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第二十三章「小山市 〜思川に還る桜の心〜」
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思川の水面が揺れていた。春を迎えたばかりの風が、まだ冷たさを残したまま川面を渡り、並木の間をすり抜ける。けれど、その風に踊るはずの桜の花びらはなかった。木々の枝先には、蕾もなく、葉もなく、ただ黒々とした影だけが伸びている。
友哉はその異変に、胸の内にじりじりと広がる焦燥を抑えきれず、じっと立ち尽くしていた。
「夏美……見たろ、これ。去年の今頃は、ここ、まるで桜のトンネルだったのに」
「うん……なんか、枯れてるっていうより、抜け殻みたい」
夏美は手袋をはずし、そっと幹に触れた。冷たい。命の通った植物の皮膚ではないような感触に、彼女はすぐに手を引っ込める。
「これ、ただの気候の問題じゃない。何かが起きてる」
友哉は目を細めた。遠く、小山城址公園の石垣の上に、赤い提灯が並んでいるのが見えた。桜祭りの準備が進められているはずだった――だが、その風景があまりにも空疎だ。
「飛翔に連絡取ってみる。あいつ、今年もいちご農園やってるから。何か知ってるかもしれない」
スマホを取り出し、短くメッセージを打つ。すぐに「農園にいる。急げ」とだけ返事が返ってきた。
夏美とともに自転車を押しながら農道を進む。道沿いの畑では、スカイベリーのビニールハウスが風に揺れていた。ぴんと張られた透明のフィルムの向こうには、赤く光る果実がところどころにのぞいている。
飛翔は農園の一角で、剪定用の鋏を手にしていた。軽装の上に羽織った作業着姿は、彼の真面目な印象を際立たせていたが、顔色は思ったより冴えなかった。
「……来たか。見たろ、桜。あれ、“桜の心”が抜かれてんだ」
「心って……比喩?」
「いや、本当に存在する。“桜の心”っていうのは、思川沿いの桜並木を守ってる霊的な核。あれがあるから、気温に関係なく毎年咲くんだ。それが奪われた」
飛翔の語り口はいつも通り冷静だったが、内に秘めた焦りが伝わってくる。夏美は少し距離をとったまま、まるで彼を試すように訊ねた。
「それ、どうしてあんたが知ってんの?」
「……家に伝わる紙片がある。いちご栽培の合間に読んでたら、その中に“桜を蘇らせる詩句”って記述が出てきた。古い下野の民謡の断片っぽい」
彼は小さな封筒を取り出し、その中からくしゃくしゃになった紙を広げた。墨で書かれた筆文字はところどころ滲み、判読に苦労するが、友哉はその一節に見覚えを感じた。
「これ……“小山甚句”の節回し?」
「たぶん。ただ、これは完全な歌詞じゃない。“隠し石碑に封印の詩句あり”ってある。場所は“小山城址公園”だ」
夏美が小さく笑った。
「やっぱり現地調査って大事なんだな」
「まあ、やってみるしかないだろ?」
友哉の言葉に、夏美も頷く。飛翔は剪定鋏を脇に置いて、ハウスを閉めると一緒に歩き出した。
「雅にも声かけておいた。観音寺三重塔にいるってさ。あいつ、小山甚句に詳しいんだ」
「そんな特技あったっけ?」
「いや、ほら、“とりあえずやってみる”性格だから」
三人は城址公園へと向かって歩き出す。風が背中を押すように吹き、振り返れば、スカイベリーのハウスが陽光を反射していた。だが、空にはまだ花の気配はない。まるで、春が到達しきっていないような違和感が、町の空気に漂っていた。
そして彼らはまだ知らなかった――思川の下流に、封印の詩句が刻まれた“石碑”が、ひっそりと姿を現そうとしていることを。
城址公園の石垣は、午後の日差しを受けて長い影を作っていた。思川の土手を登った先にある小山城の跡地は、春の訪れを祝う準備が進められているはずだったが、そこに咲くべき桜の気配はなく、露店の設営テントだけが空しく風に揺れていた。提灯がぶら下がったまま、誰にも点されぬ光を待っている様は、まるでこの町全体が呼吸を止めてしまったかのようだった。
友哉は城跡の中心へと足を踏み入れると、地面をじっと見つめた。紙片にあった「隠し石碑」の手がかりが、この敷地のどこかに眠っているはずだった。
