けれど、その「いつもどおり」は、少しだけ背筋が伸びているように聞こえた。
ブラックボードには、いつもの定番の一言が書かれている。
『お腹、空いてますか』
その下に、今日だけの一行を付け足した。
『シンデレラ定食、最終日です』
チョークのかすれ具合を見て、桜子はふうっと息を吐く。
(よし。
あとは、いつもどおり)
*
開店と同時に、扉のベルが軽快な音を立てた。
「おはようございまーす!」
最初に飛び込んできたのは、元気のいい声だった。
以前、「昇進したから」と言ってシンデレラ定食を頼んだあの人だ。
今日はスーツ姿だけでなく、後ろに数人の若い社員らしき人たちを連れている。
「ここが、この前話してた“お腹空いた店”ですか」
「そうそう。
うちの部署の非常食庫みたいなもんだから」
「非常食庫って言い方やめてください」
桜子が慌ててツッコミを入れると、その人は笑いながら手を振った。
「じゃあ今日は、“部下連れてきちゃいました記念”で、シンデレラ二つ。
残りは日替わりください」
「かしこまりました。
シンデレラ二つ、日替わり三つですね」
注文を復唱しながら、桜子は胸の中で「おかえりなさい」とつぶやいた。
*
二組目は、見覚えのある四人組の女性たちだった。
グルメ企画の初日に、「お腹空きすぎて倒れる前には出てくるって信じてます」と笑っていたテーブルの人たちだ。
「前回は、途中で皿下げるの手伝っちゃってすみませんでした」
「いえいえ。
あのとき、本当に助かりました」
「今日は、ちゃんと客として来たから。
手は貸さないけど、腹は空かせてきた」
「一番ありがたいです」
その会話に、周りの客がくすりと笑う。
店の空気が、少しずつ温まっていくのがわかる。
*
昼下がり、カウンターの端で手を振ったのは、「失恋シンデレラ」だった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。
今日は、お一人ですか」
「ううん。
今日は、職場の同期連れてきました」
隣には、少し緊張した面持ちの女性が座っている。
メニューをぎゅっと握りしめ、目だけが忙しなく動いていた。
「ここ、すごくいいよって話してたら、“失恋したら連れてってください”って予約入れられちゃって」
「ちょっと!」
同期らしき女性が小声で抗議する。
「まだ失恋してないからね!」
「そう願ってるけど、どっちに転んでもごはんはおいしいから」
軽口を交わしながら、二人ともシンデレラ定食を注文した。
そのカードには、「今の恋を自分のペースで選びたい」「仕事と恋のどっちも、“二番目でいいや”って言わないようにしたい」と、それぞれ違う言葉が並ぶ。
カードを受け取る手のひらに、重さと軽さが同時に乗る。
その全部を受け止める皿を作るのが、今日の仕事だ。
*
店内には、かつての「シンデレラたち」が少しずつ集まってきた。
転職して、「前よりゆっくり昼休みが取れるようになりました」と笑う人。
夜勤明けで、「あの朝ごはんが忘れられなくて」とふらりと立ち寄る人。
商店街の奥のほうから、「あの記事読んで、うちの新人にも見せたいと思って」と顔を出す人。
みんな、自分の歩幅でここに戻ってきている。
その「その後」を、一皿一皿に乗せていく。
「桜子」
カウンターの内側から、美津代が声をかける。
「ホール、見えてる?」
「見えてます」
「厨房のほうも、ちゃんと見といて。
今日の“主役”は皿だけじゃないからね」
「……はい」
言われて、桜子は厨房側に目を向けた。
琉叶は、いつもより少しだけ早い手つきで、けれど決して崩れないリズムで鍋と向き合っていた。
フライパンの油が跳ねる音。
味噌汁の湯気。
キャベツを刻む包丁の音。
どれも毎日の音なのに、今日はひとつひとつが、胸の奥に残っていく。
(ああ、最終日なんだ)
そう実感した瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。
でも、涙が出るほどではない。
この場所はまだ終わらない。
