大都市RPG 〜失われた輝きを取り戻せ〜

乾為天女

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第二十四章「前橋市 〜霧の心とスズランの調べ〜」

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 朝の赤城山は、いつものように静かだった――はずだった。けれど今日、前橋の町を包んでいたはずのあの淡い霧が、どこにも見当たらなかった。澄み切った青空は、あまりに明るく、逆に町の輪郭を平板に見せてしまう。幻想が失われ、すべてが現実に晒されたような空気。
 凜は、赤城神社の石段に腰を下ろしていた。少しだけ汗ばんだシャツの襟元に、まだ冷たさを残した山風が吹き込んでくる。彼は黙ったまま、遠くに霞む県庁展望台を見やっていた。
「……霧、出ないね」
 背後から結子が声をかけた。凜は振り返らず、うなずきだけで応えた。
「今朝、スズラン通りのばあちゃんたちが言ってた。“霧の心”が消えたって。あれがなくなると、この町から朝霧が立ち上がらなくなるんだって」
 結子は少し驚いたように眉を上げる。
「霧って、そんなに大事なの?」
「霧が町を守ってる。……って、俺の祖父が言ってた。“山の神様と町の人間の間を取り持つ幕”だって」
「神様と人間の間……」
 結子は自分の指先を見つめた。ほんの少し、爪の間に残ったこんにゃくの香りが漂う。彼女は出がけに屋台でつまんだ一皿の味を思い出していた。仲間である元気が営む屋台だった。柔らかくて味の染みたそれは、どこか彼自身と似ていた。
「じゃあ、“霧の心”がなくなったってことは、神様と町の人たちが……切り離されたってこと?」
 凜はゆっくり立ち上がる。
「……だから探す。元気が先代のこんにゃく蔵に文書があるって言ってた。たぶん“霧を呼ぶ詩句”がある。そこからだ」
「久美には連絡した?」
「スズラン通りの夏祭りに出てる。唄のこと、調べてくれてるらしい」
 石段を下りながら、凜は自分でも気づかぬほど眉を寄せていた。感情をあまり外に出す性分ではないが、いま彼の中にある焦りと苛立ちは明らかだった。霧がない、という事実はこの町の“なにか”を失ったように感じられて仕方なかったのだ。
 山から下り、住宅地を抜けて街の中心に向かう。街灯に吊された提灯はまだ消えていたが、道端の看板や屋台の骨組みが夏祭りの準備を知らせていた。通りの奥、赤い幕で囲われたこんにゃく屋の屋台に、元気の姿が見えた。
「おお、来たか!」
 彼は笑顔で手を振りながら、すでに紙束をテーブルの上に並べていた。どれも古びた書き付けで、端が焦げたものすらあった。
「これ全部、先代が保管してた“霧の手紙”だ。言葉じゃなくて旋律として詠むことで意味を成すらしい。普通の人間の言葉じゃダメなんだってよ」
 凜が黙って一枚ずつ丁寧に目を通していく。結子はその傍らで、こんにゃくの香りに顔をしかめながらも、紙の中の歌詞に目を留めた。
「これ……“上州音頭”? 節回しの印が書いてある……」
「スズラン通りの夏祭りで唄われるやつだ。あれが元かもな。久美が“霧呼びの調べ”を聞き出せるって言ってた。行ってみるか?」
 凜は短く頷くと、再び歩き出した。暑さの中でも、町の音が薄っぺらに感じられる。霧がないことで、まるで肌を直接晒されているような不安が募る。
 スズラン通りの入口に差しかかると、ふいに風鈴が鳴った。その音は高く、涼やかで――けれど、何かが欠けていた。
「久美……こっちだ」
 結子が真っ直ぐに指差したその先に、白い浴衣を着た少女が、舞台の袖で舞の練習をしている姿が見えた。風鈴の音に合わせ、節を口ずさむ声がかすかに漏れ聞こえてくる。
「……やっぱ、何かおかしい」
 凜は胸の奥にざらつくものを感じながら、その舞台へと歩を進めた。