「地面、やけに平らすぎるな……整備されすぎてる」
「観光用だからじゃない?」
夏美の返しに、友哉は首を振った。
「いや……逆だよ、隠したいから平らにした。あいつら、きっと隠し場所を知ってたんだ。意図的に埋めてる」
「“あいつら”って誰よ」
「たぶん、小山の土地神の加護を知ってる人たち……観光案内所の人か、神社関係者か……」
そこへ、どこからともなく「よぉーし、当たりだっぺよ!」という威勢のいい声が響いた。
振り返ると、雅が観音寺の方角から小走りでやってくる。スニーカーにピンクのパーカー、肩からかけた鞄には手作りの御朱印帳がぶらさがっていた。
「ほらこれ、小山甚句の節回しな。私、三重塔の案内所で録音したおばあちゃんの唄、聞いて覚えてきたっぺ」
「……行動早いな、あんた」
夏美が目を細めると、雅はにやりと笑ってみせた。
「とりあえずやってみる、って性格だからさ。試しに口ずさんでみたら、石碑が動いたっぺよ!」
全員が一斉に顔を上げた。
「動いた? どこ?」
雅は石段の脇、ちょっとした植え込みの下を指差した。
「この奥に、なんか違和感ある石あってさ。拍子に合わせて“思川の流れはやさしく~”って唄ったら、下の石がずれて音した。みんなでどかしてみようよ」
急いで移動し、四人で慎重に植栽をかき分けると、確かに一部だけ苔の付き方が違う平石が現れた。友哉が手を添えてゆっくりと押すと、石はガタンと音を立てて回転し、下に小さな石段が現れた。
「……地下道?」
夏美が眉をひそめる。
「古い……でも、まだ使えるかも」
飛翔が小型のライトを取り出し、階段に光を投げた。壁には薄く「桜」の文字が刻まれている。
「桜を蘇らせる詩句……ここにあるんだな」
ゆっくりと地下へと降りていく。石の階段は苔と土で滑りやすく、注意深く足を運ばねばならなかった。湿った空気の中に、かすかに水音が混じっている。やがて、一行は小さな石室にたどり着いた。
そこには古い巻物が一つ、桐箱の中に納められていた。
「開けるぞ」
友哉がそっと蓋を開けると、中にはしっかりと保存された和紙があった。文字は崩し字で、読みづらいものの、雅が声に出して読み始めた。
「“想い川 流れの奥に 咲くものは 忘れ去られし 花のこころよ”……これ、旋律付きで読まないと意味がないんだわ」
「つまり、小山甚句の節に合わせて歌えばいい?」
「うん。唄って、思川の“泉”で祈るんだ。小山八幡宮、あそこの泉、五穀豊穣の神様が宿ってるらしいし」
飛翔が巻物を受け取り、そっと包み直した。
「じゃあ、次は小山八幡宮だな」
その言葉を合図に、地下室の空気が一瞬だけ震えた。誰もいないはずの空間で、まるで誰かが小さく笑ったような、そんな残響があった。
友哉はその音を聞き逃さず、唇を引き締めた。
「……急ごう。誰かが“桜の心”を止めようとしてる。時間、ないかもしれない」
小山八幡宮の鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。あれほど霞んでいた風が清らかに透きとおり、四人の肌にすっと馴染んでいく。境内には誰の姿もなく、まるで神域そのものが息をひそめて、訪れた者を見つめているようだった。鳥のさえずりすら遠のき、時の流れがゆるやかに緩む。
拝殿の前に立った友哉は、巻物をそっと両手に抱え、視線を泉の方へ向けた。拝殿の横にある御神水の泉。湧き水が細やかな音を立てて流れている。
「ここだな、祈る場所は……」
「旋律、覚えてる? さっきの小山甚句に、あの詩句を合わせるんだよ」
雅が小声で確認する。友哉は深くうなずいた。
「……任せて」
彼は巻物を開き、短く呼吸を整えると、静かに唄い始めた。
「おもいかわ~ ながれの~ おくに~……」
その声に、境内の風が反応するようにわずかにざわめいた。桜が咲いていないはずの境内に、どこからかほのかな花の香りが混じる。旋律は、穏やかで、けれどどこか懐かしさを孕んだ切ない響きを持っていた。
「わすれさられし~ はなのこころよ……」
その瞬間、泉の水面が波紋を広げた。
「……きたっぺよ」
