残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第28話 シンデレラ定食、最終日

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 最終日の朝、みつよ食堂のシャッターが上がる音は、いつもより少しだけ高く響いた気がした。

 アーケードの天井から落ちてくる光が、ガラス戸に貼られたポスターと記事を照らす。
 『奪う恋じゃなくて、分け合うごはん』。
 何度も目にしてきた見出しなのに、この日はまるで「本番だよ」と肩を叩かれているみたいだった。

「緊張してます?」
 ブラックボードを拭きながら、桜子は自分に問いかけるようにつぶやいた。
 チョークの白い粉が、指先につく。
 それを、エプロンでこすり落とす。

 背後で、シャッターの鎖が金属音を立てて揺れた。
「いつもどおりです」
 琉叶の声がする。
 けれど、その「いつもどおり」は、少しだけ背筋が伸びているように聞こえた。

 ブラックボードには、いつもの定番の一言が書かれている。

『お腹、空いてますか』

 その下に、今日だけの一行を付け足した。

『シンデレラ定食、最終日です』

 チョークのかすれ具合を見て、桜子はふうっと息を吐く。
(よし。
 あとは、いつもどおり)

     *

 開店と同時に、扉のベルが軽快な音を立てた。

「おはようございまーす!」

 最初に飛び込んできたのは、元気のいい声だった。
 以前、「昇進したから」と言ってシンデレラ定食を頼んだあの人だ。
 今日はスーツ姿だけでなく、後ろに数人の若い社員らしき人たちを連れている。

「ここが、この前話してた“お腹空いた店”ですか」
「そうそう。
 うちの部署の非常食庫みたいなもんだから」
「非常食庫って言い方やめてください」
 桜子が慌ててツッコミを入れると、その人は笑いながら手を振った。

「じゃあ今日は、“部下連れてきちゃいました記念”で、シンデレラ二つ。
 残りは日替わりください」
「かしこまりました。
 シンデレラ二つ、日替わり三つですね」

 注文を復唱しながら、桜子は胸の中で「おかえりなさい」とつぶやいた。

     *

 二組目は、見覚えのある四人組の女性たちだった。
 グルメ企画の初日に、「お腹空きすぎて倒れる前には出てくるって信じてます」と笑っていたテーブルの人たちだ。

「前回は、途中で皿下げるの手伝っちゃってすみませんでした」
「いえいえ。
 あのとき、本当に助かりました」
「今日は、ちゃんと客として来たから。
 手は貸さないけど、腹は空かせてきた」
「一番ありがたいです」

 その会話に、周りの客がくすりと笑う。
 店の空気が、少しずつ温まっていくのがわかる。

     *

 昼下がり、カウンターの端で手を振ったのは、「失恋シンデレラ」だった。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ。
 今日は、お一人ですか」
「ううん。
 今日は、職場の同期連れてきました」

 隣には、少し緊張した面持ちの女性が座っている。
 メニューをぎゅっと握りしめ、目だけが忙しなく動いていた。

「ここ、すごくいいよって話してたら、“失恋したら連れてってください”って予約入れられちゃって」
「ちょっと!」
 同期らしき女性が小声で抗議する。
「まだ失恋してないからね!」
「そう願ってるけど、どっちに転んでもごはんはおいしいから」

 軽口を交わしながら、二人ともシンデレラ定食を注文した。
 そのカードには、「今の恋を自分のペースで選びたい」「仕事と恋のどっちも、“二番目でいいや”って言わないようにしたい」と、それぞれ違う言葉が並ぶ。

 カードを受け取る手のひらに、重さと軽さが同時に乗る。
 その全部を受け止める皿を作るのが、今日の仕事だ。

     *

 店内には、かつての「シンデレラたち」が少しずつ集まってきた。

 転職して、「前よりゆっくり昼休みが取れるようになりました」と笑う人。
 夜勤明けで、「あの朝ごはんが忘れられなくて」とふらりと立ち寄る人。
 商店街の奥のほうから、「あの記事読んで、うちの新人にも見せたいと思って」と顔を出す人。