 舞台の隅で白い浴衣の裾を揺らしながら動いていた久美は、彼らに気づくとぴたりと動きを止めた。その瞳は凜の姿を認めるとすぐ、何かを察したように形のよい唇を引き結ぶ。
「霧の心、消えたのね」
 それは、問いではなかった。すでに知っていた、という口調だった。
「霧が……町に立ち込めない」
 凜が低く答えると、久美はうなずき、舞台の縁に腰を下ろした。昼間のスズラン通りはまだ賑わいには遠い。屋台の準備は整い始めていたが、空気はどこか薄く、熱のこもった町の呼吸がどこか足りない。
 久美は持っていた扇子を畳み、隣に置かれていた小さなラジオを指差した。
「上州音頭、ずっと聞いてたの。調べって、唄の旋律そのものじゃなくて、唄と一緒に奏でる“意図”の部分だった。つまり“霧を呼ぶ調べ”ってのは、誰が、何のために唄うかっていう“心”が旋律に宿るってこと」
 結子が真剣な表情で身を乗り出す。
「私たちが唄えば、霧の心を呼び戻せるの?」
「唄うだけじゃだめ。霧の精は、“調べ”の中に、霧に祈る意思が込められてるかを見てる。赤城神社の神殿前で、だるま型のこんにゃくを捧げて、祈りながら奏でないと受け取ってもらえない」
 元気が息を呑む。
「……つまり、“だるま型こんにゃく”が必要なんだな?」
「そもそもそれ、どこにあるんだ?」
 久美は立ち上がって言った。
「祭り用に仕込んでる。わたし、保管してる場所、知ってる。神社に持って行こう。今夜が最後のチャンス」
 スズラン通りを抜け、夜を迎えた赤城山へと向かう。空気は澄んでいたが、霧がない夜の山はどこか無防備だった。彼らが知っていた“守られている”感覚はなく、すべてが剥き出しのように感じられた。
 凜は足を止め、星の出ていない夜空を仰いだ。
「こんなに空って怖かったっけな」
 結子がそっと肩を寄せた。
「霧があったから、余計なものを見ないですんでたのかも。……でも、見なきゃいけないときもあるよ」
 赤城神社の石段を上り切ると、社殿前の広場が静まり返っていた。祭りの喧噪もここまでは届かず、木々の間を吹き抜ける風だけが音を運ぶ。
 久美がだるま型こんにゃくを小さな三方に載せ、中央に据える。
「唄うよ。元気も、手拍子よろしく」
「了解!」
 久美が一歩前に出て、凜と結子に向かって静かにうなずく。そして、上州音頭の旋律を、ゆっくりと唄い始めた。
「はあ~ 赤城の山に 朝霧たちぃ~」
 声は静かに、だが確かに夜空を震わせるように広がっていく。凜が右手を軽く振って拍子を合わせ、結子も同じ旋律を重ねた。三人の声がひとつになったとき、こんにゃくの上に霧のような白い光が集まり出した。
 空気が震えた。地面の温度が急に下がる。
 そして、社殿の屋根から舞い降りるようにして、霧の精が現れた。
 人の形をしていた。白い袴に身を包み、顔の輪郭は朧げで、ただ瞳だけが鋭く光を放っていた。
「その調べに、想いはあるか」
 低く響いた声に、凜が一歩前に出る。
「ある。“霧が必要だ”って心から信じてる。町の人たちのために、戻ってきてほしいって、本気で思ってる」
「……ならば、試す。想いの深さ、信じる強さ、霧の静寂を知る者のみ、心を還せる」
 霧の精が片手を掲げると、だるまこんにゃくが淡く光った。まるで精霊がその形を認めたかのように、淡い紫の霧がこんにゃくから立ち上がる。
「霧の心を、託す」
 声と同時に、光が集まり、凜の胸元へとすっと飛び込んできた。彼は瞬間、息を止めた。
 その熱は冷たく、冷たさは不思議と温かかった。
「これは……」
 彼の掌の中に、霧のように淡く光る小さな珠が残されていた。中には、小さな山々と霧が描かれていた。
「霧の心、戻った……」
 結子がそう呟いたとき、山の麓からゆっくりと朝霧が立ち上ってくるのが見えた。静かに、静かに、町を包むように。
 久美が笑った。
「これで、前橋は大丈夫」
 凜は光の珠を空に掲げる。
 その瞬間、珠が割れて、中から澄んだ光を宿した結晶が現れた。
【アイテム:前橋市の輝】入手
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