雅の声が震える。泉の奥から、青白い光がゆらりと立ちのぼり、それが人の姿をとっていく。女性の姿。着物は水色、帯に桜の刺繍が施され、髪は黒く、目元は柔らかい。
「オモイカワ・カムイ……?」
飛翔の声はかすれていた。
姿を現した水神は、唄に合わせてゆっくりと舞いはじめた。水面に足をつけることなく、空を舞うように、桜の花びらを撒くように、祈りの舞が奏でられる。
夏美が言葉を失ったまま見つめていると、神の瞳がふと彼女に向いた。まっすぐに。
「あなた……何か言いたいことあるの?」
その言葉に、夏美はぎこちなく頷いた。
「わたし、いつも人を信じきれなくて……でも、今回だけは、信じたかった。友哉が言った通りにやって、全部がうまくいくって、信じたかったんだ」
オモイカワ・カムイは微笑んだ。そして、舞いの最終旋律を泉の上でくるりと回ると、ぱあっと光が広がった。
泉の底から、ひときわ大きな桜の花が浮かび上がってくる。その中央には、淡い光を放つ石――
「桜の心」だった。
「……あった」
友哉が膝をついて両手で受け取る。手のひらにちょうど収まるその石は、見た目こそ何の変哲もないが、熱を帯びていた。人の想い、唄の力、祈り――そのすべてを吸い込んで、桜をもう一度咲かせる力。
そのときだった。思川の方角から、強い風が吹き抜けた。まるで誰かが桜のドアを開けたように。
「……咲いてる」
夏美が呟いた。
山並みの向こう、思川沿いに続く桜並木が、まるで一斉に目覚めるように花を開き始めていた。次々にピンクの霞が広がっていく。花びらが舞い、風に踊り、まるで町そのものが春を迎えて微笑んでいるかのようだった。
「戻った……小山の春が、戻った!」
飛翔が歓喜の声をあげ、雅が手を叩いて跳ねる。
「やったっぺよ! マジで咲いたっぺ!」
拝殿の中からは、太鼓と笛の音が流れ出した。誰が鳴らしているのかはわからない。けれど、小山甚句の節回しが神社の空に響いていた。すべてが、もとの姿に戻っていく。
そして、友哉の手元で、桜の心がふっと光を放ち、姿を変えた。
――それは、桜の花弁をかたどった透明な石。
町の精霊そのもののように、優しく、美しい光を宿していた。
「これは……」
「小山市の輝、だね」
夏美がそっと微笑む。
友哉は石を掲げ、空を見上げた。青空の向こうに、次に進むべき道が開いている気がした。
【アイテム:小山市の輝】入手
友哉はその異変に、胸の内にじりじりと広がる焦燥を抑えきれず、じっと立ち尽くしていた。
「夏美……見たろ、これ。去年の今頃は、ここ、まるで桜のトンネルだったのに」
「うん……なんか、枯れてるっていうより、抜け殻みたい」
夏美は手袋をはずし、そっと幹に触れた。冷たい。命の通った植物の皮膚ではないような感触に、彼女はすぐに手を引っ込める。
「これ、ただの気候の問題じゃない。何かが起きてる」
友哉は目を細めた。遠く、小山城址公園の石垣の上に、赤い提灯が並んでいるのが見えた。桜祭りの準備が進められているはずだった――だが、その風景があまりにも空疎だ。
「飛翔に連絡取ってみる。あいつ、今年もいちご農園やってるから。何か知ってるかもしれない」
スマホを取り出し、短くメッセージを打つ。すぐに「農園にいる。急げ」とだけ返事が返ってきた。
夏美とともに自転車を押しながら農道を進む。道沿いの畑では、スカイベリーのビニールハウスが風に揺れていた。ぴんと張られた透明のフィルムの向こうには、赤く光る果実がところどころにのぞいている。
飛翔は農園の一角で、剪定用の鋏を手にしていた。軽装の上に羽織った作業着姿は、彼の真面目な印象を際立たせていたが、顔色は思ったより冴えなかった。
「……来たか。見たろ、桜。あれ、“桜の心”が抜かれてんだ」
「心って……比喩?」
「いや、本当に存在する。“桜の心”っていうのは、思川沿いの桜並木を守ってる霊的な核。あれがあるから、気温に関係なく毎年咲くんだ。それが奪われた」
飛翔の語り口はいつも通り冷静だったが、内に秘めた焦りが伝わってくる。夏美は少し距離をとったまま、まるで彼を試すように訊ねた。
「それ、どうしてあんたが知ってんの?」