ただ、「区切り」がひとつつくだけだ。
*
昼の波が一段落し、夜に向けての仕込みが続く。
「水、もう一杯お願いします」
「はーい」
「すみません、シンデレラ追加で一つ、間に合います?」
「まだ大丈夫です」
ホールのあちこちから飛んでくる声に応えながら、桜子は何度もカウンターを往復した。
足は少し重い。
けれど、心は妙に軽い。
ここに集まってきた人たちが、それぞれの場所に戻っていく姿が目に浮かぶからだ。
部下を連れてきたあの人は、仕事に戻って、また誰かの残業を減らしてくれるだろう。
失恋シンデレラは、同期と一緒に電車に乗って、くだらない話で笑い合うだろう。
夜勤明けの人は、仮眠室で少しだけ多めに眠ってくれるかもしれない。
ここで満たされたお腹が、持ち帰られる場所の空気まで、少しだけ温めてくれたらいい。
*
そうして迎えた、夜のピーク。
「シンデレラ三つ、入ります!」
「はい」
「こっち、日替わりと唐揚げと、とんかつ!」
「はい」
厨房の温度が、一気に上がる。
汗が額を伝って落ちる。
腕は限界に近いはずなのに、動きはむしろ冴えていく。
やがて、カウンターの端に並ぶ皿の数が、ほんの少しだけ減り始めた。
待ち椅子に座る人の列も、少しずつ短くなっていく。
そして、ついにその瞬間が来た。
「……これで、カードは全部です」
桜子がカードスタンドを確認して告げる。
「今日のシンデレラ定食、ラストオーダー分まで出ました」
「わかりました」
琉叶は、受け取った最後のカードをまな板の端に立てかけた。
そこには、大学生らしき字で、「卒論が終わるように祈ってください」と書いてある。
「祈りというより、カロリーで押しますね」
小さく笑いながら、フライパンを火にかける。
ベーコンと野菜が、じゅうっと音を立てる。
湯気の向こうで、琉叶の横顔が一瞬だけ真剣になる。
「これが今日の、最後のシンデレラ定食です」
誰に向けたともつかないその言葉が、鍋の音に紛れて静かに響いた。
桜子は、その背中を見ながら、胸の奥で同じ言葉をなぞる。
(最後の、でも“終わりの”じゃない)
そう思えたのは、ここまで一緒に皿を出してきた日々があったからだ。
*
最後のシンデレラ定食がテーブルに置かれたとき、店内に目立った拍手が起きたわけではない。
誰かが立ち上がって、「お疲れさま」と叫んだわけでもない。
ただ、カウンター越しに、「ごちそうさま」「おいしかったです」「また来ます」といった言葉が、いつもより少し多めに飛んできた。
「ほんと、ありがとうございました」
「こっちこそ。
助けられてばっかりでした」
桜子は、そのひとつひとつに丁寧に頭を下げる。
支払いを終えた人たちが、ガラス戸の外に出ていく。
アーケードの向こうへ歩いていく背中を、常連たちが見送る。
その視線には、「またいつでも」という合図が含まれていた。
やがて、店内には常連だけが残った。
「閉店時間までは、まだ少しありますけど」
桜子が言うと、カウンターの奥に座っていた商店街の顔ぶれが顔を見合わせる。
「じゃあ、そろそろ店じまいの邪魔になるから、帰るふりしよっかな」
「ふりって言いました?」
「鍵かけるまでは、外から見守ってるから安心して」
「何をですか」
わざとらしい会話に笑いが起きる。
それでも、誰も「今日は長居する」とは言わなかった。
*
片づけが始まる。
テーブルの皿を下げ、箸を揃え、調味料の瓶の底を拭く。
床をモップが通り過ぎるたび、最終日の喧噪が少しずつ薄れていく。
シンクでは、さっきまでと同じように水が流れていた。
けれど、皿の枚数は、いつもの夜より心なしか少ない。
「……終わりました」
桜子が最後のテーブルを拭き終え、手を止める。
店内を見渡すと、椅子がきれいに机の下に収まり、カウンターの上には水滴ひとつ残っていなかった。
「おつかれさまでした」
琉叶が、布巾を絞りながら頭を下げる。
「おつかれさまでした」
桜子も、少し深めに頭を下げて返した。
美津代は、レジの中で帳簿を閉じる。
「よし。