 みんな、自分の歩幅でここに戻ってきている。
 その「その後」を、一皿一皿に乗せていく。

「桜子」
 カウンターの内側から、美津代が声をかける。
「ホール、見えてる?」
「見えてます」
「厨房のほうも、ちゃんと見といて。
 今日の“主役”は皿だけじゃないからね」
「……はい」

 言われて、桜子は厨房側に目を向けた。

 琉叶は、いつもより少しだけ早い手つきで、けれど決して崩れないリズムで鍋と向き合っていた。
 フライパンの油が跳ねる音。
 味噌汁の湯気。
 キャベツを刻む包丁の音。

 どれも毎日の音なのに、今日はひとつひとつが、胸の奥に残っていく。

(ああ、最終日なんだ)

 そう実感した瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。
 でも、涙が出るほどではない。
 この場所はまだ終わらない。
 ただ、「区切り」がひとつつくだけだ。

     *

 昼の波が一段落し、夜に向けての仕込みが続く。

「水、もう一杯お願いします」
「はーい」
「すみません、シンデレラ追加で一つ、間に合います?」
「まだ大丈夫です」

 ホールのあちこちから飛んでくる声に応えながら、桜子は何度もカウンターを往復した。
 足は少し重い。
 けれど、心は妙に軽い。

 ここに集まってきた人たちが、それぞれの場所に戻っていく姿が目に浮かぶからだ。

 部下を連れてきたあの人は、仕事に戻って、また誰かの残業を減らしてくれるだろう。
 失恋シンデレラは、同期と一緒に電車に乗って、くだらない話で笑い合うだろう。
 夜勤明けの人は、仮眠室で少しだけ多めに眠ってくれるかもしれない。

 ここで満たされたお腹が、持ち帰られる場所の空気まで、少しだけ温めてくれたらいい。

     *

 そうして迎えた、夜のピーク。

「シンデレラ三つ、入ります!」
「はい」
「こっち、日替わりと唐揚げと、とんかつ!」
「はい」

 厨房の温度が、一気に上がる。
 汗が額を伝って落ちる。
 腕は限界に近いはずなのに、動きはむしろ冴えていく。

 やがて、カウンターの端に並ぶ皿の数が、ほんの少しだけ減り始めた。
 待ち椅子に座る人の列も、少しずつ短くなっていく。

 そして、ついにその瞬間が来た。

「……これで、カードは全部です」
 桜子がカードスタンドを確認して告げる。
「今日のシンデレラ定食、ラストオーダー分まで出ました」

「わかりました」
 琉叶は、受け取った最後のカードをまな板の端に立てかけた。
 そこには、大学生らしき字で、「卒論が終わるように祈ってください」と書いてある。

「祈りというより、カロリーで押しますね」
 小さく笑いながら、フライパンを火にかける。

 ベーコンと野菜が、じゅうっと音を立てる。
 湯気の向こうで、琉叶の横顔が一瞬だけ真剣になる。

「これが今日の、最後のシンデレラ定食です」

 誰に向けたともつかないその言葉が、鍋の音に紛れて静かに響いた。
 桜子は、その背中を見ながら、胸の奥で同じ言葉をなぞる。

(最後の、でも“終わりの”じゃない)

 そう思えたのは、ここまで一緒に皿を出してきた日々があったからだ。

     *

 最後のシンデレラ定食がテーブルに置かれたとき、店内に目立った拍手が起きたわけではない。
 誰かが立ち上がって、「お疲れさま」と叫んだわけでもない。

 ただ、カウンター越しに、「ごちそうさま」「おいしかったです」「また来ます」といった言葉が、いつもより少し多めに飛んできた。

「ほんと、ありがとうございました」
「こっちこそ。
 助けられてばっかりでした」
 桜子は、そのひとつひとつに丁寧に頭を下げる。

 支払いを終えた人たちが、ガラス戸の外に出ていく。
 アーケードの向こうへ歩いていく背中を、常連たちが見送る。
 その視線には、「またいつでも」という合図が含まれていた。