「……家に伝わる紙片がある。いちご栽培の合間に読んでたら、その中に“桜を蘇らせる詩句”って記述が出てきた。古い下野の民謡の断片っぽい」
彼は小さな封筒を取り出し、その中からくしゃくしゃになった紙を広げた。墨で書かれた筆文字はところどころ滲み、判読に苦労するが、友哉はその一節に見覚えを感じた。
「これ……“小山甚句”の節回し?」
「たぶん。ただ、これは完全な歌詞じゃない。“隠し石碑に封印の詩句あり”ってある。場所は“小山城址公園”だ」
夏美が小さく笑った。
「やっぱり現地調査って大事なんだな」
「まあ、やってみるしかないだろ?」
友哉の言葉に、夏美も頷く。飛翔は剪定鋏を脇に置いて、ハウスを閉めると一緒に歩き出した。
「雅にも声かけておいた。観音寺三重塔にいるってさ。あいつ、小山甚句に詳しいんだ」
「そんな特技あったっけ?」
「いや、ほら、“とりあえずやってみる”性格だから」
三人は城址公園へと向かって歩き出す。風が背中を押すように吹き、振り返れば、スカイベリーのハウスが陽光を反射していた。だが、空にはまだ花の気配はない。まるで、春が到達しきっていないような違和感が、町の空気に漂っていた。
そして彼らはまだ知らなかった――思川の下流に、封印の詩句が刻まれた“石碑”が、ひっそりと姿を現そうとしていることを。
城址公園の石垣は、午後の日差しを受けて長い影を作っていた。思川の土手を登った先にある小山城の跡地は、春の訪れを祝う準備が進められているはずだったが、そこに咲くべき桜の気配はなく、露店の設営テントだけが空しく風に揺れていた。提灯がぶら下がったまま、誰にも点されぬ光を待っている様は、まるでこの町全体が呼吸を止めてしまったかのようだった。
友哉は城跡の中心へと足を踏み入れると、地面をじっと見つめた。紙片にあった「隠し石碑」の手がかりが、この敷地のどこかに眠っているはずだった。
「地面、やけに平らすぎるな……整備されすぎてる」
「観光用だからじゃない?」
夏美の返しに、友哉は首を振った。
「いや……逆だよ、隠したいから平らにした。あいつら、きっと隠し場所を知ってたんだ。意図的に埋めてる」
「“あいつら”って誰よ」
「たぶん、小山の土地神の加護を知ってる人たち……観光案内所の人か、神社関係者か……」
そこへ、どこからともなく「よぉーし、当たりだっぺよ!」という威勢のいい声が響いた。
振り返ると、雅が観音寺の方角から小走りでやってくる。スニーカーにピンクのパーカー、肩からかけた鞄には手作りの御朱印帳がぶらさがっていた。
「ほらこれ、小山甚句の節回しな。私、三重塔の案内所で録音したおばあちゃんの唄、聞いて覚えてきたっぺ」
「……行動早いな、あんた」
夏美が目を細めると、雅はにやりと笑ってみせた。
「とりあえずやってみる、って性格だからさ。試しに口ずさんでみたら、石碑が動いたっぺよ!」
全員が一斉に顔を上げた。
「動いた? どこ?」
雅は石段の脇、ちょっとした植え込みの下を指差した。
「この奥に、なんか違和感ある石あってさ。拍子に合わせて“思川の流れはやさしく~”って唄ったら、下の石がずれて音した。みんなでどかしてみようよ」
急いで移動し、四人で慎重に植栽をかき分けると、確かに一部だけ苔の付き方が違う平石が現れた。友哉が手を添えてゆっくりと押すと、石はガタンと音を立てて回転し、下に小さな石段が現れた。
「……地下道?」
夏美が眉をひそめる。
「古い……でも、まだ使えるかも」
飛翔が小型のライトを取り出し、階段に光を投げた。壁には薄く「桜」の文字が刻まれている。
「桜を蘇らせる詩句……ここにあるんだな」
ゆっくりと地下へと降りていく。石の階段は苔と土で滑りやすく、注意深く足を運ばねばならなかった。湿った空気の中に、かすかに水音が混じっている。やがて、一行は小さな石室にたどり着いた。
そこには古い巻物が一つ、桐箱の中に納められていた。
「開けるぞ」
友哉がそっと蓋を開けると、中にはしっかりと保存された和紙があった。文字は崩し字で、読みづらいものの、雅が声に出して読み始めた。
「“想い川 流れの奥に 咲くものは 忘れ去られし 花のこころよ”……これ、旋律付きで読まないと意味がないんだわ」
