残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第27話 手と手、皿と皿

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 グルメ企画の最終日前夜、みつよ食堂のガラス戸には、外のアーケードの灯りがぼんやり映っていた。
 いつもなら、閉店後の店内には、まだ誰かしら残っている。
 商店街の人が話し込んでいたり、勇一と実記がネームだの原稿だのを広げていたり。

 けれど、その夜に限っては、珍しく二人だけだった。

 カウンターの上は、片づけを終えた皿で埋め尽くされている。
 明日の最終日、昼も夜も抜かりなく迎えるために、いつもより多めに皿を磨いておきたい。
 そう言い残して、美津代は「ちょっと用事」と言って先に店を出ていった。

「“用事”って、絶対わざとですよね」
 シンクの前で蛇口をひねりながら、桜子は小さくつぶやいた。
 ステンレスの底に水が当たり、やわらかい音を立てる。

「そうですね」
 隣で拭き担当をしている琉叶が、淡々と答える。
「“お店の子たちの顔、ちゃんと見ておきたいから”って言ってましたし」
「言ってましたね」
「あと、“今日は大事な前夜だから、余計な人は邪魔しないで帰る”とも言ってました」
「余計な人、って自分で言ってませんでした?」
「言ってました」

 想像すると、目に浮かぶようだ。
 湯呑み片手に、にやりと笑ってアーケードのほうへ歩いていく背中。
 あの人が「邪魔しない」と言うときは、大体、何かを期待しているときだ。

 シンクの水音と、皿の触れ合う音だけが、静かな店内に響く。
 外から微かに聞こえるアーケードのざわめきが、ここだけ別の時間帯のように感じさせた。

     *

「じゃあ、私が洗って、琉叶さんが拭く、でいいですか」
「はい。
 慣れてますから」

 桜子は、袖を肩までまくり上げ、ゴム手袋をはめた。
 洗剤を垂らし、スポンジで泡立てる。
 すぐに、白い泡がシンクいっぱいに広がった。

 皿を一枚、また一枚と手に取り、円を描くようにこすっていく。
 指先から伝わる、陶器の冷たさと、洗剤のぬるりとした感触。
 それを、水で流してから琉叶に手渡す。

 琉叶は、その皿を柔らかい布で拭き取り、光の加減を確かめるように傾ける。
 満足いくまで拭き終えると、カウンターの上の列に加えていった。

 その動作が、驚くほど滑らかで、無駄がない。
 いつもの調理のときとは少し違う、丁寧な手つきだった。

「琉叶さん」
「はい」
「洗いもの、嫌いじゃないですよね」
「嫌いなら、こんなに真面目にやりません」
「ですよね」

 思わず笑いながら、桜子は次の皿をスポンジでこする。
 すぐそばに人がいるのに、聞こえてくるのは水音と、皿がぶつかり合う控えめな音だけ。
 言葉は少ないのに、不思議と気まずくはなかった。

 むしろ、何かを言い過ぎてしまうほうが怖い。

     *

 十枚、二十枚と皿を洗っていくうちに、桜子はふと、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。

 何度目かの受け渡しのとき。
 泡だらけの皿の縁を持った指先と、布で拭こうと伸びてきた指先が、ぴたりと重なった。

「……っ」
 思わず、二人は同時に手を引っ込めた。
 皿が宙でふらりと揺れる。
 あわてて支えようと、再び指先が伸びる。
 そこでまた、触れた。

 最初より、はっきりと。

「すみません」
「いえ」

 同時に口から出た言葉が重なって、泡の向こうで視線がぶつかる。

 琉叶の指先には、うっすらと水滴がついていた。
 少し前までは包帯で隠れていた傷痕が、白い泡の間からちらりと見える。

(ああ、この手だ)

 桜子の胸の中で、何度も浮かんでは消えた言葉が、形にならないまま喉のあたりでくすぶる。
 その代わりに、手のほうが先に動いた。

「はい」
 なるべく自然な声で言いながら、桜子は皿を持ち直す。
「今度は、ちゃんと“縁”だけ持ちます」
「僕も、受け取るときだけ指を伸ばします」
「さっきは指、前のめりでした?」
「少しだけ」

 冗談交じりのやり取りに、ふっと空気が和らぐ。
 けれど、そのあとも、指先が触れるたびに、胸の内側がかすかに跳ねるのはごまかせなかった。

     *

「そういえば」
 しばらくしてから、琉叶がぽつりと言った。
「この前の“キャベツ会”、楽しかったですね」

「楽しかったですね」
 桜子も、自然と笑顔になる。
「まかないが豪華すぎました」
「おかげで、翌日からキャベツの注文量、微妙に変わりましたけど」
「どっちにですか」
「増えました。
 “あのグラタン、また食べたい”って言われて」

「それは、いい誤算ですね」

 会話が、皿の表面を撫でるように続いていく。
 グルメ企画のこと、記事を読んで来てくれたお客さんのこと。
 勇一のネームが、ついに最終話までたどり着いたこと。

 どれも、今日までの数週間で積み重なってきた出来事だ。

「……すごいですよね」
 桜子は、水を流しながらぽつりと言った。
「最初にここに来たとき、まさかこんなに人が集まる店になるなんて思ってませんでした」
「僕もです」
 琉叶が、拭き終えた皿をそっと重ねる。
「でも、“最初の一人”が来てくれた時点で、たぶんもう始まってたんだと思います」