 やがて、店内には常連だけが残った。

「閉店時間までは、まだ少しありますけど」
 桜子が言うと、カウンターの奥に座っていた商店街の顔ぶれが顔を見合わせる。

「じゃあ、そろそろ店じまいの邪魔になるから、帰るふりしよっかな」
「ふりって言いました?」
「鍵かけるまでは、外から見守ってるから安心して」
「何をですか」

 わざとらしい会話に笑いが起きる。
 それでも、誰も「今日は長居する」とは言わなかった。

     *

 片づけが始まる。

 テーブルの皿を下げ、箸を揃え、調味料の瓶の底を拭く。
 床をモップが通り過ぎるたび、最終日の喧噪が少しずつ薄れていく。

 シンクでは、さっきまでと同じように水が流れていた。
 けれど、皿の枚数は、いつもの夜より心なしか少ない。

「……終わりました」
 桜子が最後のテーブルを拭き終え、手を止める。
 店内を見渡すと、椅子がきれいに机の下に収まり、カウンターの上には水滴ひとつ残っていなかった。

「おつかれさまでした」
 琉叶が、布巾を絞りながら頭を下げる。
「おつかれさまでした」
 桜子も、少し深めに頭を下げて返した。

 美津代は、レジの中で帳簿を閉じる。
「よし。
 じゃあ、私は先に上がるから」
「え?」
「片づけ終わってるし、あとは戸締まりだけだし。
 若い子同士のほうが、話しやすいこともあるでしょ」

 意味ありげな笑みを浮かべて、エプロンを外す。
 肩にバッグを提げ、ガラス戸のほうへ向かう途中、ふと立ち止まった。

「外、ちょっと冷えてきてるから。
 出るなら上着ちゃんと着なよ」
 それだけ言い残して、ベルを鳴らしながら外へ出ていった。

 扉が閉まる音が、店内に小さく反響する。

 残されたのは、二人だけだった。

     *

 静けさに気づいた瞬間、桜子の心臓が早鐘を打ち始めた。
 昼の喧噪より、よっぽどやかましい。

「……えっと」
 何か言わなければと思いながら、言葉が見つからない。
 琉叶は、そんな彼女の様子をちらりと見てから、エプロンの紐に手をかけた。

「桜子さん」
「はい」
「少しだけ、付き合ってもらえますか」

 その言い方は、昨日のカードの返事のときと変わらない。
 けれど、言葉の奥にあるものが違うように感じられた。

「どこか、行くんですか」
「はい。
 そんなに遠くではないです」
 エプロンを外し、フックにかける。
 代わりに、入口近くに置いてある自分のコートを手に取った。

「今からだと、商店街もだいぶ人が減ってますけど」
「だから、ちょうどいいと思って」

 桜子も、ロッカーから自分のコートを取り出した。
 袖を通す指先が、少し震えている。
 けれど、それを抑え込もうとはしなかった。

 震えているのは、怖いからだけじゃない。
 この先の時間を、自分で選ぼうとしているからだ。

「戸締まり、してきます」
「お願いします」

 シャッターの鎖を引き、鍵をかける。
 ガラス戸越しに、外のアーケードが見えた。
 さっきまで人であふれていた通りは、今は静かに光っているだけだ。

 ブラックボードは、裏返して厨房の脇に立てかけた。
 “シンデレラ定食、最終日です”という文字は見えない。
 けれど、板の裏には、まだチョークの気配が残っている。

「お待たせしました」
「いえ」

 二人は、並んでガラス戸の前に立った。
 外には、商店街の灯りと、ほんの少し冷えた空気。

 扉に手をかける直前、桜子は振り返った。
 カウンター、椅子、厨房の鍋、記事のコピー。
 全部、この数週間でますます「自分の居場所」になったものたちだ。

「……行ってきます」
 小さな声でそう言うと、琉叶も同じ方向を振り返って、頭を下げた。

「行ってきます」

 ガラス戸を開けると、ベルがいつもの音を立てた。
 二人の背中を、誰かが見送っている気配がする。
 振り返らなくてもわかる。
 きっと、常連たちがどこかで腕を組んで、「ちゃんと行け」とうなずいている。

 みつよ食堂の灯りを背にして、二人はゆっくりとアーケードへ歩き出した。
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