「つまり、小山甚句の節に合わせて歌えばいい?」
「うん。唄って、思川の“泉”で祈るんだ。小山八幡宮、あそこの泉、五穀豊穣の神様が宿ってるらしいし」
飛翔が巻物を受け取り、そっと包み直した。
「じゃあ、次は小山八幡宮だな」
その言葉を合図に、地下室の空気が一瞬だけ震えた。誰もいないはずの空間で、まるで誰かが小さく笑ったような、そんな残響があった。
友哉はその音を聞き逃さず、唇を引き締めた。
「……急ごう。誰かが“桜の心”を止めようとしてる。時間、ないかもしれない」
小山八幡宮の鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。あれほど霞んでいた風が清らかに透きとおり、四人の肌にすっと馴染んでいく。境内には誰の姿もなく、まるで神域そのものが息をひそめて、訪れた者を見つめているようだった。鳥のさえずりすら遠のき、時の流れがゆるやかに緩む。
拝殿の前に立った友哉は、巻物をそっと両手に抱え、視線を泉の方へ向けた。拝殿の横にある御神水の泉。湧き水が細やかな音を立てて流れている。
「ここだな、祈る場所は……」
「旋律、覚えてる? さっきの小山甚句に、あの詩句を合わせるんだよ」
雅が小声で確認する。友哉は深くうなずいた。
「……任せて」
彼は巻物を開き、短く呼吸を整えると、静かに唄い始めた。
「おもいかわ~ ながれの~ おくに~……」
その声に、境内の風が反応するようにわずかにざわめいた。桜が咲いていないはずの境内に、どこからかほのかな花の香りが混じる。旋律は、穏やかで、けれどどこか懐かしさを孕んだ切ない響きを持っていた。
「わすれさられし~ はなのこころよ……」
その瞬間、泉の水面が波紋を広げた。
「……きたっぺよ」
雅の声が震える。泉の奥から、青白い光がゆらりと立ちのぼり、それが人の姿をとっていく。女性の姿。着物は水色、帯に桜の刺繍が施され、髪は黒く、目元は柔らかい。
「オモイカワ・カムイ……?」
飛翔の声はかすれていた。
姿を現した水神は、唄に合わせてゆっくりと舞いはじめた。水面に足をつけることなく、空を舞うように、桜の花びらを撒くように、祈りの舞が奏でられる。
夏美が言葉を失ったまま見つめていると、神の瞳がふと彼女に向いた。まっすぐに。
「あなた……何か言いたいことあるの?」
その言葉に、夏美はぎこちなく頷いた。
「わたし、いつも人を信じきれなくて……でも、今回だけは、信じたかった。友哉が言った通りにやって、全部がうまくいくって、信じたかったんだ」
オモイカワ・カムイは微笑んだ。そして、舞いの最終旋律を泉の上でくるりと回ると、ぱあっと光が広がった。
泉の底から、ひときわ大きな桜の花が浮かび上がってくる。その中央には、淡い光を放つ石――
「桜の心」だった。
「……あった」
友哉が膝をついて両手で受け取る。手のひらにちょうど収まるその石は、見た目こそ何の変哲もないが、熱を帯びていた。人の想い、唄の力、祈り――そのすべてを吸い込んで、桜をもう一度咲かせる力。
そのときだった。思川の方角から、強い風が吹き抜けた。まるで誰かが桜のドアを開けたように。
「……咲いてる」
夏美が呟いた。
山並みの向こう、思川沿いに続く桜並木が、まるで一斉に目覚めるように花を開き始めていた。次々にピンクの霞が広がっていく。花びらが舞い、風に踊り、まるで町そのものが春を迎えて微笑んでいるかのようだった。
「戻った……小山の春が、戻った!」
飛翔が歓喜の声をあげ、雅が手を叩いて跳ねる。
「やったっぺよ! マジで咲いたっぺ!」
拝殿の中からは、太鼓と笛の音が流れ出した。誰が鳴らしているのかはわからない。けれど、小山甚句の節回しが神社の空に響いていた。すべてが、もとの姿に戻っていく。
そして、友哉の手元で、桜の心がふっと光を放ち、姿を変えた。
――それは、桜の花弁をかたどった透明な石。
町の精霊そのもののように、優しく、美しい光を宿していた。
「これは……」
「小山市の輝、だね」
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