じゃあ、私は先に上がるから」
「え?」
「片づけ終わってるし、あとは戸締まりだけだし。
若い子同士のほうが、話しやすいこともあるでしょ」
意味ありげな笑みを浮かべて、エプロンを外す。
肩にバッグを提げ、ガラス戸のほうへ向かう途中、ふと立ち止まった。
「外、ちょっと冷えてきてるから。
出るなら上着ちゃんと着なよ」
それだけ言い残して、ベルを鳴らしながら外へ出ていった。
扉が閉まる音が、店内に小さく反響する。
残されたのは、二人だけだった。
*
静けさに気づいた瞬間、桜子の心臓が早鐘を打ち始めた。
昼の喧噪より、よっぽどやかましい。
「……えっと」
何か言わなければと思いながら、言葉が見つからない。
琉叶は、そんな彼女の様子をちらりと見てから、エプロンの紐に手をかけた。
「桜子さん」
「はい」
「少しだけ、付き合ってもらえますか」
その言い方は、昨日のカードの返事のときと変わらない。
けれど、言葉の奥にあるものが違うように感じられた。
「どこか、行くんですか」
「はい。
そんなに遠くではないです」
エプロンを外し、フックにかける。
代わりに、入口近くに置いてある自分のコートを手に取った。
「今からだと、商店街もだいぶ人が減ってますけど」
「だから、ちょうどいいと思って」
桜子も、ロッカーから自分のコートを取り出した。
袖を通す指先が、少し震えている。
けれど、それを抑え込もうとはしなかった。
震えているのは、怖いからだけじゃない。
この先の時間を、自分で選ぼうとしているからだ。
「戸締まり、してきます」
「お願いします」
シャッターの鎖を引き、鍵をかける。
ガラス戸越しに、外のアーケードが見えた。
さっきまで人であふれていた通りは、今は静かに光っているだけだ。
ブラックボードは、裏返して厨房の脇に立てかけた。
“シンデレラ定食、最終日です”という文字は見えない。
けれど、板の裏には、まだチョークの気配が残っている。
「お待たせしました」
「いえ」
二人は、並んでガラス戸の前に立った。
外には、商店街の灯りと、ほんの少し冷えた空気。
扉に手をかける直前、桜子は振り返った。
カウンター、椅子、厨房の鍋、記事のコピー。
全部、この数週間でますます「自分の居場所」になったものたちだ。
「……行ってきます」
小さな声でそう言うと、琉叶も同じ方向を振り返って、頭を下げた。
「行ってきます」
ガラス戸を開けると、ベルがいつもの音を立てた。
二人の背中を、誰かが見送っている気配がする。
振り返らなくてもわかる。
きっと、常連たちがどこかで腕を組んで、「ちゃんと行け」とうなずいている。
みつよ食堂の灯りを背にして、二人はゆっくりとアーケードへ歩き出した。
アーケードの天井から落ちてくる光が、ガラス戸に貼られたポスターと記事を照らす。
『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』。
何度も目にしてきた見出しなのに、この日はまるで「本番だよ」と肩を叩かれているみたいだった。
「緊張してます?」
ブラックボードを拭きながら、桜子は自分に問いかけるようにつぶやいた。
チョークの白い粉が、指先につく。
それを、エプロンでこすり落とす。
背後で、シャッターの鎖が金属音を立てて揺れた。
「いつもどおりです」
琉叶の声がする。
けれど、その「いつもどおり」は、少しだけ背筋が伸びているように聞こえた。
ブラックボードには、いつもの定番の一言が書かれている。
『お腹、空いてますか』
その下に、今日だけの一行を付け足した。
『シンデレラ定食、最終日です』
チョークのかすれ具合を見て、桜子はふうっと息を吐く。
(よし。
あとは、いつもどおり)
*
開店と同時に、扉のベルが軽快な音を立てた。
「おはようございまーす!」
最初に飛び込んできたのは、元気のいい声だった。
以前、「昇進したから」と言ってシンデレラ定食を頼んだあの人だ。
今日はスーツ姿だけでなく、後ろに数人の若い社員らしき人たちを連れている。