「最初の一人?」
「自分で作ったものを、“おいしい”って言ってくれた人。
 それが一人でもいたら、あとは広がっていくだけです」

 その言葉に、桜子は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
 あの雨の日、カウンターの端で食べたまかないの味。
 そこで初めて、「ここで働きたい」と思った自分。

 あの瞬間が、誰かの最初であり、自分の最初でもあった。

     *

 皿の列が、少しずつ高くなっていく。
 シンクの水もだいぶぬるくなってきた頃、桜子はふと、視線をカードスタンドに向けた。

 カウンターの端に置かれた小さなスタンドには、「今日だけ主役になりたい理由」を書いてもらうカードが差してある。
 客が帰ったあと、空になったカードの隙間に、一枚だけ白紙が混じっていた。

「……」

 桜子は、タオルで手を拭いてから、そのカードをそっと抜き取った。
 胸ポケットからペンを取り出す。
 何を書くのかは、もう決まっていた。

 けれど、実際に文字にしようとすると、ペン先が紙の上で止まる。

「“今日だけ”って書いてあるけど」
 小さく息を吐く。
「多分、今日だけじゃ済まないんだろうな……」

 それでも、書くしかない。
 ここまで、さんざん「自分で決めたい」と言ってきたのだから。

 桜子は、覚悟を決めてペンを走らせた。

 ――この店の人と、これからもごはんを作りたい。

 書き終えた瞬間、心臓がどくんと跳ねる。
 文字は拙くないはずなのに、どこか頼りない。
 けれど、今の自分には、これが精一杯だった。

「書けましたか」
 いつの間にか、隣に来ていた琉叶が尋ねる。
 桜子は、反射的にカードを裏返した。

「ひゃっ」
「ひゃっ、って」
「見ないでください」
「まだ何も言ってません」

 自分でも驚くくらい慌てた声が出て、恥ずかしさが一気に押し寄せる。
 顔が熱い。
 湯気より熱い。

「……これ」
 桜子は、覚悟を決めてカードを握りしめた。
「あとで、読んでほしいです」
「あとで?」
「今は、無理です」
「そうですか」

 琉叶は、それ以上何も聞かなかった。

     *

 皿洗いが一段落したところで、桜子は、カウンターの内側と外側をぐるりと回った。
 厨房側からホール側へ。
 まるでポスターの撮影の時と逆ルートを辿るみたいに。

 琉叶は、拭き終えた布巾をたたんでいる。
 その背中に近づくほど、手の中のカードが重く感じられた。

(ポケット……)

 前に、勇一がポスター用の意見を書いたメモを、こっそり琉叶のエプロンのポケットにねじ込んだことがある。
 そのときは、「あとで読んでください」と言う余裕なんてなかった。

 今回は、自分の意思で渡したい。
 逃げ場を作りながらでも、ちゃんと。

「あの」
 声が震えないように、ゆっくり息を吸う。
「ちょっと失礼します」

 桜子は、そっと手を伸ばし、琉叶のエプロンのポケット口を指先でつまんだ。
 その内側に、カードの端を押し込む。
 紙が布と擦れる、かすかな音。

「……?」
 琉叶が、ようやく振り向く。
 視線がエプロンのポケットと桜子の顔の間を行き来する。

「えっと」
 桜子は、できるだけ簡潔に言った。
「“今日だけ主役になりたい理由”、書いたので。
 もしよかったら、あとで、洗いものが全部終わってから、読んでください」

「……はい」
 琉叶の返事は、驚くほどまっすぐだった。

 それ以上何も言わず、桜子はシンクのほうに戻る。
 背中に、誰かの視線を感じながら。

     *

 残りの皿を片づけ、シンクを磨き終えたころには、時計の針は日付の境目に近づいていた。
 厨房の灯りだけが残り、客席側は半分ほど暗くなっている。

「おつかれさまでした」
「おつかれさまでした」

 並んで一礼したあとも、どちらもその場から動かなかった。
 動けば、この時間が終わってしまう気がした。

「……読んでも、いいですか」
 沈黙を破ったのは、琉叶のほうだった。

 エプロンのポケットから、先ほどのカードを取り出す。
 角が少しだけ曲がっている。
 握りしめていた手の跡だ。

「どうぞ」
 桜子は、背筋を伸ばした。
 逃げないために。

 琉叶は、カードを胸の高さまで持ち上げ、ゆっくりと表を向けた。
 視線が文字を追い、そこで止まる。

 ――この店の人と、これからもごはんを作りたい。

 声に出して読むことはしない。
 それでも、読んだことはわかった。
 喉仏が、小さく動いたから。

「……」

 長いようで、実際には数秒しかなかった沈黙のあとで、琉叶はカードから目を離し、桜子を見た。

 何かを言おうとして、口がわずかに開く。
 けれど、言葉にはならない。
 代わりに、ゆっくりとうなずいた。

 一度。
 それから、もう一度。

 その二回の頷きが、「はい」と「ありがとう」に聞こえた。

「僕も」
 ようやく搾り出された声は、かすかに震えていた。
「この店の人と、ごはんを作りたいです。
 ……できれば、ずっと」

 “ずっと”という言葉が、皿の列の上をすべって、店内に染み込んでいく。

 胸がいっぱいで、何と返せばいいのかわからなかった。
 だから、桜子も真似をした。

 言葉の代わりに、うなずく。

 一度。
 それから、もう一度。

 手と手、皿と皿。
 ここまで一緒に積み重ねてきたものが、音もなく重なっていく。

 その夜、みつよ食堂の厨房には、「はい」と「ありがとう」が、頷きのかたちでいくつも並んでいた。
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