「ここが、この前話してた“お腹空いた店”ですか」
「そうそう。
うちの部署の非常食庫みたいなもんだから」
「非常食庫って言い方やめてください」
桜子が慌ててツッコミを入れると、その人は笑いながら手を振った。
「じゃあ今日は、“部下連れてきちゃいました記念”で、シンデレラ二つ。
残りは日替わりください」
「かしこまりました。
シンデレラ二つ、日替わり三つですね」
注文を復唱しながら、桜子は胸の中で「おかえりなさい」とつぶやいた。
*
二組目は、見覚えのある四人組の女性たちだった。
グルメ企画の初日に、「お腹空きすぎて倒れる前には出てくるって信じてます」と笑っていたテーブルの人たちだ。
「前回は、途中で皿下げるの手伝っちゃってすみませんでした」
「いえいえ。
あのとき、本当に助かりました」
「今日は、ちゃんと客として来たから。
手は貸さないけど、腹は空かせてきた」
「一番ありがたいです」
その会話に、周りの客がくすりと笑う。
店の空気が、少しずつ温まっていくのがわかる。
*
昼下がり、カウンターの端で手を振ったのは、「失恋シンデレラ」だった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。
今日は、お一人ですか」
「ううん。
今日は、職場の同期連れてきました」
隣には、少し緊張した面持ちの女性が座っている。
メニューをぎゅっと握りしめ、目だけが忙しなく動いていた。
「ここ、すごくいいよって話してたら、“失恋したら連れてってください”って予約入れられちゃって」
「ちょっと!」
同期らしき女性が小声で抗議する。
「まだ失恋してないからね!」
「そう願ってるけど、どっちに転んでもごはんはおいしいから」
軽口を交わしながら、二人ともシンデレラ定食を注文した。
そのカードには、「今の恋を自分のペースで選びたい」「仕事と恋のどっちも、“二番目でいいや”って言わないようにしたい」と、それぞれ違う言葉が並ぶ。
カードを受け取る手のひらに、重さと軽さが同時に乗る。
その全部を受け止める皿を作るのが、今日の仕事だ。
*
店内には、かつての「シンデレラたち」が少しずつ集まってきた。
転職して、「前よりゆっくり昼休みが取れるようになりました」と笑う人。
夜勤明けで、「あの朝ごはんが忘れられなくて」とふらりと立ち寄る人。
商店街の奥のほうから、「あの記事読んで、うちの新人にも見せたいと思って」と顔を出す人。
みんな、自分の歩幅でここに戻ってきている。
その「その後」を、一皿一皿に乗せていく。
「桜子」
カウンターの内側から、美津代が声をかける。
「ホール、見えてる?」
「見えてます」
「厨房のほうも、ちゃんと見といて。
今日の“主役”は皿だけじゃないからね」
「……はい」
言われて、桜子は厨房側に目を向けた。
琉叶は、いつもより少しだけ早い手つきで、けれど決して崩れないリズムで鍋と向き合っていた。
フライパンの油が跳ねる音。
味噌汁の湯気。
キャベツを刻む包丁の音。
どれも毎日の音なのに、今日はひとつひとつが、胸の奥に残っていく。
(ああ、最終日なんだ)
そう実感した瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。
でも、涙が出るほどではない。
この場所はまだ終わらない。
ただ、「区切り」がひとつつくだけだ。
*
昼の波が一段落し、夜に向けての仕込みが続く。
「水、もう一杯お願いします」
「はーい」
「すみません、シンデレラ追加で一つ、間に合います?」
「まだ大丈夫です」
ホールのあちこちから飛んでくる声に応えながら、桜子は何度もカウンターを往復した。
足は少し重い。
けれど、心は妙に軽い。
ここに集まってきた人たちが、それぞれの場所に戻っていく姿が目に浮かぶからだ。
部下を連れてきたあの人は、仕事に戻って、また誰かの残業を減らしてくれるだろう。
失恋シンデレラは、同期と一緒に電車に乗って、くだらない話で笑い合うだろう。
夜勤明けの人は、仮眠室で少しだけ多めに眠ってくれるかもしれない。
ここで満たされたお腹が、持ち帰られる場所の空気まで、少しだけ温めてくれたらいい。
*
そうして迎えた、夜のピーク。
「シンデレラ三つ、入ります!」
「はい」
「こっち、日替わりと唐揚げと、とんかつ!」
「はい」
厨房の温度が、一気に上がる。
汗が額を伝って落ちる。
腕は限界に近いはずなのに、動きはむしろ冴えていく。
やがて、カウンターの端に並ぶ皿の数が、ほんの少しだけ減り始めた。
待ち椅子に座る人の列も、少しずつ短くなっていく。
そして、ついにその瞬間が来た。
「……これで、カードは全部です」
桜子がカードスタンドを確認して告げる。
「今日のシンデレラ定食、ラストオーダー分まで出ました」
「わかりました」
琉叶は、受け取った最後のカードをまな板の端に立てかけた。
そこには、大学生らしき字で、「卒論が終わるように祈ってください」と書いてある。
「祈りというより、カロリーで押しますね」
小さく笑いながら、フライパンを火にかける。
ベーコンと野菜が、じゅうっと音を立てる。
湯気の向こうで、琉叶の横顔が一瞬だけ真剣になる。
「これが今日の、最後のシンデレラ定食です」
誰に向けたともつかないその言葉が、鍋の音に紛れて静かに響いた。
桜子は、その背中を見ながら、胸の奥で同じ言葉をなぞる。
(最後の、でも“終わりの”じゃない)
そう思えたのは、ここまで一緒に皿を出してきた日々があったからだ。
*
最後のシンデレラ定食がテーブルに置かれたとき、店内に目立った拍手が起きたわけではない。
誰かが立ち上がって、「お疲れさま」と叫んだわけでもない。
ただ、カウンター越しに、「ごちそうさま」「おいしかったです」「また来ます」といった言葉が、いつもより少し多めに飛んできた。
「ほんと、ありがとうございました」
「こっちこそ。
助けられてばっかりでした」
桜子は、そのひとつひとつに丁寧に頭を下げる。
支払いを終えた人たちが、ガラス戸の外に出ていく。
アーケードの向こうへ歩いていく背中を、常連たちが見送る。
その視線には、「またいつでも」という合図が含まれていた。
やがて、店内には常連だけが残った。
「閉店時間までは、まだ少しありますけど」
桜子が言うと、カウンターの奥に座っていた商店街の顔ぶれが顔を見合わせる。
「じゃあ、そろそろ店じまいの邪魔になるから、帰るふりしよっかな」
「ふりって言いました?」
「鍵かけるまでは、外から見守ってるから安心して」
「何をですか」
わざとらしい会話に笑いが起きる。
それでも、誰も「今日は長居する」とは言わなかった。
*
片づけが始まる。
テーブルの皿を下げ、箸を揃え、調味料の瓶の底を拭く。
床をモップが通り過ぎるたび、最終日の喧噪が少しずつ薄れていく。
シンクでは、さっきまでと同じように水が流れていた。
けれど、皿の枚数は、いつもの夜より心なしか少ない。
「……終わりました」
桜子が最後のテーブルを拭き終え、手を止める。
店内を見渡すと、椅子がきれいに机の下に収まり、カウンターの上には水滴ひとつ残っていなかった。
「おつかれさまでした」
琉叶が、布巾を絞りながら頭を下げる。
「おつかれさまでした」
桜子も、少し深めに頭を下げて返した。
美津代は、レジの中で帳簿を閉じる。
「よし。
じゃあ、私は先に上がるから」
「え?」
「片づけ終わってるし、あとは戸締まりだけだし。
若い子同士のほうが、話しやすいこともあるでしょ」
意味ありげな笑みを浮かべて、エプロンを外す。
肩にバッグを提げ、ガラス戸のほうへ向かう途中、ふと立ち止まった。
「外、ちょっと冷えてきてるから。
出るなら上着ちゃんと着なよ」
それだけ言い残して、ベルを鳴らしながら外へ出ていった。
扉が閉まる音が、店内に小さく反響する。
残されたのは、二人だけだった。
*
静けさに気づいた瞬間、桜子の心臓が早鐘を打ち始めた。
昼の喧噪より、よっぽどやかましい。
「……えっと」
何か言わなければと思いながら、言葉が見つからない。
琉叶は、そんな彼女の様子をちらりと見てから、エプロンの紐に手をかけた。
「桜子さん」
「はい」
「少しだけ、付き合ってもらえますか」
その言い方は、昨日のカードの返事のときと変わらない。
けれど、言葉の奥にあるものが違うように感じられた。
「どこか、行くんですか」
「はい。
そんなに遠くではないです」
エプロンを外し、フックにかける。
代わりに、入口近くに置いてある自分のコートを手に取った。
「今からだと、商店街もだいぶ人が減ってますけど」
「だから、ちょうどいいと思って」
桜子も、ロッカーから自分のコートを取り出した。
袖を通す指先が、少し震えている。
けれど、それを抑え込もうとはしなかった。
震えているのは、怖いからだけじゃない。
この先の時間を、自分で選ぼうとしているからだ。
「戸締まり、してきます」
「お願いします」
シャッターの鎖を引き、鍵をかける。
ガラス戸越しに、外のアーケードが見えた。
さっきまで人であふれていた通りは、今は静かに光っているだけだ。
ブラックボードは、裏返して厨房の脇に立てかけた。
“シンデレラ定食、最終日です”という文字は見えない。
けれど、板の裏には、まだチョークの気配が残っている。
「お待たせしました」
「いえ」
二人は、並んでガラス戸の前に立った。
外には、商店街の灯りと、ほんの少し冷えた空気。
扉に手をかける直前、桜子は振り返った。
カウンター、椅子、厨房の鍋、記事のコピー。
全部、この数週間でますます「自分の居場所」になったものたちだ。
「……行ってきます」
小さな声でそう言うと、琉叶も同じ方向を振り返って、頭を下げた。
「行ってきます」
ガラス戸を開けると、ベルがいつもの音を立てた。
二人の背中を、誰かが見送っている気配がする。
振り返らなくてもわかる。
きっと、常連たちがどこかで腕を組んで、「ちゃんと行け」とうなずいている。
みつよ食堂の灯りを背にして、二人はゆっくりとアーケードへ歩き出した。
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王命って何ですか? 虐げられ才女は理不尽な我慢をやめることにした
まるまる⭐️
恋愛
【第18回恋愛小説大賞において優秀賞を頂戴致しました。応援頂いた読者の皆様に心よりの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました】
その日、貴族裁判所前には多くの貴族達が傍聴券を求め、所狭しと行列を作っていた。
貴族達にとって注目すべき裁判が開かれるからだ。
現国王の妹王女の嫁ぎ先である建国以来の名門侯爵家が、新興貴族である伯爵家から訴えを起こされたこの裁判。
人々の関心を集めないはずがない。
裁判の冒頭、証言台に立った伯爵家長女は涙ながらに訴えた。
「私には婚約者がいました…。
彼を愛していました。でも、私とその方の婚約は破棄され、私は意に沿わぬ男性の元へと嫁ぎ、侯爵夫人となったのです。
そう…。誰も覆す事の出来ない王命と言う理不尽な制度によって…。
ですが、理不尽な制度には理不尽な扱いが待っていました…」
裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。裁判での証言でなければ不敬罪に問われても可笑しくはない発言だ。
だが、彼女はそんな事は全て承知の上であえてこの言葉を発した。
彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。
次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。
裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。
「王命って何ですか?」と。
✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる